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長東日誌

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 李 哲 、 出版 東方出版
私と同世代で、まったく同じ時期に東京で大学生活を過した著者が韓国の大学で勉強中に「北」のスパイとして捕まり死刑判決を受け、13年間の獄中生活を送った記録です。
この13年間というのは1975年から1988年までのことです。著者の27歳から40歳までですから、私は故郷にUターンして弁護士をしていました。
そして、著者は2015年に無罪判決を受け、さらには2019年6月、来日した文在寅大統領から大阪で国家を代表しての謝罪を受けています。それを受けてこの本にしたとのこと。いやあ、本にしていただいて良かったです。韓国の民主化運動の重たさが実感としてよくよく伝わってきました。
なにしろ、日本でアルバイトの仕事をしていた時期、そのアリバイもはっきりしているのに、北朝鮮に渡って指令を受けて韓国でスパイ活動していたという「自白」をさせられたのです。その「自白」にもとづいて死刑判決を受け、獄中で、処刑の日がいつに来るかビクビクして過ごしていたというのです。
韓国の死刑囚は、24時間、ずっと手錠をかけられているというのを初めて知りました。行動の自由を奪って、自殺を防止するという狙いもあるようです。
著者は1948年10月生まれで、人吉高校から中央大学理工学部に入学。そこで、コリア文研に入った。そのころ、北朝鮮は輝いているように見えた。
映画「キューポラのある街」(吉永小百合が上演)でも、北朝鮮が魅力的な国だという前提で、北朝鮮へ帰国しようという人々の話が出ていました。今のように、貧しい、ひどい独裁専制国家というイメージはなかったのです。
著者は韓国に渡り、高麗大学に留学しました。そして、婚約者となる女性に出会うのです。ところが、結婚式の直前の1975年12月11日、著者はKCIAに捕まります。拷問の始まりです。結局、耐えられず、求められるまま、すべてを「認める」のでした。
それからはドロ沼。北に行ってスパイ教育を受けたとか、調書の上では誰がみても完全な「北のスパイ」になったのです。KCIA(中央情報部)の地下室は、人間を人間ではなくならせる悪魔の空間であり、ある日突然連行された無防備な人は拷問の専門家である彼らには、いとも簡単に料理できる獲物だった。
検事は求刑のとき、こう言った。
「李哲のような人間は社会にとって極めて危険。なので、社会から永遠に抹殺しなければならない。よって死刑を求刑する」
同じく捕まっていた婚約者には懲役10年が求刑された。そして、一審判決は著者に死刑、婚約者に6年の実刑判決。次の二審判決も、著者に日本にいたことのアリバイが証明されても、変わらず死刑判決でした。婚約者のほうは3年6ヶ月の実刑に減軽。1977年に上告棄却で著者の死刑が確定した。その年の12月、著者は洗礼を受けてカトリックの信者になった。
刑務所の中の生活の大変さが、かなり伝わってきます。
著者も次第に元気を取り戻していき、職員の暴力に耐えるようになっていきました。
「あんなに殴られて、痛くないのですか?」
「変なこと言いますね。生身の人間ですから、痛くないわけがありません」
身体の節々が疼(うず)いて動くのも不自由だったが、心の中で大声で叫んだ。
「勝ったぞ!」。初めての勝利の味をかみしめていた。傷だらけの勝利だ。勝利したという思いで、心は爽やかだった。勝利するためには、傷を負うことも実感した。
いやあ、実に痛そうな勝利です。下手に生きようとするから負けるのであって、死のうと思ったら勝てるのだ。貴重な悟りを得た、と言います。大変ですよね…。
大邸七・三一事件は1985年7月31日に起きた。地下室で著者ら18人がひどい暴行を受けた。これに対して、断食闘争を始めた。
刑務所内でたたかう有力な手段・方法に断食するというのがあるのですね。イギリスでもアイルランド独立闘争の闘士が刑務所内で断食闘争を始め、ついに餓死してしまうというのがありましたよね。ただ、これも、外部と連絡をとって、社会に知らせるというフォローがないと容易に勝てるものではないとのこと。
ところが、ここで、著者の婚約者が大きく動くのです。すでに刑務所を出ていたので、著者への面会に来ていて、また、外部の教会も動かしたのでした。韓国では、日本と違って教会の力は大きいようです。婚約者は、まさしく猪突猛進して、世の中を突き動かしました。ついに保安課長が土下座し、次に副所長が泣きを入れ、勝利したのでした。断食闘争が勝利をおさめるという画期的な成果をおさめたのです。
1988年10月に著者は出所に、婚約者と13年遅れの結婚式をあげます。場所は明洞聖堂、結婚ミサは金森煥枢機郷。そして、結婚式のあとは、3000人の参加者による明洞一帯の結婚式デモ行進。横断幕を先頭に、鼓手たちが太鼓を叩きながら進む。新郎新婦と母親と牧師夫妻を乗せた花飾り車が続き、そのうしろから多くの祝賀客が続いて行進する。明洞聖堂の街中を一周して明洞聖堂に戻って解散。
いやはや、こんなすばらしい結婚セレモニーなんて聞いたことがありません。
そして、1989年5月に著者は日本に戻ったのでした。
日本と韓国の深い関わり、そして韓国民主文化闘争の苦労をまざまざと知らせる貴重な良書です。心ある日本人に広く読んでほしいと強く思いました。この本を読んだ翌日、毎日新聞に大きな記事になっていました。
(2021年6月刊。税込3850円)

おもしろいネズミの世界

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 渡部 大介 、 出版 緑書房
私はネズミ年の生まれですし、ミッキーマウスなど、ネズミって可愛いですよね。でも、ドブネズミは大きいし、怖いです。
ネズミ博士がネズミの世界を面白く語っている本です。
世界には5400種の哺乳類がいて、ネズミの仲間(げっし目)はその4割2300種を占め、最大のグループだ。次の1200種のコウモリに大差をつけている。
真のネズミ(ネズミ形亜目)は1500種いる。
ネズミの歯は上下2本ずつの門歯(切歯、前歯)がノミのように生えていて、かじる能力が非常に優れている。
ネズミという名前は、根栖み、根住(棲)み、寝盗み、に由来するようだ。古事記には「禰須美」として登場している。
日本固有のネズミは9種。アカネズミ、ヒメネズミ、セスジネズミなど…。カカネズミは、最小。
モグラは肉食なので野菜は食べない。ただ、モグラのトンネルを利用して、野菜を食べる家ネズミやハタネズミがいる。
ネズミの聴覚は優れていて、人間には聞えない周波数の音で、仲間同士、コミュニケーションをとっている。
ネズミは「寝住み」とも呼ぶように、多くは夜行性。
ネズミの嗅覚は人よりはるかに優れていて、地雷撤去で活躍している。火薬のにおいを探りあてる。オニネズミは体重が1キロしかないので、ネズミが地雷を踏んでも爆発はしない。
ネズミの長いヒゲは、視力の弱いのを補って、重要な役割を果たしている。
ハリネズミはモグラの親戚で、ネズミの仲間ではない。
ネズミは味覚も敏感。ネズミは甘味と塩味を好み、苦味、酸味は苦手。
ネズミの毛は蒔絵(まきえ)の筆として最上級。数十頭のネズミの最上の毛でつくられた本根朱筆(ほんねしゅふで)は、最上級。
ネズミは一晩に週十回の交尾行動を繰り返すので、交尾するとほぼ妊娠する。
マウスやラットは、20日間の妊娠で出産し、そのあとすぐ交尾して妊娠して20日後には出産。1ヶ月弱のサイクルで、一度に多いと10頭の子を産むので、それこそネズミ算式に増えていく。
ヘビを飼うとき、エサとしてネズミを与える。丸飲みにし、そのほとんどを栄養として消化・吸収できるため、ヘビには紫外線すら必要がない。
ネズミは、ダニなどの外部寄生虫の宿主となり、また病原性細菌やウィルスの感染源にもなる。
垂直方向で移動できるのは、家ネズミではクマネズミだけ。ドブネズミにはできない。それでクマネズミが今や日本最大勢力を誇っている。
日本における最初のネズミ飼育記録は江戸時代にある。ネズミを飼い馴(な)らすための教本として『養鼠玉のかけはし』(1775年)や『珍玩鼠育草』(1787年)が出版されている。いやあ、驚きました。江戸時代にすでにネズミの飼い方の本があったとは…。
たくさんのネズミを知ることができる本でした。知れば知るほど、ムチュウになりますよ…。
(2021年7月刊。税込1980円)

輝け!キネマ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 西村 雄一郎 、 出版 ちくま文庫
著者は佐賀出身で、今も佐賀大学で映画論を教えているようです。私たち団塊世代のすぐ下ですから、映画館全盛時代も味わっているはずです。
私の子どものころの映画館では、鞍馬天狗の嵐寛寿郎が馬を走らせて満員盛況の観客が総立ちとなり、一斉に拍手し、声援を天狗に送るのです。スクリーンの向こう側(といっても布一枚でしかありませんが…)と観客席が一体となって、興奮のるつぼに浸っていました。無事に悪漢たちから助け出すと、満足、満足、大満足の気分に浸って映画館をあとにしました。
『七人の侍』は、なんといってもピカイチの日本映画ですよね。あの雨中のなかの戦闘シーンといい、最後の平和な農村の田植え光景といい、一見すると、馬鹿で非力の農民たちが、実はたくましく生きのびる力を持っているなんて、いやはや、歴史を見る目を一変させますよね…。世界的にも評価が高い映画だというのは当然だと私も思います。
著者は、小津と原節子、溝口と田中絹代、木下と高峰秀子、そして黒澤と三船敏郎の関係を論じています。
小津安二郎と原節子は男と女の恋愛関係、しかし、忍ぶ恋のようなプラトニックな愛。溝口健二と田中絹代は溝口の片思いに終わった。木下恵介と高峰秀子は、お互いが引き寄せられた。黒澤明と三船敏郎は、男と男の関係で、反発しあいながらのものだった。
女優を美しく魅力的に撮るには、そこに尋常ならざる愛情・信頼関係が介在していたからにちがいない。
溝口健二は、役者の演技に対して、ただ「違います」としか言わない。何度やっても「違う」を繰り返すので、役者が切れると、溝口はこう言った。
「あなたは役者でしょ?それで給料をもらっているんでしょ?自分で考えなさい」
いやあ、こ、これは困りますよね…。役者は、一体どうしたらいいのでしょうか…。
でも、そう言われると役者は自分の頭で考えるしかありません。じっくり、人物の人となりを理解したうえで演じるしかない。そうすると、自然に役者としての腕前は上がってくる。うむむ、なるほど、そういうものなんでしょうね…。
高峰秀子は、どこか冷めていて、女優で食っているのに、どこかその女優という職業を軽蔑し、クールに見つめていたのではなかったか…。
木下恵介は『二十四の瞳』、『喜びも悲しみも幾歳月』を撮り、リリシズムあふれる叙情派の監督と思われがちだが、実はまったく正反対のリアリストだ。
逆に、黒澤明のほうが涙もろい、センチメンタリストだ。
木下恵介は、「女って面白いよね。自分でも意識してないで、非常に複雑なものを持っているでしょ。男だったら、腹の中なんて、たかが知れている」と言った。そして、黒澤明の「男って、みんな単純でしょ。バカじゃないかと思うくらい単純」だと評した。
ところが、黒澤明には、この単純さ、シンプルさがあったおかげで、国際的に受け入れられた。それに対して、木下恵介のほうは、外国人には分かりにくくて、日本の評価は高くても国際的には評価されなかった。うむむ、なーるほど、ですね…。
1998年9月6日、黒澤明が亡くなり、その葬儀の参列者は3万5千人。同年12月30日、木下恵介が86歳で亡くなり、翌1月8日の葬儀の参列者は600人。いやあ、こんなにも違うものなんですね…。
黒澤明は、世界のクロサワです。フランスでもロシアでも…。そんなことも知りました。映画愛好家の私には、たまらない文庫本でした。
(2021年6月刊。税込880円)

信長徹底解読

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 堀 新、井上 泰至 、 出版 文学通信
信長が今川義元を討ち取った桶狭間(おけはざま)の戦いの実相が語られています。
この本の結論は、桶狭間での信長の劇的な勝利は、いくつかの偶然と、戦国武将の心性が原因だったというものです。それは、①義元が伊勢・志摩侵攻を目指していたこと、②信長は、今川の尾張素通りに激怒し、軍議もなく、突然に出陣したこと、③思いがけない信長の出陣に、義元は作戦を一時変更して鳴海城方面へ前進したこと、④信長は目前の今川軍を「くたびれた武者」と誤解したまま、家臣の制止をふり切って正面攻撃したこと。
つまり、天候の変化があったとしても、信長に計算された作戦はなく、戦国武将の心性にもとづく軍事行動が勝利を呼んだ。ということになっています。うむむ、そうだったのですか…。
義元は、このとき大高城下に武者千艘を終結させていたというのは初めて知りました。
そして、今川義元が京の貴族が乗るような「塗輿」を持参していたのは事実として認めながらも、それは京都で使うつもりのもので、ふだんの義元は乗馬していたのだろうとしています。なーるほど、です。
長篠の戦いで、信長が鉄砲三千挺を三弾撃ちで待ちかまえていたので、武田軍が惨敗したというのは、今の通説は、これを否定している。ただ、鉄砲勢が三段構えをすること自体はありえたのではないかと今でも主張する人はいますよね…。
この本では、信長も武田軍も、どちらも長篠の戦いで両軍激突というのは考えていなかったとしています。信長は大坂の本願寺との戦いを重視して兵力を温存したかった、というのです。
信長を知るためには、やはり安土城に行くしかありません。私は二度、行きました。ここに400年ほど前に信長が歩いていて、立っていたのかと思うと感慨深いものがありました。
信長の話は尽きません…。
(2020年7月刊。税込2970円)

酸素同位体比年輪年代法

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 中塚 武 、 出版 同成社
酸素同位体比年輪年代法とは、年輪編の代わりに年輪の主成分であるセルロースにふくまれる酸素同位体比という科学的指標を測定して、その酸素同位体比の変動パターンを年代が既知の資料と未知の資料のあいだで比較するという手の込んだ方法。この方法は、パターン照合で年代を決定する作業において成功する確率が高く、あらゆる種類の年輪に等しく応用できる。そして、夏の気候の年々の変動にも精度よく復元できるというメリットがある。
この方法は2011年から日本では、弥生時代以降の、3000年間の遺跡や建築物の年代決定に応用され、急速に発展してきて、日本は、この分野で一人勝ちの状況になった。
今では、日本には過去3000年分のスギとヒノキの年輪幅のマスタークロノロジー(標準年輪曲線)ができあがっている。これは、世界でも抜きんでた研究の成果だ。
この方法は低コストで誤差なく年代が決定できる。この方法によると、年単位での年代決定が可能。
なぜ酸素なのか…。酸素の同位体比は、過去の気候変動を記録しやすい。水は気候変動の主役であること、酸素は必ずふくまれていることによる。
セルロースは、いったんなくなったら、二度と周囲の物質と交換しない。
ヒノキやスギ、マツなどは針葉樹。紀元前にさかのぼると、日本でも広葉樹が繁茂していた。シイ、カシ、クスノキ、クヌギ、クリ、ケヤキ、サクラなど…。針葉樹は、深い山の奥にはえていて、古代の人々には、切り倒して低地まで運び出すのが困難だった。広葉樹のほうは、低地の集落の周辺に生えていたので、利用するのに都合がよかった。
この方法による年代判定の結果が、文献史学や考古学的な推定と整合的であったことから、大きなスポットライトがあたった。分析コストも、非常に安いというメリットがある。
年輪によって建造年を安定しているというのは前から知っていましたが、今はもっと進んでいることを知ることができました。軍事方面でない、こちらの人類の発展史における学問の技術・向上には刮目(かつもく)されます。
(2021年6月刊。税込2970円)

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