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トヨタ・レクサス惨敗

カテゴリー:社会

著者:山本哲士、出版社:ビジネス社
 レクサスを運転していて、とても腹が立ちました。ええっ、この車は運転する人間をバカにしていると思いました。なにしろ、ひどいときには10分おきに「販売店からのお知らせがあります」というアナウンスが流れるのです。これでは、まるでレクサス様の奴隷のようなものです。せめて車のなかのプライベート空間くらい、自分の好きなように放っておいてほしいのです。にもかかわらず、次から次へコマーシャルを流しこみ、ご主人様はレクサス様であるなどというご託宣を並べたてられた日には、ストレスがつのるばかりです。
 この本を読んで、レクサスが日本で売れないわけが分かりました。レクサス(トヨタ)は勘違いしているのです。
 販売店からの案内というのは、テレマティクスというのだそうです。
 テレマティクスとは、移動中の自動車でも家庭や職場と同じようにインターネットを介して情報やコンテンツを楽しんだり、メールをやりとりできるようになるというビジネスモデルのこと。実際には、トラブルの双方向データ通信、タイヤやオイル交換データの告知といった程度、そして、それに毛の生えた余計な情報提供があるだけ。自動車会社には、これによって顧客情報が常に得られ、顧客との関係が継続することで顧客の囲いこみができるという思惑がある。
 私は車内では一人静かにシャンソンを聞いて楽しみたいのです。それを途中で遮られたくなんかありません。そして、今は、NHKフランス語講座のCDを聞いて、同じテンポで発音する訓練をしています。その邪魔をしてほしくはありません。
 アメリカではレクサスは大いに売れた。すでに年間25万台をこえ、年間30万台に達しようとしている。アメリカでレクサスは通算100万台売れるまで10年を要したが、その後、通算200万台を4年で達成している。アメリカの自動車市場のうち高級車市場のシェアは、1990年代の8%から現在は11.4%にまで伸びており、レクサスは断然トップの 14%を占める。
 アメリカ・レクサスのユーザーたちは巨額の資産をかかえる富裕層ではなく、年収10万ドルの層だ。2001年、アメリカでは年収10万ドル世帯が10年前の10%から14%へと伸びた。この層は、社会への自己主張がクルマを選ぶのではなく、有用性、性能、資産価値などで信頼できるブランドを自分のために求めるよう、はっきりと変わってきた。
 アメリカ・レクサスは、日本トヨタのモノづくりにまったく相反して、アメリカの自動車市場に対してもまったく相反する世界をつくり上げたことによって大成功をおさめた。
 レクサスを扱う店に行くと、そこが自分のとってパブリックな空間で、自分が自然にプライベートな存在になれることを好んで、アメリカ人はレクサスのディーラーショップに通いつめる。
 アメリカ・レクサスは、オーナーたちに生活の快感をもたらすシステムを設計し、構築した。アメリカでレクサスが成功したのに対して、ヨーロッパではマイバッハが成功をおさめている。マイバッハの価格は4000万円とか5000万円、マイバッハのセールスセンターは、一日に一人しか予約を入れない。一人にだけ徹底する完全予約制だ。
 日本のレクサスは高級車ではない。レクサスを販売する営業マンの教育のためにエアラインの客室乗務員を呼んで人材研修を行ったことを著者は痛烈に批判しています。レクサスに求められている最高のサービスが何百人もの客を数人で対応しているエアラインの客室乗務員から学べるとトヨタが考えているとしたら、それこそ笑止千万だ。
 日本の富裕層は、レクサスのクルマとしての素晴らしさを理解しているが、見せびらかしたい相手である一般大衆層のほうがレクサスを高級車として認知していないために、買おうとしないわけである。
 クラウンやマジェスタなどトヨタの上級車のオーナーがレクサスに乗り換えただけ。外国車からの乗り換えは1割ほどしかいなかった。
 クルマは、今や単なるモノではないという指摘はあたっているように思います。レクサスがアメリカで売れているのに、日本でなぜ売れないのか、その分析は鋭いと思いました。

淀殿

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:福田千鶴、出版社:ミネルヴァ書房
 淀殿とは、豊臣秀吉の側室の一人。秀吉の愛妾となって秀頼を産み、秀吉の死後は、秀頼とともに大坂城にあって、大坂冬の陣、夏の陣を引き起こし、ついに豊臣家を滅亡に導いた。このような定説に真っ向から挑戦した本です。
 淀殿の本名は、浅井茶々(ちゃちゃ)。
 殿と様には違いがある。「殿」付けで呼ばれるより、「様」付けで呼ばれる人物の方が格上であった。淀殿というのは江戸時代になってからの呼称。その生存中には、「様」付けで呼ばれていた。
 天下人たる豊臣秀吉は、一夫多妻の婚姻形態をとっていた。明治になるまで、天皇家においては、制度的に后(正妻・嫡妻)が一人とは限られなかった。后以外にも女御などの別妻や多くの女官(侍妾)がいた。摂関家も同じく一夫多妻制だった。天皇を超越する権威と権力をもった天下人秀吉の妻が一人でなければならい理由はない。
 著者は、秀吉の妻は少なくとも5人いたとしています。有名な醍醐の花見のとき、御輿に乗って現れた女性、すなわち、政所(杉原寧)、西の丸(浅井茶々)、松の丸(京極龍子)、三の丸(織田氏)、加賀(前田摩阿)です。
 秀頼は茶々(淀殿)が秀吉以外の男性と密通して生まれた子だという説がありますが、著者は否定します。秀吉の身近にいた寧が秀頼を秀吉の子であることを疑っていなかったこと、秀吉の嫉妬深く残忍な性格からして、茶々がもし密通していたら、それが発覚したときには生命の保障はない。だから、そんなことはありえない。なるほど、ですね。
 寧と茶々の二人は、個々の問題で対立する場面はあったが、重要なことは、二人とも豊臣家の後家として連携することを基本として考え、常に行動していた。
 秀吉は、第一番目が寧であり、第二番目が茶々であるという序列を強く意識しており、この順序を崩すことはなかった。
 秀吉が残忍なことは秀次とその関係者の処刑の件で知っていましたが、もうひとつあったのですね。天正 17年(1589年)2月25日夜、聚楽城の表門(南鉄門)に誰かが落首を貼り出しました。
 大仏の功徳もあれや鑓かたな
 釘かすがいは子だからめぐむ
 などです。子種がないと思われていた秀吉に子ができたことが大仏の功徳として嘲笑されたのです。秀吉は自尊心を大きく傷つけられ、直ちに報復の行動に出ました。
 番衆17人を処罰。3日にわたって、一日ずつ鼻を削ぎ、耳を切ったうえで、逆さ磔に処していったのです。このようにして合計して113人が処刑されました。
 もっとも、秀吉は人気回復の手もうちました。金賦(くばり)です。金6千枚、銀2万5千枚を諸大名や寺社に分配したのです。
 そして、懐妊した茶々のために御殿を新造しました。茶々は御新造様になったわけです。
 茶々が淀に在城していたから淀殿と呼ばれていたというのは誤りだ。正しくは、淀在城を機に茶々が「淀」を号として用いたため、死後に号の「淀」に敬称の「殿」をつけて「淀殿」と呼ぶようになり、近代になってからは「君」をつけて「淀君」と呼ぶようになったものである。
 茶々は初めての子「鶴松」を亡くしても秀吉の正妻としての地位は失わなかった。
 慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が62歳で死んだ。秀頼はわずか7歳だった。茶々は、大坂城が灰燼に帰す日まで、17年間、秀頼とともに大坂で暮らした。
 このころの大坂は人口20万。経済的にも文化的にも、日本でもっとも繁栄した活気ある大都会だった。家屋も二階建てだった。
 慶長16年の二条城会見で、成人した秀頼を見た家康は、徳川の天下の行く末について不安を感じた。それから4年後、豊臣家は完全に滅亡させられた。
 大坂夏の陣で、茶々は秀頼とともに自害した。その様子について、伊達政宗は手紙に次のように書いた。
 大坂城は本丸をみずから焼き、秀頼とお袋(茶々のこと)は翌日まで天守下の丸の蔵に生き残っていたところ、公方様が千姫を引き取り、秀頼には腹を切らせ、お袋は成敗した。
 著者は、茶々について、家康の保護下に入ることを拒み続け、何としてもわが子を天下人にするという自己主張を貫き通した茶々の姿には、男にもひけをとることのない精神力の強さと、戦国女性ならではの意地を見る思いだ、としています。なるほど、そういう見方ができるのですね。
 ところで、この本には再三、「武功夜話」が引用されています。偽書だという説もあるわけなのですから、その点のコメントなしに引用されているのにひっかかりました。どうなんでしょうか・・・。

証券詐欺師

カテゴリー:アメリカ

著者:ゲーリー・ワイス、出版社:集英社
 振り込め詐欺の黒幕が暴力団だということは、五菱会事件における暴力団山口組との結びつきが明らかになって、今では広く知られています。
 先物取引や株式取引の仕手戦その他のインチキ取引でも暴力団が絡んでいると思われますが、その確証はまだまだ十分とは言えません。
 この本は、アメリカの証券業界(ウォール街)における詐欺商法がマフィアの資金源となっていたことを明らかにしています。読めば読むほど、おぞましい手口です。こうやって、日本でもアメリカでも、お人好しで無知・善良な市民が大金を欺しとられているのですね。
 ノドから手が出るほど金に飢えているルイスのような人間が、大金を手に入れるには、お金は既にたっぷり持っているかのような見てくれが肝心だ。腕時計はプラチナ仕上げのロレックス・プレジデンシャル。文字盤の周囲にダイヤがはめこまれた逸品だ。1万  7000ドルはする。スーツも一着2000ドルするのを仕立てた。
 しゃべり口調はニューヨークの下町なまり丸出しだが、物腰は丁寧で、そつがなく、辣腕ブローカーというそぶりはみじんも見せない。初めて会う人は、その整った身なりと、物腰に上品さを感じる。
 狙ったお客と話すときには、物理的な接近が親近感を生む。親近感は大金を引き出すのに必要不可欠だ。財布の口をこじ開けるのにつかうのは舌先三寸のみ。
 小企業の超低位株を扱う証券会社をチョップハウスという。外から見る限り、普通の証券会社と何ら変わらない。バケツショップとは無認可営業のブローカーのこと。
 1990年代のアメリカにおいて、チョップハウスの詐欺行為は前代未聞のスケールで、しかも公然と行われた。その収益は年間100億ドルにのぼると見積もられた。
 チョップハウスとバケツショップは、ウォール街の公然の秘密だった。
 マスコミの餌食になるな。世間の注目を浴びるのは禁物。
 ボールドルームは、普通は役員室を意味する。しかし、いわゆるクズ株を商うチョップハウスでは、ブローカーや電話勧誘係が詰めている大部屋だ。
 朝7時から夜11時まで休みなしで働く。電話をじゃんじゃんかけまくる。
 これはセールスの電話じゃないと、真っ先に告げる。「今日お電話したのは、いずれこちらからとっておきの情報をお知らせできるよう、お宅様がどういった投資に関心がおありか、うかがおうと思いまして」と言う。簡単な仕事だ。要は、相手の心を開かせ、話を聞く気にさせて、ブローカーに受話器を渡せばいい。
 相手が興味がないとか言ったら、さっさと電話を切る。そして30秒してもう一回電話をかける。
 「さっきは失礼しました。こんな有利な話をお知らせしておきながら、あっさり引き下がるなんて、どうかしてましたよ。絶好のチャンスです。・・・」と、とにかく相手が買う気になるまでしゃべりまくる。
 いやあ、これって日本でもまるで同じ手口ですよね。というか、アメリカの手口をそのまま日本に輸入したのですね。
 投資家連中のお間抜けぶりは不治の病だ。個人投資家なんてのは、馬鹿ばっかりだ。
 顧客リストは、大手会社のそれを横流ししてもらう。
 電話一本で、相手が何者かもわからないのに、100万ドルを見ず知らずの人間にほいほい送ってくれるんだ。売っては買い、売っては買いをどんどん差し引いていく。残高が3万ドルまでいったところで、あとはごっそり手数料の形でパクってしまう。
 あれあれ、これも日本の先物取引のだましの手口そのものですね。
 3000人に電話して、2000人は引っかかる。こんな楽な商売って他にない。名簿にはずいぶんお金をつかった。数千人分だと1万ドルかかることもある。ひとりあたり2ドル払ったこともある。
 ブローカー何人かで組んでワラントの相場を操縦した。それで、誰をもうけさせ、誰をカモにするかは、ルイスの胸三寸だった。誰もが得をする。そんなバカな話があるはずもない。お金には必ず出所がある。
 ルイスはお客を無名人と有名人の2種類に分けた。狙いはセレブから何百万ドルもの大金を引き出すことにある。彼らをおびき寄せるには、餌がいる。取引で損をかぶるのは常に無名人で、セレブは常に勝ち組にまわる。
 客なんて特別扱いにされたい奴ばっかり。あんたがいちばん大切な客だって持ち上げとけばいい。
 本気で大もうけできると信じている連中のお金を巻き上げるから、ときには後ろめたくなることもある。そんなときには、何を今さらくよくよしているんだ、ほいほいお金を送ってくるような間抜けが相手なんだから、気にすることなんかないと、自分に言い聞かせるんだ。
 こうやってルイスは20歳で巨額のお金を手にします。そして、それにマフィアが目をつけ、ルイスの上前をはねるのです。一度マフィアに頼ったら、もう抜けることは出来ません。
 マフィアは刑務所暮らしをなんとも思っていない。受刑という代償を払うからこそ地位と権力と自由をほしいままにできる。だから、誰かが他人様から盗んだお金を平然と巻き上げる。
 ウォール街にひしめくブローカー業者は、特定のファミリーに牛耳られてはいない。ウォール街で重要なのは個人対個人の関係、つまり、どのマフィアとどのブローカーがつながっているかだけ。
 チョップハウスで働く若者やマフィアを潤していたマネー・ロンダリングは、主にロシア出身のユダヤ人とイスラエル人の手で行われていた。
 バケツショップは、客からお金をただ取りするだけで、株を仕入れてもいない。書類もあまりつくられない。書類がなければ犯罪の証拠もないから、取り締まりようもないということだ。
 この本を読むと、マフィアがアメリカからなくなったなんてとんでもないということがよく分かります。それは、まるでウォール街全体をマフィアが裏から動かしているように見えてくるほどです。日本の株式市場の仕手戦にも暴力団の影が見え隠れしていますので、アメリカも日本も同じことなんでしょうね。それでも、ホントいやになりますよね。

変貌する財界

カテゴリー:社会

著者:佐々木憲昭、出版社:新日本出版社
 日本経団連の分析。これがサブ・タイトルの本です。どうせ、固くて紋切り型の分析だろうと、まったく期待せずに読みはじめたところ、どうしてどうして面白い。いえ久しぶりに知的興奮を覚えてしまったほどです。いやあ、そういうことだったのか。なーるほど。ついつい、何度も膝をうってしましました。
 わずか20頁の序章に、この本の要約がなされています。その部分だけでも読む価値があります。もっとも、それを読んだら、もっと詳しいことが知りたくて、やっぱり本文も読みたくなると思いますが・・・。
 日本経団連は、1002年5月に旧経団連と日経連が合同して発足した。役員の人数は13人から30人へと増えた。
 経団連の役員を出している大企業の正規従業員数は、1970年に4万人超だったのが2006年には1万5千人と、36年間で3分の1に減っている。
 ちなみに、日本の企業の正規従業員は、1997年にピークで3812万人だったが、2006年には3340万人。472万人も減っている。これに対して、非正規雇用者は、1997年に1152万人だったのが、2006年には1663万人となった。511万人も増加している。
 海外に進出した日本企業は、進出先で1980年の72万人から2002年の 341万人へと現地雇用を5倍近く増大させた。日本企業の海外での雇用の63%はアジア地域である。
 経団連の会長・副会長企業1社平均の輸出・海外売上高は、1970年に1761億円、2006年には3兆776億円となった。36年間で17.5倍となった。巨大企業ほど、海外市場への依存度が高い。経団連役員の所属企業は、国内市場から海外市場へと販売先を大きくシフトさせている。海外売上依存率が一番高い企業は日本郵船で82.5%。次いで本田技研工業80.4%、キャノン75.5%、ソニー70.7%、トヨタ自動車 68.0%、松下電器産業 1.4%。
 最近、アメリカと日本の貿易摩擦の話が聞かれない。なぜか?
 日本の輸出先に大きな変化が起きたから。1980年にアメリカ向け24.2%、アジア向け28.1%(うち中国向け3.9%)。ところが2005年には、アジア向け   48.4%(うち中国向け13.5%)。アメリカ向けは22.6%に低下している。
 アメリカ自身の貿易収支が、1990年代以降、対日赤字より対中・対アジア赤字のほうが大きくなった。2004年におけるアメリカの対日貿易赤字は756億ドル。これに対して対中国貿易赤字は1619億ドル、東アジア全体の貿易赤字は2225億ドル。なーるほど。
 日本企業の海外現地法人数は、1981年の2631社から、2004年の     1万2890社へと5倍に増えている。
 日本経団連の役員を構成している巨大企業の発行済み株式のうち、すでに3割が外国資本の手中にある。日本経団連トップクラスの巨大企業ほど、その株式を外国資本によって保有されるようになっている。
 外国人株主比率が一番高いのは、オリックスで57.33%。なんと、あの政商の宮内義彦の会社ではありませんか。道理で、いつもアメリカの要求どおりに何でも規制緩和しろ、自由化しろと声高に叫びたてるわけです。2番目は、日本経団連会長のキャノンで 51.73%。続いてソニー48%、武田薬品41%、三井不動産37%、日立製作所 36%、住友商事 34%、住友化学30%、イトーヨーカ堂30%。トヨタ自動車も 23%。役員企業26社の平均をみると29%という高さ。
 今や、株主10位以内に外資の入っていない企業のほうが例外となっている。うむむ、そうだったんですかー・・・。
 日本経団連のなかで指導的な役割を果たしている役員の所属する多くの企業が、外資によって株式の主要な部分を保有され、少ない企業の経営を直接支配されるに至っている。こうして、日本経団連企業の多くは、アメリカを中心とする多国籍企業の強い影響を受け、日本経団連は、全体として日米多国籍企業の共同の利益代表としての生活をいっそう強めている。
 日本経団連の御手洗会長は就任挨拶で、官や国への安易な依存心を持つな、と述べた。ええーっ、じゃあ、自分たちはどうなんですか?巨大企業は、税金を大幅に引き下げてもらい、銀行のように法人税を一円も払っていないうえに、ガッポガッポと補助金を国に出させているじゃありませんか。よく言うよ。ホント、そんな気がします。
 小泉首相(当時)は、奥田会長(当時)に対して、日本経団連の献金は一番透明だ。企業が政治家や政党へ協力することを禁止したら、税金で活動するしかなくなってしまうと語った。えーっ、そんな、バカな。企業献金なんて、アメリカでも認められていないものですよ。投票権もない企業が政党へ献金するということは、営利本位の企業が政治を左右して、弱者を切り捨てるということになるだけです。
 税金で政党を支えているのは、既に現実です。例の政党助成金です。国民一人あたり 250円支払ってうみ出されている政党助成金をつぎこんで自民党のCMやホームページがつくられている。国民ごまかしのイメージ作戦の資金源は、実は国民が負担している。これを知ってホント腹が立ちました。
 民主党も日本経団連に対して10億円もらおうと必死だということです。
 自民党も民主党も、日本経団連の丸がかえだということがよく分かります。
 政党が国民の税金から成りたっているなんて、よくよく考えたら、ホントおかしなことです。やっぱり政党助成金なんて、すぐに廃止すべきだとつくづく思いました。

10歳の放浪記

カテゴリー:社会

著者:上條さなえ、出版社:講談社
 ボロボロ泣けてきました。だって、わずか10歳の少女が父親と二人して一泊100円の簡易宿泊書を泊まり歩いたり、食べるものにも困った状況のなかで、けな気に生きていくのですよ。タダで映画館に入って、マティーニにあこがれたり、パチンコ店の店員から玉を大量放出してもらい、それをヤクザの兄ちゃんが高く買ってくれ、そのお金で夕食を買って父親の待つ宿泊所へ戻ります。父親は妻に捨てられ、やけになって酒浸りなのです。
 そんななかでも彼女のえらいところは、決して希望を失わず、少女らしい夢を抱き続けたことです。私より少し年下の団塊世代の女性です。私は読んだことがありませんが、今では立派な児童文学作家となっています。
 1960年の秋から翌年の秋までの1年間、わたしと父はホームレスだった。わたしは10歳で、父は43歳だった。
 今夜はここに泊まるしかないんだ。駅のベンチで寝るよりは、ずっとずっと天国だよ。 おとうちゃん、明日はご飯を食べられる?
 父は、明日は明日の風が吹くさ、としか答えてくれなかった。
 子どもって悲しいよね。大人に決められたら逆らえないし、どんなにいやなことだって、がまんしなくちゃならないんだもん。
 うーん、そうなんですよね・・・。そう言われると、本当に返す言葉はありませんね。
 母はわたしに約束した。一つお泊まりしたら迎えに来ることを。
 お母ちゃん、本当に一つお泊まりしたら、お迎えに来るんだよね。
 ええ、だから、いい子にしててね。
 次の日、私は午前八時半に家を出て、バス停に向かった。昨日は、何か母に急用ができたんだとわたしは思った。だから、今日はきっとわたしを迎えに来てくれる。
 バスは一日三本。午前九時、午後三時、午後五時。わたしはその時間になると、バス停に出かけて母を待った。
 十日過ぎても、母は迎えに来なかった。それでも、一日三回、雨の日もわたしはバス停に立って待った。他にすることもなかった。
 二十日たっても、バス停に母はあらわれなかった。わたしは、とぼとぼとおじさんの家に帰った。
 わたしがたまたまバス停に行けなかったとき、突然、母が姿をあらわした。やっと迎えに来てくれたのだ。夜、わたしは母と一つの布団に入った。でも、母はわたしが期待したような言葉はかけてくれなかった。
 あなたのお父さんのせいよ。
 母はひとことそう言うと、長旅を疲れたのか、すぐに寝息をたてた。
 それでも、わたしは幸せだった。広い八畳間に一人で寝る怖さから解放されて、ぐっすり眠った。
 ほんと、このくだりはいじらしいですね。私も小学生低学年のころ、田舎のおじさんのところに泊まりに行って、広い八畳間にひとり(本当はすぐ上の兄も一緒だったと思うのですが・・・)寝て、怖い思いをしたことがあります。自宅にいる両親が火事にあって二人とも死んでしまって天涯孤独の孤児になってしまったら一体どうしよう、これからどうやって生きていったらいいんだろうと真剣に心配したのです。そのことを、ついこのあいだのことのように、私は今もはっきり覚えています。といっても、翌朝になると、そんな心配はすっかり忘れて、また一日中、魚つりしたりして楽しく遊んだのですが・・・。
 父がわたしにクリスマスのプレゼントとしてくれたのは、十円玉一枚だった。そんな父と早く別れたいと思った自分を、わたしは冷たい人間だと思った。
 映画館に入るときには、「あのう、お父さんが中にいるんですが、探していいですか?」と切符切りの女性に言う。すると、簡単に映画をタダで見れた。
 わたしは、映画に出てくるマティーニを大人になったら飲みたいと思った。その夢のために、今この生活に耐えようと思った。父が「死のうか」と言ったとき、わたしは、「やだ。まだマティーニを飲んでないもん」と首をふった。
 お金がない。パチンコ店の前を通ると、パチンコ玉が5コ落ちていた。わたしは台の前にすわってはじいた。台のうしろからニキビのたくさんある若い男が「どうしたの?」ときいた。わたしが「お父さんが病気で」とこたえると、そのうち、まるで台が壊れたように玉が出てきた。それを景品に換えるとヤクザの兄ちゃんが、45円で買ってくれた。
 結局、わたしは父からすすめられて養護学園に入ることになった。
 今はすべてをあきらめてがまんするけど、いつかきっと幸せになるんだと心に誓った。
 わたしは自分の子ができたら、こんなかわいそうなことはしないと思った。
 学園ではいじめにもあった。でも、いじめなんてなんでもない。それより、帰る家のない、明日泊まる所や食べることの心配をする生活のほうがどれだけ大変かと、子ども心に思っていた。毎日、寝るところがあり、三度の食事があり、勉強できる日々に感謝した。
 やっぱり子どもから夢を奪ってはいけませんね。この本を読んで、つくづくそう思いました。私も一度だけ絵本を出版しました(残念なことに、例のごとく、ちっとも売れませんでした。私のせいではありませんが、その出版社は倒産し、先日も、破産管財人の弁護士から破産手続が終了したという報告書が送られてきました)。
 著者は、小学校教員を経て37歳で児童文学を書いて、昨年10月までは埼玉県教育委員長もつとめました。すごいですね。見事にたちあがったのですね。拍手を送ります。
 先日、マサイの男性と結婚した日本人女性の本を紹介しましたところ、著者よりメールをいただきました。近く福岡でも公演する企画があるということです。詳しくは著者・永松さんのHPをご覧下さい。http://massailand.com

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