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自衛隊2500日失望記

カテゴリー:社会

著者:須賀雅則、出版社:光文社ペーパーバックス
 自衛隊に7年間いて、事務方をつとめていた著者が自衛隊で起きている信じがたいほど莫大な税金の無駄づかいを体験にもとづいて告発した本です。顔写真入りの実名(のよう)ですから、勇気がありますね。左翼の人間が自衛隊に潜入して実態を暴露するルポを書いたというものではありません。著者は、どちらかというと今も自衛隊賛美論者ですが、あまりのひどさに怒りを覚え、言わずにおかれないという気持ちに駆られたのです。
 洋の東西を問わず、軍需産業と高級軍人の癒着は昔からひどいものがありますが、日本の自衛隊もひどいものです。こんな莫大な税金ムダづかいをしているから、福祉予算の方が削られてしまうのですね。
 自衛隊の好待遇は建前上は本当だ。新兵は年間270万円の給料をもらえる。アメリカでさえ150万円。ところが、実際にお金を残すには、人間関係を犠牲にして付き合いをある程度絶たねばならない。自衛隊員には、飲む打つ(パチンコ)買う大好き人間が多数派を占める。だから、現実には、金欠病に苦しむ隊員が多い。家庭をもつと基地外居住となるので、衣食住費が自己負担になる。そのとき年収300万円で家族を養うのは厳しい。なーるほど、ですね。
 日本の自衛隊は、軍人数や国防予算額で軍事力ランキングで少しでも多く見せようとしている。軍事力でハッタリかませるのも抑止力の一方法なのだ。うむむ、そういうことができるんですか・・・。
 偏屈な自衛事務系の隊員が定年まで勤めあげ、なんと1億円も貯めたという話が紹介されています。そんなことができるんですか・・・。
 マルボウという言葉を知りました。法曹界では、マルボウというと暴力団をさしますが、ここでは防衛関連企業のことをさす。多くの防衛関連企業は自衛隊からの天下りを受け入れ、それまで以上に利益が出るよう製品価格をつりあげ、暴利をむさぼる。
 過去5年以内に防衛省と取引があった企業には、再就職2年前まで調達に携わっていた隊員は、営業職として就職できないので、製造管理者と名づける。通常の調達隊員は、上が気を利かせて退官数年前に閑職にまわす。そこで、ほとんどの調達隊員、調達事務官は利害関係の深いマルボウに堂々と再就職する。
 5兆円の防衛費にたかる防衛産業は非常においしい。ほとんど随意契約という悪質な契約がまかりとおる。この甘い蜜は、一度味わうとやめられない。こんな一大利権を官僚・政治家・自衛官が手放すわけがない。
 そこで、著者は、天下り職員をすべて例外なく禁止する法律を制定すべきだとします。その点、日本共産党が大嫌いな著者が、唯一、この点だけは日本共産党を評価しています。
 ミサイル防衛システム(MDシステム)は国防上ムダであり、即刻やめるべきだと著者は主張しています。なぜなら、MDシステムの主力であるパトリオットミサイルが実戦ではまったくあてにならないから。
 90式戦車が10億円以上するのについても、著者は疑問を呈しています。アメリカのより強力な戦車は1台4億円しかしない。そう聞くと、ええーっ、なんで・・・と思わず叫んでしまいました。日本の軍事企業がいかにボロもうけしているか、ということなんでしょう。
 日本の兵器国産主義の本音は、退職後の自衛官や防衛官僚に対する超高額の生活保障を維持するためだ。うむむ、いやあ、ひどい。これって許せませんよね。おかげで福祉はどんどん切り捨てられているのですからね。先日、ヨーロッパのある国で、教育費と医療費は全額無料にするという国民投票があり、可決したというニュースがありました。日本も、軍事費を削ったら、このようなことができると思いますよ。
 自衛隊の生命保険はこれまで協栄生命と東邦生命だった。今や、いずれもアメリカのGEエジソン生命とジブラルタ生命になってしまった。むひょー、そうなんですか。そこまでアメリカの言いなりになっているのですね。ひどいものです。
(2008年2月刊。952円+税)

葉っぱで2億円稼ぐおばあちゃんたち

カテゴリー:社会

著者:ビーパル地域活性化総合研究所、出版社:小学館
 アウトドア月刊誌『ビーパル』というものがあるそうです。私は読んだことがありません。でも、「ゲンキな田舎」という連載企画を連載したものをまとめた、この本は本当に読んで元気が出てきます。田舎だって、まだまだやることはたくさんあるということを実感できます。
 全国の直売所の総売上額は年間2500億円もある。といっても、農水産物の生産総額は9兆円あり、日本人の食料支出費にいたっては75兆円になる。日本最大級の直売所といわれるのは愛知県大府市の『げんきの郷』内にある「はなまる市」。JAあいち知多が建てた大規模複合施設。農産物を売る「はなまる市」は、1000平方メートル。700軒の農家が出品し、年間売り上げ高は15億円。
 珍しいものも売れるが、あんがい普通のものがよく売れる。スーパーになくて直売所にあるもの。それは、やっぱり安心感と鮮度。
 徳島県上勝(かみかつ)町は、山の多い谷あいに面した小さな町。人口2200人、半分近くが65歳以上。ところが、年寄りがやたら元気で、よく稼ぐ。70〜80歳で月収50万円はざら。年収1000万円という人も何人かいる。
 葉蘭、南天、もみじ(かえで)、松葉、笹の葉、柿の葉、椿の葉、ゆずり葉。春蘭、梅、ぼけ、桃、桜の花。どれも裏山や農家の庭先にあるものばかり。これらの葉や枝は、日本料理を彩る「つまもの」として、全国の料亭や旅館に流れていく。上勝町は、全国の「つまもの」市場の8割を占有する小さな大産地なのだ。
 たとえば、農家の庭に樹齢100年の柿の木がある。在来品種の渋柿だが、秋の紅葉がとくに鮮やかで、その葉っぱだけで売上30万円。スタート以来すでに数百万円を稼ぎ出している。す、すごーい。そうだったんですか。たしかに、高級料亭ではプラスチック製ではない、天然のものを添えていますよね。あれもビジネスになるのですね。
 三重県伊賀の農村に年間40万人もの人が訪れるアミューズメント施設がある。ゴールデンウィークには1日で1万人もの人々が押し寄せ、付近は大渋滞となる。売り上げ高が35億円。
 そこでは、体験事業する人が10万人、来る人の7割がリピーターになる。ソーセージをつくり、パンを焼き、ジャージー牛の乳搾りを体験する。
 阿蘇の黒川温泉の人気の秘密は雑木を植えたこと。中心はコナラ。コナラは、木肌に味があり、春の芽吹きも、葉が落ちたあとの佇まいも良い。虫に強く、いつ見ても飽きない。結局、人工美は自然美にはかなわない、ということ。普通の田舎が、今では一番の贅沢なのだ。まるで昔の農家のようだというのが人気になる。
 年に一度お客に来てもらうようり、何度でも来てもらえる地域にするには、どうしたらよいかを話し合ってきた。
 栃木県茂木(もてぎ)町の民宿『たばた』には、年間1万人がやって来る。一見したら、どこにでもある田舎の民家だ。ところが、ここは、体験型の民宿。年間の泊まり客は4000人。日帰り体験脚が6000人いる。宿泊料に1000円上乗せすると、ソバ打ち、農作業、生き物遊びが楽しめる。集落からインストラクターをつのった。時給2000円。多い人は、年間20回以上の指導をこなす。昔話の語り部だけでも、20人いる。
 うむむ、これはすごーい。こんなことは、全国各地でもっと試みられていいですよね。
 大分県宇佐市の安心院(あじむ)町は、農家民宿の草分け。いまや高校生の修学旅行先になっている。2005年には、22校、1600人がやって来た。訪れるのは平日なので、稼働率が上がった。
 なーるほど、ですね。いろんな工夫がなされているのですね。
 日曜日に久しぶりに山を歩いてきました。山のふもとに住んでいますので、お弁当をもって頂上を目ざします。桜が満開です。ソメイヨシノのピンクの花びらはいつ見ても色気を感じさせられます。春の山はウグイスをはじめ小鳥たちのにぎやかな鳴き声にみちみちていました。のぼり始めたころは少し曇り空でしたが、頂上に着くころは晴れあがり、少し春霞がかかっていましたが、汗ばむほどの陽気になりました。頂上の見晴らしのいいところで、お弁当開きをします。その前に上半身裸になって汗をふき、シャツを取りかえ、さっぱりします。はるか下界を見おろしながら深呼吸をして、まさに浩然の気を養いました。おかげで食もすすみ、ダイエット中にもかかわらず、おにぎりを2個とも食べてしまいました。体重は半年間で5キロ減り、今は64キロ台をなんとか維持できるようになりました。目標の62キロまで、あと少しの辛抱です。
 そろそろと山をおりて帰ります。山のふもとにツクシがたくさん出ていました。ピンク色の桃の花も咲いています。黄色い菜の花畑が少なくなったのが残念です。今年はじめてツバメが飛んでいるのを見かけました。
 わが家のチューリップは251本咲いています。あと半分はまだツボミにもなっていません。まだまだ当分じっくり楽しめそうです。
(2008年1月刊。1200円+税)

日本軍はフィリピンで何をしたか

カテゴリー:アジア

著者:戦争犠牲者を心に刻む会、出版社:東方出版
 昨年11月にフィリピンに行ったので、読んだ本です。
 アジア、太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻むという課題で開かれた集会(1989年8月)の記録集でもあります。
 戦前にフィリピンで流通していたペソは3億。ところが、日本軍が占領してからは、軍票が大量に発行されたため、65億から110億にも達した。20倍だ。日本軍は物の裏づけのないおもちゃ(ミッキーマウスと呼ばれた)として軍票を発行し、多くのフィリピン人を苦しめた。
 1945年1月31日にアメリカ軍はバタンガス州の海岸に上陸し、翌日には空挺部隊がタガイタイに降下した。
 先日のフィリピン旅行では、このタール湖畔のタガイタイに行きました。高原の高級避暑地だという前宣伝でしたが、まったくそのとおりでした。
 日本軍は敗退するなかで、フィリピン人の大量虐殺を行っていきました。
 「おい田辺、思い切ってやってみせろ。責任はこの藤重がもつ。後世の人間が、世界戦史をひもといたとき、誰しもが肌に泡立つ思いがするような虐殺をやってみせろ」
 口を閉じた藤重兵団長は、田辺大隊長に視線を当てたまま薄く笑った。
 彼らは、戦火のもとで死に、罪を一身に負い、刑場の露と消えた。
 うむむ、ぞくぞくする会話です。肌が粟立ちます。
 フィリピンのレイテ島のパサールに銅製錬所がある。1983年、マルコス大統領の時代、妻イメルダの生まれ故郷に移転して操業を開始した。このパサールには、リン酸アルミナなどの化学コンビナートがあり、その3分の1が日本の勝者による共同出資となっている。そこに、ODAの一貫として地熱発電所がある。この電力は、パサールのコンビナート、日本の技術と出資によるコンビナートのために使われている。日本のODAで建てた発電所を日本の企業のためにつかっている。そして、レイテ島には公害(汚染)を残す。
 実は、私は、その現地に日弁連の視察団長として出かけました。1989年8月のことです。今から20年近く前のことになります。そのレイテ島は今どうなっているのでしょうか。泊まっていたタクロバンは、台風被害にあったりして、大変だったようですが・・・。現地ではカトリックの神父さんに案内してもらいました。お元気でしょうか。
(1990年5月刊。1300円)

新司法試験合格者から学ぶ勉強法

カテゴリー:司法

著者:19年度合格者16人、出版社:法学書院
 新司法試験は、全4日(休憩日を入れると5日)の長丁場である。肉体的・精神的な疲労はかなりのもの。そこで、まずは長丁場の試験に耐えうるだけの体力、精神力が必要となる。
 新司法試験は苛酷な試験である。すべての試験が終わったとき、精魂尽き果てて、しばらくは席から立ち上がることもできなかった。この本試験に向けて、知力だけでなく、気力・体力が充実するよう、しっかり自己管理をしなければいけない。
 新司法試験は、4日間のうちに22.5時間もの長時間の着席を強いられる。
 新司法試験は、大変苛酷な試験である。毎日、長時間、問題を解かなくてはいけない。本当にきつい。新司法試験は、精神力も点数にかなり影響する試験である。試験前からストレスをためすぎたり、試験中に緊張しすぎたりして力を発揮できないということは避けなくてはいけない。ストレス解消法は重要だ。直前期は、異常なストレス状態になるし、試験当日のストレスと緊張具合は尋常ではない。
 うむむ、これはやはり大変な試験ですよね。
 新司法試験は、基本判例の事案をしっかりおさえたうえで、どのような事実に着目してその結果を導いたか、ということを勉強することが今まで以上に強く求められている。答案のスタイルとしては、このような基本判例があるが、その事案と比べて本件事案とは、ここが違う。もしくは同じである。また、このような特殊性もある。したがって、基本判例と違う結論、もしくは同じ結論になるという形で書けるのがベストである。なーるほど、ですね。
 新司法試験は、正しい方向で、一定量の努力を積み重ねた人が、高い確率で受かる試験だ。旧試験のときは、択一の点数がもちこされないこと、論文の総合点が低いことから、最後は、運の要素が強く、いわゆる合格順番待ちと言われる人が相当数存在した。新司法試験が択一の点数がもちこされ、論文の総合点も素点で800点と幅が大きく増えたので、旧司法試験に比べて、結果が順当な実力を反映する試験になった。
 法科大学院の授業では、法的な思考過程が訓練された。大量の判例を読むことは、問題点を素早く的確に理解することに役立った。期末試験は、論文試験の格好の訓練の場だった。
 私が35年前に受けた司法試験のときと同じく、我妻栄の教科書を基本書としてあげた受験生がいるのを知って、驚きました。さすがに『ダットサン』ではありませんでしたが・・・。私は『ダットサン』を6回読んで合格しました。また団藤の『刑法綱要』を一日で読み切れるようになったとき、合格しました。これと同じようなことを書いている合格者がいました。試験問題は変わっても、受験勉強のすすめ方のポイントは昔も今も変わらないという気がしてなりません。それは一言でいうと集中力です。集中して問題文に没頭し、基本的な定義をふまえたうえで、論点をおさえた文章を展開するということです。
 新司法試験合格者の質を心配する人は多いのですが、やる気さえあれば(他人とまじわるのが不得手だと困りますが)、弁護士として役に立つ存在になれると私は体験を通じて確信しています。
(2008年2月刊。1200円+税)

富豪の時代

カテゴリー:日本史(明治)

著者:永谷 健、出版社:新曜社
 明治維新以降、一部の実業家たちは、莫大な富を蓄えていた。三井家の一族、三菱会社の岩崎一門、そして大倉喜八郎、安田善二郎、森村市左衛門といった財閥の創始者たちである。
 彼らは、必ずしも明治初年から傑出した資産を保有していたわけではない。とくに、一代で財閥の基礎を築いた実業家たちにとって、明治初年はいわば駆け出し実業家の時代だった。たとえば、安田善二郎が両替店から質商兼業とし、事業の拡大を図りつつあったのは明治2年。大倉喜八郎が鉄砲商として得た財をもとに商会・大倉組を設立し、輸出入委託販売業を本格的に始めたのは明治6年だった。
 明治29年に営業税法が公布された。このとき、日清戦争の軍功による叙爵者にまじって、実業界の岩崎久弥、岩崎弥之助、三井八郎右衛門に初めて爵位が授けられた。これは、実業の分野で国家に対して顕著な貢献があれば、途方もない威信の上昇がありうることを社会に周知させるメッセージとなった。
 明治20年代半ばまで、成功した商人は、「奸商」イメージで語られることが多かった。しかし、多額納税者議員が現れたあと、彼らは新時代で巨富の蓄積に成功した稀有な階層としてとらえられるようになった。しばしば、富豪や紳商と呼ばれるようになった。つまり、前の時代よりダーティーなイメージが薄められたのだ。
 明治17年以降、華族でない実力者士族の華族への割り込みが急速にすすんだ。華族という呼び名で制度的に一括された集団は、メンバーの社会的・文化的出自の多様性の点で、そして異質な選抜基準をふくむ点でも、ひとつの社会的身分として定義するのが難しいほどの雑居状態にあった。
 すなわち、ひと口に華族といっても、それは経済的にも出自の点でも、決して等質な集団ではなかった。階層としての実体性がなかった。
 茶道は、明治20年代後半から大正期にかけて、リッチな実業家たちの正統文化へと成長していった。同じ時期に、能楽も流行した。能楽は、明治9年4月に岩倉具視邸への行幸で天覧に供された。能楽が大流行したのは、やはりそれが代表的な天覧芸であったからだろう。
 茶室は、重要な事案にかかわる面会や人脈形成の場として利用されていた。商談策謀は、茶室以外では出来ないとまで言われた。実業家の茶事は、必ずしも超俗的で、高踏的なものではなかった。
 明治時代にあった長者番付表を見ながら、いろいろ考えることのできる本でした。
(2007年10月刊。3400円+税)

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