法律相談センター検索 弁護士検索

全記録・炭鉱

カテゴリー:社会

著者:鎌田 慧、出版社:創森社
 かつて日本には至るところに炭鉱があった。炭鉱で働く労働者は1948年に46万人、1957年にも30万人いた。2007年の今では釧路炭田(釧路コールマイン社)に  500人ほどしかいない。
 私は一度だけ、閉山前の三井三池炭鉱の坑内に入ったことがあります。有明海の海底よりさらに何百メートルも下、地底深くの切羽(きりは。石炭掘り出しの最前線です)にたどり着くまで、坑口から1時間以上もかかりました。周囲はすべて真っ暗闇のなかです。厚いゴム製のマンベルトに乗って、石炭のひと塊になった感じで昇ったり降りたりしてすすんでいくのです。暗黒の地底に吸いこまれそうな恐怖心を覚えました。
 炭鉱夫が生き抜くのは、ひとえに運と勘である。そうなんです。運が悪ければ死、なのです。いつ落盤にあってボタ(石炭ではない岩石)に圧しつぶされるか、いつガス爆発で殺されるか分からない、まさに死と隣りあわせの危険な職場です。
 北海道にあった北炭夕張炭鉱では、7年ごとに死者数百人という大事故が発生しており、死者20人未満の事故など、数えきれないほど。もちろん、天災というのではなく、安全無視、生産優先による人災です。
 そして北炭夕張炭鉱が閉山になって、人口10万人いた夕張市は、今では人口3万の都市になってしまいました。
 北海道の炭鉱の労務管理は三つの型に分類できる。三菱系は警察型労務管理。三井系は物欲的労務管理。北炭系は精神的労務管理。
 うーん、そうなんですか・・・。三井系も、けっこう警察に頼った労務管理をしていたように私などは思うんですが・・・。
 夕張には3人の市長がいると言われてきた。鉱山の所長、炭労出身の地区労議長、そしてホンモノの市長は、いわば三番目の市長。初代市長は北炭の労務課長出身だった。
 大牟田にあった三池炭鉱が閉山して、既に10年がたちました。いま、大牟田に炭鉱があったことを思い出させるのは、海辺にある石炭科学技術館くらいのものです。映画『フラガール』で見事に再現されていた2階建ての炭鉱長屋もまったく保存されていません。そういうものは、きちんと歴史的遺産として残すべきだと私は思うのですが・・・。
(2007年7月刊。1800円+税)

川の光

カテゴリー:未分類

著者:松浦寿輝、出版社:中央公論新社
 この本を読んでいるうちに、昔、子どもたちが小さかったころに読んだ覚えのある『冒険者たち。ガンバと十五ひきの仲間』(斎藤惇夫、岩波書店)を思い出しました。その本にはドブネズミのガンバを主人公とした勇気あふれる物語が描かれています。奥付を見ると、1982年11月の発刊ですから、今から25年も前の本でした。子どもたちと一緒になって夢中で読んだように記憶しているのですが、実は、読んだらサインをしたはずのサインがありませんでした。もう一度(?)、読んでみることにします。
 この本も、幼い子どものころにかえったような気分でワクワクドキドキしながら読みすすめました。たまに児童文学を読むのも気分がリフレッシュし、気分が若返って、いいものですよ。昔々、司法試験の受験生だったころ、『天使で大地はいっぱいだ』という児童文学の本を読んで頭をスッキリさせたことを再び思い出しました。
 この本は、なんと、読売新聞の夕刊に1年近く連載されたものを本として刊行したことを知って驚きました。私も高校生のころに、新聞の連載小説をよく読んでいました。源氏鶏太や獅子文六のサラリーマン向け小説を読んだ記憶があります。ちょっぴり大人向けの内容でしたので、少し背伸びした気分で読んでいました。
 この本の主人公は、ドブネズミではなく、川辺の土手に穴を掘って生活するクマネズミです。ひとまわり体の大きいドブネズミも登場しますが、ドブネズミのほうは帝国をつくっていてクマネズミの侵入を決して許しません。町のなかを貫いて流れる川が暗渠化される工事が始まって、主人公のクマネズミ一家は出ていかなければなりません。ところが、クマネズミの敵は至るところにたくさんいます。地上にはイタチやネコ、そしてドブネズミがいます。空からはカラスやノスリなどにも狙われます。
 窮地に立ったクマネズミ一家ですが、ゴールデンリトリバーの心優しい飼犬や古い洋館に老婆と住む猫に助けられます。そこらあたりが小説です。ほかにも、スズメの子どもを助けてやったため、それに恩義を感じた親スズメに何回も助けられたり、まさにクマネズミ一家の脱出行は波乱万丈です。
 いやあ、いいですね。こんな話をたまに読むのもいいですよ。
 本のオビに「空前の反響を呼んだ新聞連載」とあります。かなり誇張されているとは思いますが、なるほど読み手の心をうつ連載だったろうと思います。
 日経新聞で連載していた渡辺淳一のセックス満載の小説(『愛の流刑地』。私は読んでいません)よりは、よほど健全だし、明日に生きる元気を与えてくれる本であることは間違いありません。
(2007年7月刊。1700円+税)

せめて一時間だけでも

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ペーター・シュナイダー、出版社:慶應義塾大学出版会
 ナチスの支配するドイツの首都ベルリンで、ユダヤ人音楽家が活動して、無事に戦後まで生き延びたという感動の記録です。ナチス・ドイツのなかでも、ユダヤ人だと知ったうえで、ユダヤ人を生命がけで助けていたドイツ人がいたのです。映画『シンドラーのリスト』に出てくるシンドラーだけではありませんでした。ベルリンで地下潜伏生活をしてユダヤ人   1500人が生きのびたとみられています。相当数のドイツ人がそれを助けました。
 1500人が生きのびたといっても、戦前のベルリンに住んでいたユダヤ人は、実に 16万人いたのです。その半数は外国に逃れました。残る8万人は、強制収容所で生命を奪われました。
 ユダヤ人の夫を持つドイツ人の妻たちは、夫の即時釈放を求めて、数百人の女性が一週間にわたってデモ行進した。収容所の入り口を封鎖し、一歩も退かなかった。ナチの手先はドイツ女性に対して発砲できなかった。とうとう、ゲシュタポは、逮捕したユダヤ人の夫たち全員を釈放した。すごーい。すごいですね。やはり、女性の力は偉大です。
 ユダヤ人のコンラート・ラテは、キリスト教会のオルガン奏者になり、ひっぱりだこだった。天職に向かって自己を完成させたいという意思が、いつ捕まるかもしれない不安感を上まわり、日々、ベルリン中を動きまわる原動力になっていた。
 1人のユダヤ人を救うためには、7人の援助者が必要である。しかし、この推計は控えめすぎる。彼らを行動に駆り立てたものは、危険に対する無謀さなどではなかった。まず追い詰められたユダヤ人の苦境が目に入り、次に支援にともなう自らの危険を察知した。誰も、はじめから生命を失うことを覚悟して行動に出たわけではなかった。しかし、みんなすすんで、同情の念から、自尊心から、危険を引き受け、その後で危険を最小限にとどめようとした。
 ユダヤ人を生命がけで助けた一人のドイツ人の女性が戦後、インタビューを受けて、次のように語りました。
 毎朝、鏡のなかで自分の顔をきちんと正視したいからですね。
 うむむ、なんという崇高な言葉でしょう。
 私はドイツ人です。ヒトラーの時代にドイツで起きたことを、私は心底から恥ずかしく思っていました。それを埋めあわせることはできませんでした。ましてや同調するなんて、考えられないことでした。
 うひゃあ、こんなドイツも少なからずいたのですね。このとき、日本人はどうだったんでしょうか・・・。
 ナチス政府から死刑宣告を受けた政治犯を刑の執行まで拘禁しておくテーゲル刑務所のペルヒャウ牧師は、反ナチの人々をかくまう抵抗グループの一員でもあった。
 うむむ、これもすごいことですね。
 コンラートは、自分がユダヤ人であることを正直に話して救いを求めた。突然のことなのに、それにこたえてくれる人がいたのです。とても危ない日々を過ごしていたわけです。あらためて、人生を考えさせてくれました。
(2007年7月刊。1800円+税)

中世のうわさ

カテゴリー:日本史(中世)

著者:酒井紀美、出版社:吉川弘文館
 おぼしきこといはぬは、げにぞ、はらふくるる心ちしける。かかればこそ、むかしの人は、ものいはまほしくなれば、あなをほりては、いひいれ侍りけめ。
 これは、平安時代の歴史物語『大鏡』の序文です。まことに、人間は、思っていることを自分ひとりの腹のうちにためておくことを大の苦手とする生き物ではあります。「ここだけの話だけど・・・」という話は、またたくまに、大勢の人に伝わっていくものです。
 なま身の人間の口や耳を通して伝えられ広がっていく「うわさ」には、それにかかわった膨大な人々の意識、願いや望み、心配や恐れ、それらがないまぜになって、何層にも重なり合って刻みこまれていくことになる。それは、まるで多くの人間の手仕事によって織りあげられた織物のようである。
 中世社会は自力の世界だったと言われる。たとえば、殺害事件が起きたとき、他の第三者にその捜査や解決をゆだねるのではなく、事件の被害者の血縁者や同じ場に生活している集団が、いちはやく動き出し、事件の状況把握につとめ、犯人を捜査し、さらにはその処罰までをも実行するというやり方が、中世社会では普通だった。これを自力救済という。
 何ごとも自分たちの手の届く範囲で解決していこうという姿勢は、中世の人々のもっていた強い集団への帰属意識を軸にしてはじめて実現できるものであった。
 中世の日本社会では、「国中風聞」が物証に匹敵するような地位を占めていた。切り札として「国中風聞」が扱われていた。
 ええーっ、単なる「げなげな話」が物証に匹敵していたなんて・・・。ホントのことでしょうか?
 室町時代の裁判のことが紹介されています。日本人は昔から裁判が嫌いだった、なんて俗説は、まったくの誤りです。日本人は昔も今も(もっとも、今のほうがよほど裁判が少ない気がします)、裁判大好きな民族なのです。そして、それは、日本人が健全な民族であったことを意味する。弁護士生活も33年を過ぎた私は、そのように考えています。
 この本に室町時代の土地争いが紹介されています。有名な東大寺百合文書には、折紙銭、礼物、会釈などという、裁判に要した費用の名目と金額が記録されていました。
 当時、三問三答というルールで裁判は運営されていました。そして、口頭で弁論して、相手を言い負かした人に感状が与えられたのです。
 「器用の言口」(きようのいいくち)とは、相論対決の場で、自分たちの主張を理路整然と展開することのできる力、相手方の矛盾を的確に突き、それを論破する力のことを言います。今の私たち弁護士にも同じものが求められています。私などは、弁護士を長年やっていても、残念ながらなかなか身につきません。いえ、文章のほうは書けるのですが、口頭での対決・論争に自信がないということです。裁判員裁判が始まると、これまでより以上に口頭で論破できる能力が求められることになります。
 風聞(ふうぶん)と巷説(こうせつ)と雑説(ぞうせつ)とを並べてみると、巷説と雑説の方は、その内容に信頼度が低く、風聞のほうが信憑性が高いと考えられていた。
 物言(ものいい)というのは、まだ起こしていない事件についての予言的なうわさを言う。「国中風聞」という事実が、殺害事件の真実に迫る重要な証言とされるのも、人口(じんこう)に乗ることが悪党である徴証のひとつにあげられるのも、落書起請(らくしょきしょう)で犯人を特定する際に実証と並んで風聞にも一定の席が用意されているのも、すべて、中世のうわさに付与されていた力、神慮の世界との密接なかかわりによる。
 同時に、うわさされている内容をくつがえそうとするときには、やはり神慮を問うための手続きが必要とされていた。そのひとつが、精進潔斎したうえで、神前に籠もり、起請文を書いて一定の期間内に「失」があらわれるか否かを問う「参籠起請」であった。
 うむむ、こうなると、中世の日本人と現代の日本人とは、同じ日本人であっても、全然別の人間かなと一瞬思ってしまいました。でも、よくよく考えてみると、今の日本人でも神頼みする人はたくさんいるわけですので、あまり変わっていないのでしょうね。
(2007年3月刊。2600円+税)

顔のない男

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:熊谷 徹、出版社:新潮社
 東ドイツの最強スパイの栄光と挫折というサブ・タイトルのついた本です。東ドイツのスパイ・マスターの実像を追跡しています。
 東ドイツには悪名高いシュタージ(国家保安省)がありました。シュタージは、国内の反体制勢力の監視と摘発を主たる任務とし、東ドイツ社会の隅々にまで目を光らせていた秘密警察です。
 シュタージは、ソ連のKGBと同じく軍隊組織だった。この本の主人公であるマルクス・ヴォルフは、陸軍大将の階級を与えられていた。
 東ドイツは盟主ソ連をしのぐ、世界最大の秘密警察国家だった。シュタージの正職員は、ベルリンの壁が崩壊した1989年秋の時点で、9万1000人いた。これは、東ドイツ市民180人に1人の割合で秘密警察職員がいたことを意味する。ナチスのゲシュタポが7000人だったことを考えても、はるかに多い。
 職員のほか、17万4000人の東ドイツ市民が非公然職員(IM)として登録し、情報を提供していた。その数はのべ60万人にのぼる。
 ヴォルフの率いるHVAが利用していた西ドイツ在住のスパイは、1988年の時点で1553人。のべにすると、6000人という推定、また2〜3万人にのぼるという推定もある。
 ヴォルフのつかったスパイのうち、もっとも有名な人物にブラント首相の側近(補佐官)として活躍していたギョームがいる。ただし、ギョーム事件は諜報作戦がうまく行き過ぎると、政治的な利益をそこなうことがあるという失敗例でもある。
 このギョームは、資本主義社会の現実に接しても、自分の使命を固く信じ、社会主義の理想を失わず、性格的にも実直であった。
 西ドイツの対外諜報機関BNDに潜入し、女性として幹部職員となり、その優秀さを買われて、ソ連情勢分析部の副部長にまで出世したスパイもいた。
 HVAにリクルートされた秘書スパイの半分以上はボーイフレンドがいなかった。  1949年からの38年間に、西ドイツの捜査当局が摘発した秘書スパイは58人にのぼる。誰かに愛されたい。もう独りぼっちはたくさんだと悩む女性の心につけいった。
 西側の人間がヴォルフのスパイになった動機は三つある。政治的な信条、恋愛関係、そしてお金。西ドイツの憲法擁護庁の対スパイ課員たちが次々にヴォルフのスパイになっていった。それは、給料や昇進に関する不満が高まっていたことによる。
 西ドイツの諜報機関BNDは、1925年以来、東ドイツの諜報機関を率いていたヴォルフの顔を20年以上も特定できなかった。このため、ヴォルフは、西側のスパイ機関から、「顔のない男」と呼ばれていた。それが発覚したのは、スウェーデンで不審な旅行者団をうつした写真のなかで発見されたため。1979年3月のこと。
 ヴォルフはHVAを隠退して、1989年にベストセラー作家としてデビューした。『トロイカ』という本を出版して、ベストセラーになった。
 その後、ヴォルフは東西ドイツの統一のあと、国家反逆罪で起訴され、一審では有罪となったものの、連邦憲法裁判所において、国家反逆罪は成立しないという勝訴判決を得ている。
 ドイツの検警当局は、統一したあと、2303人のHVA職員に対してスパイ活動などの疑いで捜査したが、そのうちの98%は嫌疑なしとして起訴されなかった。有罪判決を受けたHVA職員は12人にすぎない。
 HVAのスパイとして登録されていた1553人の西ドイツ人に対して捜査をはじめたが、そのうち有罪判決を受けたのは181人にすぎない。全体のわずか12%。2年をこえる禁固刑の実刑判決を受けたのは66人だけ。残り115人は、2年以下の禁固刑か、執行猶予または罰金刑だった。
 ヴォルフが亡くなり、HVAが消滅したあとも、統一ドイツはスパイの影に怯えている。
 HVAが西ドイツに送りこんでいたスパイの半分以上は10年以上も諜報活動に従事していた。なかには40年近くも東ドイツにスパイとして協力していた者がいる。
 うむむ、すごいことですね、これって・・・。
 映画『エディット・ピアフ』をみました。2時間20分、彼女の歌声に聞きほれ、至福のひとときを過ごしました。フランス語を勉強して良かったと思いました。もちろん、全部ではありませんが、今ではかなり会話そして歌詞が聞きとれます。
(2007年8月刊。1300円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.