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朝鮮人強制連行

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 外村 大 、 出版  岩波新書
朝鮮人の強制連行をめぐっては政府や議会そして企業側にもさまざまな相反する意見があり、朝鮮総督府や朝鮮社会にもいろんな矛盾、利害相反の状況があったことを知ることが出来ました。
当時の朝鮮社会は就学率が低く、文盲の人も少なくなかったということを改めて知りました。朝鮮人の就学率は、1935年に17.6%(男子が27.2%、女子は7.3%)。1936年の日本語理解率は9.8%(男子は16.1%で、女子は3.4%)。
朝鮮人の就学率が上昇するのは、戦時期であった。
炭鉱では、増産を担うべき十分な労働力を確保できずにいた。
朝鮮総督府は、1937年6月27日付新聞で、九州の炭鉱からの朝鮮人労働者の斡旋の信頼に対しては許可しない方針であった。その理由として、それまでの炭鉱が朝鮮人を安い賃金のもとで酷使した「賤待事実」があったため。朝鮮統治の責任者としては、詐欺的募集と悪辣な労務管理が朝鮮人の不満を強めることに警戒せざるを得なかったからである。
官僚だけでなく、民間にも、朝鮮人導入については、否定的意見があった。それは戦争が終了して平時に戻ったときの失業問題が予想されることなどからであった。しかし、朝鮮人労働者の導入への消極論は、日本内地の炭鉱等での労働力不足の現実の前に押し切られた。
当時の朝鮮では、むしろ駐在所の巡査のほうが面長より権力をもっていると見なされるような実情があった。
1939年(昭和14年)は、かつてない大旱魃のあとだった。人びとは木の根、草の根を食べて飢えをしのいでいた。そこで募集をかけると、救いの神があらわれたといって人々が集まってくる。それでも、朝鮮総督府としても、農業生産の維持、さらには朝鮮の工業化のための労働力の確保の重要性は十分承知していたので、言われるがまま日本内地へ労働者を送り出そうとしていたわけでない。
2年間という期間経過したら、朝鮮に労働者を戻さなければならないというシステムは、定着を防ぐという意味では、日本内地の治安・労働行政担当者の思惑が一致していた。
韓国社会の中心人物が非協力的であれば、企業から派遣された人物が必要な人員を確保することが可能だった。
官斡旋は地域社会の事情を考慮することなく、そこに責任もつながりもない労務補助員が、自分の所属する企業のために労働者確保のみを追求することを制度化したものだった。朝鮮で徴用工の発動が遅くなったのは行政機構が貧弱だったことにもよる。徴兵対象者の戸籍の記載事項すら不正確な状態であった。
そして、朝鮮社会では、動員忌避がますます強まっていた。面の労務係は、動員で手一杯。面の人々は徴用を襲って労務係を仇的のように考えている人々がいた。
女子は全員が文盲、男子青壮年の7割は文盲。徴兵準備のための錬成を受けた男子の日本語ボキャブラリーは、日本人の幼児と同じレベル。朝鮮から来た者で、戦争については、100人のうち5人しか知らなかった。
日本内地の炭鉱労働者全体では戦争末期でも日本人が70%を占めていた。
朝鮮民衆はあきらめて無抵抗でいたのではなかった。徴用が自分たちの生活の破壊につながりかねないとみていた人々は必死の抵抗を試みた。なかには、面の職員が徴用対象となる面民を引率して山中に隠れようとして警官に見つかって衝突するという事件も起きている。面職員にとって、動員計画のための要員確保はよけいな業務の負担であるばかりでなく、危険を伴う仕事にすらなりつつあった。動員をさけようとする民衆の抵抗、動員によって働き手を奪われた家族の怨嗟から、危害を加えられるケースも発生していた。
村落の朝鮮人有力者らは動員に非協力ないし反対していた。それは、同情していたというより、最下層の朝鮮人が相対的に良い日本内地の職場を選択することによって、村落で農村労働者が減り、その賃金が上昇するのが痛手だったから。
炭鉱でも、熟練労働者を確保して操業効率を良くしようという意見もあった。
さまざまな複雑な思惑と利害があるなかで強制連行がすすんでいったことがよく分かりました。大牟田の三池染料でも朝鮮人連行があり、私の亡父は徴用係長として、その責任者だったのでした。
(2012年3月刊。820円+税)
日曜日の午後、梅の実ちぎりをしました。驚いたことに今年は梅の実が少ないのです。昨年の3分の1ほどしかありません。いわゆる裏作の年なのでしょう。それでもザル一杯にはなりましたので、梅酒が2瓶つくれそうです。
ジャガイモの生育が遅れています。隣のジャガイモは私より1週間以上も遅く植えたのに、緑々した葉っぱが繁っていて、早くも花が咲いています。うちは花どころではありません。隣の芝生は青いといいますが、うちのジャガイモたちは大丈夫かしらん・・・。

母の老い方、観察記録

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 松原 惇子 、 出版  海竜社
面白い本というか、身につまされるというか、大変勉強になる本でした。
病院(目下、椎間板ヘルニアの治療のためにリハビリ科に通っています)の待ち時間で読みはじめ、そのまま昼食休憩に突入して読了しました。
著者は、私と同じ団塊世代の71歳の「おひとり様」。ところが、実家に戻って92歳の母と同居するようになったのでした。いえ、決して老母の介護のためではありません。住んでいたマンションが水漏れ問題発生のため売却して退去したのです。ところが高齢独身女性は借家を見つけるのも容易ではありません(私も知りませんでした・・・)。やむなく、50年ぶりに戻った実家で、相互不干渉を宣言し、借家人として2階で生活するようになったのでした。
夫(著者の父親)を亡くして独身の母親は、90歳です。まさしく妖怪のように元気も元気。すごいものです。
妖怪を知る人は、口をそろえて母をほめる。
「お母様は、すばらしいわ。90歳であんなにきれいに丁寧に暮らしている方を見たことがないわ。お母様は、わたしたちの憧れよ。お母様こそ、現代の高齢者の生き方モデルよ」
妖怪は運動しない。毎日散歩するということもない。ただし、生活にはリズムがある。毎日、同じルーティンで生活している。驚くほどきちんとしている。
妖怪は椅子の背にもたれることがない。まめに家の中をちょこちょこ動くものだから、わざわざウォーキングに行かなくてもいい。
午前6時にセットした目覚ましで起床し、パジャマ姿ではなく、起きた時間から、誰が来ても困らない服を着ている。
朝食にハムやソーセージは欠かさない。肉好きなのだ。ヨーグルトと納豆も欠かさず、小魚も食卓に出ている。そして、朝食のあとは、必ず緑茶とお菓子で、朝のテレビ小説を見る。そのあとは、手にモップをもって床を磨きはじめる。室内は、いつもピカピカ。掃除が終わると、新聞に目を通しながら、二度目の緑茶タイム。このときも、お菓子は欠かさない。
一日中、テレビの前にいるようなことはない。
夕食は自分でつくって食べる。牛肉を欠かさない。ステーキ肉や霜降りのロース肉が冷凍庫のなかにびっしり入っている。食べ物にはうるさい。
お風呂は自分で掃除をし、自分で沸かす。いつもピカピカ。用心して、最近は昼間にお風呂に入っている。
夜は9時から10時までに寝る。通い猫に「また来てね」を声をかけて送り出してから寝る。
妖怪のファッションセンスは抜群。友人も、おしゃれな妖怪を自慢するために誘ってくれる。ピンピン長生きの秘訣は、おしゃれであること、老いてますます楽しく暮らすためには、おしゃれをして外出することに限る。
行動しようという気持ちが心身ともに元気にしている。
老いるというのは、ひとつずつ上手に諦めること。今できることは、惜しみなくやるべきだ。今やれることを精一杯やって人生を謳歌する。嫌なことがあったら、近所を散歩するなり、お風呂に入るなりして忘れたい。終わったことは終わったこと。振り返らないのが一番、精神衛生上いい。
65歳をすぎれば、あとは死ぬだけなのだから、楽しく暮らさないと損だ。
病気の予防や薬の知識に強くなることにより、病気のことを忘れて生きるほうが賢い。
ひとつひとつ、もっともな指摘で、同感しきりです。元気の出るいい本でした。妖怪と一緒の著者がうつっている表紙の写真を見て、ほっとします。ぜひ、あなたも手にとって読んでみてください。
(2018年10月刊。1300円+税)

斗星、北天にあり

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 鳴神 響一 、 出版  徳間書店
秋田美人で有名な秋田市。
戦国時代、ルイズ・フロイスの書簡にも「秋田という大市あり」と書かれているそうです。蝦夷に近く、秋田人もときどき蝦夷に赴くと書かれています。
この小説のなかでは、蝦夷(アイヌ民族)だけでなく、ロシア大陸の民族・東韃(とうたつ)人との混血児まで登場してきます。恐らく古代から、そのような交流はあったことでしょう。
ブナ林で有名な白神山地を背後に控えた港町を安東(あんどう)氏は治めていた。
安東氏は、鎌倉時代後期から室町時代中期にわたって、日本海北部の海運を完全に掌握していた一族である。
天然の良港である津軽半島の十三湊(とさみなと)を根拠地に、蝦夷地のアイヌはもとより中国、朝鮮とも交易を続けていた。かつて安東氏の当主は、東海将軍、あるいは日之本(ひのもと)将軍との称号を用いていたこともある。
十三湊は、三戸(さんのへ)に根拠を置く甲斐源氏の南部家によって百年ほど前に奪われていた。安東氏から十三湊を奪った南部家は敵と呼ぶほかない。
載舟覆舟(さいしゅうふくしゅう)。海の水は安らかなるときは船を浮かべ載せる。海の水が荒れれば、直ちに船を覆す。民を海の水と考えるのだ。
枉尺直尋(おうせきちょくじん)。一尺分を折り曲げることで、一尋(ひろ。8尺)をまっすぐにできたらよい。危急に望んでは、小の虫を殺して大の虫を助けることが肝要。
安東愛季(ちかすえ)は15歳で家督を継いで檜山安東家の若き当主となった。長尾景虎と武田信玄が川中島で干戈(かんか)を交えようとしたころである。
豊臣政権下では、安東家は、出羽国内の5万石の安堵が認められたが、実高は15万石だった。そして、関ヶ原の戦いのあと、常陸国宍戸5万石に頼封されたことにともなう措置だった。
秋田における安東家の活躍を紹介する小説として、最後まで面白く読み通しました。
(2019年3月刊。1800円+税)

KID キッド

カテゴリー:警察

(霧山昴)
著者 相場 英雄 、 出版  幻冬舎
この本を警察小説と言ってよいか、やや疑問はあります。というのは、警察庁の高級幹部を相手としてたたかうのは元自衛隊員だからです。それでも警察内部の公安と刑事の派閥抗争、そして首相官邸のなかに喰い込んでいる警察官僚と三つどもえの内部抗争のすさまじさがよく描かれているので、警察小説のジャンルに入れてみました。
自衛隊には、日本にゲリラやテロリストが潜入したときに即時対応できるよう訓練された特殊部隊「特殊作戦群」がある。この部隊については、防衛大臣、官邸の幹部、そして自衛隊のなかでも統合幕官僚長や陸自の幹部が詳細を知るだけ。
高速道路や幹線道路には、警察庁のNシステムが稼働している。あらゆる車両のナンバーと運転手、助手席に乗る人間を鮮明な写真データで保有する仕組みだ。
ドラッグネットは、アメリカの国防総省傘下の諜報機関、国家安全保障局(NSA)が構築したプリズムというシステムをもとにつくられた。
アメリカは9.11のあと、愛国者法を制定し、国民ひとり一人のもつ膨大な量の個人情報の収集を始めた。大規模収集という手法で、通信会社の協力を得て、国民の通話やメール履歴をすべて監視している。
アメリカ政府は、ネットのプロバイダーだけでなく、通販大手やSNS大手のサーバーも監視の網を広げ、個人の発するありとあらゆる情報を吸い上げている。
日本はこの仕組みを導入し、その際、独自にシステムを整備・改造して構築したのが底引き網という名のドラッグネットだ。
狙いをつけたメディアに対しては、固定電話、主要な取材スタッフの携帯電話、社用メール、個人のSNSもほとんど公安が盗聴し、モニターしている。公的権力の監視網は徹底的だ。
個人を特定する顔認証システムも半年間で5回もバージョンアップしている。
もちろん、当然のことながら小説ですからフィクションです。それでもアベシンゾー首相のような視野狭い人物が首相になっていて、狡猾・陰険なスガ官房長官のような人がいて、フィクションと言いながらも現代日本の政治状況をほうふつとさせる場面展開があり、手に汗握るアクションの連続です。政治の舞台裏はかくにありなむと思わせ、私たち国民も手をこまねいていたり、冷笑するだけではすまないと思うばかりです。
アベ・スガ批判の本では決してありませんが、狂人のような集団に政権を握らせると怖いという実感をひしひしと感じさせてくれる本でもあります。そんなストーリーなのに、産経新聞に連載していたというのに少し驚きました。
(2019年3月刊。1600円+税)

あの頃、ボクらは少年院にいた

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 セカンドチャンス!編 、 出版  新科学出版社
少年少女時代にヤンチャをして、少年院に入っていた人たちが、今は必死にがんばっているという話です。読んでいて胸が熱くなりました。非行に走った原因はさまざまですが、親との関係も大きな原因となっています。
少年院の出身者が再犯して少年院や大人の刑事施設に再入院する率は3割と言われています。しかし、それは7割の人は、なんとか捕まるようなこともせずに暮らしているということです。そこを私たちは信じたいものです。
少年院では、更生する気はまったくなかったけれど、資格取得のための勉強だけはがんばった。一年間、何も身につけないよりは、いつか役に立つだろうと思い、暇さえあれば勉強した。おかげで資格も8個もっている。
いま考えると、十代のころは社会すべてが敵で、親さえも信用していなかった。捕まって初めて親のありがたさに気がついた。あれだけ迷惑かけたのに、一度も見捨てずに母は本気でぶつかってくれた。立ち直ることができたのは、多くの周りの支えがあったから・・・。
父は暴力団員、母は風俗嬢。両親が仕事からイライラして帰ってくると、殴られ蹴られの日々。生きていく意味がないと思う毎日だった。親の虐待やネグレクトが知れて、児童相談所に保護されて面会に来たときの母親の言葉。
「おまえみたいな子ども、産まんけりゃ良かったわ。疫病神なんて、火事を出したときに焼け死んでしまえばこんなことにならんですんだのによう。なんで、こんな出来損ないに人生を壊されなあかんのか・・・」
いやはや辛いですね。産みの母親からこう言われたら・・・。
少年院出身者たちを励ますセカンドチャンスは、2009年1月に設立された。すでに10年の実績がある。2011年には福岡で初めての交流会をやった。今では、「セカンドチャンス!女子」という女子の会も始まっている。
この本のなかに、かつて自分を少年院に送った裁判官にお礼を言いたくて会いに行った話が紹介されています。
本当にあの出会いはうれしかった。その裁判官は、審判の席で、すごく心配してくれていて、感じが良かった。真剣に、「もうあなた、いい加減にせんと、人生大変なことになってますよ」と言われた。ああ、いい人だなあと感じて、この裁判官の名前を憶えておこうと思った。
最近、会いに行くと、その山田裁判官は弁護士になっていた。視力がほとんどなくなっていたけれど、裁判官を40年やっていて、会いに来てくれた人は初めてなので、すごくうれしいと言ってとても喜んでくれた。
いい話ですね。司法にもこうやって心を通わせる可能性があるのです・・・。
このセカンドチャンスには、杉浦ひとみ弁護士がずっと関わっています。すごいことです。
セカンドチャンスの基本ポリシーは正直、平等、尊敬です。
少年院出身者が人生をやり直したい、犯罪をやめてまっとうに生(行)きたいと本気で願ったとき、それを温かく支える社会環境を早くつくりあげたいものです。
私は、いま少年院に2回も入った27歳の青年の常習窃盗事件を担当しています。彼が、この本にあるように心を入れかえて愚直に歩み続けてくれることを改めて願いました。
(2019年3月刊。1500円+税)

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