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パール判事

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:中島岳志、出版社:白水社
 日本の戦争責任を裁いた東京裁判において、敢然と「日本無罪」論を主張したインド出身のパール判事の実像を描いた貴重な労作です。パール判決が「日本無罪」を主張したわけではないことを改めて認識しました。小林よしのりをはじめとする右翼の論者にぜひ読んでもらいたい本です。
 パール判事は1886年の生まれ。インドはカルカッタ出身というのではなく、今のバングラデシュのベンガル地方の小さな農村に生まれた。陶工カースト出身で、父親が急死して経済的にも貧しかった。それでも、村の小学校を優秀な成績で卒業したため、奨学金を得て、カルカッタ大学に入ることができた。
 パールは、熱烈なガンジー信奉者だった。
 東京裁判の判事に就任するまで、パールはカルカッタ大学の副総長であった。東京裁判に判事を派遣できるかどうかは、インドの国際的地位と名誉に関わる重大な問題であった。宗主国のイギリスを味方につけ、アメリカに圧力をかけて、インドはようやく判事の地位を獲得することができた。
 東京裁判は1946年5月3日に開廷した。遅れて着任したパールが法廷に初めて姿を現したのは5月17日のこと。だから、パールは東京裁判の正当性をめぐる弁護人の意見を聞くことができなかった。
 ブレークニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、もしそれが犯罪とされるのなら、原爆投下によって広島・長崎で罪なき市民を大量虐殺したアメリカの戦争犯罪の責任が問われないのは不公平だと指摘した。
 パールは、原爆投下について、残虐で非人道的な行為であり、決して許すことはできないとしつつ、しかしながら、「人道に対する罪」が国際法として成立していなかった以上は、この罪で裁くことはできないと判断した。
 さらに、日本軍による南京大虐殺について、パールは法廷に提出された証拠や証言には問題があることを鋭く指摘しつつ、それでもなお南京虐殺の存在を証明する証拠は圧倒的であり、この事件は事実あったと認定した。すなわち、南京虐殺は実際に起こった事件であり、個別的なケースはともかくとして、その存在自体を疑うことはできないと断言した。
 パールは、検察官の起訴した事実について無罪としたが、それはあくまで国際法上の刑事責任において「無罪」としただけで、日本の道義的責任までも「無罪」としたわけではない。パールは次のように述べました。
 日本の為政者はさまざまな過ちを犯し、悪事を行った。また、アジア各地で残虐行為をくり返し、多大なる被害を与えた。その行為は鬼畜のような性格をもっており、どれほど非難してもし過ぎることはない。当然、その道義的罪は重い。しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため、刑事上の「犯罪」に問うことができない。
 パールは、再び日本にやって来たとき、広島の原爆慰霊碑の碑文を読んで憤りの声明を発表した。
 原爆の責任の所在をあいまいにし、アメリカの顔色をうかがう日本人。主体性を失い、無批判にアメリカに追随する日本人。東京裁判を忘却し、再軍備の道を突きすすみ、朝鮮戦争をサポートする日本人。
 そうなんです。パールはアメリカの意向を至上の価値として仰ぐ戦後日本の軽薄さに憤ったのです。戦争に対する反省の仕方を誤り、再び平和の道を踏み外そうとする日本に苛立ったわけです。
 パールは、東京裁判の判決書において、あくまでも「A級戦犯の刑事責任」のみを対象としていた。パールはB級戦犯の刑事上の責任は認めており、日本の行為のすべてを免罪にしたわけではない。
 パールは、判決書の中で、東条一派は多くの悪事を行った、日本の為政者、外交官そして政治家はおそらく間違っていた、みずから過ちを犯したのであろうと明言した。
 パールは決して「日本無罪」と主張したわけではない。「A級戦犯は法的には無罪」と言っただけで、指導者たちの道義的責任までも冤罪したわけではない。ましてや、日本の植民地政策を正当化したり、大東亜戦争を肯定する主張など、一切していない。
 なーるほど、やっぱり、そうなんですよね・・・。
(2007年8月刊。1800円+税)

新潟 樽きぬた

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:火坂雅志、出版社:小学館
 江戸時代に、小さいながらもパリ・コミューンみたいなことが起きていたなんて、ちっとも知りませんでした。
 長岡藩は、固定資産税である地子(ぢし)のほか、新潟湊(みなと)に出入りする船の積み荷の取引にかかる仲金(すあいきん)を取り立ててきた。そのうえ、臨時税として1500両もの御用金として新潟町に課した。新潟町の町政を取り仕切る検断は、昔から定員3人で、長岡藩が指名した。このときは1人欠けて2人の検断となっていた。室屋と加賀屋である。いずれも新潟で一、二を争う廻船問屋である。
 廻船問屋は新潟湊へ出入りする船から荷を買いつけ、売りさばく権利を一手に握っている。そのうえ、千石船、五百石船を何艘も所持し、大坂と蝦夷地の松前を結ぶ西廻り航路であきないをおこない、莫大な利益を得ていた。この豊富な資金力を元手に、田畑や山林を買って大地主となり、さらに経済力をつけていった。
 検断や町老人以下の町役人には、御用金の免除という特権も与えられていた。
 ときは明和5年(1768年)。天候が不順だった。雨の日が続いて、河川が氾濫して洪水が起きた。7月には台風に襲われ、イナゴの大発生によって田畑は壊滅的な打撃を受けた。米の不作は深刻となり米価は天井知らずに暴騰していった。
 そこで、長岡藩に対して、御用金の残る半分750両の先延ばしを嘆願することになった。ところが、裏切り者が出て、町会所(まちがいしょ)に洩れてしまった。
 検断は謀議の首謀者を町会所に呼び出し、入牢を申しつけた。
 それに町民が怒り、暴動を起こした。検断や町役人、米問屋などが次々に打ちこわされていく。ついに、町奉行は、これ以上の一揆の広がりを恐れて首謀者を釈放した。新潟町の打ちこわしは、9月26日、27日の2日間で終わった。2日で24軒が襲撃された。
 そして、町民自治が始まった。交代で町を警戒し、困窮した町民を救済した。買い占めていた米問屋に米を供出させ、米価を引き下げた。豆腐も酒も、日常用品を強制的に値下げさせた。質屋の利息を月2分に下げ、臨時に5軒の質屋を新設して、誰もが借金できるようにした。
 これより町中公事(くじ)、沙汰、また金銀の出入りごと、何ごとも、涌井藤四郎の取り計らいにてすまずということなし。
 町会所の町役人が失脚し、代わって選ばれた町中惣代となった藤四郎が町民の話しあいをもとに町政を取り仕切った。まさしく前代未聞の次第である。
 わずか二ヶ月とはいえ、この状態が続いたのです。しかし、ようやく態勢を立て直した長岡藩は、涌井藤四郎ともう一人を騒動の責任者として市中引き廻しのうえ打首獄門としました。
 涌井大明神として、今も人々に敬われているというのです。すごーい、ですよね。
(2007年9月刊。1400円+税)

西南戦争従軍記

カテゴリー:日本史(明治)

著者:風間三郎、出版社:南方新社
 明治10年(1877年)の西南戦争に病院係として従軍した久米清太郎(25歳)の7ヶ月間の日記を読みものにした本です。西南戦争の悲惨な実情がよく伝わってきます。
 著者は久米清太郎の子孫です。久米清太郎は幸いにも生きのび、屋久島に渡って、製糖事業をおこしました。
 2月14日、大雪のふるなか、大将・西郷隆盛の前に1万をこえる兵士たちが勢ぞろいした。一大隊は10小隊から成し、一小隊は200人の兵士からなる。したがって、一大隊は2000人規模。小隊の中心的存在は、城下士。郷士は、城下士の絶対的統率に従わねばならない。
 清太郎は大砲隊二番隊病院掛役を命じられる。砲隊は200人を二隊に分け、保有する砲は山砲28門、野砲2門、臼砲30門であった。
 2月15日、一番大隊長の篠原国幹以下4000人が先陣を切って出発した。
 2月19日、前日から降り出した雪は大雪となった。薩軍兵には制服はなく、大半が着物に草履と脚絆を巻いただけの軽装だった。大砲を引いての雪中行軍は遅々として進まない。
 山門砲や臼砲などの重装備を人力で運搬せざるをえなかった薩軍は雪を甘くみていた。これは誤算だった。
 2月22日、午前4時から熊本で戦争が始まった。
 3月7日、薩軍の大砲が一斉に熊本城へ向かって撃ちこまれた。
 3月10日、田原坂での激戦が続いていて、負傷者が次々に運ばれてきた。田原坂では17日間も決死の闘いが繰り広げられた。
 3月19日、官軍の別働隊が八代に上陸した。官軍の新鋭艦「春日」「鳳翔」「清輝」などが八代湾に入港し、4000人が上陸した。黒田清隆の考えた作戦である。
 4月21日、官軍は3万人にふくれあがり、薩軍は人吉に逃げた。御船で激戦となった。
 5月27日、薩軍は人吉城跡地で、住民の手もかりて、一日2000発の鉛弾をつくった。
 5月29日、清太郎の弟(18歳)が戦死した。この日の清太郎の日記には何も書かれていない。空白は弟の死を哀しむ気持ちのあらわれだろう。
 そのあと、清太郎たちは宮崎県の都城へ逃げた。都城でも、薩軍は追ってきた官軍に大敗した。近代装備を施した官軍2万の前に、心意気だけで戦う薩軍に勝ち目はなかった。
 8月11日、清太郎は、西郷隆盛の息子、17歳の西郷菊次郎に会った。母親の愛加那に似て、目の大きい彫りの深い顔立ちをしていた。
 8月15日、西郷隆盛が和田越の決戦のとき初めて戦場に立った。率いる兵は3500。対する山県有朋の率いる官軍は5万。午後2時、薩軍は全軍が敗走を始めた。菊次郎も官軍に捕らえられた。この菊次郎はその後どうなったのでしょうか?
 清太郎は、8月13日の官軍の延岡総攻撃のとき捕まっていた。
 9月24日、西郷隆盛は49歳で自決した。別府晋介が西郷の首をはねた。
 この日、薩軍の戦死者160余人、降伏した者200余人だった。
(1999年6月刊。1800+税)

江戸の転勤族

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:高橋章則、出版社:平凡社
 タイトルと本の内容とのギャップが大きすぎます。むしろ、サブタイトルの「代官所手代の世界」がぴったりですし、さらにはオビにある「手代たちは狂歌がお好き」がもっと内容をあらわしています。
 江戸幕府の直轄地である天領を治める実務家である代官所手代は全国各地を転勤していたというのです。そして、彼らの多くは狂歌をたしなむ文化人でもありました。代官所手代は江戸時代の文化を担っていた人たちでもあったのです。
 代官手代とひとくくりにされている代官所の主要な構成員である「手附」(てつき)と「手代」(てだい)のうち、手附は、武士身分を有しており、代官同様に全国を転勤する転勤族であった。
 手附が幕臣であるのに対して、手代は農民・町人のなかから事務に習熟した者が縁故によって採用された。民間人が見習いの書役として出仕し、昇格して手代となり、なかには手附と同様に上位管理職である元締めとなった。そして、さらには武士身分を獲得し、手附となり、代官になった例すらある。
 飛騨高山には「高山陣屋」が再現されています。私も一度だけ行ったことがあります。
 この高山陣屋の主は、郡代とも呼ばれ、全国の10数%を占めた天領の行政・裁判の執行者である代官の最高位を占めたエリートだった。石高でみると、普通の代官領が5万石程度であるのに、郡代領は、その倍の10万石ほどであった。郡代は、関東・美濃・九州・飛騨の要衝地4ヶ所におかれていた。
 漬け物に あらねど人の 孝行は 親を重しと するが肝心
 老いらくの 身には針より 按摩より 気をもまぬこそ 薬なりけり
 なかなかよく出来た狂歌だと思います。
 お寺の扁額に狂歌作者たちの画像が描かれているものが紹介されています。ちょうど、公民館に歴代館長の写真を飾るような感じでしょうか・・・。
 江戸時代には役者から学者に至るまで、さまざまな人品をめぐる番付表が作成されていて、それぞれの世界における秩序・序列が可視的にまとめられていた。狂歌の世界でも多くの番付表がつくられた。ということは全国の狂歌作者が相互に知りあっていたということを意味する。
 ふーん。そうなんですね。江戸時代って、タコツボのような閉鎖社会ではなかったということですね。
(2007年7月刊。2600円+税)

石油、もう一つの危機

カテゴリー:社会

著者:石井 彰、出版社:日経BP社
 今またガソリンが値上がりしています。リッター140円台です。どうして、こんなに値段が上下するのでしょうか。さっぱり分かりません。
 2003年までの価格の3倍にも高騰した。ところが、イラン原油が全面的に輸出停止になっても困らないほど、世界の石油消費量の3年分はあった。では、中国の石油需要が急増したためなのか。それも、否。
 ピークオイルが近づいたためか?
 ピークオイル論というのは、世界の石油生産能力が数年以内に地質的限界、資源量的限界に達してピークを迎え、あとは秋の日のつるべ落としのように、運命的、必然的に凋落していくという議論である。ただし、これははじめに1990年までにピークが来ると言っていたのが、2007年まで、いや2010年までと、何回も延びのびになっている。
 いま、公的機関でも業界でも、2015年より前のピークアウト、いや、2030年より前にピークアウトすると予測しているところはない。
 では、なぜ石油価格が高騰しているのか?
 原油先物市場が完全に金融市場にのみ込まれて金融商品化し、そのため需給実態を反映しない過度な価格高騰を来した。これは、石油市場の過去の歴史にはない、21世紀に入ってはじめて現れた現象である。
 価格上昇の主導権は、プロの投機家から、年金基金を主体とする巨額資金の素人投資家に変化した。
 現在、日本の発電用エネルギーのうち、石油はわずか1割。世界でも6%ほど。発電による二酸化炭素の発生源は大半が石炭である。
 世界的にみて、石油需要は、6割が自動車、航空機、船舶等の交通用需要である。発電用や工場・商業施設等の熱源、石油化学の原料などは、全部あわせても4割。
 石油は、もはや産業の米や経済の血液ではなく、交通・輸送の血液に大転換している。
 世界的に見たら、今や「産業の米」は、石油ではなく、天然ガスである。一次エネルギー消費に占める割合でみると、日本では石油が依然として最大で5割を占める。天然ガスはわずか13%ほど。しかし、先進諸国では、石油が40%、天然ガスが25%を占めている。
 かつては、シェルやエクソンなどの七シスターズが世界の石油生産と貿易を牛耳っていた。今や、新セブン・シスターズとは、サウジアラビア、ロシアのガスプロム、中国のCNPC、マレーシアのペトロナス、イランのNIOC、ブラジルのペトロブラス、ベネズエラのベドヴェサの7つの国営石油会社をさしている。
 メキシコとサウジアラビアは、外資をまったく受けつけず、資源資源ナショナリズムでいく。今日の石油をとりまく情報の一端を知ることがことができました。日本の石炭も、もっと大切にすべきだったと、つくづく思います。
 芙蓉の木いっぱいに艶やかな淡いピンクの花が咲き、見るだけで心が和みます。酔芙蓉の花も咲いています。午前中は純白の花が、午後になると次第に赫く染まっていくさまは、まさしく酔人の顔そのものです。エンゼルストランペットも咲きはじめました。細長いトランペットのような黄色い花がたくさんぶら下がっています。チューリップの球根を植えました。とりあえずは、50個ほどです。12月まで、折々の日曜日に植えています。そろそろヒマワリを刈る季節にもなりました。
(2007年7月刊。1600円+税)

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