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アメリカ黒人の歴史

カテゴリー:アメリカ

著者  上杉 忍 、 出版  中公新書
2010年にアメリカの全人口3億9000万人のうち白人は2億人近く(64%)、ヒスパニック系は5000万人(16%)、黒人は3900万人(13%)、アジア系は1500万人(5%)となっている。
ヒスパニック系が黒人を上まわったのは1990年の調査からだった。しかも、統計に出てこないヒスパニック系住民(不法入国者)が1000万人いると推測されている。
オバマ大統領はアフリカから連れてこられた黒人奴隷の子孫ではない。ケニア出身の黒人留学生とカンザス出身の白人女性との間に生まれ、継父とともにインドネシアで育ち、思春期はハワイの白人社会の中で過ごした。オバマは黒人社会で生活したことがなかった。そして、大学を卒業してから、シカゴの黒人コミュニティーで地域活動を開始した。
 いま、アメリカでは貧しい人を中心とする犯罪経歴者500万人は選挙権を剥奪されていて、200万人以上の受刑者は投票できない。
 アメリカの「独立宣言」を起草したジェファーソンは数百人もの奴隷を所有していた。そして、ほとんどの奴隷を解放することがなかった。黒人は生まれつき劣った存在であることを「科学的」に論証した。
 合衆国憲法は、奴隷制と奴隷所有階級の支配権を保障したものだった。1860年のリンカーン大統領のまえの大統領の大半は奴隷主だった。
奴隷主は、家族もちの奴隷のほうが従順であることを知っていたから、奴隷財産をふやすためにも、奴隷の結婚を奨励した。
 奴隷は、自らの意志で相手を選んで結婚することが多く、そこには奴隷の主体性が表れた。
奴隷たちは、さまざまな形で抵抗した。主人が見分けにくい抵抗は「ふり」をすることだった。愚純さを装ったり、主人を喜ばせる幸せな表情を装ったり・・・。
 南北戦争の前までに「地下鉄道」などを通じて、南部の奴隷7~10万人が北部に脱出したと推定されている。
 1861年、南北戦争が始まった。南部の利点は、職業軍人の多くが南部出身で、早くから準備を進めていたこと、イギリスの支援を期待できること。しかし、南部は海外からの補給なしには生活物資や武器の調達が困難だったし、人口の38%を奴隷が占めるという深刻な弱点があった。北部の連邦軍は、途中から黒人を受け入れはじめ、合計40万人が連邦軍に入った。
奴隷解放宣言は、南部社会の基盤を揺さぶり、イギリスの介入を阻止することを狙ったものだった。
 イギリスは既に植民地奴隷制を廃止しており、奴隷制擁護を掲げる南部を支持するのは世論の反発が予測された。しかも、戦況は南部に有利に動く気配がなかった。
 1900年ころ、南部で白人支配層は裁判所を握り、罰せられることを心配せずに反抗的な黒人に暴力を振るった。「人種エチケット」を守らない黒人はリンチの対象となった。
 1889年から1932年までに記録されたリンチ被害者は3745人で、その処刑儀式には白人の指導的人物が加わっていた。特別列車を仕立ててやった2000人の群衆による公開リンチがあった(1899年、ジョージア州)。
 リンチは、白人共同体を白人男性のもとに結束させる儀式でもあった。
1920年代に労働運動が厳しく弾圧され、1921年に500万人だった組合員数は1933年に300万人以下になった。しかし、大恐慌のもとで回顧反対運動やストライキを闘い、反撃体制に入った。そして、ニューディール政策のもとで、労働者の団結権と労働組合の団体交渉権が認められると、労働者は大挙して労働組合に入った。
 CIOには黒人や女性を受け入れる組合が多く、1938年には、AFLよりも多い370万人を組織していた。CIOの運動には、当時、勢力を拡大しつつあった共産党が参加し、彼らの戦闘的反人種主義は黒人労働者をひきつけ、CIOの中に反人種差別的政策をもちこんだ。
 第二次大戦中、100万人の黒人が軍隊に入り、海兵隊や沿岸警備隊にも黒人は配置された。黒人にとって、軍隊での生活の法が一般社会での生活よりもましだった。衣食住を確保したうえ、技術や知識も獲得できた。そのうえ、賃金も定期的に支給された。多くの黒人にとって、人生初めての安定した生活だった。
 黒人新聞は、黒人兵に対する不当な取り扱いを曝露し、糾弾した。軍隊での職業訓練や教育、そして戦闘経験を通じて、黒人はかつてなく誇り高くなった。
アメリカの「監獄通過人口」は年間1000万人。監獄内での暴力的支配関係の形成があり、ギャング組織メンバーを増やして一般社会に流出している。監獄内で暴力化することにより、再び監獄に戻る率が高まっている。
 人口に応じて割り当てられる国からの補助金について囚人には選挙権がないので、白人が人口に不釣りあいに大きな代表権を得る。そして、彼らは、厳罰化を主張する候補に投票し、厳罰主義が政治の世界で大きな影響力をもつようになる。
 カリフォルニア州では、刑務所予算が州立大学予算を上回って久しい。
 大量収監は、「社会を安全にする」というよりは、家庭崩壊を推進し、社会を腐朽させ、貧しい人々から政治的発言権を奪い、貧しい地域を一生さびれさせ、社会をより危険にさせている。しかし、政治家がこの問題に立ち向かうにはあまりに危険であり、政治的な展望もない。
 アメリカにおける黒人の苦しく厳しい課題の一端を知ることができました。
(2013年3月刊。820円+税)

日本企業は何で食っていくのか

カテゴリー:社会

著者  伊丹 敬之 、 出版  日経プレミアシリーズ新書
2011年、日本の産業に激変が起きた。世界に冠たる日本の産業だと思われていたエレクトロニクス産業で、パナソニック、ソニー、シャープの3社が信じがたいほどの巨額の赤字を出し、総崩れした。その原因はアメリカのリーマンショックでも、3.11東日本大震災でもなく、日本企業の競争力の崩壊にあった。
 2012年春に、このエレクトロニクス2社の赤字の合計は1兆6050億円。前例のない巨額の赤字だった。この3社だけでなく、日立製作所や日本電気なども、サムスンなどの韓国企業との競争に次々に敗れてきた。
 リーマンショックのインパクトは、震源地であるアメリカよりも、かえって日本に大きかった。いや、世界の主要国のなかで、日本がもっとも大きな打撃を受けた。リーマンショックのあと、日本の生産水準は絶不調だった。それでも円高になったのは、アメリカのドルも欧州のユーロも、リーマンショックのせいで弱い通貨になってしまったから。金融面では、そのショックの小さかった日本円に「避難通貨」として国際的なマネーが回ってきた。それだけのこと。
 2011年の日本政府債務残高は、GDPの2.3倍という巨大さである。あのギリシャはそれでもGDPの1.7倍でしかないので、日本の政府赤字がいかに巨大化が分かる。
 日本円は、数年間の大きな通貨上昇のあと、しばらく通貨下落が続くという、上昇下降の繰り返しを経験している。日本の企業は実によくがんばってきた。
 2000年から2011年までに、日本の輸出は14兆円ふえた。そのうち、中国向けの輸出増加額10兆円。全体の輸出増加分に占める割合は実に73%に達する。
 日本の輸出先として、中国がアメリカを抜いたのは2007年。わずかな差だった。しかし、翌2008年には、はっきりと中国がアメリカを抜いた。
 シニア向け産業は、日本企業が世界に先駆けて技術や商品の蓄積がある。アジア諸国の高齢化が急速にすすむなかで、日本企業が進出する余地がある。
 水も、漏水率でも水の清浄度でも、日本の水道はきわめて高い水準にある。コストを除けば、日本の社会インフラは世界一のレベルである。
21世紀に入って、日本から韓国への輸出は、増加の一途をたどり、その結果として、対韓国の日本の貿易黒字も増加してきた。2000年に1兆円だった対韓国黒字は、10年には3兆円弱にまで膨らんだ。
日本の古紙輸出の76%が中国向けで、量にして336万トン、中国の古紙輸入量の2割を占めている。
 2001年の日経現地法人の従業員数は全世界で320万人。2010年には、500万人となった。国として、もっとも増えたのは在中国の現地法人で、この10年間に66万人から160万人になっている。中国での日系企業の雇用は、11年で1000万人をこす。
この10年に、日経の現地法人は3300以上も増え、一つの国の日系法人の数は世界最大。また、売りあげも23兆円も増えて、中国国内向けの売り上げの増加をはかっている。
もはや、中国は日本企業の生産基地というより、市場として本格的に攻めるための事業基地だ。
 中国経済は、貿易や投資の総量の数字以上に日本の産業に大きく依存している。
 日本から中国への輸出は部品や素材であって、中国から日本への輸入は衣類が圧倒的に多い。中国は、日本から部品や素材を輸入し、それを加工、組立てしてアメリカやヨーロッパ、日本などに輸出している。
 日本が中国と「戦争」するなんて、ありえないのに一部の「タカ派」が不用意にあおりたてています。困ったことです。
(2013年6月刊。890円+税)

ボケたって、いいじゃない

カテゴリー:人間

著者   関口 祐加 、 出版  飛鳥新社
とても新鮮で、かつ、ショッキングな本でした。
 まず第一に、アルツハイマーになった実母の病態を実の娘が映像で記録して、映画館で上映される映画として完成させたということです。これって、本当にすごいことですよね。日頃から、親子のあいだで一定の距離感覚がなければ、とても考えつかないし、実行できなかったことでしょうね。
 第二に、自分のことが映画になったことを知ったアルツハイマーの母親の反応が衝撃的です。母親が何と言ったと思いますか・・・?
 「テレビに出ていたって、あんた、有名なの?」
 「なんか、わたすも一緒に出ているらしいんだよ」
 「へえ、ま、せいぜいあたすのネタで稼いでちょうだい」
 娘が自分のボケをネタに映画をとっていて、それで有名になってお金を稼いでいるのをアルツハイマーの母親が理解して、それを許し、娘とともに笑うのです。これって、すごいことですよね。とても信じられません。
 第三に、アルツハイマー病にかかるとは、どういうことかを知りました。
アルツハイマー病になると、その人の脳の働きが全部ダメになってしまうと思われがち。しかし、初期から中等度では、脳の働きが悪くなっているのは5%以下だけ。物忘れや判断など、ほんの一部だけ。残りの95%以上は正常な脳の働きができる。そこで喜んだり、戸惑ったり、怒ったりする。そこを忘れてしまうと正しいアプローチはできない。
 なーるほど、これは目からウロコが落ちた気がしました。
 アルツハイマーの初期は、本人もいったい何が起こっているのかが分からず、怖がっているのがヒシヒシと伝わってくる。一番怖いのは、本人なんだ・・・。自分が忘れてしまっていること、分からなくなってしまっていることは、本人も家族も認めたくない。認めるのが怖い。できないことを知られたくない。分からなくなることが怖いという思いが、外出から遠のかせている。
 一見すると明るい感じというのは、典型的なアルツハイマーの所見だ。そして、数字に強い。計算問題はできることが多い。
 そして、いままで抑えられていた喜怒哀楽が、認知症によってストレートに出るようになる。しつこくふつふつと胸の中でくすぶって消えなかった火種が、ついに発火した。ようやく認知症の力を借りて表に出てきた。本当は、母親は料理も商売も風呂も嫌いだった。ガリ勉で友だちもいなかった。そんな自分を押し殺して、隠して、一生けん命に生きてきた。それは認知症によって解放され、いいたいことを言い、やりたいことしかやらなくなった。
「うっせえなー!」は自由人になれた証拠なのである。
介護をしている人に一番必要なのは、精神の健全だと考える。たとえば、自分の好きな仕事や趣味を続けているとか、自分の時間をもつことがとても大切だ。そして、何よりも感受性を磨くこと、みずみずしい感受性と好奇心を保つこと。
 老化現象とは、イマジネーションがなくなっていくこと。
 すばらしい本です。あなたに一読を強くおすすめします。読んで損することは絶対にありません。だって、あなたも私も、いつかは到来する可能性のある身なのですから・・・。
(2013年6月刊。1333円+税)

宇幕屋のニホンゴ渡世奮闘記

カテゴリー:社会

著者   太田 直子、 出版  岩波書店
映画大好き人間として、洋画は吹き替え版ではなくて、当然に原語版、字幕付きをみたいです。ガイジンがスクリーン上で日本語を話すなんて、まるで興ざめです。
フランス語を長く勉強している身としてなるべきフランス映画をみるように努めています。フランス語を耳で聞いて、字幕を読んで、ああそういう意味だったのかとか、こう訳すのかと感心しながらみています。字幕が邪魔だと感じたことはほとんどありません。ところが、映画の字幕には、とんでもない制約があるのですね。
字幕翻訳者は基本的にフリーランス。ほとんどが自営業。映画翻訳家協の会員は、たったの20人。
 うへーっ、こ、これは少ない、少なすぎますね。
 いま字幕を家業にしている人たちは、子どものころから映画が大好きで、英語も得意で、大学の英文科などでしっかり英語力を身につけた人が多い。もちろん例外もある。著者は、映画はろくにみなかったし、英語も苦手だった。
ええっ、そんなんでよくも字幕屋になれましたね・・・。
 字幕のプロのこだわり。それは、観客が知らず識らずのうちに内容を把握して心地よく鑑賞できるようにすること。それには、字幕のリズムが大切。つまり、タイミングだ。読んでいて心地よい。字幕を読んでいることを意識せずに作品世界に入っていける。
 字幕の制限字数の目安は、1秒を4文字とする。これは、人が1秒間に読みとれる字数の目安が4文字ということ。ひとつの字幕は、横書きでは1行13文字。最大2行。つまり、多くても26文字しか出せない。字幕は、長くても6~7秒ほどで切り替えていかなければならない。
 役者の呼吸にあわせて字幕を出していくと、耳と目が脳内で連動して心地よい。字幕は出方のタイミングが重要。そして、日本の字幕は世界一と言われている。
字幕に句読点は使わない。日本でも最近は吹き替えが増えている。字幕を読むのは面倒くさいという観客が増えたから。
字幕屋の苦労が実感をもってしのばれる本になっています。ともかく、字幕はなくなってほしくありません。
(2013年4月刊。1700円+税)

「坂本龍馬」の誕生

カテゴリー:日本史(明治)

著者   知野 文哉、 出版  人文書院
維新の会の「なんとか八策」のもととなった「船中八策」が、実は後世のものであったというショッキングなことが書かれた本です。今や代表の連発する非常識な暴言によって、すっかり落ち目の維新の会ですが、まだまだしがみついている人も多いようです。この本を読んだら、きっと目がさめることでしょう・・・。
 司馬遼太郎が坂本龍馬について本を書くまで、つまり昭和38年頃までは、龍馬を「りょうま」というルビをふらないと 読めない人が多かった。それほど世間には知られていなかったということだ。
 「船中八策」は、慶応3年に坂本龍馬が書いた(書かせた)ものではない。いわゆる「船中八策」には、龍馬自筆本はもちろん、長岡兼吉の自筆本も、長岡本を直接写したという保証のある写本も存在しない。
 また、同時代の後藤、西郷、木戸が「船中八策」を見たという記録もない。
 「船中八策」という名称が初めて登場するのは、坂本龍馬遭難50回忌にあたる大正5年(1916年)の講演会でのこと。そして、昭和4年に、「船中八策」が確定した。
 「船中八策」の用語のなかには慶応3年の時点で一般的に通用していなかったと思われる漢語がいくつかある。たとえば「議員」。これは明治初期に使われはじめた新しいコトバ。
この本によると、龍馬がおりようと二人で新婚旅行として霧島に登ったのも史実ではないとのこと。なーんだ、と思いました。出来すぎた話だと思ってきましたので、ナゾが一つ解けた気がしました。
龍馬暗殺が誰だったのか、明治3年9月の時点では正式に「落着」していた。見廻り組の今井らによる犯行だったというのは広く知れわたっていた。
 「船中八策」はなかった。龍馬は西郷隆盛を一喝していない。龍馬は新政府に入るつもりだった。こんな話が盛りたくさんに出てくる興味津々の本でした。
(2013年2月刊。2600円+税)

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