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ノモンハン1939

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  スチュアート・D・ゴールドマン 、 出版  みすず書房
 アメリカの学者がノモンハン事件を徹底的に分析・検証した本です。
 1939年5月から9月まで、戦闘が断続的に続いた。
 この紛争は単なる国境衝突事件ではない。10万人もの人が、また1000もの装甲車両と軍用機が4ヵ月のあいだ激烈な戦闘に投入された。死傷者は4万人にのぼる。宣戦布告なき小戦争だった。
 日本軍は、攻撃機が200機、陸軍唯一の独立戦車旅団も出動した。
 ノモンハンでの戦いが頂点に達したとき(1939年8月)、ヒトラーとスターリンは独ソ不可侵条約を締結した。だから、スターリンは、ノモンハンで日本に対して断固たる措置をとることができた。
 満州事変のあと、日本の陸軍内では、「関東軍」は中央の命令を無視する部隊として定着した。
満州における日本の軍事作戦は1931年秋から翌年春まで続いたが、極東地域におけるソ連の軍事的弱点を知っていたスターリンは、厳正中立の政策をとった。ソ連が軍事介入しなかったばかりか、国境線沿いで示威活動することもなかった。
 1937年時点で、ソ連赤軍は順風満帆とはとても言えない状況にあった。その2年前に始まったスターリンの大粛清が規模と激しさを増し、軍に波及していた。赤軍の首脳部がほとんど粛清され、消えていった。
 1937年6月の時点で、日本の陸軍は、司令官レベルの処刑は赤軍の統制を乱し、日本にとって赤軍はもはや恐れるに足りない存在だと結論づけた。
 1936年11月に、日本はドイツと防共協定を結んでいた。
 1939年3月、ドイツ軍がチェコスロヴァキアに侵攻した。
 1938年6月、ソ連のリュシコフ少将が日本に亡命した。
 1938年の張鼓峰の戦いでソ連軍に敗北したことによって帝国陸軍の名誉と威信は大いに傷ついた。関東軍は、屈辱感を味わった。
 砲や戦車、飛行機といった物質面で質量ともにソ連が優位に立っていることが明らかになったにもかかわらず、日本軍の首脳は、この点をまったく顧みなかった。
関東軍の小松原中将は当時52歳。帝国陸軍きってのロシア通だったが、戦闘を経験したことはなかった。かつて、ハルビンで特務機関長をつとめていた。
 辻政信少佐(関東軍作戦課)は、奇矯な人種差別者で、獣性をむき出しにして蛮行に及ぶことがあった。辻少佐のつくった「満ソ国境紛争処理要綱」は、問題を解決するより、むしろ紛争をひきおこすためにつくられたようなものだった。
 関東軍を抑え込むためには、軍司令部の人員を大幅に異動させるという強硬な措置が必要だった。だが、ときの参謀本部には、あえて波風を立てるようなことを考える者は誰もいなかった。関東軍は野放しにされ、独断にもとづく行動を許されたも同然だった。
 日本軍の過剰な自信は、日本軍の情報活動の不満の結果でもあり、原因もある。ソ連の戦力を関東軍が過小評価し続けたのは、彼らの慢心に帰することができる。
 陸軍大臣の板垣中将は顔見知りの辻少佐を擁護した。
 1939年に満州国にあった自動車のうち、関東軍がつかえたのは800台。これに対してソ連は420台以上の自動車を動員し、兵站業務をすすめていた。
 ノモンハンでは、飛行機とパイロットの数において、ソ連が2対1で日本に優位に立っていた。ノモンハン事件で日本軍の死傷者は2万3000人。これに対して、ソ連は2万6000人。
 しかし、赤軍の力がはっきり実証され、関東軍が無残な敗北を喫した事実は否定しようがない。関東軍はソ連に対する全面戦争を決断した。しかし、陸軍中央はそれを許さず、大々的な人事異動を行った。こうして関東軍司令部の中枢グループは崩壊した。ところが、別の場所で息を吹き返した。
 ノモンハン事件で関東軍の味わった苦い経験は、深い刻印を残し、それが北進から南進への日本の方針転換への主な要因となった。
 ノモンハン事件の責任者が太平洋戦争の有力な開戦論者になった。服部卓四郎中佐と辻政信少佐である。この二人は参謀本部作戦課の中枢にポストを得た。
 1939年に起きたノモンハン事件が、日本とヨーロッパに大いなる影響をもたらした大事件だったことがよく分かる本です。
(2013年12月刊。3800円+税)
 私の住む団地の桜が満開となりました。熊本城の桜は8分咲きでした。週末がちょうど見頃になりますね。
 ハクモクレンそしてシモクレンも、あちこち満開です。我が家の庭のチューリップもに日に日に花が増えています。春は、いいですね。なんだか浮き浮きしてきます。

ショック・ドリクトン(下)

カテゴリー:アメリカ

著者  ナオミ・クライン 、 出版  岩波書店
 ロシアに対しては、衝撃は大きすぎ、治療は不十分というのが、ショック療法についての大方の見方だった。西側諸国は、苦痛にみちた「改革」を容赦なくロシアに要求しながらも、その見返りとしてはあまりに貧弱な額の援助しか与えなかった。
 世界で共産主義が脅威だったときには、ケインズ主義によって生きのびるのが暗黙のルールだった。しかし、共産主義システムが崩壊すると、ケインズ主義的な折衷政策が一掃され、フリードマンの自由放任主義がやってきた。
 フリードマンは、すべてを市場にまかせるべきで、いかなる救済措置にも反対すると述べた。弱者は溺れるがままに放っておけという、金持ち視点の冷酷な見方を公然と述べたのです。いやなやつですね。自分と大金持ちさえよければいいなんて、そんなの学問と呼ぶに値しませんよ。
 IMFは、アジアの人々を失望させても、ウォール街を失望させることはなかった。10年たってもアジア危機は収束しなかった。わずか2年間で2400万人が職を失い、新たな絶望が根を張り、どの社会においても問題の収拾に苦労している。絶望は、その土地土地で違う形をとってあらわれる。インドネシアではイスラム過激派が台頭し、タイでは児童売春が激増した。
 ブッシュ政権の国防長官に就任したラムズフェルドは、戦争を物理的なものから心理的なものへと、肉体を駆使する戦闘から派手な見世物へ、そして、今までよりはるかにもうかるものへ変えていった。しかし、ペンタゴンの幹部たちは、ラムズフェルドの「軍隊空洞化」構想に強い敵意を抱いた。国防省の人件費をできるだけ削減し、膨大な公的資金を民間企業に直接送り込もうとした。つまり、ラムズフェルドは米軍に「市場理論」を適用しようとした。
 ラムズフェルドの子分だったディック・チェイニーも、現役部隊の規模を縮小し、民間委託契約を大幅に増やした。戦争を収益性の高いサービス経済の一部にしてもいいのではないか。にっこり笑って、軍事侵略を、というわけである。
 9.11のあと、表向きはテロリズムとの戦いを目標にかかげつつ、その実態は、惨事便乗型資本主義複合体、すなわち国土安全保障と戦争および災害復興事業の民営化を担う、本格的なニューエコノミーの構築にほかならなかった。
 ブッシュ政権になってから、国防総省の民間企業への委託契約金は、1370億ドル増の年2700億ドルになった。米諜報機関から情報活動の外注費として民間企業に支払われた金額も、1995年に比べて2倍以上の年間420億ドルになった。
 今や、セキュリティー産業とは、抑制のない警察権と抑制のない資本主義が、いわば秘密刑務所とショッピングモールが結び突くように合体した前代未聞の産業なのである。
 アメリカが支配したイラクにおいて、経済的ショック療法として、国家を大幅に縮小し、その資産を民営化することが実行された。略奪行為も、その一環となった。
 イラクでの「大失敗」は、歯止めのないシカゴ学派のイデオロギーを入念かつ忠実に適用しようとしたことによって起きたもの。これは資本主義が引き起こした惨事であり、戦争によって解き放たれて際限のない強欲の生み出した悪夢にほかならない。
 自由放任主義の原則をこれほど大規模な政権事業に適用した結果は、悲惨な失敗だった。アメリカの大手企業は、3年半後にすべて撤退した。何十億ドルというお金が費やされたにもかかわらず、膨大な仕事の大半は手つかずのままだった。イラクの混迷で、最大の利益を得たのは、ハリバートンだった。
政治家や企業人など、エリート層の多くが地球環境の変動に楽観的なのは、自分たちはお金の力で最悪の状況から脱出できると思っているからだ。自分たちだけは、プライベートヘリコプターによって空中に引き上げられ、聖なる安全圏に逃げ込めるというわけだ。
 アメリカ初のとんでもない「経済学説」が世界中を荒らしまわっていることがよく分かる本です。そして、日本でも、同じことが起きています。TPPも、その一つですよね。大変な力作です。
(2013年4月刊。2500円+税)

マンション再生

カテゴリー:社会

著者  増永 理彦 、 出版  クリエイツかもがわ
 私は幸いにして庭付きの一戸建てに住んでいます。これまで、マンションに住んだことはありません。
 弁護士として、隣人とか、上や下の階の住人とのトラブルの相談を受けたことが何回もありましたので、マンション生活って、案外、大変なんだなと思っています。そして、マンションの管理組合の運営も大変そうです。
 この本は、老朽化したマンションを建て直すのか、修理・修繕でなんとかなるのかという切実な問題を扱っていて、とても実践的な、役に立つ本だと思いました。
 著者自身が私と同じ団塊世代なのですが、団塊世代は、もっとマンション再生のためにがんばるべきだと、強いエールを送っています。
 日本のマンションは590万戸、居住者は1450万人(2012年末)。全国の住宅総戸数と総人口の10%をこえる。とりわけ、東京・大阪ではマンションは住宅戸数の過半数を占めている。
 公共・民間の賃貸集合住宅までふくめると、全国の低・中・高層の集合住宅は2000万戸をこえ、4000万人以上の人が集合住宅に居住している。建設後30年以上の年月を経たマンションを「高経年マンション」と呼ぶ。全国に100万戸ある。
 マンション再生の一つとしての建て替えは、全国で129件、1万戸程度でしかない。これから、建設後30年をこえる高経年マンションは、毎年10万戸以上ずつ増えていく。
 15階以上ある超高層マンションは1980年代以降、急増している。2001年からは、年間3万戸以上が供給されている。日本のマンションの平均床面積は70㎡ほど。1970年ころまでは40~60㎡。1990年ころに60~80㎡、2000年には70~90㎡と拡大傾向にある。
 マンションにおける居住者の高齢化がすすんでいる。65歳代以上が25%、31%、39%と増えている。高経年マンションの居住者の半分が65歳以上である。マンションに永住したいという人が着実に増加しており、半分ほどになっている。
 もはや建て替え一辺倒ではなく、リニューアルを中心とする再生へ舵(かじ)を切らなければならない時代になっている。
 鉄筋コンクリート造(RC造)について、建築学会は、一般論としてRC造集合住宅の総合的耐久性について、大規模補修の不要期間を65~100年としている。100年もつのでしょうか・・・。
リニューアルだと、同じマンションに住み続けることができる。
 老後に、慣れない土地で、友だちもいないというのでは、寂しいですよね。
マンションの自治がどれだけ機能しているのかを見きわめるためには、自転車置き場の整理整頓状態をみるとよい。その状態を見れば、マンション居住者のマンションへの思いやりや、関わり具合が判明する。
 マンションを建て替えではなく、リニューアルによって、みんなで住み続けられるようにするためには、日頃の管理組合の運営や自治会のつきあいが大切のようです。
 とても参考になりました。
(2013年10月刊。1600円+税)

小椋佳・生前葬コンサート

カテゴリー:人間

著者  小椋 佳 、 出版  朝日新聞出版
 小椋(おぐら)佳(けい)の歌は、心に沁みるものが多いですよね。
 この本には、歌詞がたくさん紹介されています。私の聞いたことのないものがほとんどです。本名は、神田こうじですが、小椋というのは、大学時代に訪れた学生村の所在地の名前です。
 学生村と言えば、私は、長野県の戸狩(とがり)村に一夏(ひとなつ)過ごしました。そこで司法試験の勉強を本格的にはじめたのです。長野の暑さを、たっぷり体験しました。
 「シクラメンのかほり」は有名ですが、著者の奥さんは幼ななじみで、名前は「かほり」さん。佳は、その「かほり」さんの一字をとったのでした。
26年間の銀行員生活を50歳になる直前にやめて、大学に入り直して哲学を勉強したというのです。すごいことですよね。ただ、二度目の大学生活のとき、毎日、昼に喫茶店でカレーライスを食べていたというのには、ちょっと残念な思いがしました。やっぱり、昼食だって、いろいろ変えて楽しんでほしいものですから・・・。
先日亡くなったセゾングループの総師であり、詩人兼作家だった堤清二氏と親交があったというのには驚きました。モノカキ同志として美食をとりながら、途中からは美女も混じえて。さぞかし話ははずんだことでしょうね。本当にうらやましい限りです。
 70歳になったのを記念して、なんと「生前葬コンサート」を企画し、そのための本を出版したという発想もすごいですよね・・・。
著者は、幼いころ、可愛い子だと言われたことがない。よほど、おかしな顔をしていたのでしょう。今では、愛敬たっぷりの、個性的な顔といえるのですが・・・。それでも、祖母は、「この子はいい顔をしている。絶対に食うに困らない顔だ」と、ほめていたとのこと。見る目があったのですね。
 実際、この70年間、著者は食うに困るどころか、その心配したことが一度もない。食うことに神経を使うことすらなく、幸運なめぐりあわせで過ごしてきている。
 小学校低学年のとき、著者は信じられないことに、劣等生だった。目立たず、人にほめられることが何ひとつなかった。ところが、ある日、女の先生から、「きみ、お歌、とっても上手ね」とほめられたのだった。この一言が、その後の人生を決定づけた。
 私も、中学生のとき、国語の先生(女性)から、あなたの文章は良く出来ているわよ、とほめられ、その一言で、文章に変な自信がついたのでした。
お金がない、お金の苦労と言えば、弁護士の卵(司法修習生)のとき、新婚旅行の途中でお金がなくなり、同じクラスの友人のアパートにころがり込んで借金し、旅を続けたことがあります。お金をもたずに旅行するなんて若くなければ出来ないことですよね。今は、いつも少しだけ余計に財布にお金を入れています。もう、変なことは出来ません。
 著者は57歳のとき、胃がんの手術を受け、胃の4分の3を切り取りました。ところが、その結果、糖尿病が完治してしまったというのです。おかげで元気に長生きできているのです。人生、何が幸いするのか、分かりませんね。
著者の長男が2歳になったとき、『ほんの二つで死んでゆく』というLPアルバムをつくった。この歌は、私も好きな歌です。
著者は、中学生になってからは優等生になって、夜まで勉強していました。すると、母親が、いきなり戸を開けて、「お止め。よしな、勉強なんてしていると、頭がおかしくなるから、よしな。早く寝な!」と言った。
 ええーっ、うそでしょ、と、叫びたくなります。
 なかなか「発展家」の母親だったようです。なにしろ、著者が40歳のとき、母親の生んだ子(いわゆる私生児)が別にいるのが分かったというのですから・・・。
 著者は東大法学部出身で、法曹を目ざしたことにもあるそうです。大学ではボート部での生活に明け暮れていたとのこと。私はセツルメント活動一筋でした。授業も真面目に出ず、川崎市内をうろうろしていました。本だけは、いろいろ読んでいましたので、司法試験には早く合格できたのです・・・。
 著者の生涯について、なんと、「挑み」と「挫折」の連鎖だったと本人が語っているのには驚きました。私とちがって成功の連鎖とばかり思っていました。だって、毎年50曲もの歌をつくりつづけ、総計200曲もつくったのですよ。そして、毎年、50回から100回ものステージ公演を全国各地で敢行しているのです。そのタフネスぶりには圧倒されますよね。そんな著者にも、「挫折」があったというのです。人生とは、こんなにも複雑怪奇なのですね・・・。
(2013年11月刊。2381円+税)

米国特派員が撮った日露戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者  「コリアーズ」 、 出版  草思社
 アメリカのニュース週刊誌『コリアーズ』が特派員を派遣して、日露戦争の現場でとった写真集です。
 8人の従軍記者、カメラマンを派遣したとのこと。なるほど、よく撮れています。
日本は開戦にそなえて万全の準備を備えていた。その用意周到ぶりは、各国の従軍記者や観戦武官たちを驚倒させ、ロシアとの違いを際立たせた。表面的には平和を維持しながら、実際には何ヶ月もかけて、開戦に向けて準備していた。
「朝鮮半島に出征する日本軍部隊」という説明のついた一連の写真があります。東京から列車に乗り込む若い兵士たちがうっています。その大半が戦病死したのでしょう・・・。
 同じように、ロシア皇帝がニコライ2世が歩兵連隊を閲兵する写真もあります。
 仁川(じんせん)沖海戦では、ロシアの巡洋艦「ワリァーク」と砲艦「コレーツ」が降伏を拒否し自沈します。あとで、ロシアは生きて帰国した兵士たちを大歓迎しています。
日本軍の仁川上陸の状況をうつした写真もあります。仁川に上陸した日本軍は、すぐに平壌へ向けて進軍を開始した。1日25~40キロの早さで朝鮮半島を北進した。途中、韓国人による抵抗はなかった。侵略者をただ呆然と眺めるのみだった。
 日本軍の弱点は駐兵部隊だというのが観測者たちの共通の意見だった。
日本の軍馬は小柄で、騎兵は乗馬が得意ではない。ロシア軍騎兵の優秀さは、日本軍騎兵をはるかに上まわっていた。騎兵の大半はコサックから徴用されているか、持って生まれた気質、日頃の訓練から斥候騎兵という仕事にうってつけだった。
戦闘の間合いに、日本赤十字社の活動を視察するため、イギリス王室から二人の女性が派遣されたときの写真があります。
 また、鴨緑江渡河作戦について、外国の観戦武官に日本軍の少佐が説明している状況を写した写真があります。信じられない、のどかな光景です。
 遼陽の大海戦は5日間続いた。日露両軍あわせて40万から50万。両軍の死傷者は3万人。ロシア軍は退去を余儀なくされた。
日本軍の大本営写真班による『日露戦争写真集』(新人物往来社)とあわせてみると、日露戦争の戦況がよく分かります。
(2005年5月刊。2800円+税)

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