ヨーロッパ
2007年01月19日
風の影
著者:カルロス・ルイス・サフォン、出版社:集英社文庫
本年度のミステリーナンバー1ということです。なるほど、どっしりとした読みごたえがあります。400頁の文庫本で2冊という大長編です。
オビにある推薦の言葉を紹介します。小説を読む喜びにあふれている。物語の虜になることの愉しさがここにはある。まさに傑作。過去と現在を複雑な糸でつなぎ合わせ、読む者を浪漫の迷宮へ誘い込んでいく。すべての誠実な読書人におすすめしたい、掛け値なしの傑作である。
どうですか。ここまで書かれると、うん、どんなものだかちょっと読んでみようって気になりますよね。私も、そんなわけで読んでしまったのです。それにしても、オビの3行とか4行で本屋で手に取って読ませようという文書を私も書いてみたいと思いました。
舞台はスペインのバルセロナです。古書店の父と息子が登場します。スペインの小説には、いつもスペイン内戦の影がまとわりついてきます。フランコ派と人民戦線そしてアナーキストが互いに殺しあった悲惨な内戦の後遺症が今もあとを引いているようです。人々の消すに消せない重大な出来事だったのでしょう。
いくら読みすすめていっても、いったいこの話はどんなふうに展開していくのか、まるで予測がつかないのです。だから、次はどうなるのか知りたくて、ひたすら頁を繰っていきました。
話の筋が複雑にからみあっていて、なるほど、そういうことだったのか、と終わりころになって、ようやく事件の全貌をつかむことができます。それまで、物語の基調にあるレクイエムのような暗い調べをずっと聞いている気分に浸ることになります。決して心地よいものではありません。でも、先行見通しの不透明さ、人生の不可思議さをじっくり味わうことのできる小説ではあります。
私はベトナム行きの飛行機のなかで読みました。ベトナムまで福岡から5時間かかるのです。
2007年04月20日
ブラックブック
著者:ポール・バーホーベン、出版社:エンターブレイン
例年、裁判所の人事異動にあわせて何日間かの春休みをとるのですが、今年は残念なことに一日もとれませんでした。そのかわりに、平日の朝から、福岡の小さな映画館で見たのが、この映画「ブラック・ブック」でした。2時間あまりの大作なのですが、緊迫した場面が続き、身じろぎもせず、あっという間に見終わってしまいました。正直言って、深い疲労感が残りました。投げかけられた問題提起があまりに重いのです。美貌のユダヤ人歌手ラヘルを襲う悲劇とサスペンスは息つぐひまもありませんでした。
時代は第二次大戦末期のオランダです。ナチスに占領されています。アンネ・フランクが隠れていたのと同じ時期です。裕福なユダヤ人家族を国外へ逃亡させるレジスタンス組織があります。ところが、船に乗って逃亡する途中、突然ナチス・ドイツ軍に襲われ皆殺しにあいます。せっかくの貴金属類などが全部ナチスの手に渡ってしまいます。命からがら救われたラヘルは、レジスタンス組織に匿われ、オランダ人になりすまします。そして、ナチス・ドイツの情報部の将校に近づいていきます。
サスペンスたっぷりの映画でもありますから、これ以上は書きません。ぜひ映画を見てください。やっぱり、お茶の間ではなくて映画館に足を運んでほしいと思います。
主人公のラヘルを演じる女性の毅然とした知的な美しさ、その裸体の神々しさは目が魅きつけられてしまいます。女性のたくましさをよく演じています。
この本は、この映画が決して単なるフィクションではなく、あくまで事実をもとに組み立てたものだということを明らかにしています。
ユダヤ人にも同胞をナチス・ドイツに売り渡した人間がいました。レジスタンスにも、多くのスパイが潜入していたのです。誰がナチスのスパイか分からないうちに、次々にワナにかかっていく状況が描かれ、誰を信じていいのかゾクゾクしてきます。終戦後、みんながレジスタンスを英雄だとしてもてはやすようになった。しかし、そのレジスタンスにも、さまざまな人物がもぐりこんでいた歴史的事実が描かれています。スパイだった疑いをかけられたとき、そのぬれ衣を晴らす大変さもありました。
ナチスの本部にラヘルが盗聴器を仕掛けるシーンが出て来ますが、これも実話にもとづく話だそうです。ナチス・ドイツが降伏したあとも、ドイツ軍法会議によって裏切り者として銃殺刑を宣告されていた者について、銃殺刑の執行がなされた事実があるというのも驚きでした。本当に、事実は小説より奇なり、です。
この本の最後に、次のような言葉があります。本作におけるまことに信じがたい詳細な記述は、想像が介入する余地のない現実からきたものである。
まあ、それにしても、映画をみると、想像を豊かにかきたててはくれるものです。
2007年07月06日
エリカ、奇跡のいのち
著者:ルース・バンダー・ジー、出版社:講談社
柳田邦男氏が推薦していた絵本です。絵はとても写実的です。きれいに整いすぎている感じすらします。
1944年のことです。1933年から1945年までの12年間に、600万人ものユダヤ人がヒトラー・ナチスによって虐殺されました。600万人といっても、まったくピンときませんよね。でも、福岡県の全人口より多いし、東京都民の半分というと、少しは想像できるようになります。殺されていった一人一人に語られるべき人生があったのですよね。600万人という数字だけで片づけられてはたまりません。
そのとき、わたしは生まれてやっと2ヶ月か3ヶ月の赤ちゃんでした。父や母と一緒に、牛をはこぶ貨車に押しこめられ、立ったままぎゅうぎゅう詰めで動くこともできなかったでしょう。列車がある村をとおるとき、スピードを落としたので、母は「今だ」と思って、貨車の天井近くにある空気とりの窓から、外にわたしを放り投げてしまいました。
すぐ近くの踏み切りで、村の人が汽車の通り過ぎるのを待っていて、貨車から投げ出される赤ちゃんを見ていたのです。
母は、自分は死にむかいながら、わたしを生にむかって投げたのです。
村人がわたしをひろいあげて、女の人に預けました。ユダヤ人の赤ん坊を預かるなんて、生命にかかわることでしたが、家族の一人として大切に育ててくれました。
まさしく奇跡が起きたのですね。
先日、福岡の小さな映画館で「それでも生きる子どもたちへ」という映画を見ました。少年兵として殺し、殺されの毎日を生きているアフリカの男の子、両親からエイズをうつされ、学校でいじめにあうアメリカの女の子、空き缶ひろいなどをしてたくましく生きているブラジルの兄と妹・・・。
中国の大都会で捨て子として育った女の子は、金持ちの子が両親の不和から大切にしていたお人形さんを投げ捨てたのを拾ってもらって、大切に世話しています。でも、頼りにしていたおじいさんが交通事故で死んでしまうのです。
たくましく生きていくこどもたちの姿に、何度も目がウルウルになってしまいました。
2008年01月15日
受けてみたフィンランドの教育
著者:実川真由、出版社:文藝春秋
はじめから私事ですが、私の娘と同じ名前なので、とても親近感を抱きながら読みました。高校生の娘を遠くフィンランドへ一人送り出すというのは親も本人も、とても不安だったと思います。でも、結果オーライでした。大変な自信がついたようです。よかったですね、まゆさん。ぜひ日本でも大いにがんばってください。
フィンランドの教育レベルは世界一です。といっても、先日、フィンランドでも、アメリカと同じように高校生が校内で銃を乱射して人を殺し、自分も自殺したという事件が起きてしまいました。どこの国でも、まったく問題がないというわけではないのですね。それでも、この本を読むと、日本の高校と違って生徒がとてものびのび自由に毎日を過ごしているのがよく伝わってきます。うらやましい限りです。
フィンランドの学力は、読解、科学で世界1位、数学、問題解決能力で世界2位。日本は、読解力は14位、数学は6位。
フィンランド経済は年5%のペースで成長している。
フィンランドには塾も偏差値もまったくない。
フィンランドの高校は、どのクラスも25人から30人。中高一貫の高校は珍しくない。
フィンランドの学校は基本的にすべてタダ。学費はタダだし、学校での昼食と軽食もタダ。ただし、おいしくない。大学はすべて国立。学生は毎月、国から奨学金を受ける。寮に入れば、寮費もタダ。塾はないし、高校は単位制。
フィンランドでは、高校を卒業してすぐに大学に進学する人は少数派である。何年か働いたり、外国を放浪したり、ボランティアをしたり、兵役にいったりして、20歳を過ぎたころに、大学に行くことを考える。これって、いいですよね。自分の生き方、そして人生についてゆっくりじっくり考えることができます。私の娘も何回となく外国に出かけましたが、まだまだ考える時間が必要のようです。やはり、人生にはゆとりが欠かせません。
フィンランドのテストは、ほとんど作文(エッセイ)。英語・国語はもちろん、化学、生物、音楽までもエッセイ。つまり、自分の考えを文章にして書かせるのが一般的なテスト。フィンランドでは穴埋め問題などなくて、すべて記述式。テストには時間制限がない。テストの前、生徒たちはやたら分厚い本をかかえていて、それを読んで、知識を詰め込む。
フィンランドの教育の質の高いのは、教師の質が高いことと、義務教育を9年一貫制にしたことによるという。フィンランドでは、教師は絶対に尊敬される職業である。
教師は、授業中にふざけたり、しゃべったりする生徒がいると、何もいわずにドアを開けて「どうぞ」と言って外に出す。あとで、その生徒を呼び出して怒ることもない。
うむむ、これはすごいですね。日本でも、もっと教師は大切にされるべきです。
フィンランド人は暗算をしようとしない。フィンランド人は520万人。日本よりやや狭い面積。医療と教育に手厚いサービスがある。そして、地域コミュニティが機能している。地域のみんなが顔見知りで、挨拶しあう。友だちづきあいは一生続く。
フィンランドの不動産は日本並みに高い。外食やショッピングをせず、家でごはんをつくって家族で食べて、庭いじりやインテリアを手作りで楽しめば、お金はそれほどかからない。スラムもない。
フィンランド語は、書き言葉と話し言葉がかなり違う。メールは話し言葉で書く。フィンランド語は、ウラル語族に属していて、ハンガリー語と並んでヨーロッパでは特殊な言語である。フィンランドには、ぜひ一度行ってみたいと思っています。
(2007年9月刊。1524円+税)
2008年05月21日
ハンガリー革命1956
著者:ヴィクター・セベスチェン、出版社:白水社
日本人の私にとっては「ハンガリー動乱」という言葉のほうがピンときます。この本では、「12日間にわたるハンガリー革命」と呼ばれます。ときは1956年10月末から11月初めにかけてのことです。ハンガリーの首都ブダペストが中心となります。
ナジ政権の樹立とソ連軍撤退を要求し、ハンガリーの学生、労働者、知識人がデモを行ったことがきっかけで、火炎瓶、ライフル銃と死に物狂いの勇気でソ連軍の戦車を相手に壮絶な戦いをくり広げた。ソ連軍は、一時、撤退し、ハンガリー人は勝利したかのように思った。しかし、ソ連軍は引き返して第二次侵攻を開始した。
アメリカのアイゼンハワー大統領のスポークスマンたちは「鉄のカーテン」と共産主義から解放すると言っていた。CIAはハンガリー民衆を大いにそそのかした。しかし、本当に助けが求められたとき、ワシントン当局は手を引いた。ハンガリーの人々はアメリカから見捨てられた。
すべての共産主義衛星国は、ソ連に対して憤りを感じていた。ソ連は、衛星国をすべて植民地と見なし、そのように扱った。それをハンガリーほど強く深く憎んでいた衛星国はなかった。ハンガリーは敵国のように扱われる敗戦国だった。というのも、ハンガリーは、20年間ものあいだファシスト独裁者の支配下にあり、ポーランドかチェコと違って、ソ連に侵攻した国だった。
ハンガリーは、1920年から1944年までの25年間、摂政ミクローミュ・ホルティ提督の独裁政治下にあって、ドイツにとって重要な枢軸国だった。ホルティ摂政の陸軍はソ連に攻め寄った。
1944年12月のクリスマス・イブに始まった流血のブダペスト包囲戦は、51日間続いた。ドイツ軍は西部戦線からハンガリーへ10個師団を移動させていて、ヒトラーはいかなる犠牲を払ってでもブダペストを防衛せよと下命した。4万人以上のドイツ軍兵士と7万人以上のロシア軍兵士が戦死した。
ソ連軍とともに、モスクワっ子として知られたハンガリー生まれの共産主義者集団がやって来た。その数は300人ほど。スターリンに慎重に選ばれた彼らは、ソ連市民となって、ソ連に15〜20年住んでいた。
スターリンはユダヤ人であるラーコシを使い物になると判断して、ハンガリー共産党の指導者に任命した。ラーコシとその徒党には国家的基盤がなかったため、なおさらソ連に依存した。ラーコシ、側近のゲレー、ファルカシュ国防相、レーヴァイ教育相は、みなユダヤ人だった。
ハンガリー陸軍は再編成された。標準的武器はソ連製である。しかし、ソ連軍のT34戦車は砲弾を発射することができなかった。重要な部品はソ連の軍事顧問が保管していた。
ソ連のKGBに似たAVOが発足した。AVOの任務は、共産党に反対する政党を排除すること。AVOは、やがて巨大で思いあがった恐怖の官僚機構となった。5万人近い職員、人口の1割100万人もの情報提供者をかかえた。
スターリンに批判的な者が摘発された。ライクがスパイとしてでっち上げられ、裁判にかけられた。ライク裁判のあと、大恐怖が3年以上も続いた。人口1000万人という小さな国で、大勢の人が動揺した。1950〜1953年に130万人以上が裁かれ、その半数が投獄された。2350人が即座に処刑された。3つの強制収容所に4万人もの人が収容された。1950年には、85万人の共産党員のうち半数が刑務所と強制収容所に送られ、国外に追放され、3年後に死亡した。
イムレ・ナジはソ連での15年間と、ハンガリー政府の大臣であったとき、ソ連秘密警察のスパイだったという書類がある。1956年10月にハンガリー革命が始まったとき、ナジは原則として学生の抗議に反対だったし、デモに参加する提案に愕然とした。デモの先頭に立つなど、思いもよらなかった。ナジは革命を望んではいなかった。ナジは民衆の気持ちが理解できなかったし、難局に対処できなかった。
フルシチョフはナジを復帰させて秩序を回復させようとした。そして、ハンガリーを監視するため、ミコヤンとスースロフを派遣した。同時に、陸軍参謀総長とKGB長官もこっそり派遣した。それほど、クレムリンのボスたちはハンガリー危機を深刻に受けとめていた。
民衆のデモが始まったとき、ハンガリー軍の兵士のほとんどは、どちらにもつかず、兵舎に戻った。そして、武器と銃弾を市民に手渡した。ライフル銃も渡された。警察本部長は中立ではなく、革命者に転向し、警察の武器保管所を解放した。こうして、市民の抗議は武装蜂起に変わっていった。
10月24日、ソ連軍は午前2時からブダペスト市内に侵入した。6000人の将兵と戦車700台を市内に送り込んだ。さらに、2万人の歩兵と1100台の戦車、185門の重砲を配備した。159機を有する戦闘機2分隊で地上部隊を支援できる態勢をととのえた。
ブダペスト市内で市街戦が始まった。ソ連軍のT34戦車は白兵戦には適していなかった。1日間でソ連軍の死者は20人、負傷者は40人に達した。戦車4台と装甲車4台が大破した。秩序回復の兆候はなかった。
2日目、反乱者は銃殺されていないどころか、元気づいていた。象に立ち向かう一匹のアリだった・・・。ソ連軍は1万4000人の兵士と250台の戦車の援軍を得た。
このとき、アメリカのアイゼンハワー大統領はハンガリーには介入しないと決意していた。アメリカはソ連にそれを伝えて安心させた。1000万人しかいないハンガリー国民のためにアメリカ市民を戦争のリスクにさらす必要はないと判断したのだ。
ハンガリー革命の戦士は1500人をこえていた。アメリカは表向き、革命者の戦闘継続を声援していた。だから、彼らがアメリカをあてにしたのは当然のことだった。しかし、ワシントンには、イムレ・ナジに政治的支援と物的援助を与える理由は何もなかった。
革命が始まった1週間のあいだに1000人のハンガリー人と500人ものソ連軍兵士が命を落とした。
アメリカは、このころ、英仏両国がイスラエルと共謀して対エジプト攻撃の計画を立てていることを知っていた。エジプトはスエズ運河を国営化した。このエジプト侵攻は、ハンガリー革命の直前になされた。おかげで、世界の注目はブダペストからそれてしまった。
11月2日、ソ連軍が大雨のなか、ハンガリーに戻ってきた。ハマーショルド国連事務総長はスエズ問題に専念していた。スエズのほうが優先事項だった。
ソ連軍が送りこんだ高速の新型T54戦車には、ハンガリー革命人士の火炎瓶と軽火器は歯が立たなかった。2日間で、ブダペストは破壊された。
数ヶ月間のうちに、18万人ものハンガリー人が祖国を去った。アメリカに15万人、イギリスとフランスがそれぞれ3万人を受け入れた。ハンガリー革命のあと、ソ連は恐れられ、嫌われた。世界中が激怒した。ハンガリーにおけるソ連の蛮行はヨーロッパの左翼を粉砕した。フランス共産党は党員の半数を失い、分裂したイタリア共産党はモスクワと手を切った。イギリス共産党は3分の2の党員が脱党した。オランダ共産党は消滅した。
日本共産党は、辛うじて生き残っています。そして、いま再び元気を取り戻しつつあります。ソ連共産党の誤りは許せないと勇気をもって批判したからです。
少し前に映画『君の涙、ドナウに流れ』をみたので、その背景を知りたいと思っていたところに出会った本でした。私は、今でも社会主義の思想が間違っていたとは考えていません。それを運用していた独裁者と周辺グループに大きな問題があったと考えています。だって、今の日本を見て、「資本主義、万歳!」だなんて、言えますか・・・。
(2008年2月刊。3800円+税)
2008年09月09日
タンゴ・ステップ
著者:ヘニング・マンケル、出版社:創元社推理文庫
上下2巻のスウェーデン産ミステリー小説です。なかなかの読みごたえがあります。私はスウェーデンがナチス・ドイツのあいだに深い関係があったことを初めて認識しました。
フランスに行く飛行機のなかで読みふけりました。実に面白く、ぐいぐい引きずられるように読みすすめました。第二次大戦前後、スウェーデンで大勢の人がナチス思想に共鳴し、ナチスの兵士になっていったというのです。今では信じられませんが、恐らく本当のことでしょう。著者は、私と同じ、1948年に生まれです。
1930年代、40年代、スウェーデンは実にナチス信奉者の多い国だった。彼らはドイツ軍がスウェーデンに侵入するのを待ち望み、スウェーデンがナチズムに統治されるのを何より望んでいた。
スウェーデンの軍事産業は多大な鉄鋼を寄贈し、それによってドイツの軍事産業はヒトラーの命じる最新式の軍艦や戦車を製造することができた。
日本からパリまでの飛行時間は実に12時間あります。その長さを忘れ去れる充実した読書タイムでした。推理小説ですから、ここで種明かしをするわけにはいきません。そこで、オビなどに書かれている文句を少しばかり紹介します。
影におびえ続けた男。元警察官の血まみれの死体は森の入り口で発見された。男は54年間、眠れない夜と過ごしてきた。森の中の一軒家、選び抜いた靴とダークスーツを身につけ、人形をパートナーにタンゴを踊る。だが、その夜明け、ついに影が彼をとらえた・・・。
ステファン・リンドマン37歳。警察官。舌がんの宣告を受け動揺した彼が目にしたのは、自分が新米のころ指導を受けた先輩が、無惨に殺害されたという新聞記事だった。動機は不明。犯人の手がかりもない。治療を前に休暇をとったステファンは事件の現場に向かう。
それにしても、スウェーデンにナチス信奉者がいたというのは何十年も前の過ぎ去った昔のこと、とは言えない現実があることを、この本は鋭くえぐり出しています。ネオ・ナチズムはヨーロッパのあちこちにひそんでいて、暗躍しているのです。それは、ちょうど、日本で大東亜戦争肯定論を唱える右翼のようなものです。どちらも歴史から学ぼうとはしません。
アヴィニヨンの駅前からタクシーに乗ってシャトー・ヌフ・デュパープ村へ行ってきました。前にボルドーのサンテミリオンにも行ったことがありますが、とても似た雰囲気の小さな村です。この村は高級ワインを産出するので名高いところです。村の周囲にブドウ畑が広がっています。はるか遠くには頂に白いものも見える高い山々が連らなっています。村の中心部の高台には今や城郭の一部しか残っていませんが、古いお城がありました。またまた美味しいワインを飲みたくなったものです。
(2008年5月刊。980円+税)
2008年10月15日
アテネ最期の輝き
著者:澤田 典子、 発行:岩波新書
アレキサンダー大王(この本ではアレクサンドロス大王)が活躍していた当時、アテネの民主政がギリシア最期の民主政として輝いていたということを初めて認識しました。
紀元前338年、フィリポス2世の率いるマケドニア軍とアテネ・テーベを中心とするギリシア連合軍とが激突した。カイロネイアの戦いである。このとき、マケドニア軍が圧勝した。
フィリポスは、自らが率いる右翼の歩兵部隊を後退させ、対峙するアテネ軍がこれを追って前進した。偽装退却と反転攻撃を組み合わせ、敵の戦列を撹乱して撃破するというフィリポスお得意の戦法にアテネ軍はひっかかってしまった。
ところが、この敗戦のあと、フィリポス2世は寛大な講和条件を示した。領土の没収も賠償金の支払いも求められず、アテネにマケドニア軍が駐留することもなかった。さらに、アテネの捕虜全員を無償で釈放した。このことによって、アテネでは、10数年間の「平和と繁栄」の時代が到来した。
アテネ民主制で重要な役割を果たしたのは、民会と500人評議会、そして民衆法廷である。市民の総会である民会は、アテネの最高評議機関だった。成年男子市民の誰もが民会に出席して発言する権利を持ち、平等の重さの一票を投じることができた。行政・立法・軍事・外交・財政など、ポリスに関わるあらゆる案件が年に40回開催された定例の民会で市民の多数決によって決められた。
民会は1万7000人を収容するディオニュソス劇場などで開催されていた。その審議を円滑にするため、民会の審議事項を先議したのが500人評議会である。評議員は、30歳以上の市民から抽選で選ばれ、1年任期だった。
民衆法廷のほうも、抽選で選出された。30歳以上の市民6000人が任期1年の陪審員として登録される。そのなかから、裁判の性格や規模に応じて、201人とか501人といった陪審員が選ばれて個々の法廷を構成した。判決は、陪審員の秘密投票による多数決で決まった。
このころ活躍したデモステネスは、弁論術の習得のため、血のにじむような努力を重ねた。たとえば、口の中にいくつかの小石を入れたまま演説の練習をして不明瞭な発音を直そうとした。坂を上りながら演説を一息で朗唱する。海岸で波に向かって大声で叫んで息や声量を鍛えた。役者から演技の指導を受け、大きな鏡の前で演説の練習をした。
だから、反対派は「デモステネスの議論はランプの臭いがする」と嘲笑した。夜通しの苦労がありありと分かるとケチをつけたわけである。いやあ、すごいですね。これから裁判員裁判が始まろうとしていますので、日本の弁護士も演技指導を受ける必要が出てきました。
マケドニアの王フィリポス2世は、ギリシア世界の王者として華々しい祝典を執り行っている会場で、衆人環視の中で暗殺された。暗殺者は、なんと若い側近の護衛官だった。フィリポスはまだ46歳であった。
このときアレキサンダーは20歳になったばかりだが、王位に就くことができた。
アテネで市民権を喪失すると、市民身分にともなって発生する公私の諸権利を喪失する。民会への参加、裁判を起こすこと、一定の公職に就くことが禁止され、また神域やアゴラへの出入りも禁じられる。
兵役を忌避した者、両親を虐待した者、姦通した妻を離縁しなかった者、国庫に借財を負っている者、偽証罪などで三度も有罪になった者は市民権を全面的に喪失する。
アテネの公的裁判は私訴が1日に複数の裁判が行われるのに対して、1日1件のみ。1件当たり6時間半もの時間が保障された。原告・被告の双方とも、弁論の持ち時間は2時間半前後だった。
再びアテネがマケドニア軍に敗北したとき(前322年)、マケドニアは参政権について一定の財産を持つ上層市民に制限するという寡頭政をアテネに押し付けた。参政権の財産資格は、2000ドラクマであった。これによって、1万2000人の成年男子市民が参政権を失った。財政の多寡に関わらずすべての市民が平等に政治に携わることを原則としていたアテネ民主政は、カイロネイアの戦いから16年たったクランノンの戦いでギリシア連合軍が敗北して終焉を迎えた。
しかしながら、アテネは前338年に独立国家としての地位は失ったものの、その民主政は前322年に突然終止符が打たれるまで強靭な生命力を持ってたくましく行き続けた。
アテネ民主政の様子を知ることができました。それにしても、小泉流のごまかしに民衆が踊らされることもあったようです。総選挙が近づいていますが、今度こそはその場限りの甘い言葉にごまかされないようにしたいものですね。
(2008年3月刊。2800円+税)
2009年03月03日
貧困にあえぐ国ニッポンと貧困をなくした国スウェーデン
著者 竹﨑 孜、 出版 あけび書房
社会問題の事後処理方法としての貧困対策に追われていたのが旧来の福祉政策であった。それでは税金をいくら注ぎ込んだところで問題の解消にはほど遠く、際限のない政治をやめるほうが得策だとスウェーデンが思いついたのは、発想の大転換だった。
いち早く雇用や労働を重視した政治が積極的に展開されてきた。豊かな生活へ近づける労働政策を重視して、貧困を根絶する急がば回れの方式へとスウェーデンの政治は方向転換した。
そうなんですよね。今の日本のように、正規か非正規かを問わず、労働者が大々的に首切られ、寒空にあてもなく放り出されてしまう政治の下では、貧困がなくなるはずもありません。貧富の格差がますます拡大するばかりです。日本の深刻な首切り旋風のひきがねをひいたトヨタとキャノンの責任は重大です。あれで、日本の内需は大打撃を受けてしまったのです。膨大な内部留保を株主にしか回さないなんて、根本的に間違っています。そして、自公政府が雇用確保についてあまりにも生ぬるい手を打たないことには怒りを覚えます。
スウェーデンは、貧困をなくした生活大国である。スウェーデンでは、生活保護受給者は職のない若者がほとんどで、生活に困ったらすぐに受給できる。そして、短期のうちに自律できる。ところが日本では、働く能力があれば生活保護をもらうのが大変困難です。そして、そのことがかえって自立を妨げています。
年金は国民を区別しない平等な仕組みであり、財源も租税により、保険料には頼っていない。お年寄りを大切にしない日本の政治は、根本的に間違っていますよ。
政府は大きいよりも小さい方がいいという主張は、アメリカとイギリスだけの話で、日本はこの2国を追随しているにすぎない。しかし、ほんとうに小さい政府でいいのか?
そんな小さい政府を目指しているはずの日本の国が抱える借金は、1996年に340兆円、2000年に500兆円、2004年に750兆円、2005年にはついに800兆円となった。
貧困の目立つのは日本とアメリカであって、貧富の差は激しくなる一方である。これに対して低所得層を引き揚げ、貧富の格差を減らした国の筆頭はデンマーク、続いてスウェーデン、フィンランドである。
スウェーデンは、デンマークと並んで世界最高の消費税25%を課している。しかし、だから生活が苦しいという非難は出ていない。
税の国民負担率は、スウェーデンが51.1%、デンマーク49.7%、フィンランド44.%となっている。税金は、実は国民の貯金である。税金で障害の安心を手に入れておくという意識がある。スウェーデンの人々は、貯蓄にはきわめて不熱心である。なんと、税金についての考えが根本的に日本とは違うのですね。
スウェーデンは国家・地方公務員が住民1000人あたり150人にのぼっている。全労働者の35%、およそ3人に1人は公務員として働いている。これに対して日本は、1000人に対して35人でしかない。フランス96人、アメリカ80人に比べても少ない。日本では、公務員攻撃がひどいですよね。あの橋下大坂府知事が急先鋒ですが、身近な公務員をいじめたら財界が喜ぶだけです。
スウェーデンの選挙の投票率は、1980年代まで90%だったのが、最近は少し下がって80%台である。これに対して、残念なことに日本は60%を割っています。
スウェーデンは、国際競争の最先端を走るためには良質の労働力がなによりも大切だと考えている。そうなんですよ。不安定で将来性のない非正規雇用では、良質の労働力は得られません。
スウェーデンには老人ホームがない。在宅介護が自治体の責任ですすめられている。寝たきり老人もいない。いやいや、すごいことです。日本も発想の大転換が今こそ必要です。
たとえば、日本も、ハコづくりばかりに走ってはいけません。それより、人を大切にするという視点で、すべてをとらえ直す必要があるのです。このことを痛感させられました。
日曜日、すっかり春景色になった山道を登りました。近くの山寺の臥竜梅が満開でした。風にふくいくとした梅の香りが漂っています。
帰りに、十文字ナデシコの苗を買って庭に植え付けました。今、桜の木が白い花を咲かせて満開です。サクランボの木です。黄水仙が庭のあちこちに咲いています。チューリップはもう少しです。アスパラガスはまだ頭を出してきません。
楽しみの春が到来しました。
(2008年11月刊。1600円+税)
2009年03月14日
ミレニアム1(上)
著者 スティーグ・ラーソン、 出版 早川書房
スウェーデン発の小説です。全世界で800万部も売れているとオビに書かれています。読み始めのうちはそんなに面白いのかなあ、なんて冷めた思いでしたが、途中からぐいぐいと引きずり込まれてしまいました。すごい筋立ての本です。まだ上巻ですし、ミステリー本なので、アラスジの紹介は控えておきます。オビに書かれているキャッチコピーだけ紹介します。
孤島で起きた少女失踪事件の謎、富豪一族の闇、愛と復讐……。
そうなんです。いろんなものが絡み合って同時進行していくのです。次第に、どのシーンも目が離せなくなり、これが別の話とどう絡んでいくのだろうかと半ばの期待をかきたてられていきます。
孤島での少女失踪事件といっても、昨日今日の話ではありません。40年も前のことなのです。そんな古い失踪事件の真相究明を主人公が頼まれて動くことになるわけですが、いくらなんでも、今さら分かるはずもありませんよね。ところが、富豪一族の内部では、親ナチと反ナチと、深刻な反目があったことも次第に判明していき、なんだか手がかりらしきものが浮かび上がってくるのです。
今から40年前と言えば、私がちょうど大学2年生のころでした。長期のストライキに入って授業はなく、毎日、デモと集会に明け暮れていました。それでも本だけは一心不乱にいつも読んでいました。友人たちとも大いに議論をしていましたので、教室が野外にあったようなものだと今になって思います。といっても、真面目に勉強しなかったことの痛みは、今に至るまで自分の心底奥深い所にうずいています。なので、毎朝フランス語を聴いて学生気分を味わっているというわけです。
この本は、人口900万人のスウェーデンで、なんと、3部作が合計290万部も売れたというのですから、大変なものです。ところが、残念なことに著者は50歳の若さで心筋梗塞でなくなってしまいました。第4部の原稿が200ページほどパソコンに入ったままになっているそうです。なんと……。下巻が今から楽しみです。
それにしても、スウェーデンって、性について本当におおらかな国のようです。小説の中に出てくる話ではありますが、日本ではとても考えられないような気がするほど、大人も若者も男も女も伸び伸びと性を楽しんでいる気配です。
庭に土筆が頭を出していました。いつもと違った場所でした。赤紫色のチューリップの花が10本になりました。毎朝、庭に出るのが楽しみです。
(2008年12月刊。1700円+税)
2009年03月20日
ミレニアム1(下)
著者 スティーグ・ラーソン、 出版 早川書房
衝撃の結末です。その内容は読む人の楽しみを奪ってしまいますので、紹介を遠慮しておきます。上巻につづいて、ハラハラドキドキの展開が続き、意外な犯人、予期せぬ真相が語られ、舞台は国際的になるとだけ言っておきましょう。
オビの文句、幾重にも張り巡らされた謎、愛と復讐、壮大な構想で描き上げるエンターテインメント大作、というのは、大いにうなづけます。面白さいっぱいの本でした。
主人公は、スウェーデンの刑務所に2ヶ月間収監されるのですが、週末の外出許可というくだりにはあっと驚きました。刑務所内にはジムがあり、休憩時間には仲間と賭けポーカーをしたりします。そして、独房内にパソコンを持ち込んで本の執筆にいそしむのです。
末尾についている解説を紹介します。
アガサ・クリスティーが得意とした閉ざされた孤島という設定を大きく拡大し、スケールの大きな不可能状況下での人間(少女)消失事件。死者からの贈り物、暗号解読、連続殺人、見立て殺人など、ミステリ趣味が次々に描き出される。
さらにスウェーデンという国のかげの部分を指摘する社会派色も強い。とりわけ暴利をむさぼる実業家や金もうけ至上主義が容赦なく糾弾される。
本書の最大の特徴は、全篇にみなぎるジャーナリストとしての気骨である。著者は雑誌ジャーナリズムの出身だけあって、権力的なモノや巨悪に対して不屈の精神を持っている。
私も、スウェーデンの「刑事マルティコ・ベック」シリーズ(マイ・シューヴァルとペール・ヴァールー)は読んでいますが、このシリーズより一段と味わい深いものがあると感じました。
さあ、あなたも読んでみてください。
今朝、庭に出てチューリップの咲いている花を数えてみると、28本ありました。まだ庭のあちこちにポツポツ咲いているという感じです。近所の桜も花を咲かせ始めました。日本のソメイヨシノが全国的に老木となっているそうですね。心配です。
(2008年12月刊。1619円+税)
2009年04月03日
ペーターという名のオオカミ
著者 那須田 淳、 出版 小峰書店
私はドイツに2回だけ行ったことがあります。はじめは黒い森(シュヴァルツヴァルト)の酸性雨の被害調査です。今から20年以上も前のことでした。なるほど、黒い森の一角が立ち枯れていました。自動車の排ガスのせいだろうということでした。
実は、このとき私が驚いたのは、そのことではありません。苦労して登っていった山の上の辺鄙なところに実に立派な山小屋レストランがあったことです。
そこには、たくさんの老若男女がつめかけていて、昼から美味しい料理とビール、そしてワインで盛り上がっていました。ドイツ国民は山歩きが好きなんですね。ワンダーヴォーゲルという言葉(私の学生時代は、ワンゲルと略称していました)を実感しました。
そのとき、実のところ私たちはズルをして車に分乗して山を登ったのですが、山小屋にいた人々は、もちろん、自分の足を頼りに登った人ばかりです。当然のことながら、まわりには私たちの車以外、車なんて見当たりませんでした。
そこのレストランで出た料理はまことに本格的なものなんです。もちろん、ソーセージも本物です。電子レンジでチンという、ありきたりのファーストフードでないことに、私は深く感動してしまったのでした。
2回目はベルリンです。このときに驚いたのは、アメリカのイラク侵攻の直前だったのですが、それに抗議するドイツの高校生のデモ隊が延々と続いていたことです。うひゃあ、これはすごい。正直、そう思いました。私も大学生のときには数限りなくデモ行進に参加しましたが、高校生のときにはまるでノンポリでした。東京ではデモなるものをやってるんだねー……というくらいでした。ところが、ベルリンの高校生たちは、顔にアメリカのイラク侵攻反対のペインティングをやって、明るく元気に大通りをデモ行進しているのです。この元気を今の日本の若者にも持ってほしいものだと、つくづく思いました。
ずいぶんと前置きが長くなってしまいましたが、この本は少年少女向けのようですが、いやいや私のような還暦も過ぎてしまったいい大人向けの本でもあると思いました。いかにもみずみずしい感性で書かれた本です。
主人公は7歳のときからドイツのベルリンに住んでいる日本人の少年です。今は14歳になり、新聞記者の父親には7年ぶりに日本への帰国命令が下っています。主人公は、そんな親の都合には振り回されたくなんかないと、プチ家出をします。家出をした先は日頃から付き合いのある家庭。だから、親もそっと見守っているだけです。そこへ、オオカミの子が迷い込んできて、話はややこしくなります。
うまいんです、その筋立てが……。そっかー、こういう風に筋を組み立てていくと読者は魅かれるのか。ついつい、作家志向の私など、一人合点しながら読み進めていきました。
それにしても、現代ヨーロッパにまだオオカミがいたなんて信じられません。そのオオカミの生態を踏まえて、よくストーリーが描けています。しかし、なんといっても話に深みを持たせているのは人間社会の闇です。東ドイツがあったとき、人々がどんな思いで暮らしていたのか、ベルリンの壁がなくなるとは、どういうことなのか、よくよく考えさせてくれます。
そして、自然のなかに生きるオオカミを大切にするということが、人間の自由と尊厳を守ることに通じることまで考えさせてくれるのです。
少し気分転換してみたいというときにおすすめの本です。
(2003年12月刊。1800円+税)
2009年08月04日
スレブレニツァ
著者 長 有紀枝、 出版 東信堂
1995年7月、ボスニア東部の小都市スレブレニツァはセルビア軍に攻められて陥落し、その後の10日間にムスリム人男性6000人が処刑された。犠牲者は今なお埋設場所さえ分からず、その半数が行方不明のままである。第二次世界大戦以来のヨーロッパ最悪の虐殺とされている。
著者は、この事件発生当時、日本のNGOの職員として現地に駐在していました。その時の痛苦の体験もふまえて、学術的な考察を加えて出来上がった貴重な本です。
2007年、スレブレニツァは、国際司法裁判所(ICJ)において、史上はじめてジェノサイドと認定された。ジェノサイドには、2つの局面がある。被支配集団の国民的パターンの破壊と、支配集団の国民的パターンの強制の2つである。
ジェノサイドの語源は、民族・部族を意味する古代ギリシャ語ジェノスと、殺害を言いするラテン語サイドを組み合わせたもの。
ユーゴスラビアは、次のような子どもの数え唄に象徴される複合国家であった。
ユーゴスラビアは、7つの国と国境を接し、6つの共和国(スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)に、5つの民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)が住み、4つの言語(スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)を話し、3つの宗教(カトリック、ギリシャ正教、イスラム教)を信じ、2つの文字(キリル文字とローマ字)をつかう。だけど、一つの国なんだ。
紛争前のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国には、イスラム教のムスリム人(44%)、ギリシア正教のセルビア人(31%)、カトリックのクロアチア人(17%)が特定地域に偏在せず、あらゆる場所で混在しており、政治的にも物理的にも単純な3分割は不可能だった。
ボスニア紛争時の国連軍の犠牲者117人のうち、フランス49人、イギリス25人となっている。
メディアにおいては、ボスニア政府がアメリカの広告会社と契約を結んで、広報活動を旺盛にしたため、「セルビア悪玉説」が強い影響力をもち、そのことがセルビア人勢力を一層かたくなにさせていった。
スレブレニツァにいた国連軍オランダ大隊430人は、3回にわたって航空支援を要請したが、いずれも却下され、セルビア軍の進攻を許してしまった。
スレブレニツァにおけるジェノサイドの特徴は、国際社会の眼前での大量殺害の実行である。6000人にも及ぶムスリム人の殺害と遺体の埋設、時間をおいた発掘と大がかりな再埋設が組織的に実行されたことは、スレブレニツァの大きな特徴をなしている。
犠牲者、行方不明者をかかえる遺族にとって、スレブレニツァは今もなお国際社会に見捨てられ、裏切られたという感情とともに慟哭の記憶が生々しい。
セルビアの指導者(ムラディチ)は、スレブレニツァの陥落という予想外の事態を最大限に利用しつつ、スレブレニツァのムスリム人住民の追放を開始し、同時にムスリム兵の一掃を図ろうとした。その過程で発生した偶発的な事象の積み重ねが、ジェノサイドに発展したと推定される。スレブレニツァ・ジェノサイドは、事前の計画がなかった犯罪行為である。
いったん発生したジェノサイドを、軍事力を行使して停止させる事には大変な困難がつきまとう。だから、ジェノサイドが発生する前の予防措置や早期の警戒が最重要の課題なのである。
人道の敵は、利己心、無関心、認識不足、想像力の欠如にある。無関心は、長期的には弾丸と同じく、確実に人を殺すものである。
この最後の指摘を、私たちは重く受け止めるべきですね。400頁ほどもあって、形も内容もずっしり重たい本でした。
(2009年1月刊。3800円+税)
2009年08月06日
スウェーデンの税金は本当に高いのか
著者 竹﨑 孜、 出版 あけび書房
スウェーデンに長く住んでいる日本の大学教授の本です。スウェーデンの実情を紹介する本をたくさん書いています。
スウェーデンでは、社会保険料が企業によって全額支払われるので、家計は税金さえ支払えば、社会保険費と固定家計費はまったく不要である。そのため、日本の家計の方が、消費力や生活力では劣ってしまう。
スウェーデンでは酒は高い。これは税金を搾り取るためというより、過度な飲酒による病気を減らすためのもの。酒は国営会社の独占専売方式である。
小学校では、成績表も成績をあおるものだという理由から、廃止された。宿題もない。生徒20人という少人数学級に、教員が1.5人配置されている。もちろん、税金で全部まかなわれる。高校でも給食費を含めて、家計による負担はない。そして、大学への進学率は30%。大学進学率30%といっても、社会人の大学Uターンが普通であり、高校を出たら、まずは働きながらの社会勉強を優先させるのが習慣となっていることによる。大学の学費はまったく不要。生活費のほうは、国の用意する教育資金ローンを利用する。
スウェーデンの消費税率は最高25%で、課税対象外、6%、12%、25%というような4段階になっている。医療関係はゼロ。6%は新聞や本、12%は食料品、25%はレストランでの食事。このように、課税が国民の痛みにならないように配慮されている。
スウェーデンの人口900万人のうち、労働人口は380万人。うち、国・県・コミューンで働く公務員が3分の1を占める。公務員の職種のうち、最大グループはコミューンの介護職。女性によって占められており、給与が最も低い。
スウェーデンの労働者が労働組合に加入する組織率は、きわめて高い。ブルーカラーで85%、ホワイトカラーでも75%。この10年間に、わずかではあるが労組への加入率は増えた。
医師やその他の専門職も、独自の労働組合をつくっており、51万人の加入者があり、労働者のほとんどが加入している。
失業しても、失業手当金は賃金の80%が支給される。
スウェーデンでは、社会は誰のためにあるのか、最優先すべきは生活なのか、経済なのかが問われている。教育・医療・介護の3分野について、スウェーデンでは、必要ならば増税してでもこの3分野を守りぬくという国民の固い意思がある。
政治は国民の意欲のあらわれ。まことにそのとおりです。日本人も投票率80%を目ざして、医療・介護・教育の3つの分野を政治の最優先課題にしないといけませんよね。来る総選挙を、そのための一里塚にしたいものです。
(2005年8月刊。1700円+税)
2009年08月12日
憎悪の世紀(上巻)
著者 ニーアル・ファーガン、 出版 早川書房
1925年ころのドイツでは、人口はドイツの100に対してユダヤ人は1にも満たなかったが、医師の9人に1人、弁護士の6人に1人がユダヤ人だった。富裕層の31%もユダヤ人だ。ユダヤ人が少ないのは、軍の将校団のみ。
ロシアの革命運動においてユダヤ人は存在感があった。ボルシェヴィキの11%、メンシェヴィキの23%をユダヤ人が占めていた。ロシアの総人口に占めるユダヤ人の割合は4%だったが、国会議員の29%がユダヤ人だった。そして、ロシア社会主義者のうち、9割近くはユダヤ人だった。ただし、ボルシェヴィキ指導者のうち、トロツキーとジェルジンスキーの2人だけがユダヤ人だった。
1900年から1913年にかけて、ヨーロッパでは40人もの国家元首、政治家、外交官が殺された。国王4人、首相6人、大統領3人。うへーっ、そうだったんですか……。
19世紀、ヨーロッパの王室は、みな互いに親戚関係にあった。ヨーロッパの王室は、すべて純粋のヨーロッパ人である。新しい血が時折入らなければ、一族の血統は、身体的にも道徳的にも変質してしまう。現に血友病が発生した。しかし、ナショナリズムに対抗するため、大陸の支配層は意図的に近親結婚を繰り返していた。
王室外交は、まぎれもなく親族の集まりであり、拡散したメンバーは、互いに愛情をこめてニックネームで呼び合った。このシステムは、各王朝のメンバーが互いに結婚し続けることによってのみ存続できる。結婚は、同族である王室メンバーとのものであることが原則であり、その例外は非常に限られていた。
スターリンの統治下で、あわせて1800万人もの老若男女が収容所に送り込まれた。流刑になった600~700万人のソ連市民をふくめると、労働の使役に駆り出された国民は全体の15%にも上った。この収容所の本来の目的は、囚人を始末することではなかった。ソ連の収容所は、囚人を労働力として利用するためのものであって、殺すことが目的ではなかった。その意味でナチスの収容所のような絶滅収容所ではなかった。
1935年1月から1941年6月までに、2000万人が逮捕され、少なくとも700万人が処刑された。1936年1月の時点で、コミンテルンの執行委員は394人いた。うち223人が1938年4月までにスターリンの大粛清の犠牲になった。
ヒトラーは、チャップリンが演じた人物より、ずっと複雑怪奇な人物だった。ヒトラーは憎しみのかたまりで、愛を知らなかった。
ヒトラーは救世主の生まれ変わりであり、マレーネ・ディートリッヒと同類だとドイツの民衆に印象付けられた。
ナチスはドイツのあらゆる地域で広範な支持を集めた。地方の共産党のなかには、資本主義と社会民主党を打倒するためと称して、公然とナチスと手を結ぶグループさえあった。
ナチスは弁護士や医師などの知識人たちも入党した。ヒトラーはビスマルクの後継者にうつったからである。
ヒトラーが首相になったころ、ドイツに600万人もの失業者がいた。ところが、1935年6月には失業者は200万人弱になり、1937年4月には100万人を割り、1939年8月にはわずか3万人ほどになってしまった。1935年から39年にかけては、強制収容所より休暇を楽しむ施設のほうがずっと多く、ドイツは好景気にわいていた。
1939年の時点で16万4000人のユダヤ人がドイツにいたが、うち1万5000人は異民族の相手と結婚していた。ドイツ系ユダヤ人はドイツ社会に同化していたのである。
世界史を理解するために知っておくべき基本的な知識が次々に語られています。
上巻だけで500頁近い大作で、いかにも読み応えがありました。
スイスのサンモリッツからポストバスに乗ってイタリアのルガーノまで行きました。バスで4時間の旅です。途中の休憩は1回だけです。急峻な山道を九十九折で降りて行くのは怖いほどでした。山の中の小さい村の中をいくつも通過します。狭い路地を走りました。湖が見えます。阿蘇の外輪山のように屹立した山々を横目で見ながら走ります。湖畔の狭い道を離合するときには、車体をこすり合うほどでした。4時間以上たっぷりバスに乗って、自信をつけることもできました。
(2007年12月刊。2800円+税)
2009年12月08日
中流社会を捨てた国
著者 ポリー・トインビー、デイヴィッド・ウォーカー、 出版 東洋経済新報社
イギリスについて書かれた本です。初めにイギリスの富裕層の暮らしぶりの一端が紹介されます。
3675万円の時計、94万円のショール、60万円のバッグなどの広告が富裕層向けの新聞広告にあるそうです。買う人がいるわけです。
1997年に労働党が政権についてから、上位10%のもつ個人資産が全体に占める割合は、47%から54%に増えた。
イギリスとアメリカでは、親が裕福だと子どもも裕福になる傾向にある。
1979年、サッチャー政権は誕生すると同時に、所得税の最高税率を83%から60%へ引き下げた。1988年にはさらに40%へ下げられた。
イギリスの億万長者54人の資産合計は18兆9000億円であるのにもかかわらず、所得税として納めたのは、わずか22億円ほどでしかない。うち32人は所得税をまったく納めていない。高額所得者たちには、自分たちより質素な生活を送っている人々を思いやる姿勢、共感する姿勢が欠けている。資産を持つ喜び、我が子がすくすくと成長を遂げていく喜び、これらを高額所得者のみが独占していいはずがない。
会社の取締役たちは、マリー・アントワネットも赤面するような巨額な報酬を受け取っている。
2007年の会社トップの平均報酬額は1億1055万円。これに、ボーナス・年金・ストックオプションが加わる。だからトータルでは平均4億8000万円になる。
2003年に13%の上昇、2004年に16%増、2005年に28%アップした。2000年から2007年にかけて、実に150%増となった。
トップに高額報酬が支払われると、企業の効率性が上がるというのは事実に反する。かえって、それが知れ渡ることにより、不満が社内に充満する。
報酬引き上げの背後には、自らも莫大な利益にあずかるコンサルタント企業の活躍がある。このような過大な報酬は、1980年代にはじまった。
地位を脅かされた猿が健康を害するのと同じように、おとしめられたものは、猿であれ人間であれ、健康を害する。ですから、ホームレスになった人は長生きできません。あまりにストレスが大きいからです。
貧困線を下回る家庭で育った子どもは、赤ん坊のうちに死亡する率が平均の3倍、事故で命を落とす確率が5倍、心を病むリスクも高く、寿命も短い。
イギリスの全世帯の中で自前の交通手段を持っていないのは27%。家を持っていない世帯と同じ。26歳を過ぎてバスに頼っているのは、落伍者のしるしである。
かつて公営団地には技能と意欲を持った労働者階級が住み、団地は活気に満ちていた。だが、彼らは金を貯め、他の土地に自分の家を買って出て行った。不動産を保有しているかどうかは、階層を分ける指標となる。
イングランドでは400万人が低所得者用賃貸住宅に住んでおり、その多くを占める団地では貧しい年金生活者と子どもの割合が飛びぬけて高い。賃貸住宅に住む人の3分の2以上は、行政から何らかの援助を受けている。イギリスの人口の5分の1にあたる1300万人近くが、政府のいう貧困線を下回る世帯所得で暮らしている。子どもの貧困の第一原因は、親が結婚していないことではなく、親が受け取る給料が低いことにある。
4歳までに、専門職家庭の子どもなら自分に対して発せられた言葉を5000万語、聞く。労働者家庭の子どもは3000万語、福祉家庭の子どもは1200万語だった。すでに3歳の時点で、専門職家庭の子どもは福祉家庭の両親よりも多くの語彙を持つ。
3歳の時点で、専門職家庭の子どもは肯定的な言葉を70万回かけられ、否定的な言葉は8万回だった。福祉家庭の子どもは肯定的な言葉が6万回、否定的な言葉は12万回だった。
言葉で愛情を注ぎ、きちんと褒め、物事の理由を教え、説明する。これを何百万回と繰り返すことで脳は成長し、心は開く。こうした大切な経験を与えられなかった子供たちの可能性はひからびていく。3歳児の到達度が9歳から10歳にかけての状況をきわめて正確に予言している。
いやあ、なるほど、なるほど、そうだろうなと、つくづく私は思います。それでも、こんな数字をあげられると、思わずわが身も振り返ります。
階層を上昇できるかどうかは、当然ながら、お金のあるなしにかかっている。10代のころに貧しいと、人生の展望は暗い。貧しい10代を過ごした大人は、たとえ30代で貧困から抜け出しても、中年になると貧困状態に戻っているリスクが高い。
今や、人の経済的将来を左右するのは、能力ではなく、バックグラウンドである。どんな能力の子どもでも、その子が学校にとどまり、試験を受け、教育の梯子をあがっていくかどうかは、親の社会階層と密接に関わっている。
イギリスについての本ですが、今の日本にとっても大いに参考になる本だと思いました。
金曜日に日比谷公園を歩きました。前日に雨が降ったおかげで青空は澄み切っていて、黄金色の銀杏の葉が光り輝いていました。大勢の人が写生にいそしんでいました。そのなかの一人の絵描きさんに、見事な出来ですねと声をかけたほどです。
銀杏の葉が道路にたくさん落ちて黄色いじゅうたんとなっていました。紅葉の方は少し色あせていました。
師走にしては暖か過ぎるほどです。
(2009年9月刊。2000円+税)
2010年06月01日
一人の声が世界を変えた
伊藤 千尋 著 、新日本出版社
このタイトルは、ルーマニアのチャウシェスク大統領の独裁政権末期の集会における実話からとられています。
1989年12月21日。東ヨーロッパ各国の政権が次々に覆るのを見た独裁者チャウシェスクは、ルーマニアだけは大丈夫だと考えていた。自分の基盤が強力であることを示すため、政権を支持する大規模な集会を開いてテレビで全国に流すことを考えた。忠実な党員を中心として市民1万人を集会に動員した。彼らを前に、チャウシェスクが演説しているとき、群集のなかから叫び声が起きた。
「人殺し」
それを言ったのは、35歳の技師。拷問・処刑を覚悟して声を上げたのだった。一瞬、あたりは、しーんと静まりかえった。技師は、「自分の人生は終わった」と思った。しかし、その次の瞬間、別の人が「そうだ」と叫び、また「お前は嘘つきだ」という叫び声も上がった。会場はパニックになった。これをきっかけに、チャウシェスクを非難する大合唱が起きた。何が起きたのか理解できず、うつろな目をしたチャウシェスクは演説を中断したまま引っ込んだ。暴動や革命は技師の勇気ある一言から始まった。まもなく、チャウシェスク夫妻は即決裁判で銃殺された。
世の中を動かした、すごい一言でした。それにしても、この革命直後にチェコから駆けつけてルーマニアを取材した著者の行動力と勇気というか大胆さには感嘆するばかりです。しかも、ルーマニア語を大学で学んでいて、話せたというのですから、驚きというより、開いた口がふさがりません。だって、著者は、私よりたった一歳下の、同じ団塊世代なのですよ。そんなときにルーマニア語を勉強しようという発想がどこから出たのでしょうか・・・・。及ばずながら私は、今もフランス語をしこしこと、毎日毎朝、勉強していますが、実はドイツ語も一念発起して勉強しようと思ったこともあったのでした。ところが、英語がダメで、フランス語もものにならないのにドイツ語なんて分不相応だと、たちまち深刻に悟って素早く撤退したのでした。
ルーマニアのチャウシェスク大統領といえば、ひところは自主独立路線をとる骨のある人物としてきわめて好意的に紹介されていましたから、実は私もひそかに親近感を覚えていたのでした。ところが、その実態は、とんでもない独裁者だったようです。私も、イメージに踊らされていた一人なのでした・・・・。
すごい行動力をもって天下の朝日新聞記者として世界中を駆け巡ってきた著者も、団塊世代ですから、つい最近、定年退職したようです。
最後に、はじめに書かれている文章に心うたれましたので、紹介します。
人はだれでも、この世に生きる以上、自分の存在意義を感じたいと思うだろう。自分が満足して生きているという実感を得たいと思うのが人間ではないのか。私は、人生とは自分という芸術作品をつくる過程だと思う。人はだれでも芸術家であり、だれもが自分という人間を最高の芸術作品にしたてようと努力することにその人の価値があるのだと思う。死ぬ間際に、自分が満足できる人生を歩んだと実感できるなら、最高の人生ではないか。自分のためにも、もちろん他人のためにも、社会は平和でなくてはならない。そして、社会を平和にすることこそ、最大の社会貢献だと言えるだろう。
うむむ、なかなか味わい深い文章ですよね。よーく噛みしめたいものだと思いました。
鳩山民主党政権の迷走ぶりに嘆いている人に、まやかしの「第三極」論に乗りたくないなと思っているあなたに読んで元気の出る本としてお勧めします。
(2010年1月刊。1500円+税)
5月下旬、青森の友人に1年ぶりに再会しました。今回も原別から車で5分ほどの山麓に陶芸アトリエを構えている福地さんから大変ごちそうしていただきました。まずは青森産の生ホタテです。大きくプリプリしていて、甘みがあります。山菜の小針も美味です。庭からとってきたタラの芽のテンプラはこんなに美味しいものだったのかと見直してしまいました。その日にわざわざ打っていただいた手打ちソバは、青森産のソバ粉をつかった本物の味です。赤ワインもいただきながら、野趣にあふれた素敵な皿に盛りつけられた料理をたっぷりといただき、満腹満足の昼食でした。
すぐ近くの山道に一人静かなど、たくさんの山野草が咲いていました。青森はまだ寒さを感じるほどで、まだ山桜が満開でした。
2010年07月03日
インドの鉄人
著者:ティム・ブーケイ、バイロン・ウジー、出版社:産経新聞出版
2006年6月、ロンドンに本社をおくインド人のラクシュミ・ミッタルの率いるミッタル・スチールが、フランス人のギー・ドレ率いるアルセロールの買収に成功した。
このとき両サイドに顧問を派遣した13の銀行は、その顧問料として合計2億ドルを請求した。ミッタルがアルセロールを取得するために銀行顧問、法律顧問、ロビー活動、広報活動に支払った金額は1億8800万ドルにのぼる。これは1日あたり100万ドルになる。
この本は、この買収劇をドキュメント・タッチで紹介しています。日本の新日鐵だって、いつミッタルに買収されてしまうか分かりません。
その前年(2005年)までに、55歳のラクシュミ・ミッタルは、15年間に47社を合計150億ドルで買収していた。世界最大の鉄鋼会社の経営者であり、世界第5位の富豪であって、その資産は150億ポンド。
ラクシュミ・ミッタルはどちらかというと貧乏な家族の出身である。裕福な家族の出身ということは出来ない。
1995年の時点で、ミッタルは年間1120万トンの鋼鉄を生産していた。そして、このとき目標は2000万トンだと言って笑われた。当時、世界一の新日鐵が年2700万トンの時代だから、それも当然のこと。
鉄鋼業の不景気が、2000年から2002年に続くなか、多くの会社が買収戦線から遠ざかるなかで、ミッタルは逆に会社買収につとめた。スピード、意外性、多様性、そして忍耐。これがミッタル社のスローガンだった。
ミッタルは、たった20年で、277億ドルの財産を築いた。ミッタルをこえる資産はビル・ゲイツなどわずかしかいない。ミッタル・スチールは世界中で17万9000人の従業員をかかえ、アメリカの自動車メーカーのつかう鋼鉄の30%を供給するまで成長した。
会社が敵対的買収に直面したとき、経営者が守るべきもっとも重要なことの一つは、よく眠ること。戦いは疲れるものなのである。なーるほど、睡眠不足は判断を誤らせますよね。
アルセロールは、日本の新日鐵に救いを求めることも考えた。しかし、日本人は交渉にやたらと時間をかけるので評判が悪い。アルセロールは日本人を尊敬してはいたが、日本人とゆっくり時間をかけている余裕はなかった。
アルセロールの買収に成功したことから、新会社は世界の鉄鋼生産の10%、つまり毎年1億2000万トンの粗鋼を生産するようになった。従業員は32万人。時価総額460億ユーロである。売上高は1052億ドルに達しようとしている。年間総生産量2億ドルも「史上初」になりそうである。
インド人の起こした製鉄会社が、またたく間に世界中を席巻したわけですが、その内実の一端を知ることのできる本です。
(2010年2月刊。2000円+税)
消費税を10%にするのは、ギリシャのようにならないためと管首相が言っているようですが、ギリシャと日本は事情が違うのではないでしょうか。日本の国債は大半が日本国民が買っていて、ギリシャは対外債務が大きい。そして、ギリシャは消費税を上げたけれど、法人税率は大きく引き下げた。それで国家の財政収入がひどくなったと聞いています。
それが本当だとしたら、日本で消費税を10%にするのと合わせて法人税率を大きく引き下げたら、ギリシャと同じように財政破たんしてしまうのではありませんか……。
2010年07月08日
戦場からスクープ!
著者 マーティン・フレッチャー、 出版 白水社
私と同じ世代のイギリス人記者の半世紀です。よくぞ危険な戦場を生き延びたものだと思います。私には、とてもこんな勇気はありません。
地雷には、対人と対車両の2種類がある。地雷は地面の下2インチの深さに埋められる。対人地雷を爆発させるには、ほんの10~40ポンドの重さがあればいい。対車両なら350ポンドだ。
対人地雷は、地表で爆発し、兵隊の足に損傷を与える。1人の兵隊が片足を失えば、その男を安全な場所にまで運ぶのに兵隊が別に2人必要となる。合計で3人の兵隊が戦闘から排除される。いやはや、とんだ計算がなされています。
アフガン人は、尻を拭くのに左手を、食べるのに右手を使う。だから、盗人の右手を切るのは、きわめて厳しい罰になる。盗人は右手だけでなく、友人たちと食事をする能力をも失う。なぜなら、男の左手が使った碗から食べる人間はいないから。つまり、男はアウトカーストになってしまうのだ。これって、辛いことですよね。
ボスニアにNATOが介入したのは、2年間で20万人が死亡したから。だが、ルワンダでは4週間で20万人が死亡した。にもかかわらず、世界はそっぽを向いていた。なぜか?
ルワンダには、戦略的重要性もなく、語るべき資源もなかったからだ。
キャンプにいる難民25万人のほとんどが、ジェノサイドを逃れてきたツチ族ではなく、ツチ族の報復を逃れてきたフツ族だった。つまり、キャンプで救援機関が助けていた人々のほとんどは、フツ族の殺人犯とその家族だった。フツ族は逃げ、ツチ族は死んでいた。
歴史は、欧米のメディアにとって、アフリカの血の価値がヨーロッパの血の価値ほど重くないことを示している。メディアには、たとえば10年間にわたってバルカン半島を重点的に取材する余裕はあったが、ルワンダのことは手遅れになるまで無視した。
戦争ジャーナリストのすさまじい日常生活が描かれています。いやはや、世界にはかくも悲惨かつ過酷な戦場があるのですね。平和を守りたいとつくづく思ったことでした。今こそ日本国憲法9条2項を守り抜きましょう。暴力と戦争の連鎖は御免です。これを平和ボケなんて言わないでくださいね。
(2010年1月刊。2600円+税)
先日新聞の訃報欄で、後藤竜二氏が亡くなられたことを知りました。私が司法試験の受験勉強をしていたとき、友人から「面白い本があるよ、読んでみたら」と勧められたのが、『天使で大地はいっぱいだ』と言う本でした。
難しい法律議論の世界で頭を悩まし、失語症になったかと思うほど日常会話をしなくなったなかで、生き生きと躍動する子どもたちの世界は、まさに一服以上の清涼剤とでもいうべきものでした。苦しかった受験生活とともに思いだされる本です。
昨日の新聞に、法人税率の引き下げを管首相が前倒しで実施すると報じられていました。日本の大企業の実効税率は、20%もないところがいくつもあるようです。それをさらに引き下げるつもりのようですが、それではいったい、消費税率の引き上げは何のためなのでしょうか。疑問だらけです。

