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徹底解剖・国家戦略特区

カテゴリー:社会

著者  浜 矩子・郭 洋春 、 出版  コモンズ
 安倍政権のやっていることは富めるものはますます豊かにし、貧しい者は生存を保障しないというものでしかありません。すべては国民の自己責任だというのであれば、もはや政治ではありません。単に山賊の親分と同じです。
 いま言われている新自由主義は新新自由主義という表現のほうが正確。なぜなら、人々の自由な展開をむしろ阻害する側面をもって広がっているから。
 新新自由主義が求めているのは、強き者の自由であり、富む者の自由であり、大なる者の自由である。強いものがより強くなる自由、大きい者がより大きくなる自由、豊かな者がより豊になる自由を徹底的に追及する。
 小泉純一郎には何の思想性もないけれど、「時の風」を読んで、新自由主義をもち込んだところ、どんどんウケてしまった。
 アベノミクスとは、経済のことが何も分かっていない政策だから、何のミクスでもないというのが、もっとも本質的な評価だ。強兵路線を支える富国を実現するための政策パッケージであるという説明に尽きる。
 アベノミクスは「取り戻したがり病」にかかっている。そのためには、弱き者、切り捨てられていく者のことなどに構っている余裕はない。弱者を助けるどころか、弱者がいるという現実そのものを見ない。
国家戦略と名づけられた「特区法」は、法治国家の基本的な手続を形骸化している。特区における減税や免税を法律上の手続を簡略化して容認するならば、日本の統治機構は崩壊する。
規制一般が、政府やマスコミによって悪いものというレッテルが貼られている。しかし、本当にそうなのか・・・。すべてが無駄で不要な規制とは言えない。たとえば、医療規制は適切な負担で安心して医療を受けられる医療保険制度を支え、労働規制は安定した雇用と適正な賃金を守っている。
 安倍首相が激しく攻撃してやまない「既得権者」とは、実は大金持ちとか有力者ではなく、ごくごく善良な市民、つまり多くの働く国民なのである。
 いま、安倍政権はTPP交渉を妥結させるのに必死になっていますが、これが実現してしまえば、日本の農業が畜産業界は大打撃を受けることが必至です。
 マスコミ、とりわけテレビはNHKを先頭として、「与党協議」なるものしか報道せず、集団的自衛権のもつ本質的な怖さについて、ちっとも報道してくれません。
 日本社会の現状に激しく警世の音を乱打している本です。
(2014年11月刊。1400円+税)

第一次世界大戦

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  マイケル・ハワード 、 出版  法政大学出版局
 1914年に始まり、1918年まで続いた第一次世界大戦は、最初の世界戦争ではない。ヨーロッパ諸国は、過去300年にわたって地球規模でずっと戦ってきたからだ。
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が生まれたことは、ドイツだけでなく世界全体にとっても不幸だった。ヴィルヘルム2世は当時のドイツ支配エリートを特徴づけた三つの属性をもっていた。古めかしい軍国主義、とてつもなく大きな野心、そして神経症的な不安感。
 ドイツの軍指導者たちは、戦争をするならば、早い方が好ましいと判断した。今ならロシアは1905年の日露戦争の敗北からまだ完全には回復しきれてはいない。むしろ、3年後だとロシアがフランスの資金を使って巨大な鉄道建設を完了させ、またロシアをまったく新しい軍事同盟国に変化させうる動員計画を完成させてしまうだろう。
 この当時、鉄道網と電信の発達があった。また、平時における一般徴兵制度の導入があった。さらに、長距離兵器の発達があった。
 日露戦争の教訓はヨーロッパ諸国で丹念に研究された。最新鋭の武器を整備し、死ぬことを恐れない兵士からなる軍隊であれば、勝利は可能だ。そして、スピードが勝利をもたらす。短期間で戦争に決着をつける唯一の方法は、攻撃すること。
 第一次世界大戦の勃発は、すべての交戦国の主要都市で熱狂的に迎えられた。いたるところで、人々は自分たちの政府を支持した。戦争は、甘ったるい都市生活がもはや与えることのない「男らしさ」を試すものとみなされた。
 イギリスとドイツにとって、戦争はもはや単なるパワーをめぐる伝統的な闘争ではなく。イデオロギー闘争の度を深めていった。
 6ヶ月で終わると一般的に予想されていた戦争は、1915年末時点で1年半も続き、すぐに終了するとは、もはやだれも思わなかった。
 そのような戦争の長期化を可能にしたのは何だったのか。ひとつは、すべての交戦国の国民の断続的な支持だった。
1916年末まで、アメリカのウィルソン大統領の主要な関心事は、アメリカを戦争から遠ざけておくことだった。
1918年、ドイツ軍最高司令部が断念したのは、西方からの脅威ではなかった。ドイツ国内の動きこそ、不安にさせるものだった。民衆が暴動とストライキを起こし、兵士が堂々と反乱していた。
 ドイツ国民は、自分たちの軍隊がいたるところで勝利していると信じていたからこそ、耐えきれないほどの困難に耐えていた。ところが、自分たちの軍隊が崩壊寸前の状態にあることを知り、政府に対する信頼は完全に消滅した。
戦場で何十万人もの将兵が死んでいく悲惨な戦争が起きたのです。
 戦争の始まりを民衆は熱狂的に支持しました。そして多大の犠牲を払わされたのでした。なぜ、かくも悲惨な戦争を人類は止められないのか、歴史に大いに学ぶことが必要です。
 1月1日の天皇の言葉も、同じことを指摘しています。第一次世界大戦の全体をざっと見ることのできる本でした。
(2014年9月刊。2800円+税)

集団的自衛権で日本を滅ぼしていいのか

カテゴリー:社会

著者  半田 滋・川口 創 、 出版  合同出版
 安倍政権の憲法改正に向けた第一弾は、教育基本法の改正だった。これは2006年12月のことです。子どもたちに「愛国心」を強制して、お国のために命を捧げよというのです。そして、教科書統制を一層強化しました。
 第二弾は、防衛庁を防衛省に昇格させたこと。戦前の日本のようなカラ威張りする軍人がふんぞりかえる世の中なんて、サイテーですよね。
 そして、第三弾として憲法改正のための国民投票が定められました。
 航空自衛隊は、イラクでアメリカ軍の兵員と物資を輸送する活動をしていた。しかも、こっそり隠したというだけでなく、嘘までついて国民を欺した。
 航空自衛隊が運んだのは、国連職員が2800人、陸上自衛隊員が1万人。ところが、アメリカ兵は2万人以上だった。そして、アメリカ軍の物資は、ほとんど運んでいない。人道支援と称しながら、人道支援物資は運んでいない。
 この実態は、裁判のなかでようやく明らかにされたが、情報公開請求に対して黒塗り文書のみの公開だった。特定秘密保護法が制定された今日、このような事実は公表されないだろう。
 安倍政権には、人間の判断は誤ることがあるという事への警戒心や謙虚さがまったくない。日本は、ロシアと北朝鮮・中国の軍事通信はかなり正確に傍受している。北朝鮮の通信を傍受して、ミサイル搭載のやりとりまで把握している。しかし、中東について日本はまったく手がかりすらなく、すべてアメリカから情報をもらうしかない。
 官僚とって都合の悪い情報、判断に迷うものは秘密にされる。
 秘密保護法は官僚を肥大化させてしまう。
 日本の官僚は、能力の高いオレたちが国の舵取りをするので、国民は言うことを聞けばよいと考えている。お上(かみ)意識、命令する立場にいたいという意識でこり固まっている。
 安倍首相の元気の源は、フェイスブック。37万人のフォロワー、ネット右翼(ネトウヨ)がほめたたえるので、自分はエライと錯覚し、ますます過激なほうへ行く。
これまで集団的自衛権が行使されてきた例をみると、ベトナムもアフガニスタンも、惨敗している。良いことは何ひとつなかった。
 アメリカは、アフガニスタンとイラク侵略作戦のために150~500兆円もつかった。この膨大な軍事費の支出が、もとからあった貿易赤字と財政赤字という双子の赤字に拍車をかけた。その結果、オバマ政権は福祉や教育、医療という国内分野さらに外交政策で有効な手が打てないことにつながった。
 アメリカが現在、国際社会でリーダーシップを失いつつあるのは、このアフガニスタン、イラク戦争の負の遺産である。
日本の自衛隊は、攻撃的な分野は弱いけれど、防御的にみると世界一強い。
 日本は決して「丸腰」ではない。相手になかなか攻め落とせないという脅威を与えるに足りる軍事力をもっている。
テロとのたたかいは、相手が軍隊ではなく、特定できないために、必然的に無差別殺戮となり、憎しみが憎しみを生み、終わりがない。
 際限なき憎悪が生み出され、際限なき戦争になってしまう。そのような泥沼の戦争に日本がまき込まれてしまいそうだ・・・。
 もともと、尖閣諸島の上は米軍機や自衛隊機のP-3Cが飛んでおり、今もまったく変わらない。安倍首相の一連の言動こそ、日中韓の関係を悪化させている。
 アメリカの戦争戦略は大きく変わっている。かつては若いアメリカ兵を犠牲にしても軍事的介入を優先する方針だった。今や、イギリス、日本そして韓国の衛星国に兵士を出させ、死ぬのは、アメリカ以外の国というシステムに変えようとしている。
 日本がアメリカ言いなりに行動していて、何もいいことはない。そのことを実感させる本でもありました。大変歯切れよく、問題の危険な本質を対談のなかで明らかにしてくれる本です。
(2015年2月刊。1600円+税)

社会脳からみた認知症

カテゴリー:人間

著者  伊古田 俊夫 、 出版  講談社ブルーバックス
 認知症とは、正常に成人になった人が、病気や事故などのために知的能力が低下し、社会生活に支障を来すようになった状態を指す。
64歳以下で発症した認知症を若年性認知症と呼ぶ。その多くは、40~50代で発症する。若年性認知症の患者は全認知症の1%を占める。40~50代で物忘れに深刻に悩む人は、高齢期に認知症になる確率が高い。
 若年性認知症は、症状の進行が早いという特徴がある。異常タンパクの生成が早いためだと考えられる。若年性認知症は周囲の人の気持ちを理解できない。他人への関心が薄くなる。性格の変化が目立つのも特徴。
 日本の認知症患者は460万人をこえ、その予備軍が400万人いる。
 認知症の人には、「配慮を受けている」という自覚が乏しく、同僚に感謝の気持ちを伝えられない。
 認知症の人に最初にあらわれるのは、新しいことを記憶できないこと。そして、物忘れしているという自覚が薄れてくる。
 日課や予定、約束や期限といった緊張感が失われると、人間の記憶力は低下していく。
 認知症の第二の重要な症状は、自分の置かれた状況が分からなくなること。さらに症状がすすむと、自分が病気であることを理解できなくなる。
 人の心の働きのなかで、もっとも重要なのは、他者の心や気持ちを理解するというもので、これは人間特有の働きである。
 認知症の人は、詐欺的商法の相手と長時間にわたって一緒に過ごし、すっかり信用しきってしまう。警戒心がまったくない。
 認知症に陥った人たちからは、苦悩が確実に減少していく。悩まなくなるのだ。
 うつ病が増加している。うつ病にかかった人は、羅患歴のない人に比べて、認知症になる危険性が2~3倍も高い。
 私の同級生も認知症になった人がいます。とても生真面目な性格でした。それと関係があるのでは、と思っています・・・。
(2014年11月刊。900円+税)

小西行長、史料で読む戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  島津 亮二 、 出版  八木書店
 小西行長の実像に触れた思いのする本です。秀吉の有能な部下、キリシタン大名、関ヶ原の戦いで敗れて斬首された武将・・・。
 小西行長は官僚として有能ではあっても武将としては、いまひとつだったというイメージがあります。でも、武将としても、それなりの人物だったことが本書で明らかにされています。
 小西行長の史料は抹殺などされていなかった。
 小西行長の両親、兄弟、子そして血縁関係にある堺の日比屋(ひびや)氏のほとんどが、洗礼名をもつキリシタンである。
 日比屋氏は6世紀の堺で活躍した豪商である。九州と堺を結ぶ海上輸送ルートと資金力をもつ日比屋氏と小西行長の父・立佐は強力なコンビを組んでいた。
小西行長は、青年期のはじめ、宇喜多氏に仕官していた。それまで宇喜多氏に仕官していた行長が、天正8年(1580年)ころから秀吉のもとで活躍しはじめた。ここから行長の立身出世が始まった。
 行長は信長方に、秀吉の配下となった直後から海上交通で活躍し、後に「海の指令官」と称された能力の片鱗を示していた。
 行長は瀬戸内海の海上輸送の一端を担う任務をつとめ、秀吉の家臣の中で頭角をあらわしていった。行長は、小豆島の支配にも関与していた。書状が、それを裏付けている。
 行長が水軍の将として奔走して功績を挙げるのと同時に、父の立佐は秀吉の側近として財政管理能力を発揮して地位を高めていた。
 秀吉は九州攻めをするときに、現地での兵粮徴収ではなく、もっとも確実な大坂からの兵粮輸送という方法を選んだ。そして、この重要な役割を任されたのが行長だった。
 秀吉は、各地の諸大名とのやりとりをするにあたって、大名ごとにその仲介・交渉を担当する人物(取次)を特定し、その人物に命令を詳しく伝達・補足させるという方針をとっていた。
 秀吉のキリシタン弾圧が始まったとき、重要なことは表向きにしろ、行長は「秀吉家臣」としての立場を優先させている。行長の信仰とは、常に政治的立場が優先される「信仰心」であった。秀吉の在世中に、行長が秀吉の命令に背き、自らの「信仰心」を優先させたことは一度もない。
 行長の主たる属性は、「秀吉家臣」であり、行長の第一目標は豊臣政権の発展と安定そして自分自身の地位向上だった。
 強制的な布教さえしなければ、イエズス会宣教師と日本における共存は可能だと行長は予測していたのだろう。行長はイエズス会との関係を維持しつつ、秀吉家臣としてイエズス会の行動を監督する役割を果たしていた。
秀吉は大陸侵攻の「先勢」として小西行長と加藤清正を選んだ。行長には、海上輸送能力や交渉能力が求められ、清正については高い軍事能力が期待されたのだろう。
 文禄の役において、行長は、あくまで交渉による朝鮮国王の服属、そして明との講和交渉の開始を狙った。行長は、「征明の実行不可能」を秀吉にあえて進言した。行長は、明との直接戦争は避けるべきだと考え、秀吉の「唐入り」を「冊封要求」へとすり替えて交渉をはじめた。行長は、平壌から先へは侵攻しようとはしなかった。
 当初は、電撃的に明国に迫ろうとしていた秀吉の戦略は、沿岸部に城塞(倭城)を設置して、じっくり朝鮮を侵略していく方針へと転換した。秀吉自身、それまでの戦況報告によって、明の征服などは非現実的だと悟り、当初の「唐入り」構想は大きく転換していた。
 秀吉は、ある程度は、対明交渉の実情は承知していた。明は、秀吉を日本国王に封じると同時に、日本の大名や武将へ官職を与えることにした。行長による官職要請と授与の結果は、秀吉と諸大名とに受け入れられている。
 この侵略戦争を日本の勝ち戦として終結させなければならない秀吉にとって、朝鮮服属の象徴である朝鮮王子日本への渡海と朝鮮南部四道の割譲だけでは譲れない条件だった。
 行長は、とにかく明勅使による秀吉の日本国王任命と冊封さえ実現すれば、実態は収拾できると見通ししていた。しかし、最終的に朝鮮からの日本軍撤退をめぐる双方の利害の矛盾調整ができないまま、明勅使は日本に渡った。これが講和破綻の主要因となった。
秀吉は、9月1日、大阪城で明勅使と対面し、明皇帝から書面と金印・冠服の進呈を受けた。行長を筆頭とする諸大名にも、明皇帝から官職任命書と衣服が与えられた。このように、秀吉は、はじめから明と冊封を受け入れる方向で行長に交渉させていた。
 秀吉は明の冊封は受け入れつつも、朝鮮皿道の割譲が命じられず、朝鮮要請されたことに激しく抵抗した。これに失敗したとき、秀吉の権威は揺らいで、政権の瓦解につながる芽が出てきてしまう。
 朝鮮からの日本軍撤退と朝鮮王子の日本末渡海の二点が秀吉には受け入れられず、講和は破綻した。
行長が対朝鮮・明との交渉において果たした役割は大きく、厳しい戦況と多大なストレスのなか、戦争終結のため秀吉が求めた明勅使の派遣を実現させた手腕は評価されるべきだろう。明との講和が破綻したあとも、行長は戦争を回避すべく朝鮮王子の日本渡海を条件として、朝鮮との講和を模索していた。行長は、その過程で朝鮮側に清正の朝鮮渡海ルートと日程を知らせて、朝鮮軍に清正を迎撃させようとしたこともある。この行長の行動からは、すでに清正との確執が決定的なものになっていることを意味する。
 清正は、行長によるこれまでの対朝鮮・対明交渉の実態を知り、行長への不信案をさらに募らせた、
 小西行長と石田三成には共通点が多い。行長が2年年上だが、ほとんど同世代。両者とも、父子そろって秀吉に仕えている。三成は、奉行として朝鮮に渡り、日本軍の統括にあたっている。行長は、実質的な朝鮮出兵の現場担当者だった。
江戸時代の前期までは、武将としての行長の才能は積極的に評価されていた。ところが、やがて清正の行動などが強調されるようになったのと反比例して、行長のイメージは低下の一途をたどった。
行長が熊本の宇土にお城を構えていたことを初めて認識しました。小西行長のイメージを一新させてくれる本です。
(2010年7月刊。480円+税)

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