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ホロコースト・全証言

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  グイド・クノップ 、 出版  原書房
 ドイツのテレビで、ドキュメンタリー番組として放映されたものが本になっています。2000年に放映されました。
はじめに人間狩りがあった。
1941年、ヒトラーがソ連へ侵攻したとき、ナチスの「特別行動隊」3000人の人殺し部隊は、第一の目標がユダヤ=ボルシェヴィキ知識人の完全な根絶だった。
アウシュヴィッツは、何度も連合軍に写真撮影されていたが、決して爆撃を受けることはなかった。なぜなのか・・・。アメリカも、イギリスも、爆撃しなかったことについて、嘘をついた。
1945年春にドイツ国内の強制収容所で連合軍が解放した生存者は5万人にもみたなかった。
ヒトラーのホロコーストを実行したのは、大勢の小さなヒトラーだった。彼らは、やむをえず、命令に従っただけだと言い訳をした。こんな数十万人もの自発的執行者がいた。彼らの多くは精神病質者ではなく、どこにでもいる、ごくフツーの男たちだった。
人間と被人間を分ける壁はいかにも薄い。人間は、同胞の殺戮にも平気で向かう。
そして、数百万人の人間が、この大量虐殺を傍観し、また目を背けていた。数百万の人々がもうこれ以上知りたくないと思うほど、十分に知っていた。
ホロコースト(大虐殺)の推進力はヒトラーだった。ヒトラー、ハイドリヒ、ゲーリングなど、ヒトラーの死刑執行人たちは、自分のなすべき仕事をヒトラーから口頭で伝えられた。それは、明確な命令であったり、暗示であったり、あるいは同意を示すうなずきであったりした。
ホロコーストの責任がヒトラー自身にあること、それを立証する文書が存在してはならなかった。ヒトラーがユダヤ人の銃殺を目のあたりにしたことは、一度もない。抹殺者ヒトラーに進んで手を貸した加害者は数多くいたが、その頂点に君臨したのが、ハインリヒとヒトラーだった。
1941年7月、ヒトラーとドイツ国防軍は対ソ戦の勝利を確信した。
 1941年8月、ゆるぎない勝利の確信は消え失せていた。
 10月になると、スターリンを打倒するという野心的目標は、もはや実現不能と見えた。
 12月、戦況に不満を抱くヒトラーは、みずから陸軍総司令官に就任した。
 1942年春、ヒトラーが「決着」と呼んだものが始まった。ゲットーに住むユダヤ人の虐殺が開始した。
 孤立をさせること。これこそ、ゲットーを建設した根本的な動機である。外界との個人的な接触は、一夜にして切断された。ワルシャワ・ゲットーに捕らわれた数十万人の人々は、1日に8000人から1万人が犠牲となった。
 これほどのユダヤ人絶滅は、当時の外にいる人々の想像力をはるかに超えていた。要するに、現実があまりにひどすぎて、聞いた人々は信じられなかったということです。
 「きみたちは、サナトリウムに来たのではない。ここは、ドイツの強制収容所だ。ここからの出口は、たった一つ。煙突だ。それが気に入らなければ、今すぐ、高圧電線に身を投げるがいい。移送されてきたのがユダヤ人なら、2週間以上、生きる権利はない。聖職者なら1ヵ月。あとの者は3ヵ月だ」
 強制収容所でも、ユダヤ人による抵抗の戦いがあったことを知ると、なんだか救われた気持ちになります。ナチス・ドイツに、やすやすと殺させるユダヤ人ばかりではなかったということです。
 アンネ・フランクの幸せだったころの写真があります。たくさんの写真がヒトラーとナチスの残虐さを紹介してくれます。読みたくないし、見たくありませんが、決して目を背けてはいけない事実と写真が満載の本でした。
(2014年2月刊。3400円+税)

小説で読む憲法改正

カテゴリー:司法

著者  木山 泰嗣 、 出版  法学書院
 主人公は17歳の男子、高校2年生です。楽しく読める。気軽に読める。主人公に感情移入して読める。そんな物語を通じて、憲法改正について、最低限の知識が身につく。そんな本です。
 高校生に憲法改正問題を考えてもらうというのは、とても大切なことです。だって、自民党の改憲草案にある「国防軍」が現実のものとなったとき、真っ先にそのターゲットになるからです。伊藤真弁護士も、同じように高校生を主人公とした憲法読本(小説)を書いています。
 豊富な若者コトバを駆使しているので、取材が大変だったでしょうと声をかけたところ、「そうなんですよ」という答えが返ってきました。といっても、憲法講義などで、若い受講生と接する機会はふんだんにあるのでしょうが・・・。
 本書の著者は、たくさんの本を書いていますが、私も、そのいくつかは読んでいます。いつも、感嘆したり、共感して読んでいます。まだ40歳の著者ですから、今後の活躍がますます楽しみです。
 主要な舞台は高校の図書室です。勉強好きではなかった彼が、ほのかな恋心を募らせる彼女と話すために、憲法について一生けん命に勉強するのです。その努力のいじらしさに気がとられ、憲法の前文や条文が丸ごと紹介されても、ちっとも苦になりません。
 戦後まもなく、日本政府はポツダム宣言を受諾して戦争を終結させたことを忘れたかのように、憲法改正の4原則をつくった。その第一が、天皇主権の確認。これでは、占領軍が認められるはずもありません。そこで、マッカーサー三原則が示された。①天皇が最上位であること、②戦争の放棄、③封建制度の廃止。
 GHQは10日足らずで憲法改正案をつくり、2月13日に日本政府に手渡した。そしてそれを受けて日本側で改正案をつくり、帝国議会に提出し、審議された。
 日本国憲法は、占領軍による押し付け憲法だ。そんな憲法は国際法のルールを無視するものだから無効だ。
 つい先日、NHKの経営委員になった長谷川美千子氏が同じことを鹿児島で話したようです。でも、70年間近くも変わらなかったということは、それだけ国民に定着していることの証(あかし)ではありませんか。
 憲法の究極の目的は人権保障にある。だから、日本国憲法13条が一番重要だ。
 知る権利、プライバシー権、報道の自由、取材の自由、自己決定権。そして、環境権。これらの権利は、基本的に憲法で保障された人権だと解されている。
自衛隊は、あくまで軍隊ではない。軍には自治が認められるが、自衛隊は自衛隊法にもとづき、必要最小限度の実力行使が認められるにすぎない。
 日本の自衛隊は、専守防衛。つまり、攻撃があって、急迫不正の侵害があって、初めて出動できる。そして、その場合ですら、「必要最小限度」の実力行使しか出来ない。
日本の防衛費は、世界有数のレベルに達しているが、その多くは人件費に投入されている。アメリカが55兆円、中国は10兆円で、日本は6兆円しかない。
 軍人は、北朝鮮は、110万人いて、ロシアは96万人、韓国は64万人いる。
 直接民主制は、ドイツのように危険性もある。直接民主制は、拍手と喝さいで、チャップリン映画のように人々が熱狂し、独裁政権が誕生するリスクもある。
 ぜひとも、本物の高校生に読んでほしいと思ったことでした。
(2014年3月刊。1500円+税)
有楽町の映画館で南アフリカのマンデラ元大統領を主人公とする映画をみました。大きな映画館に、観客はわずか20人ほどでした。平日の夜だったからでしょうか。それとも、マンデラは、もう忘れ去られた存在だということなのでしょうか。
 黒人を人間として扱わない、下等人種と見てきた白人支配に対して、当初は非暴力で、そして、ついには暴力で対抗したマンデラは、結局、逮捕さされて、27年間もの獄中生活を余儀なくされたのでした。27年間って、長いですよね。
弁護士として活動していたマンデラは、裁判でも黒人差別を許さないという成果も上げていたようです。
 そして、初めの奥さんには逃げられてしまいます。活動だけでなく、浮気していたのがバレたのでした。マンデラを美化しすぎないようにという注文が本人からついた映画なのです。ですから、妻、ウィニーとの葛藤も描かれています。
 ウィニーは、迫害されて、過激になり、武力に走ります。裏切り者とみるとリンチにかけてしまうのです。
 暴力が横行するなか、マンデラは、出獄して、テレビで訴えかけるのです。
 「平和はいらない、報復を」と叫ぶのは間違っている。平和しかないというのです。
 暴力の連鎖を絶ち切ろうと呼びかけるマンデラの崇高な叫びに心が震えました。涙より怒り、そして勇気を与えてくれる映画です。

ペンギン

カテゴリー:生物

著者  藤原 幸一 、 出版  講談社
 私は、ペンギンも大好きです。
 ええっ、ペンギンって鳥だったの、しかも大空を飛んでいたの・・・、と思ってしまいました。
 海の中をすいすいと気持ちよさそうに泳ぎ、陸の上で子育てするペンギンを、いつのまにか人間と同じ哺乳類だと勘違いしていたのでした。
 1億年前、ペンギンの祖先は大空を飛ぶ鳥だった。そして7000万年前に、ペンギンの祖先は空を飛ぶのをやめてしまった。空中より水中により長くいて、大好物の魚をとれるように進化したのだ。
 地球にすむペンギン19種のうち、南極を繁殖地とするペンギンは5種類だけ。赤道直下や、人間と共生して街に住む種もいる。森の中にすむペンギンもいる。ただし、北半球には人間が連れてきたもの以外には、いない。
夏はペンギンにとって衣替えの季節。羽毛が抜けかわる。その換羽のあいだは海に入れないので、ペンギンは絶食状態となって、体重も半減してしまう。ええーっ、そうなんですか。犬のようにはいかないのですね。
 ペンギンのオスとメスを見分けるのは、至難の業だ。混ざっていたら、判別不可能。つがいがそろって並んで初めて、オスとメスを判別できる。メスがオスよりひとまわり小さい。
 メスは主としてオキアミを食べ、オスは魚を多く食べる。
 メスは繁殖地から200キロ以上、オスは160キロもの旅をする。
 集団で一糸乱れぬ行動をするペンギンは、捕食者であるアザラシに襲われにくい。
アデリーペンギンにとって巣作りの材料となる小石は、マネー(貨幣)のような価値をもっている。
 小石のほしいメスは、独身オスに売春まがいの行為をして小石を手に入れる。連れあいのオスは、メスが小石を手に入れて帰ってくると大歓迎する。
 見ていて楽しくなるペンギンの写真がどっさりの写真集です。写真を撮る苦労は大変なものがあったことだと思います。ありがとうございました。
(2013年12月刊。2800円+税)

もう一度、天気待ち

カテゴリー:社会

著者  野上 照代 、 出版  草思社
 あの黒澤明監督の下で働いていた著者による大スターたちの生態は興味深いものがあります。
 クロサワがミフネの演技にわずかにしても不満を抱いたのは、おそらく『赤ひげ』が初めてだろう。
 三船敏郎の主演する映像では、なんといっても『七人の侍』ですよね。かなり前ですが、福岡の映画館でリバイバル上陸があったのを見ました。やはり大きなスクリーンで見ると迫力が違います。家庭のテレビ画面とは迫力が違います。仲代達代と三船敏郎が出演する『椿三十郎』にも度肝を抜かれました。血しぶきのすさまじさに圧倒され、声も出ません。
 三船も仲代も、セリフを手書きで書いて、丸暗記していたようです。やっぱり、すごい努力のたまものなのですね・・・。
 しかし、三船と仲代はロケ先で口論し、その後は競演していない。
 三船敏郎の酒乱は有名だった。日頃は、とても気をつかうので、お酒を飲むと、その反動で、爆発したのだった。
 『七人の侍』で撮影現場になったのは、東宝撮影所の前の田圃。今は、団地になっている。雨の合戦にしたのは、西部劇には雨がない。よし、雨で勝負だと黒澤監督が考えたから。撮影したのは2月。田圃には氷が張り、消防車8台を借りて、ホース40本。足もとは、膝まで埋まる泥んこで、馬が暴れるから身動きもできない。三船敏郎は裸同然で寒さに震えて、歯をガチガチいわせていた。
 『七人の侍』には、老人ホームの素人にも登場してもらっているとのこと。映画のお婆さんたちがそうです。
戦後まもなく、ヒロポンが禁止されていなかったころ、撮影現場では、ヒロポンが堂々と注射されていたという話には驚かされます。ヒロポンは、今の覚せい剤みたいなものでしょう。もちろん、今では厳禁です。
ガチンコは、画と音をあわせるための唯一の手がかりだ。画面と録音された音をあわせると、セリフと物音が同時に再現される。
 三船敏郎のように周囲に気を配ってばかりいる人には映画監督はできない。優れた映画監督というのは、たいてい我がままで、他人が何を言おうと気にしない。自分が撮りたい対象をつくるためには、他人の迷惑なんかかえりみないという人なのだ。
 さすが、世界的巨匠であるクロサワ監督の身近にいた人による鋭い観察だけある本でした。
(2014年2月刊。1900円+税)

加藤清正の生涯

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  熊本日日新聞社編 、 出版  熊本日日新聞社
 加藤清正の発給した文書をもとに、加藤清正の実像に迫った本です。意外な人間像に接し、驚きました。
 加藤清正って、最前線の戦場で戦う勇将とばかり思っていました。しかし、実は後方で最前線を支援する智将として秀吉に重用されていたようです。わずか49歳で病死した清正ですが、晩年は茶の湯や連歌をたしなむ文化人でもありました。
加藤清正が10代までの少年期は、秀吉と同じ名古屋市中村区(尾張国愛知郡中村)で過ごしたことは間違いない。しかし、それ以上は不明で、謎に包まれている。
加藤清正は秀吉の下の武将として名をあげていくが、軍事力より物資調達能力や事務処理能力を期待されていたのではないか。加藤主計頭(かずのえかみ)となり、財務担当者となった。清正は、戦よりも、そろばん勘定に長けていた。
大陸進出をもくろむ秀吉にとって九州は重要な軍事拠点だった。佐々成政が肥後国一揆を招いたとして、その失敗から切腹させられ、その後任として清正は4千石から19万5千石の大名へ一気に大出世した。
秀吉の朝鮮出兵で、加藤清正も朝鮮半島に渡った。そして、加藤清正は朝鮮北部まで進出し、そこで、逃げていた朝鮮王子2人を捕縛した。
しかし、1万人いた清正の軍勢は、逃亡が相次ぎ、漢城(ソウル)に撤退した時点では5500人にまで減っていた。
 清正の虎狩りは有名だが、実のところ、朝鮮に在陣していた多くの武将が虎狩りをしていた。それは、秀吉の養生のため、虎の頭、肉と腸を塩漬けにして送るように指示されていたから。当時、虎は不老長寿の薬として重用されていた。要するに、朝鮮での虎狩りは、秀吉の滋養強壮の薬を調達するためのものだった。ところが、虎の捕獲は危険で、人命をなくすことがあったため、秀吉の命令で中止された。
 要するに、清正が勇敢だったから一人、虎狩りをしていたというのではなかったのです。
関ヶ原の戦いの後、清正は家康に忠義を尽くすようになった。そして、キリスト教の禁圧令が出る前から、家臣団についてはキリスト教の信者であることを認めず、改宗に応じないものは家族ともども見せしめのために処刑した。ただし、一般庶民の信仰は認めていた。
 この本には、加藤清正が夢でみた情景をつづった自筆の書状が紹介されています。これは本当に珍しいものですね。その内容は、秀吉が登場してくるものです。そして、清正は僧に祈祷を依頼しているのです。今でも、ありそうな話です。大恩のある秀吉を、その死後に裏切ったという、うしろめたい気分のあらわれではなかったでしょうか・・・。
 今も、清正公(せいしょうこ)と呼んで加藤清正を愛敬する人の多い熊本県民の愛するシンボル的存在を新聞連載で紹介し、一冊の本になっています。たくさんの写真もあって、とても読みやすいブックレットでした。
(2013年12月刊。2000円+税)

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