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島津四兄弟の九州統一戦

(霧山昴) 

著者 新名一仁 、 出版 志学社

戦国時代の島津四兄弟は仲が良かったとか、固く結束していたというイメージが広く流布しているが、本当はどうだったのかを堅実に検証している本です。

島津四兄弟とは、義久・義弘・歳久・家久。似た名まえなのでつい混同してしまいそうになります。

著者は、あとがきで、まとめとして次のようにまとめています。なるほど。と思いました。

わがままで個性的な兄弟が、他の大名家のように、ときに殺し合いや家中分裂に至るような深刻な対立に至らず、曲がりなりにも九州統一するまで至ったのは、ひとえに長兄義久の懐の広さとバランス感覚による。そして、それは義久が太守ではあるものの絶対的権力を持たず、老中らの合議による政策決定を探りつつ、島津家としての方向性を決めていくという政治体制が少なからず影響していた。

島津四兄弟のうち2人は、豊臣秀吉の九州進攻のもとに、家久がまず急死。ルイス・フロイスの記録には、豊臣秀長が毒殺したとしている。もう一人の歳久は、あくまで秀吉に本気で抵抗しようとしたので、義久から自害を迫られ、その首は京都まで運ばれて一条戻橋にさらされた。

義久は慶長16(1611)年まで生き(79歳)、義弘は元和5(1619)年まで生きた(85歳)。

関ヶ原の戦い(1600年)のとき、敵中突破をかけて辛じて生きのびた島津義弘たちを描いた『島津奔る(はしる)』(池宮彰一郎、新潮社)は手に汗握る面白さでした。

著者は、島津氏が九州内で無敵であったかのようなイメージは、事実に反しているとしています。たしかに、大友氏との耳川合戦や龍造寺隆信との沖田畷(おきたなわ)の戦いといった、節目(ふしめ)の主要な合戦で、島津氏は勝利している。しかし、用意周到な作戦によって勝利したのは水俣城攻めぐらいで、ほかは敵の失策やら偶然などで、運良く勝利したもの。戦略のまずさから成果を上げられなかった肥後進攻、筑前進攻もある。

太守義久は病気がちであり、自分に代わる前線で差配できる指揮官がいないことを嘆いていた。

義弘との「両殿」体制は、義弘が豊後進攻に固執したり、うまく機能しなかった。たとえば、秀吉の大軍による九州進攻に対して、義久は勝ち目なしと判断して、早々と剃髪して降伏したが、義弘のほうは抵抗しようとした。太守義久が降伏したからといって、家中ばらばらの降伏とならないのが島津家らしいところ。

ところで、秀吉は島津征伐の九州進攻にあたって、島津家を本気で殲滅するつもりだったようです。豊後まで進攻してきた島津勢を「かけ留(どめ)」しておいて、秀吉本隊を含めた全軍の圧倒的戦力で粉砕するつもりでした。それで、自分が行くまで島津勢と決戦しないことを厳命していた。ところが、先峰軍の仙石秀久たちが島津家の「釣り」(オトリ)にうかつに乗ってしまい、結局、島津勢を逃がしてしまったのでした。

秀吉も、島津側が義久のように頭を剃って降伏してきたので、さすがに皆殺しは出来ません。そこで島津氏はなんとか生きのびることが出来たわけです。

島津四兄弟のうち、歳久と家久は京都に行ったことがありました。家久は29歳のとき、天正3年(1575年)上京日記(道中)を書いて残しています。京都から伊勢までの5ヶ月に及ぶ長旅の記録です。

義久も京都の動向を把握すべく、近衛前久らとの書状のやり取りを積極的にしていたようです。鹿児島にいながらも京の情勢はつかんでいたのでした。大変興味深い分析に満ちている本でした。

(2026年4月刊。3190円)

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