法律相談センター検索 弁護士検索

検証・法治国家崩壊

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  吉田敏浩・新原昭治・未浪靖司 、 出版  創元社
 タイトルからは何が論じられているのか不明ですが、砂川事件の最高裁判決、つまり田中耕太郎長官がアメリカとの共同謀議で在日米軍を合憲とした司法の汚点が今なお尾を引きずっていることを、その歴史的位置づけを明らかにしつつ暴いた本です。
 アメリカのいいところは、30年たったら秘密文書が公開されるところです。著者たちは、アメリカの公文書館で公開資料を読みあさって、「宝の山」を掘りあてたのでした。
 それにしても、おぞましい最高裁の汚点です。吐き気すら催してしまいます。
 そして、これが55年前の古証文の汚点を暴いたというのに留まらず、現代日本においても、その桎梏が私たちを苦しめているところが問題です。
 まずは、田中耕太郎の犯罪的役割を確認しておきましょう。
 1959年12月16日、日本の最高裁が砂川事件で出した判決は、アメリカ軍の治外法権を認めた。そして、この裁判所は、実は、その最初から最後まで、アメリカ政府の意を受けた駐日大使のシナリオどおりに進行していた。
 田中耕太郎長官は、アメリカからの内政干渉を受け、唯々諾々とアメリカの意向に沿って行動した。日本の最高裁は、憲法の定める司法権独立が侵された大きな歴史の汚点を背負っている。
 米軍駐留は憲法違反だと明快に断じた伊達判決はアメリカにとって大打撃だった。マッカーサー大使は、表向きの記者会見では、「コメントするのは不適切だ」としつつ、裏では素早く日本政府に介入した。
 最高裁への跳躍上告をすすめたのもアメリカだった。
 1959年から1960年にかけて安保条約改定の秘密交渉と砂川事件裁判への政治的工作が、こっそり同時併行で進められていった。それは、日比谷公園に面した帝国ホテルが会場とされた。
 1959年4月、今の天皇が結婚パレードをするころ、田中耕太郎は、マッカーサー大使に最高裁の合議の秘密を全部バラしていた。判決時期、最高裁の内部事情など、裁判の一方当事者と言えるアメリカ政府を代表とするアメリカ大使にすべてを教えていた。
 いやはや、とんだ男が長官でした。呆れはてて、声を失います。
 1959年11月、安保改正の秘密交渉が大詰めを迎えていたころ、マッカーサー大使は、田中耕太郎と再び密談した。その場所までは書かれていないが、アメリカ政府あての報告書に内容が紹介されている。
 「田中最高裁長官との最近の非公式の会談のなかで、砂川事件について短時間はなしあった。長官は、時期はまだ決まっていないが、来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと言った。田中耕太郎長官は、下級審の判決が支持されると思っているという様子は見せなかった。反対に、それはくつがえされるだろうが、重要なのは、15人のうちの出来るだけ多くの裁判官が憲法問題に関わって裁定することだと考えているという印象だった。
 田中長官は、こうした憲法問題に伊達判事が判決するのはまったくの誤りだと述べた」
 マッカーサー大使は、田中の話を聞いて、さぞかし満足し、安心したことだろう。
 同時に、心の中では田中耕太郎を軽蔑したのではないでしょうか・・・。まことに、田中耕太郎とは唾棄すべき存在です。
 憲法の番人と言われる最高裁。その長官で、全国の裁判所・裁判官のトップに立ち、率先して裁判所法そして、評議の秘密を、なにより法律全般を守らなければならない人物、日本の司法の最高責任者ともいうべき人間が、評議の秘密をもらしていた。これこそ「法治国家崩壊」と呼ぶべき大事件ではないのか・・・。私もまことにそのとおりだと思います。
ところが、田中耕太郎は、裁判所内部の訓示では、「裁判の威信を守れ」などと言っていたのでした。典型的な二枚舌です。
 最高裁判決には、きわめて大きな矛盾がある。東京地裁の伊達判決について、「米軍駐留は違憲だ」としたのを、裁判所の司法審査の範囲の逸脱だと非難している。しかし同時に、最高裁みずから「米軍駐留は事実上合憲だ」と判断した。これこそ典型的な矛盾であって、両立しえないところである。
 田中耕太郎は判決後、記者に取り囲まれ、次のように述べた。
 「裁判所は、いかなる意味でも、政治的意図に動かされてのものではない」
 本当に、そらぞらしい嘘を平気で口にしています。聞いているほうが恥ずかしくなります。
砂川事件最高裁判決と日米密約交渉は、戦後日本の進路を対米従属のレールに固定化する役割を果たしたと言える。「安保法体系」という日本の主権を制限する法体系に優越性をももたせ、密約と情報隠蔽の構造で米軍優位の不平等な日米関係を容認したのだ。
 米軍機の騒音公害問題、米軍基地の強制収容の問題など、1959年の最高裁判決が半世紀以上にわたって厚い壁となって住民や地方自治体の前に立ちはだかっている。
 本年(2014年)6月、砂川事件最高判決を失効させるため、東京地裁に免訴を求めて再審請求した。この再審請求を認めてこそ、日本の裁判所には救いがあることになります。却下するようだったら、日本の司法は暗黒そのものに陥ってしまうでしょうね、残念ながら・・・。
 著者の一人である末浪靖司氏より贈呈されましたので、ここにあつく御礼を申しあげます。
 再審が認められ、田中耕太郎という人物を日本人、とりわけ司法関係者は恥ずかしくてその名を口にも出来ないという事態を早く迎えたいものです。
(2014年7月刊。1500円+税)

アルゼンチンアリ

カテゴリー:生物

著者  田付 貞洋 、 出版  東京大学出版会
 アルゼンチンアリとは、聞き慣れないアリですが、日本と無関係のようでいて、いまや全世界にネットワークを拡大中の史上最強の侵略外来種であるアリなのです。当然、日本でも大いに繁殖しています。といっても、この本によると、九州ではまだ見つかっていないとのこと。本当でしょうか・・・。
 アルゼンチンアリは体長3ミリたらずの、チョコレート色をした小さい、ごく普通のアリ。強大なキバや毒針もない。それなのに、過去15年あまりのあいだに原産地南米の一隅から世界中に分布し拡大し、「史上最強の侵略的外来種」とまで言われる存在になった。
 アルゼンチンアリは、一つの巣のなかに多数の女王が存在する。大きな巣では、1000頭を優にこす女王がいる。女王は巣内で何度も交尾する。ワーカーのアリの寿命は半年ほど。女王の寿命も短く、10ヵ月程度。女王のいない巣であっても、そこに幼虫がいれば、それを女王に育て上げることができる。
 日本へのアルゼンチンアリの侵入によって、在来の地上徘徊性のアリ類が著しく排除されている。イチゴやイチジク、スイカなどの果実にアルゼンチンアリが来集する被害が生じている。
アルゼンチンアリの行列は、線状の1列のものではなく、2~3列以上の帯状である。大きな行列では幅が20センチをこえるときがある。
 アルゼンチンアリは巣分かれの繰り返しによって、多数の巣が協力しあうスーパーコロニーを形成し、なわばり争いをしない。雑食性で、なんでもエサとする。アルゼンチンアリの巣は、一生固定した巣ではなく、営巣場所の環境が悪くなると、すぐに巣を移動する。
 アルゼンチンアリが日本で発見されたのは1993年7月広島県廿日市市でのこと。
 2013年8月現在、1都11府県に広がっている。ゴミ箱に頻繁に来集するのでゴミとともに運搬される機会も非常に多い。
 アルゼンチンアリは地球規模で一つのスーパーコロニー、つまりメガコロニーを形成している。この大きさは人間社会以外に匹敵するものがない。
 アルゼンチンアリの分布拡大は、人間活動に強く依存していることから、人間は知らず識らずのうちに、自分たちの社会に匹敵するアルゼンチンアリの巨大社会をつくっていたことになる。
 これは、二匹のアリをプラスチックシャーレに入れて観察し、敵対行動をとるかどうかで判定して判明したのです。
 侵略的外来種対策の基本は根絶。アリの巣に持ち帰らせて根絶を図るベイト剤は有効のようです。とりあえずは「タダの虫」にして、そして根絶する。
アルゼンチンアリについての百科全書のような本(300頁)です。勉強になりました。
(2014年3月刊。4800円+税)

大学教授がガンになってわかったこと

カテゴリー:人間

著者  山口 仲美 、 出版  幻冬舎新書
 体験者が、とても率直に経験を語っていますので、大変参考になりました。でも、東京だからこそ、こんなに医師について選択の幅があるのではないか、田舎に住んでいたら、これほど選択するのは難しいだろうな・・・、かすかな不安も覚えました。
 ネットで病院を調べることは田舎でも出来ます。だけど、身近にいい病院がいくつもあるとはとても思えません。
 それはともかくとして、ともかく実践的かつ実務に役立つ内容です。
 著者は、まずは大腸ガンが判明しました。
最終的には自分で決断する以外にない。自分で選んだものは、たとえ結果がまずくても、覚悟が出来ている。自分で病院を決定する。これは患者の大事な心得だ。
 病院選びは、とても重要なのである。それによって生死が分かれることがある。病院については、義理・人情を取っ払って、別の病院で診てもらう決断が必要。セカンド・オピニオンだ。
セカンドオピニオンを受けるためには主治医にその旨を申し出て相談し、主治医の書いてくれた紹介状と検査結果のデータをもってセカンドオピニオンを仰ぎに行くという手順を踏む必要がある。
 ええーっ、これって、案外に面倒なことですよね・・・。これまでは気軽に他の医師の意見も聞いてみようということにはなりませんね。
 最初に選んだ病院がダメな病院だと思ったら、できるだけ早く他の病院へ移ること。そうしないと、あたら命を失うことになりかねない。
選んだ病院がよかったのか、ひき続き観察し続ける必要もある。
 人気のある病院には、なかなか入院できないというデメリットがある。
個室の良さは、トイレが占有できること。大腸ガンの手術の前後には、世の中でトイレほど大事なものはない。トイレは親友だ。出血はないか、尿は出るか、ガスは出るか、便は出るか…。トイレに通いつめ、吐くこともある。そして、睡眠時間が確保できる。これらは、出費の多さに変えられないメリットなのである。
著者は時間をかけて気持ちを立て直し、ようやくガンである事実を受けとめ、前向きに対処する気になった。
そして、著者は、さらに、すい臓にもガンがあることが判明したのでした。
手術を受けた患者にできる唯一最大の回復術は、身体を動かすこと、これに尽きる。術後すぐに体を動かし、食事をきちんと食べる人の回復力はすごい。
 抗がん剤は、細胞を殺す作用をもつ薬剤。コースがすすむごとに毒性が蓄積され、だんだん体がつらくなっていく。抗ガン剤をやめる決断を下すのには、むしろ継続するより勇気がいる。ガンの種類によって、抗がん剤の効き目は違う。
 熱い湯には入らないこと。がん細胞とたたかってくれるリンパ球を減少させてしまう。お腹は温める。冷やしてはいけない。
寝る前に、お白湯(はくとう)を200cc飲む。毎日、良質のオリーブ・オイルをスプーン一杯のむ。また、ヨーグルトを毎日食べる。
 ぜひとも、著者には元気に長生きしてほしいと思いました。
(2014年3月刊。800円+税)

ラスト・バタリオン

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  野嶋 剛 、 出版  講談社
 旧日本軍の上級将校が蒋介石の下で大陸反攻作戦に関わっていた事実を丹念に掘り起こした労作です。
台湾において、蒋介石の指示のもと、中国を取り戻すための「大陸反攻計画」の策定に深くかかわり、1968年に「白団」が解散するまで台湾にとどまっていた。
数百人に及ぶ帝国陸海軍の軍人が台湾渡航の打診を受け、100人が正式に応じたが、実際に台湾に渡ったのは83人だった。
蒋介石は、中国大陸を中国共産党軍に奪われ、台湾海峡をいつ人民解放軍が押し寄せてくるか分からないなかで、日本軍人によって国民党軍を立て直すというプランに望みをつないでいた。日本軍人の力を借りて、共産党に対抗する。これが蒋介石の秘策だった。
 白団のメンバーに加入すれば、出発手当として、団長は20万円、団員は8万円が支給される。さらに、留守宅手当として1ヵ月につき3万円が支給され、契約満了時には、離任手当として5万円が支給される。このころ(昭和25年)の大卒初任給は3千円だった。そして、勤務による病気・負傷のときは台湾側が治療し、日本への移送にも責任をもつこととされた。
台湾に撤退したとき、国民党政府の軍は悲惨な状態にあった。ところが、蒋介石にとって、この台湾撤退は、それまで頭を悩ませてきた陸軍の派閥と腐敗という問題を解決するための絶好の機会となった。「白団」によって中央集権的な軍事教育を企図したのだ。
 「白団」は、あとでアメリカ軍の警戒の目から逃れるために「覆面」の地下組織となったが、当初は公的な組織だった。最初は「訓練班」という名称だったが、すぐに「訓練団」と改名し、団長には蒋介石みずからが就任した。
 1951年には、「白団」の日本人教官は76人が在籍していた。これが最大人数。
 蒋介石は1915年、28歳のときに日記を書きはじめ、85歳になった1972年まで、57年間にわたって日記をつけた。その日記のなかに「白団」関係は、しばしば登場している。
 蒋介石は、台湾に渡るとき、故宮の貴重な文物を運び、また、黄金を持ち出した。運ばれた金塊は2500億円以上の価値があった。
 台湾の戦後政治の変遷のなかで「白団」はどう位置づけられるのかなど、歴史的な掘り下げの点で、いささか突っ込み不足ではないか、少し物足りないところも感じました。それでも、よく調べていることは間違いありません。戦後日本史の貴重な一断面です。
(2014年4月刊。2500円+税)

夜間保育と子どもたち

カテゴリー:社会

著者  櫻井 慶一 、 出版  北大路書房
 夜間保育と聞くと、なんとなくマイナス・イメージがありますよね。でも、この本を読むと、これがすっかりプラスイメージに変わってしまいます。やっぱり、体験者の話には耳を傾けるだけの価値があります。
 「夜間保育は、子どもの成長・発達に悪影響を及ぼすだろう」
 この予言が、実はあたっていないことが、長年にわたる調査・研究によって明らかにされた。夜間保育は、現実には、決して子どもの成長・発達に悪影響を及ぼすものではない。むしろ、こどもの成長・発達に悪影響を及ぼす環境を改善し、子どもの健全育成に資するものである。
 夜間保育が望ましくないのではなく、夜間保育を必要とする子どもの置かれた環境が望ましくないのであり、その厳しい環境に置かれた子どもを夜間保育によって、少しでも望ましい状態に替えることが児童福祉の精神なのである。まことにそのとおりだと思いました。
 全国にある認可保育園は2万3700カ所。そのなかで認可された夜間保育園は、なんとわずか80カ所。全国のベビーホテルは1830カ所、3万3000人ほど。
 夜間保育園は、夜間のみではなく、夜間まで開いている保育園。24時間いつでも預かれる保育態勢にあるということ。
夜間保育で育った子どもたちは社会のために役立ちたい、人とのつながりを大切にしたい、前向きに一生けん命努力したい、誠実で人から信頼される人になりたいと思う子が全国平均よりも高くなっている。
これには理由がある。子どもたちは、乳幼児期に保護者のがんばっている姿を見て育ち、夜中まで保育士が自分を支えてくれたという体験をしていることが大きい。
 夜間保育園で、子どもが昼夜二食、安全でバランスがとれ、おいしい食事をとっていること、園によっては、入浴・寝かしつけも担っていることが、親の安心とストレス解消につながり、逆に短くても子どもとの時間を満喫し、楽しめるようになっている。
 入眠時に、深い安心のなかで眠りにつける、そのためのゆとりある体制が必要。
 眠りの途中で目覚めた子どもが、そのときいつでも大人がいることを感じて安心し、再び眠りにつくことのできる体制を確保する。
 あわせて、仕事が終わってホッとしている、お迎えの保護者から雑談的に子育てや生活の悩みが聞ける体制が必要。
 そうなんですよね。そこまでゆとりある夜間保育園なら、かえって安心ですよね。イライラするばかりの親と一緒よりも・・・。
 福岡の宇都宮英人弁護士からすすめられて読みました。生活が困難ななかで、子どもと一緒にがんばっている親をしっかり支えている夜間保育所について、認識を改めることができました。全国夜間保育園連盟の創立30周年記念の本です。
 子どもの福祉行政の貧困さを告発する本でもあります。読んでいて、なんだかうれしくなる、心が温まる体験記がたくさんある、いい本です。ぜひ、ご一読ください。
(2014年3月刊。2000円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.