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ハイチ、いのちとの闘い

カテゴリー:アメリカ

著者:山本太郎、出版社:昭和堂
 2003年7月27日、ハイチの首都ポートプランス空港におり立ち、2004年3月10日、ハイチからニューヨークへ身ひとつで脱出した日本人医師の体験記です。
 ハイチの失業率は70%をこえ、国民の3分の2以上が1日2米ドル以下という貧困生活を送っている。国民一人あたりの国内総生産は400ドル。これは日本人一人あたりのそれの70分の1にすぎない。
 面積2万8千平方キロに860万人の人口。国民の90%が黒人、10%が黒人と白人の混血のムラトー。雨が多く、本来は緑豊かな島国だが、長年の森林の無秩序な伐採によって、国土の森林面積の90%を失い、いまや薄赤茶けた肌が露出する山々だけが無惨な姿をさらしている。
 ハイチの隣にドミニカ共和国がある。東側3分の2を占める。人口800万人の国。ハイチから1844年に独立した。ドミニカ側の山には緑が残っている。ドミニカの方が物価が安く、ハイチの3分の2程度。
 大半の住民はクレオールしか話さず、フランス語を話すのは人口の10%程度、エリートに限られている。クレオールは、ピジンと違って、それ自身が文法的にも表現能力としても充実した土地の言語である。クレオールはハイチだけでなく、世界各地でつかわれている。マルチニク、グアトルループなど・・・。
 NHKラジオのフランス語講座でハイチが取りあげられて勉強したことがあります。
 ハイチは、独立して200年間、独裁と政治的混乱を繰り返してきた。
 ハイチでは、ハイチ・ドルという実体のない、つまり紙幣やコインのない仮想通貨が日常的につかわれている。正式な流通通貨であるグルドでいうと、5グルドが1ハイチ・ドルということになる。10ハイチ・ドルは50グルドで、これは1.25米ドル。
 ハイチでは何ごとも交渉によって値段が決まる。 ハイチに住む日本人は18人ほど。
 ハイチの成人人口の5〜10%がHIVに感染している。エイズ治療薬は、かつて年間1万2000米ドル(144万円)かかるといわれていたが、今では300米ドル(3万6000円)にまで低下した。
 ハイチに暮らす860万人に対して、島の外、海外に150万人のハイチ人が住んでいる。
 デュバリエ独裁時代は恐怖の中での秩序があった。自由と競争が、ある面で、社会を壊していく。アメリカがそうだし、自由のない社会での秩序は、それ以上に恐ろしいものである。これは、あるハイチ人の言葉です。
 著者は長崎大学の医学部を1990年に卒業した若手の医師です。アフリカ諸国でも活躍されています。このような日本人がいるおかげで、日本人に対する海外の評価は高いのですよね。頭の下がる思いをしながら読みました。
(2008年1月刊。2400円+税)

ビルマとミャンマーのあいだ

カテゴリー:アジア

著者:瀬川正仁、出版社:凱風社
 正直言って、この本を読む前には、ちっとも期待していませんでした。また、どうせ観光案内に毛のはえた程度のおじさんの探訪体験記くらいになめてかかっていたのです。ところが、どうして、どうして、ふむふむ、なるほどなるほど、そうだったのか、とうなずきながら興味深く一気に読みすすめてしまいました。
 ビルマには2つの顔がある。一つは、人々をトリコ(虜)にする微笑(ほほえみ)の国・ビルマ、底知れぬ優しさにあふれた顔。もう一つは、軍隊や秘密警察が生活の隅々まで目を光らせている軍事独裁国家・ミャンマーという顔だ。
 ただし、ツァー旅行に参加して、お寺めぐりと川下りだけを楽しんでいるだけでは、この現実は体感できないだろう。この本を読むと、そのことが実感として伝わってきます。
 バーマもミャンマーも、もともとは同じ意味の言葉だ。バーマは口語的で、ミャンマーは文語的だというだけのこと。
 首都だったラングーン(ヤンゴン)は、人口600万人。2006年、突然、首都はネピドーに移された。ヤンゴンは、ビルマ語で戦争の終わりを意味する。1757年、長年の宿敵モン族に打ち勝ってビルマを統一したアラニパヤ王によって名づけられた。
 ラングーン市の中心部に高さ98メートルの黄金の仏塔シュエダゴン・パゴタがある。仏塔の全面に張りめぐらせてある金箔の総量は10トン以上。これは、イギリス統治時代の大英帝国が保有する金の総量を上回っていた。仏塔の上部に埋め込まれているダイヤは2000カラットをこえる。ルビーやサファイヤなどもあり、お金に換算したら、ビルマの全国民を30年間養えるほどの額になる。
 ビルマでは、その昔、1週間を8日ごとに区切る8曜日となっていた。今は、もちろん7曜日。だから、水曜日を午前と午後とで分けている。
 ビルマ人は、とても読書好きだ。慢性の電力不足のため、テレビはあまり普及していないし、政府系のテレビ局しかないからだ。
 ビルマ政府は外国人を絶対に立ち入らせないブラック・エリアのほか、許可をもらって初めて行けるブラウン・エリア、誰でも自由に行けるホワイト・エリアの3つに分けている。
 ビルマでは、輪廻転生(りんねてんしょう)を信じている人が多い。教養ある女性が次のように言った。あの人たち(政府高官)は、前世で立派な行いをしていたのでしょう。だから、現世では、いい暮らしができるのよ。でも、来世はないわね。地獄におちるか、虫けらに生まれるわ。
 かつて覇権を争ったビルマ民族は今3000万人。モン民族はわずかに100万人(ただし、モン民族によると400万人)。
 しかし、ビルマ民族にとって、モン民族は煙たい存在だ。タトン王宮、シュエダゴン・パゴタなど、有名な遺跡は、ほとんどモン民族の文化遺産なのである。
 行ってみたいような、行くのが怖いようなビルマ・ミャンマーです。
(2007年10月刊。2000円+税)

旗本夫人が見た江戸のたそがれ

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:深沢秋男、出版社:文春新書
 江戸時代を生きた女性が、いかにたくましかったかをよく知ることのできる本です。日本女性は古来、男から虐げられてきたという説が誤っていることを、この本も実証しています。弱い女性はたしかにいましたが、それは同時に同じように弱い男性もいたということです。むしろ、日本女性の特徴は、昔から男なんて気にせず、のびのびと生活していた人がとても多いということです。この本の主人公である井関隆子もその一人でした。日本の女は昔からすごかったのです。ただし、この本のタイトルは感心しませんね。なんだか本の内容とイメージがちがいます。
 井関隆子日記12冊は、隆子の56歳から60歳までの日記。天保11年から14年というと、ちょうど天保の改革(老中水野忠邦による)が始まり、失敗したころのことです。
 井関家は年収3千万円程度はありましたし、大奥づとめでしたので、大奥からの下され物も多くて、家計と生活を助け、潤していました。隆子は江戸城のすぐ近く、清水御門と田安御門の近くに350坪の屋敷に住んでいました。
 井関家は、四季折々の花を眺めたり、また月を眺めたりしながら、よく酒盛りをした。隆子自身もお酒が大好きだった。
 江戸時代のお見合いは、お互いに芝居などの席で、それとなく相手を見て、お互いによければ話をすすめるということも多い。ええっ、そうなんですか。現代日本にもありそうなスタイルです。
 主席老中・水野忠邦は、11代将軍家斉の死を機に、天保の改革に着手した。家斉は 50年ものあいだ将軍の座にあった。
 上知令(あげちれい)は、天保の改革の末期に幕府が発令した、江戸と大坂近郊の大名・旗本の領地を幕府の直轄地にしようとする、一連の命令である。しかし、これは実行されることなく撤回された。そして、水野忠邦は罷免された。ここにも幕府の実行力の衰退をみることができる。
 水野忠邦が罷免されたとき、世間は歓呼の声を上げた。
 このまま政権の座にあるなら、さらに世の乱れを招きかねないと、嘆かない人はいなかった。このたびの処置に天下の人々は万歳を唱えて喜んでいる。
 数知れぬ人々が水野家の屋敷を取り囲み、大きな石を雨あられのように投げつけて、つらい目にあった恨みをいいつのるのが、まるでトキの声をあげるように響いた。この騒ぎを見物しようと集まった群衆の数もものすごかった。
 すごくリアルに水野忠邦の屋敷を人々が攻めている情景が描かれています。
 隆子の日記によると、将軍家斉の死は、本当は1月7日だったという。公式発表の1月29日ではなかった。そこには、水野忠邦と家斉側近とのあいだの権力抗争が隠されていた。なーるほど、ですね。
 それにしても、再婚して後妻に入った家で、夫の死後も、隆子は女主人としてのびのびと過ごしていたようです。血のつながらない息子たちも、隆子を母親としてうやまったのでした。今度は、「井関隆子日記」そのものを読んでみようと思います。
 私にとって列車の中は貴重な読書タイムです。ひととき没頭して本の世界(いわばアナザーワールド)に浸っていたいのです。ところが、それがときどき邪魔されてしまいます。車中検札です。無用に声かけられないように、前のテーブルに見えやすいように切符をおきます。それでもわざわざ声をかけてくる車掌さんがいるのです。先日などは、切符を手にとっているのに、なお「お客さん、いいでしょうか?」と何回もしつこく声をかけてきました。かなり偏屈なところのある私は、つい「うるさいですよ」と言ってしまいました。本当は、「その切符に何か問題もあるのですか?」と聞き返せば良かったと後で思ったことでした。検札するなとは言わないのです。検札の目的は切符を正しく買って乗っているかどうかを確認することだと思います。なにも、わざわざ車中で一人静かに読書している人に声かけて邪魔してほしくないのですが・・・。
 いま咲いているチューリップは360本ほどです。雨が多いので、真っ先に咲いていた花はもう散りはじめました。先日、山で出会った面白い形をした花を図鑑で調べたらツクシマムシグサでした。ちょっと怖い名前がついていて、びっくりしました。
(2007年11月刊。730円+税)

君のためなら千回でも(下)

カテゴリー:未分類

著者:カーレド・ホッセイニ、出版社:ハヤカワepi文庫
 泣かせます。ここで紹介できないのが残念ですが、上巻で呈示された謎解きがすすんでいきます。人間の悲しい性(さが)が次第に解明されていきます。そして、それを人は簡単に受けいれることができないのです。
 アメリカは楽観主義のおかげで偉大な国になったが、おまえにも楽観主義を植えつけたようだな。それに比べて、私たちアフガニスタン人は、憂鬱な国民だ。悲観や自己憐憫の泥沼でのたうちまわってばかりいる。喪失や苦しみに屈し、人生の事実として受けいれ、必要なものとさえ見なしている。それでも人生はすすむ、と言って。だが、私自身は、この運命に屈したわけではない。現実を正視しているだけだ。
 人生には、何をやるか、何をやらないか、しかない。
 しょせんヒンディー映画は、人生とは違うのだ。それでも人生は進むと、アフガニスタン人はよく言う。成功者だろうと、落伍者だろうと、はじまりも終わりにも、危機もカルタシスも関係なく、人生は前に向かって進んでいく。ゆっくりと、遊牧民のホコリっぽいキャラバンのように。
 著者は、「親友」だったハッサンの息子であるソーラブをアメリカに連れてくることができました。アメリカでアフガニスタン人の集いがあったとき、凧合戦が久しぶりで企画されました。ソーラブは、当初、亡くなった両親もこんなことを認めないだろうと考えて消極的でした。ところが、ソーラブは、いつのまにか凧合戦に加わっていました。
 すごい本です。一読をおすすめします。
 ところで、この本とはまったく無関係なのですが、菅野昭夫弁護士(富山県)があるニュースに、アフガニスタンでアルカイダの容疑者として拘束され、キューバのグアンタナモ基地収容所に入れられている人々の救援活動に、アメリカの巨大ローファームで働く弁護士が多く関わっていることを紹介しています。
 プロボノ活動なのですが、ペンタゴンがそれを問題にして、そんな弁護士のいるローファームへの依頼をやめるように企業へ圧力をかけました。すると、弁護士側も企業側もはねかえしたというのです。アメリカにも見識ある人はいるということです。
 グアンタナモ基地収容所における無法な身柄拘束から釈放を求めるには、何百人もの収容者のために、身柄拘束の違憲性、違法性をつくばかりでなく、「不法敵戦闘員」には該当しないことを、中東やアフリカなどの親族、知人から宣誓供述書を集めて立証し、人身保護令状の申立を連邦地裁に行うという作業が必要である。
 そこで、全米の弁護士に「アメリカ憲法を守ろう」という呼びかけが行われた。その結果、今日まで、約500人の弁護士たちが、釈放を求める闘いに参加した。彼らは、プロボノワークとして、この闘いにはせ参じたのである。多数の弁護士たちが、グアンタナモ基地を訪れ、軍のさまざまな妨害を撥ね退けて収容者と面会し、人身保護令状の申立などの法廷闘争に取り組んでいった。その結果、ブッシュ政権は、五月雨式に収容者を釈放するようになり、収容者が275人にまで大幅に減った。
 こうした多数の企業法務弁護士の参加は、ブッシュ政権にとって、我慢のならないことであった。2007年1月に、軍事基地での収容所のペンタゴンにおける責任者であるチャールズ・スティムソンは、テレビのインタビューの中で、「わが国の一流の法律事務所が、こともあろうに、グアンタナモ基地の囚人の弁護をしている。依頼人の企業は、テロリスト弁護の資金源とならないために、これらの法律事務所への依頼をやめるべきである」と発言した。続いて、これら約120の法律事務所の名前が、ワシントン・ポストに発表された。これに対する反応は、政府の予想を超えるものであった。ABA(アメリカ法曹協会)は、「刑事事件において、全ての被疑者のために弁護活動を行うことは、弁護士の崇高な使命であり、これを妨害する試みは、弁護士職に対する挑戦と受け止められなければならない」との談話を発した。
 そのような中で、それら法律事務所の依頼人の一つであるGE(ジェネラル・エレクトリック)の副社長は、メディアに対し、「プロボノサービスと法の支配は、わが国法曹の偉大な伝統である。我々GEは、法律事務所がプロボノと公共奉仕の精神に基づき依頼人を選択し弁護したことで、その法律事務所を差別することに反対であり、またそうする意図はない」と表明した。同じくヴェリゾン・コミュニケーションの顧問弁護士は、「私の企業は、この法律事務所への依頼を継続する。その事務所が、私が嫌悪するものをプロボノワークとして弁護していても、この方針には何ら変わりはない」と述べた。結局、依頼を断る企業はなく、チャールズ・スティムソンは、ワシントン・ポストに謝罪の談話を発表して、ここでもブッシュ政権は敗北した。
 いやあ、すごい、すごーい。心からの拍手を送ります。パチパチパチ・・・。
(2007年12月。660円+税)

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京」(上下)

カテゴリー:社会

著者:楡 周平、出版社:講談社
 今から40年前の1968年に起きた東大闘争とは一体、何だったのか。そのとき活動家だった学生は今、何をしているのかを鋭く問いかけた小説です。当事者の一人でもある私の問題意識にぴったりあう舞台設定なので、大変興味深く、一気に読了しました。東大闘争の経緯については不正確なところが多々ありますが、さすがプロの書き手ですので、ぐいぐい魅きつけていくものがありました。最後まで、次はどういう展開になるのだろうかと、手に汗をにぎりながら読みすすめていきました。
 「当時は、本当に私たちの力でこの国を変えられると思っていた」
 「ああ、あの時代は、本気でそう思っていた」
 「だけど、何も変わりはしなかった。それが、私たちが行った運動は、すべて間違いだったってことの証明ってわけ。当時の仲間たちのほとんどは、あの頃のことなどおくびにも出さずに、安穏とした生活をむさぼっている」
 「プロの活動家なんて、もはや絶滅人種だ。デモに出かける人も、日頃は、思想信条を明らかにせず、一介の公務員として国家体制に寄生して糧(かて)を得ている。どこかの中小企業の労働者として、資本主義社会の恩恵に与っているのがせいぜい。私は、両手に手錠がはめられた時に、初めて目が醒める思いがした。権力に歯向かうことの愚かさ。屈辱と、全てを失うのではないかという恐怖を感じた」
 これは、それから30年後の元活動家同士の会話として語られています。たしかに私も、自分たちが大人になったときには世の中は根本的に変わっていると思いこんでいました。しかし、大きく変わったのは世の中というより、自分たちのほうでした。といっても、当時していたことが「全て間違いだった」などと私が思っているわけではありません。資本主義の片隅で、その恩恵を弁護士として受けていることは否定しませんが・・・。
 先日、高校の同級生だった医師と話していたとき、「あんたは、まだ弱者のためと思って(活動)しているのか?」と問いかけられました。私は、即座に、「そうだよ」と返事しました。弁護士になって35年になります。ずい分、安穏とした生活を過ごしていると自分でも思いますが、学生時代に抱いた理想、つまり弱い人のために役に立つ人間になろうということを主観的には忘れたことはありません(客観的に、どれだけのことができたか、しているかと問われると心苦しいのですが・・・)。
 体制を変えるためのもっとも早い方法は、権力の中に入り込み、その頂点に立つことだ。
 久しぶりにこのような文句に出会いました。そうなんです。学生のころ、よく聞いたセリフなのです。とりわけ、私のいたセツルメントでは、とりわけ法律相談部のセツラーのなかに、そのように言う学生セツラーが何人もいました。セツルメント活動を真面目にやっていた人のなかから、高級官僚や裁判官になった人は何人もいます。そしてセツルメント活動は、このセリフとのあいだの葛藤から成り立っている面があると言うと、いささか言い過ぎになるかもしれませんが、それほど重たく魅力的なセリフでした。だけど、多くの場合、結局のところ、このセリフにかこつけて権力に取りこまれて理想を喪っていくことになりました。もちろん、すべての人にあてはまるということではありませんが・・・。
 あのころ、セクトに属していた女性活動家に課せられた任務は熟知している。一般学生をセクトに誘うために、幾多の男たちと体を重ねた。
 うへーっ、まさかと、私は思いました。そんなセクトがあるなんて、当時、少なくとも私は聞いたことがありません。私の交際範囲の狭さからかもしれませんが・・・。もっとも、私の交友関係の大半を占めていた民青は、歌って踊って恋をしてという路線をとっていると批判されていましたし、私自身も女子学生が半数ほどを占めるセツルメントにいましたが、そんな「任務」なんて聞いたことはありませんし、あろうはずもないと私は考えています。
 アメリカのヒッピー学生のあいだでは乱交が常態化していたという本を読んだことがありますが、日本では、あったとしてもごくごく一部の話だと私は思います。もし、あっていたとするなら、ぜひ、どこの大学であっていたのか教えてほしいと思います。
 もちろん、男女学生が同棲生活をするというのは多数ありました。私自身は、残念なことに、そこまで至ることができませんでした。この本で最大の違和感があるのは、この「ドグマ」を前提としてストーリーが展開していることです。
 東大闘争とは言っても、実際のところ当の東大の学生活動家はそれほど多くはなかった。輝かしい将来を約束されている東大の学生にしてみれば、現体制が続くことが自分たちの安泰につながると考えこそすれ、その崩壊を望んだりはしないからだ。だから、東大生をオルグすることができれば、スリーパーとして権力の中に送り込むことだってできる。
 いやあ、これって完全な間違いだと思います。もちろん、その定義にもよりますけれど、あのころの東大のセクト・メンバーは、全共闘にしろ民青にしろ、どちらも数百人単位をこえていたと思います。なにしろ、東大の学内集会とデモにそれぞれ少なくとも500人以上は集まっていたのですから。私は、当時、駒場の学生(2年生)でしたが、6千人の学生のうち双方の活動家の合計は少なくとも1000人ほどいたというのが私の実感です(組織メンバーになっているか、強烈なシンパかはともかくとして・・・)。
 この本を読んで、東大闘争の事実経過を詳しく正確に知りたいと思った人には、『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)を一読されることを強くおすすめします。
(2008年2月刊。1700円+税)

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