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オルガスムの歴史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ロベール・ミュッシャンブレ、出版社:作品社
 表紙に書かれていたヌードの絵といい、タイトルといい、みるからに怪しげ気な本ですが、書かれていることはきわめて真面目な本なのであります。
 王妃マルゴは、彼女の奔放さにほとほと手を焼いた兄のアンリ3世から追放されるまでの自身の生涯を才能豊かに語った。おそらく夫のアンリ4世から請求された離婚の交渉を、より有利に運ぼうとして筆をとったのだろう。離縁され、王座からはるかに遠ざけられた王妃マルゴは、自分にとってもっとふさわしいイメージを、自分自身に対して与えようとしたのだ。
 16世紀ころのフランスでは、どれだけ殴っても生命を危険にさらさない限り、妻に体罰を加えてよいという権利が夫の与えられていた。妻は何よりもまず、夫の「所有物」であった。
 強姦は、被害者のほうが、生まれつき持っている好色に身をゆだねたのではないかと疑われるので、法廷でこれを証明するのは、きわめて困難だった。
 イギリスでは、1597年、離婚後の再婚はいかなる場合にも認められないという教会法をイギリス国教会が発布した。このようにカトリックでは結婚は解消することができないとされた。これに対してピューリタンは、結婚をただの非宗教的な契約であり、救済に何の関係もなく、完全に当事者同士の合意にもとづくものであるとみなした。
 フランス革命期の1792年につくられた法令は、離婚権は個人の自由にもとづくものである。離婚は、夫婦相互の合意によって行われる。配偶者の一方は、性格不和を申し立てることのみによって離婚の言い渡しを求めることができるとした。これはすごいですね。今と同じです。
 イギリスの首都には、1750年から1850年にかけて、庶民のあいだに風変わりな離婚の形態があった。妻を競売にかけるのである。もっとも、取り引きは、あらかじめ決めてあった。
 19世紀のイギリスでは男の2重性が発達した。昼は良き家庭の父親であったのが、夜になると厚かましい売春宿通いに変身するのだ。だからこそ、ポルノ文学が隆盛を誇った。そして、この時期は、本能を抑えるように口やかましく説いてまわる啓蒙哲学が盛んだった。
 イギリスでは、マスターベーションは18世紀のはじめに正真正銘のタブーとなった。
 イギリスでは、19世紀のあいだずっと、夫婦生活の営みのとき全裸になるのはワイセツの極みと見なされていた。
 1700年のロンドンには、2万人以上の徒弟がいて、1万人以上の娼婦がいた。
 19世紀のパリとロンドンは、地方からやって来る娼婦であふれていた。ロンドンは 1801年の人口が90万人だったのに1901年には450万人となった。このとき街娼の人数は8万人から12万人だった。パリの娼婦も同じく12万人だった。
 1746年にフランスのトゥールーズで処刑されたプロテスタントの牧師の公開絞首刑には、4万人もの見物人が押しかけた。そのうち2000人は子どもだった。公開処刑は、熱狂的な見せ物だった。
 教科書に書かれていないような生活の真実をいろいろと知ることができました。
(2006年8月刊。3200円+税)

名将・中山鹿之助

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:南原幹雄、出版社:角川書店
 私は中山鹿之助を絶対に忘れることができません。というのも、私が大学受験勉強をしているとき、中山鹿之助の言葉を私の机の前に大きく書き出して、それを自分への励みにしていたからです。当時、私は東京へ出たくてしかたがありませんでした。田舎の九州にいて、東京に出たら、きっときっといいことがある。自由の天地があると夢見ていました。ところが、東京は実際に行って住んでみると、まさに人、人、人、人の海なのです。人の波におぼれて沈みこんでしまいそうです。つかみどころのない超巨大な大都会でした。わずかに下町の商店街で安らぎを感じたものです。そして、東京は地震が多くて、いつ大震災に見舞われるかもしれません。丸々10年間、私は東京に住んで、福岡へUターンしてきました。自然を身近に感じ、四季の移り変わりを花や木とともに体感できる生活こそ自分の性にあっていると今では思っています。でも、それは私が年齢(とし)をとったということでもあります。
 江戸時代の豪商として名高い鴻池(こうのいけ)の先祖が山中鹿之助だというのを、この本を読んで初めて知りました。
 戦国の世に無類の英雄・豪傑として名を知られた山中鹿之助幸盛こそ鴻池一門の先祖なのである。その鴻池は毛利家の依頼によって大名貸しをするようになった。
 毛利家こそ、山中鹿之助の主家である尼子(あまこ)の宿敵だった。尼子が毛利家にほろぼされてから、鹿之助は強大な仇敵を相手に生涯、再興戦をいどみ続けたが、ついにむなしく敗れ去った。しかし、その長い復讐戦を通じて、鹿之助の不撓不屈、剛勇無双ぶりはあまねく人々に知れわたった。
 もともと、毛利元就(もとなり)は尼子の武将の一人であった。尼子は周防(すおう)の大内氏と長いあいだ戦っていたが、毛利元就はいつも尼子家の先鋒として奮戦し、功績があった。尼子経久は元就の器量を高く買い、大身の豪族なみに処遇してきたが、経久のあとを継いだ晴久が毛利を侮って強圧的な態度に出た。そこへ大内氏が好条件で元就を誘ったので毛利は寝返った。晴久は憤って毛利征伐に出たが、逆にさんざんな敗北を喫した。これが尼子と毛利の長い戦いのきっかけとなった。毛利は大内氏に代わって強大な勢力として急速に成長し、ついに昔の主家である尼子を脅かす存在となった。
 山中鹿之助は天文14年(1545年)に生まれた。山中家は出雲尼子家の弟の子孫である。願わくは、われに七難八苦を与えたまえ。よくこれを克服して武士として大成すべし。鹿之助はこのように念じた。
 尼子家の再興を願って、僧侶になっていた尼子勝久を捜し出し、還俗させて毛利に戦いを何度も挑む鹿之助です。 
 陣頭に立って指揮する大将は赤糸威(あかいとおどし)の鎧(よろい)、三日月の前立(まえだて)に鹿の角の脇立(わきだて)の兜(かぶと)をかぶった大男。それならば、まごうかたなく山陰山陽に隠れなき、山中鹿之助。
 山中鹿之助に長男が誕生し、遠くの親戚に預けて育ててもらいます。その子が鴻池家をつくり出すことになるわけです。
 何回となく尼子家の再興を目ざし、京都へのぼって織田信長を頼りにします。木下藤吉郎を頼りにし、秀吉が毛利征伐に乗り出すことによって、ようやくその先人として尼子軍は勝機をつかもうとします。ところが、秀吉軍は二正面作戦を余儀なくされ、あえなく尼子軍は見捨てられるのです。
 さすがの山中鹿之助も、ついに降参し、毛利のもとへ連行されます。ところが、その途中、甲部川で背後から切り殺されてしまうのです。
 強大な毛利家を相手に何度も執念深く尼子家の再興を図り、ついに無念のうちに倒れた山中鹿之助の一生を描いた本です。読みごたえがありました。
(2007年11月刊。1800円+税)

風の天主堂

カテゴリー:社会

著者:内田洋一、出版社:日本経済新聞出版社
 久留米にある聖マリア病院は国内最大規模の民間病院。その理事長で病院長だった井手道雄医師は、晩年になって天主堂巡礼に心血を注いだ。人工透析を受けながらの旅だった。フランスのピレネー山麓にある、有名な巡礼地のルルドにまで行ったというのですから、たいしたものです。
 『西海の天主堂路』(新風舎)には、この天主堂巡礼がまとめられています。といっても、本にまとめたのは道雄氏が亡くなられたあと、奥様でした。道雄氏は、福岡県三井(みい)郡大刀洗(たちあらい)町の出身。この大刀洗は南北朝時代の勇将菊池武光が合戦で勝利したあと、太刀を洗った川を太刀洗川と呼ぶようになったという故事にもとづく地名である。
 この大刀洗町には、江戸時代から隠れキリシタンが綿々と続いていた。ええーっ、どうして、と思います。道雄氏の奥様が、実は、私のフランス語の勉強仲間なのです。といっても、奥様は大阪万博で通訳をしたこともあるほどの語学力の持ち主ですから、語学音痴の私なんかとはレベルが違います。
 長崎、とりわけ島に残る隠れキリシタンの伝統と、明治になって建立された天主堂の美しさは思わず息を呑むほどのものです。
 明治12年に赴任してきたマルコ・マリ・ド・ロ神父は天主堂建設に取り組んだ。ここに鉄川与助という大工が登場する。与助自身は仏教徒であるが、ド・ロ神父の導きにより多くの天主堂を建設した。
 長崎から天草にかけて、こんなにも多くの天主堂が建てられているのかと思うと、信じられません。20もあるのです。それも、五島列島だけで8つの天主堂があるというのですから、驚きです。
 私は、弁護士になって一年目に、何も分からないまま、日教組弾圧事件の対策のために上五島に派遣されましたが、その奈良尾あたりにまで天主堂があるというのです。信仰の力の偉大さを思い知ります。
 たまに、このような本を読み、写真を眺めると、心の洗われる気がします。ありがとうございました。
(2008年3月刊。2000円+税)

古典への招待

カテゴリー:社会

著者:不破哲三、出版社:新日本出版社
 学生時代にマルクスやレーニンの本に出会ったとき、本当に世界が広がる思いがしました。ものの考え方が目新しく、天と地がひっくり返るというか、物事をここまでつきつめて考えることができる人がいるのかと、何度も感嘆したものです。私が学生時代以来ずっと読書ノートを書いているのも、その衝撃の大きさからだと思います。
 この本には、学生時代に読みふけったなつかしい本がたくさん紹介されています。マルクスなんて古い。死んだ本だろ。そう思わずに、ぜひ手にとって読んでほしいと思います。アメリカをみてください。資本主義、万歳!だなんて、今どき、誰か叫んでいる人がいますかね。サブ・プライムローンの破綻なんて、その実情を知れば知るほど、ひどいものですよね。お金のない人に高いローンを背負わせておいて、その高い金利でマネーゲームしていて、やっぱり破綻したということなんですね。行き詰まってしまった資本主義の最後の徒花(あだばな)でしかないようなものです。
 アメリカ全土の刑務所にいる囚人が230万人だという記事を先日読みました。人口が半分の日本では6万人くらいです。日本に120万人もの刑務所人口をかかえているようなものです。しかも、それだけ刑務所人口をかかえていて、アメリカの実社会は安全になったかというと、ますます危険な社会になったというではありませんか。
 150年前のマルクスが古いなんて言うのなら、2000年前のキリストはもっともっと古いのですよ。それでも、今も立派にキリスト教は生きているではありませんか。やはり、いいものは、いつまでたってもいいのですよね。
 今、アメリカでもヨーロッパでも、マルクスは生きていると言われ、雑誌で特集が組まれたりしている。100年以上も前の人々ではあるが、その著作は時間的な距離をこえて、読む者をひきつけてやまない魅力がある。先日も、ドイツでマルクスが見直されているという新聞記事を読みました。
 まずは、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』です。これは、1842年から44年までイギリスにいた青年エンゲルスが24歳のとき(1845年)、書いた本です。産業革命がイギリス社会をどう変えていったかを描きだした画期的な本です。
 川崎のコンビナート地帯で学生セツルメント活動を一生けん命やっていた私は、この本を何回となく読み返したものです。本当に大いに学ばされました。社会を見る目を養ったと言える本です。エンゲルスは、この本を、イギリス人のためでなく、ドイツ人のために、ドイツ語で書き、ドイツで出版した。うひゃー、そうだったんですか・・・。
 エンゲルスは、耐えがたい生活苦が多くの道徳的退廃を生むことをリアルに描き出した。同時に、同じ苦難が労働者階級をきたえ、知的に発展させ、成長させるバネとなっていることを明らかにした。実は、後者の解明と確信がセツラーである私の追究すべきテーマだったのです。道徳的退廃はすぐに分かりました。でも、知的発展とか成長とかいうと、それは対象の人々に相当深く食いこまないと見えてこないものです。
 資本主義社会における搾取と窮乏という苦難は、労働者をきたえ、この現状に抵抗し挑戦する階級へと成長させていく。
 ここらあたりが、学生としてなかなか確信のもてないところでした。たたかう労働者階級と言われても、目の前にいるのは、私と同じような欲望もあり、いかにも人間的な若者でしかありません。どうやって、何を学ぶのだろうと、正直いって悩みました。
 次の『ドイツ・イデオロギー』は、マルクス27歳、エンゲルス25歳のときの共同執筆の本です。この本にも、深い思いいれがあります。ともかく難しいのです。でも、ひきつけるものが、同時にあるのです。
 哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。これはマルクスの言葉です。
 支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想である。すなわち、社会の支配的な物質的力である階級は、同時にその社会の支配的な精神的力である。思考する者として、諸思想の生産者としても支配し、その時代の諸思想の生産と分配を規制する。意識が生活を規定するのではなくて、生活が意識を規定する。
 人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する。なーるほど、そうですよね。
 マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を書いたのは1848年。
 日本は第二次世界大戦前に、マルクス・エンゲルス全集が刊行された世界で唯一の国だった。しかし、その全集から『共産党宣言』だけは除かれていた。日本で、この本を自由に読めるようになったのは、敗戦後のこと。
 ひゃあー、ちっとも知りませんでした。大学生時代に、当然のことのようにして手にとり読んだものです。いまの大学生には、どれくらい読まれているのでしょうか。『宣言』は、マルクス29歳、エンゲルス27歳のときに書かれています。私は、ぜひ今の若い人にも読んでほしいと思います。
 共産主義者は、これまでのすべての社会秩序の強力的転覆によってのみ、自分の目的が達せられることを公然と宣言する。
 私の学生のころは、強力ではなく、暴力とされていました。すなわち、暴力革命を起こすべきだということです。すると、過激派(当時は全共闘と呼んでいました)のいうバリケード封鎖や街頭でのゲバ棒をふるう暴力を容認することになります。それでいいのかな、そうだったらいやだな、と思っていました。
 著者は、それはマルクスの時代には、まだ普通選挙が一般化していなかったことによる制約だと指摘しています。なーるほど、そういうことだったのですね。
 マルクスは女性に対しても参政権を認めることを要求しています。まったく当然のことです。だけど、当時は、当然のことではありませんでした。
 この本を読んで初めて知ったことですが、『共産党宣言』の書かれた1847年〜48年ころのドイツでは、社会主義とか共産主義というのに対して異様なほどの人気があったというのです。むひゃー、そうだったのですかー・・・。
 1848年、ヨーロッパの広大な地域が革命の波におおわれていた。2月にフランスで2月革命、3月にウィーンで蜂起、同じく3月にベルリンでも蜂起、そしてイタリアでの独立革命。そんな状況で、共産主義への期待が高まっていたわけです。
 経済状態は土台である。しかし、上部構造のさまざまな諸要因が、歴史的な諸闘争の経過に作用を及ぼし、多くの場合に、著しくその形態を規定する。これらすべての要因の相互作用であり、そのなかで結局は、すべての無数の偶然事をつうじて、必然的なものとして経済的運動が貫徹する。この指摘は鋭いと、いまも感嘆します。
 現代日本を分析するときに、140年前の古典の指摘は、こんなに役立つものなのです。古典は古いから、現代日本に生きる私たちにとって役に立たないなんて、とんでもない間違いです。
 今朝、庭に出て花の咲いたチューリップを数えてみました。29本でした。まだまだです。今年は例年より少し遅い気がします。紫色のムスカリ、あでやかな赤紫のアネモネ、白や紫のヒヤシンスが咲いています。あっ、純白のシャガの花も咲いています。色とりどりの花に囲まれていると、なんだか幸せな気分です。桜のほうは、まだ二分咲きから三分咲きです。ウグイスのホーホケキョという澄んだ鳴き声も春の情感を味あわせてくれます。田舎に生活するのもいいものですよ。
(2008年3月刊。1900円+税)

オッペンハイマー(下)

カテゴリー:アメリカ

著者:カイ・バード、出版社:PHP研究所
 日本に原爆が落ちたことを知ったアメリカ人は、ゴミ入れのふたなどを叩き鳴らしながら練り歩き、喜びをあらわした。そうなんですか・・・。ジャップは、黄色い猿であって、人間ではない。そう考えていたようです。映画『猿の惑星』に出てくる猿も、日本人がモデルだというのです。ご存知でしたか?日本人って、そう見られていたのです・・・。
 その一方、原爆開発にたずさわった科学者たちは、日がたつにつれて自己嫌悪感が高まり、戦争終結が爆弾の使用を正当化すると信じていた人たちにさえ、きわめて個人的な後ろめたさを経験させた。
 オッペンハイマーは、良心の呵責から不安と疲労を抱えた。
 原子兵器の使用を防止する適切で効果的な、いかなる軍事的対抗策も見つからない。それを可能にするのは、ただ一つ、将来の戦争を不可能にすることしかない。
 トルーマン大統領は、そんなことを言うオッペンハイマーについて、「原子力を発見したために手が血だらけ、とぬかした泣き虫科学者」と叫んだ。
 アメリカに外国からテロリストが核兵器を持ちこむのを見つけることができるか、と問われたオッペンハイマーの答えは?
 それにはネジ回しがいる。すべてのスーツケースを開けるための。
 つまり、核テロリズムへの対抗策はなかったし、今後も絶対にないということ。
 ふむふむ、なるほど、そうなんですよね。ましてや自爆攻撃するテロリストをくいとめる手だては何もないと私も思います。
 オッペンハイマーはFBIによって危険人物と見なされ、その電話は盗聴された。
 私の電話を盗聴するためにアメリカ政府がつかったお金は、ロスアラモスで私に支払った給料より多かった。そうなんですよね。いつの時代でも盗聴というのは、まったく割のあわない行為だと思います。
 オッペンハイマーの家庭生活は、この世の地獄のように思えた。最悪なのは、2人の子どもも必然的に苦しまなければならなかったことだ。
 なるほど、そうなんでしょうね。天才の子どもというのは辛いものがあると思います。
 1949年8月29日、ソ連がカザフスタンでひそかに原爆の実験をしたとき、アメリカ政府は誰もそれを信じたくなかった。
 トルーマン大統領は、ソ連に対する核優位を保つため、10年内に300の核弾頭から1万8000の核兵器をもつようになった。次の50年間に、アメリカは7万個の核兵器を生産し、核兵器プログラムに投入される予算は5兆5千億ドルになった。核生産競争の悪循環に陥ったのです。
 オッペンハイマーに対する聴聞委員会は1954年4月12日に開かれた。その容疑は、オッペンハイマーがアメリカ共産党の多くの前線(フロント)組織に加わったこと、共産主義者(共産党員)と判明している数多くの人々と新しい関係ないし交際したこと、原爆プロジェクト共産党員を雇ったこと、サンフランシスコで月150ドルを共産党に寄付したこと、だった。
 ええーっ、こんなことが罪になるのですか・・・。
 「自由」の国、アメリカの怖い、暗い本質がよくあらわれています。
 オッペンハイマーの妻(キティ)も証人席に座らされ、質問を受けた。共産党員としての過去があることを認めて、堂々と反論しました。
 5月23日、2対1の評決によってオッペンハイマーを忠実なアメリカ市民ではあるが、保安上の危険人物 であると見なされました。
 ところが、皮肉なことに、この裁判と評決の報道は、オッペンハイマーの名声を国の内外で高めた。かつては「原爆の父」とだけ知られていたが、今度は、もっと魅惑的な「ガリレオのように迫害された科学者」のイメージが加わった。ドレフェス事件のような扱いだ。
 オッペンハイマーの敗北は、アメリカ自由主義の敗北でもあった。オッペンハイマーが少しでも秘密を漏らしたという証拠はなかった。ルーズベルトのニューディール支持者の多くのように、オッペンハイマーはかつて広い意味での左翼であり、人民戦線運動を支持し、多くの共産党員とつきあいがあった。しかし、オッペンハイマー自身は、自分を反体制派とは考えていなかった。この評決のあと、オッペンハイマーは所長の座を維持できたが、以前のような機知と活気が失われた。オッペンハイマーは、1967年2月、62歳で病気(ガン)により死亡した。
 天才科学者を取り巻くアメリカの狂気を知ることができました。
(2007年8月刊。1900円+税)

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