(霧山昴)
著者 渡辺 京二 、 出版 新潮選書
大変な博識で知られる著者が幕末の動きを詳しく解説しています。講演録なので、とても分かりやすいです。
たとえば、明治維新になってすぐに「万機公論に決すべし」というのが出てきます。有名な「五ヶ条の御誓文」です。ええっ、どうして、こんなに早く出てきたのかなと疑問に思っていました。すると、幕府の政治が行き詰って、徳川将軍があてにならないことが内外で明らかになったことから、幕府内でも、有力大名が寄り集まり、会議して決めていく方式が考えられていたのです。薩摩の島津久光もその一人でした。
将軍慶喜の大政奉還は土佐藩の山内容堂の勧めに応じて決断されたものですが、慶喜は自分が議長になって国政を運営していくという腹づもりだったようです。ところが、明治新政府は、それにとどまらず領地を慶喜からも取り上げてしまったのです。これは完全に将軍慶喜の目論見違いでした。
島津久光は、薩摩藩の藩主の父親というだけで、無位無冠でした。ある本に島津久光は幕府の高官から嫌われていたので、何の成果も上げることなく、すごすごと京都へ引き揚げたとありました。ところが、この本によると、久光がお伴した勅使の大原秀徳が持ってきた幕府に対する朝廷の要求は、3点とも受け入れられたというのです。こんなに違うのです。もっと詳しく調べる必要があります。
そして、久光一行が江戸から京都に戻る途上で発生したのが有名な生麦事件です。生麦事件でイギリス人男性が殺害され、その賠償金の支払いを薩摩藩が拒否したため、イギリスは7隻の軍艦で鹿児島を攻撃します。ところが、この薩英戦争で、薩摩藩は大きな得点をあげました。両者は互角の戦いを展開したのでした。たとえば、イギリスの旗艦に乗っていた司令官と副官が同時に戦死してしまったのです。また、イギリスは兵隊が上陸することもありませんでした。
この薩摩戦争の2年後に英米仏蘭の四国連合軍が下関を砲撃するときは、17隻の軍艦によって、一方的に長州側は敗退したのです。薩英戦争を教訓にしたようです。
歴史は続いている、関連していることを実感させられます。幕末に関心ある方には強く一読をおすすめします。
(2025年12月刊。1760円+税)


