弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年4月 8日

西南戦争のリアル、田原坂

日本史(明治)


(霧山昴)
著者 中原 幹彦 、 出版 新泉社

 1877(明治10)年2月14日、西郷隆盛の率いる薩摩軍8万人が降りしきる雪のなか鹿児島を出発した。それから7カ月後の9月24日、鹿児島城山で西郷隆盛は自刃して西南戦争は終結した。
 政府軍は8万人、両軍あわせて13万人が正面から対決した。
 抜刀隊も活躍したが、小銃や大砲を主とする近代戦であり、1万4千人もの青壮年が命を落とした。使用された小銃は16種類以上、大砲も10種類以上があった。アメリカの南北戦争(シビル・ウォー)が終結したあとなので、あまった銃や大砲が日本に大量に入ってきた。
 おもに使われたスナイドル銃は後発施条銃。大砲は四斤(よんきん)山砲(さんぽう)や一三ドイム臼砲(きゅうほう)、二〇ドイム臼砲がおもに使用された。
 政府軍の使った戦費は4157万円、これは国家予算の7割に匹敵する。
乃木希典少佐の率いる一四連隊が薩摩軍に敗れ、軍旗を奪われてたうえに負傷したのは2月22日、23日の向坂の戦いであって、田原坂の戦いではない。
 田原坂の戦いは3月4日から20日まで17日間に及んだ。薩摩軍は、その前、熊本城を包囲して総攻撃したが、落とせず、持久戦となり、主力を北上させて田原坂で政府軍を迎え撃った。
 政府軍が熊本城にたどり着くコースは3本あった。南関から豊前街道で山鹿に至る山鹿口、高瀬(玉名市)から三池往還を木葉(このは)から田原坂に至る、高瀬から吉次往還で吉次峠に至る。山鹿路は坂があり、難路とされていた。同じく吉次峠も道幅の狭い、険しい難路だった。山鹿道と吉次峠越えは熊本まで数十ヶ所の難所があるのに対し、田原坂は田原坂さえ抜けば熊本城まで向坂の険が一つあるだけなので、政府軍は田原坂を目ざした。
 田原坂の戦いで、政府軍はのべ8万人を動員し、戦死者1700人、死傷者3000人を数えた。これは政府軍の全戦死者6843人の25%を占める。1日あたり、100人の戦死者を出した。対する薩摩軍のほうは記録がなく、配置換えもあって詳細は不明で、数千人規模と考えられている。田原坂が激戦となったのは、第一に地形があり、その二に薩摩軍の将士が一丸となって決死の覚悟で守り抜く気魄(きはく)があったことによる。
 田原坂の地形は、険しい坂道でトンネルのようであり、細く曲がりくねった険しい山道で、兵略上守りやすく攻めがたい地勢。薩摩軍は私学校党の精鋭をここにそろえ、死力を尽くし、堅固な陣地を両崖の十数ヶ所に築いた。
 「薩摩軍は重要地点に陣地を点々とおびただしく連ねて築き、互いに連携して戦い、死を賭して要所を占めている」
 政府軍の第二大隊第四中隊は164人いたのが18人へ激減し、もはや中隊の体をなさなかった。
田原坂の決戦では両軍の陣地がわずか20メートルの近さだった。薩摩軍の抜刀攻撃も効果を上げた。政府軍は射撃の名手35人で別働狙撃隊をつくって戦場に投入したが、1週間でほぼ全滅した。さらに東京警視庁抜刀隊を編成・投入して、ようやく戦況打開の糸口をつかんだ。
 薩摩軍は政府軍の士官を狙って指揮命令系統を遮断した。そこで士官は徽章(きしょう)を隠し、外套(がいとう)も下士のものを用いるようにした。
 このとき薩摩軍が苦手としたのは、一に雨、二に大砲、三に赤帽といわれる。17日間の戦いのうち6日間は雨が降り、最終日の20日は大雨だった。赤帽とは近衛兵のこと。士族出身者も多く、士気は高かった。田原坂の戦いをはじめ、西南戦争で大活躍したのに、戦後、相応の処遇を受けていないという不満が、後日、竹橋事件を起こすことになったのでした。
 私は田原坂に3回は行っています。資料館も見学しました。もちろん高台にあるわけですが、今も森のなかにありますので、現地に行って全貌を実感するのは、少し難しいところです。そこが広々として開けている関ヶ原古戦場と違います。大変リアルな田原坂の戦いの紹介記です。
(2021年12月刊。1760円)

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