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公事師公事宿の研究

著者 瀧川 政次郎、 出版 赤坂書院
レック大学の反町勝美学長が最近出された『士業再生』(ダイヤモンド社)を読んでいると、江戸時代の公事師について不当に低い評価がなされていると思いました。そこで、私が改めて読みなおしたこの本を、以下ご紹介します。私のブログでは3回に分けましたが、ここでは一挙公開といきます。ぜひ、お読みください。
いつもと違って長いので、特別に見出しを入れます。
民事裁判と刑事裁判
 江戸時代には、公事訴訟を分って出入物と吟味物との二としたが、この区別は大体今日の民事裁判、刑事裁判の区別に等しい。公事も訴訟も同じ意味であるが、厳格に言えば白洲における対決を伴うものが公事であり、訴状だけで済むものが訴訟である。江戸時代に於いて公事師が取り扱うことを許されたのは出入物だけであって、吟味物には触れることを許されなかった。是の故に公事師は又一に出入師とも呼ばれた。
公事は江戸時代には訴訟の意味であるから、訴訟のことを『公事訴訟』とも言った。しかし、公事と訴訟とを対立して用いるときには、公事は訴が提起せられて相手方が返答書(答弁書)を提出してから後の訴訟事件を言い、訴訟は訴の定期より訴状の争奪に至るまでの手続きを言う。即ち訴訟というのは、まだ相手方の立ち向かわない訴えであり、公事というのは対決する相手のある訴訟事件である。
 江戸時代においては、行政官庁と司法官庁との区別はなく、すべてのお役所は、行政官庁であると同時に裁判所であった。
江戸時代の法定である『お白洲』に於いて『出入』即ち民事事件が審理せられるときには、原告即ち『訴訟人』とその『相手方』である被告とが『差紙』をもって『御白洲』に召喚せられて奉行の取調べを受けたのであって、『目安』即ち訴状の審理だけで採決が下されたのではない。必要があれば、奉行は双方の『対決』即ち口頭弁論をも命じたのである。…公事師が作ったのは願書にあらずして『目安』すなわち訴状である。願書の代書もしたが、公事師の作成した文書のすべてが願書であるわけではない。願書と訴状とは明瞭に区別されていた。
江戸時代の庶民は、決して『裁判所を忌み、訴訟を忌み』嫌わなかった。江戸時代の裁判所は、権柄づくな、強圧的なものではなく、庶民の訴を理すること極めて親切であって、時に強制力を用いることもあるが、それは和解を勤める権宜の処置であって、当事者間に熟談、内済の掛け合いをする意思があれば、何回でも根気よく日延べを許し、奉行は時に諧謔を交えて、法廷には常に和気が漂っていた。
 江戸の庶民は、裁判を嫌忌するどころか、裁判所を人民の最後の拠り所として信頼して、ことあればこれを裁判所に訴え出て、その裁決を仰いだ。
徳川時代奉行所や評定の開廷日に於ける、訴訟公事繁忙の状は、全く吾人の予想外に出でている。水野若狭の内寄合日には、『公事人腰掛ニ大余り、外ニも沢山居、寒気も強く大難渋』であり、評定所金日には、『朝六ツ半(午前七時)評定所腰掛へ行候処、最早居所なし』、『朝六ツ半時分に御評定所へ出。今日は多之公事人ニつき、都合三百人余出ル』とあるほど、多人数が殺到している。此事は徳川時代の民衆が、奉行の『御慈悲』に依頼して、相互の争を解決することが最良の方法であることを、充分に知覚していたことを意味すると同時に、幕府の裁判が民衆の間に、如何に多くの信頼と『御威光』とを、有していたかを物語るものである。


公事師と公事宿
江戸時代初期には、公事宿なく、公事師があったのみであるが、江戸幕府は、公事師撲滅の方針をとり、公事師を捕えてこれを江戸府外に放逐し、公事師にして旅籠屋を営んでいるのもののみが、幕府の眼を逃れて江戸に止まった。公事訴訟のために出府してくる百姓を止宿せしめる旅籠屋は、正路(しょうろ)の渡世としてこれを認めざるを得なかったからである。故に江戸にいた公事師は、多く旅館に身を寄せてその下代となった。だから公事師も公事宿の主人・下代も、もとは同じものである。
 旅籠屋の主人は、止宿者の仮の家主である。家主は町名主、五人組と共に、店子の差添として、法廷に出なければならない。故に旅人宿の主人は、公事訴訟のために出府した百姓の差添として、奉行所に出頭したが、公事訴訟人を専門に泊める旅人宿の主人は、本来が公事師であるから、法廷の勝手を心得ており、訴訟の道にも明るかった。そこで公事訴訟人は、旅人宿の主人に法定の勝手を教えられ、訴訟に要する書類を作成してもらうこととなり、幕府もこれを黙認せざるを得なくなった。やがて幕府の奉行所も、訴訟手続に明るいこの差添人を利用して、差紙(法廷への召喚状)の送達その他を行わしめることとなり、黙認はやがて公認の姿となり、遂には彼らから冥加(営業税)を徴認された公事師であって、これと巷間にもぐっている非公認の公事師とは、明瞭に区別されねばならない。故に『公事師』というのは、この非公認の公事師であり、『公事宿』というのは、公認された公事師すなわち公事宿の主人及び番頭である。
 公事宿は、公事宿仲間を組織して、その営業権を自ら衛ると共に、幕府の御用を勤めた。公事宿仲間は、天保水越の改革によって、その特権を剥奪せられたが、弘化の諸問屋仲間復興によって再興し、明治維新の際まで存続した。
江戸中期以後に於いては、幕府は彼らの撲滅し難きことを覚って、彼等の営業を或る程度公認し、彼等に組合を組織せしめ、その仲間法によって彼等を訴訟の促進に利用し、相戒めて著しき非理非法を為さしめないように監督せしめた。幕府が彼等の営業を公認して公事宿仲間なるものを組織せしめたのは、何時の頃であるかハッキリしないが、天保水越の改革によって公事宿仲間を解散せしめたときの文献によれば、松平定信が執政であった寛政年中であったようである。
 江戸時代の公事師は、民事事件を取り扱う役所の附近に蝟集して、公事宿を営んでいた。公事宿というのは、公事訴訟人が宿泊する旅館のことであって、公事宿の主人即ち公事師である。
…故に江戸の公事師は、常盤橋の附近なる日本橋神田方面及び浅草馬喰町附近に集っていて、三つの組合を作っていた。中でも馬喰町は、関八州から公事訴訟のために上府してくる百姓が多いので、公事宿が繁昌し、江戸の公事師の大半は此処に巣食っていた。
公事師の公許せられていた営業は、公事宿に公事訴訟人を宿泊せしめて宿泊料を取ることと、公事訴訟人の依頼に応じて訴状、願書等を代書してやって代書料をとることであって、公事訴訟人の肩を持って訴訟を指導することは禁ぜられていた。しかし、実際に於いては、公事宿の主人は、宿泊している公事訴訟人の相談相手であり、法廷戦術の指南番であった。公事宿の主人が、宿泊していえる公事訴訟人の間に立って、和談熟議を進め、和解を成立せしめることは、官辺の半ば公認していたところであって、幕府の法令は、熟談を遂げる場所として水茶屋、小料理屋等に趣いて多大の費用を使わしめることと、和談成立の後に祝儀と称し、莫大な報酬を要求することを禁じているに過ぎない。
公事師が官辺から命ぜられていた公務は、公事訴訟人に達する法定召喚状である差紙の伝達と、逃亡の虞れある公事訴訟人の身柄を預かる宿預(やどあづけ)と、公事訴訟人に付き添って指定の時には指定の場所へ案内することとの三つであった。故に江戸時代の公事師は、江戸時代の公事師は、ソリシターであると同時に、また廷丁であり、執行吏であったといってよい。
 公事師は半ば公許された営業であったから、これを前代の口入人に比すれば、その性格は稍上等であったと思うが、旅館営業を兼業としていた為に、その性格は自然貧婪であって、『地獄の沙汰も金次第』の諺の如く、金銭のためならばどんな悪事も平気で行った。宿泊料を稼ぐために公事を故意に延引せしめたり、金を呉れる公事訴訟人の為に、相手方の訴訟の秘密を漏洩したりするようなこともやり勝であった。
公事師と三百代言
日本では古来価値の少ないことを三文とか三百とかいう。三百代言は、小額の報酬を得て、依頼者のいうなりに唯々として働く代言人をいう。
 当時の人々が安代言人を三百代言と呼ぶに至った裏には、代言人を花魁に擬する審理が働いていたかも知れぬ。
 お前代言妾は芸者  同じ稼業の口車
 という当時の流行唄にも、代言人を花魁や芸者に擬する思想がはっきり顕れている。
公事宿についての古川柳
「諸国から草鞋踏みこむ馬喰町」
関八州の諸国から公事訴訟を持つ百姓が草鞋がけで出府した光景が偲ばれる。
「馬喰町、人の喧嘩で蔵を建て」
馬喰町の公事宿に対する世評の顕れている注意すべき句である。
「馬喰町、諸国の理非の寄る所」
「鷺と烏と泊ってる馬喰町」
「国々の理窟を泊める馬喰町」
馬喰町の公事宿には、訴訟人(原告)のみならず、差紙をつけられた返答人(被告)も来て泊った。正に呉越同舟である。訴訟人にも理窟があれば、返答人にも理窟がある。裁判(評決)が下るまでは、どちらが鷺(白)だか烏(黒)だかわからない。
 このように、江戸の人々に公事師・公事宿ははっきり認識されていたのです。
 
(1985年6月刊。18000円+税)

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