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君の星は輝いているか

カテゴリー:アメリカ

著者:伊藤千尋、出版社:シネ・フロント社
 星よ、おまえは知っているね。
 これは、福岡県の生んだ偉大な作曲家・荒木栄のつくった歌です。私も、これをタイトルとする本を書きました(花伝社)が、残念なことにさっぱり売れませんでした。私が大学生時代に没頭した学生セツルメント活動の楽しく切ない思い出を書きつづった本です。まだ売っています。良かったら、買って読んでみてください。
 この本は、もっとストレートに君の星は輝いているか、と問いかけます。思わず、ドキリとさせられます。著者は私とほとんど同世代の朝日新聞記者です。でも、海外滞在がすごく長いので、九州の片隅でうごめいている私なんかとは比べものにならないほどの、まさに文字どおりの国際派ジャーナリストです。その記者が見た映画について、それこそ縦横無尽に語り尽くされています。私も、ここで紹介される映画の多くはみていましたが、ここまで背景を掘り下げされると、とてもかなわないと頭を垂れるばかりです。
 この本で取りあげられ、私がみた(と思う)映画のタイトルをまず紹介します。
 『華氏911』『チョムスキー9.11』『フリーダ』『JSA』『二重スパイ』『ボウリング・フォー・コロンバイン』『蝶の舌』『レセ・パセ』『戦場のピアニスト』『この素晴らしき世界』
 9.11テロ事件のあとにアメリカで起きた現象は興味深いものです。たとえば、サンフランシスコの金門橋(ゴールデンゲイト・ブリッジ)が爆破されるという噂が広がり、完全武装した州兵が出動した。街中がアメリカ国旗の洪水となったので、交差点に立って数えてみた。すると、1割でしかないのに10割という錯覚に陥っていたことが分かった。
 刑務所では、囚人に食べさせる食事代がなくなったので、刑期の軽い囚人を大量に釈放した。いやあ、すごいことですね、これって・・・。
 アメリカのチョムスキー教授は次のように指摘する。
 アメリカは、自分が被害を受けると悲しむが、自分は他人にどんな迷惑をかけてもいいと思っている。同じように、アメリカはイスラエルかレバノンで2万人を殺しても何にも言わないが、イスラエルがちょっとでも被害を受けると、残虐だと言ってパレスチナを非難する。
 ブッシュ政権がなぜ「悪の枢軸」という言葉をつかうのか。それは、国民を服従させるのに一番いいのは、恐怖を利用することだからだ。
 そして、エジプトの監督は次のように言う。
 アメリカは他の文明を破壊している。代償を払うのは、いつも他の国民だ。アメリカ以外の国の人々なら死んでもかまわないのか。そうなんですよね。この地球上で大切にされるべきなのはアメリカ人だけなんていうことは絶対にありませんよね。
 ブラジルのカーニバルが、実は日本でいうデモ隊のようなものだということを初めて知りました。一つのサンバチームだけで2千人から4千人いるが、カーニバルは単なる乱痴気騒ぎではない。それぞれのチームが、その年のテーマを決めて、テーマに沿って衣裳も曲もつくる。たとえば、テーマは「民主化の喜び」「黒人奴隷解放」「報道に自由を」「対外債務の重圧」などの硬派のテーマも目立つ。単に、お遊びだけで踊っているのではない。カーニバルは、それ自体がデモ行進なのだ。政治的、社会的な主張を踊りという形で訴えるのだ。「報道に自由を」のチームは、ペンの格好をした帽子をかぶるなど、それなりの工夫をしていた。
 観客席には5万人がいる。その人々も、ただ黙って見ているのではない。観客もリズムにあわせて踊りながら見る。同じリズムで踊るから、コンクリートの観客席がユサユサ揺れる。踊りの幕開けは土曜の夜8時で、翌日曜日の昼前まで延々と続く。
 うひゃあ、す、すごーいエネルギー、ですね。かないません。単に裸体を売りものにしたエロチックな祭りかと思っていました。まったく違っているようです。そういえば、ブラジルのルラ大統領も反米左派政権の一角を占めていますね。いつまでたってもアメリカのいいなりになっている日本人も、そろそろ目を覚ますべきときだと思います。アメリカ本国で「黒人」大統領が誕生しそうなほどの地殻変動が起きているのですからね・・・。
 久しぶりに雨の降らない日曜日になりましたので、庭に出て手入れしました。雑草が伸び放題でしたので、徒長枝も切ったりスッキリさせて見通しよくしました。今、黄色い花が庭に目立ちます。ヘメロカリス、カンナそしてフェンスのノウゼンカズラです。グラジオラスの花が何本も倒れていましたので、切り花にして玄関を飾りました。ピンクや赤そして白色の花で一気に華やかな雰囲気の玄関となりました。
(2005年11月刊。1600円+税)

光州の五月

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:宋 基淑、出版社:藤原書店
 映画『光州5.18』が上映中です。先に紹介しましたように、私は東京で見てきたのですが、韓国で大ヒットしたこの映画が日本では観客が少ないということです。残念です。いい映画ですので、決して楽しい映画ではありませんが、ぜひ映画館まで足を運んでみてください。それだけの価値は十分にあります。
 本のオビには、こう書かれています。
 「あの光州事件は、まだ終わっていない。1980年5月に起きた現代韓国の惨劇、光州民主化抗争(光州事件)。凄惨な現場を身を以て体験し、抗争後、数百名にのぼる証言の収集・整理作業に従事した韓国の大作家が、事件の意味を渾身の刀で描いた長編小説」
 まさしく、そのとおりです。光州事件は、まったく終わってなんかいません。私は日本にいて、日々、手に汗を握る思いで、軍隊に向かって立ち上がった勇敢な市民や学生に声援(だけですが)を送っていました。
 この本は現代韓国の日々に生きながら、1980年5月の光州事件をフラッシュバック形式でふり返るという体裁をとっています。それだけ、現代韓国人にとっても光州事件は思い意味があるのです。
 M16を担いでいた者は光州市民軍の中でも特殊な存在だった。それを手にする方法は戒厳軍(攻守団)から奪う以外なかった。一般市民は、予備軍や警察の武器庫を襲撃して武装したから、銃はすべてM1かカービン銃だった。M16は、当時、現役軍人だけに支給されたもの。光州市民軍に6000丁に及ぶ銃が出まわっていたが、M16は少なかった。
 攻守団は、路地に逃げた者をとことん追いかけ、家の中まで、しらみつぶしに探した。一帯の商店はほとんど閉めていたので、喫茶店や旅館、民家をあさり、人を見つけ次第、こん棒でたたき、銃剣の先で突き刺した。はじめは光州出身の軍人が配置されたが、彼らは市民に対して銃を向けることを拒んだ。そこで、韓国でもっとも暴力的な空挺部隊の全斗煥司令官が、自分の部隊を投入した。全斗煥は、1ヶ月間、厳しい訓練を課した。共産主義者を殺せ、アカを殺せ、と来る日も来る日も洗脳した。この兵士たちはもはや人間ではなく、ロボット、いや虐殺ロボットだった。
 「市民のみなさん、後退は止めましょう。一歩たりとも退いてはダメです。私たちの兄弟や息子が何の罪もないのに無惨に殺されました。光州市民のみなさん、私たち市民の偉大な力を見せましょう。私たちも、この場で、死をともにしましょう。あの殺人鬼どもを、私たちの手で追い出しましょう」
 すみわたる女性の声が市内に鳴り響いた。聞く者の身体を奮いたたせた。アパートの窓から目だけ向けていた傍観派市民も、布団の中に潜って縮こまっている人々も、この声を聞いたら、飛びださずにはおれなかった。
 朝9時、MBC放送局が燃やされた。根拠のない戒厳令発布だけを繰り返し放送したからだ。昼には税務署にも火が放たれた。国民の税金で食っている軍人に、国民をここまで虐殺させるのかという叫びとともに火がつけられた。
 デモ隊の市民に向かって銃口が向けられた。それでも、はじめは、銃口は空中に向いていた。
 我々は大韓民国の国民だ。お前らは、どこの国の軍隊なのか?
 そのような疑問の叫びが軍隊に向かって発せられたが、銃口の前に若者たちは倒れていった。
 光州市民の中に、抗戦派と退去派が生まれた。やがて、抗戦派が退去派を追い出して決着した。
 市民軍の総数は600人。道庁に250人。光州公園に100人。ハク洞に200人など。機動打撃隊は志願者30人にしぼられた。道庁にいた指導部は戒厳軍に全員虐殺された。そして、捕まった者は、焼き鳥、水攻め、爪に錐刺しなど、ありとあらゆる拷問で夜が明け、日が暮れた。拷問時の唯一の望みは、このまま息絶えることだった。
 攻守団にいた軍幹部は、次のように言って開き直った。
 光州事態は、証拠をあげられなかっただけで、北韓のスパイと政府にたてつく不順分子の衝突が原因で起こった事件だとはっきりしている。
 すさまじい映画でしたが、真実はさらにすごい惨劇だったようです。何の罪もない市民を全斗煥の軍隊が10日間にわたって何千人も虐殺したのです。目をそむけるわけにはいきません。日本人だって同じです。
(2008年5月刊。3600円+税)

棟梁

カテゴリー:社会

著者:小川三夫、出版社:文藝春秋
 私とほとんど同世代(正確には、私のほうが一歳下)なのに、なんと、早くも隠退してしまいました。
 鵤(いかるが)工舎の小川棟梁が、引退を機に後世に語り伝える、技と心のすべて。
 これはオビに書かれている文章です。小川棟梁は法隆寺最後の宮大工だった西岡棟梁の後を継ぎ、徒弟制度で多くの弟子を育て上げました。すごいことです。そんな実績のある棟梁の語る言葉には、一言一句に重みがあります。ついつい耳を傾けてしまいます。
 師匠の西岡常一棟梁は、何にも言葉では教えてくれなかった。一緒に暮らして、一緒に仕事をした。それが教えだった。学ぶ側が何をくみ取るかの問題であって、言葉はない。だいたい、大工や職人には言葉はいらない。カンナ使いの手加減、体づかい、刃のつくり方、削ろうとする木の癖、柔らかさ、どれも体が覚えて判断すること。言葉では言いあらわせない。
 言葉で教えられないから弟子に入る。本や言葉ですむなら、10年もかかって修業する必要はない。やる前に考えて、できないと思うようなら職人として使えない。それでは、小さな体験からはみ出せない。
 弟子に入ったとき、師匠から1年間はラジオも聞かなくていい。テレビもいらない。新聞も読まなくていい。大工の本も何も読む必要はない。ただひたすら刃物を研げ。こう言われた。修業は、そうやってただただ浸りきることが大事なのだ。
 ものを教わり、覚えるのに一番必要なのは素直なこと。そのため、12、3歳までには弟子になる必要がある。遅くても14、5歳まで。うむむ、そうなんですか・・・。
 職人は徒党を組んではいけない。まして修業のときはそうだ。人は人。それぞれ生まれも育ちも性格も才能も違う。最初から違うものと思って扱うし、本人たちもそう思わないと共同生活は成りたたない。仕事のできない人間、遅い者が群れを組みたがる。
 うーむ、なかなか厳しい指摘ですね、これって・・・。
 現場で棟梁をするのが大工。その下が引頭(いんどう)。現場で大工を助ける。仕事の段取りをして、人を実際につかう。その次が長(ちょう)。道具づかいが一人前で、下の者に道具づくりが教えられるようになった人間のこと。一番下が連(れん)。
 アパートから通いたいという人間は、弟子にとるのを断った。体から体に技や考え、感覚を移すのが職人の修業なのだ。
 弟子入りして共同生活した新人に食事や掃除をさせるのには理由がある。掃除をさせたら、その人の仕事に向かう姿勢・性格が分かる。飯をつくらせたら、その人の段取りの良さ、思いやりが分かる。間は技だけ秀でてもダメ。バランスのいい人間である必要がある。そのためにも、一緒に暮らして学ぶことが大切だ。
 ふむふむ、なるほど、なるほどですね。すっかり納得しました。
 大工仕事は段取りが8割。段取りさえうまくいけば、仕事はできたも同然。 棟梁は、みんなより先を見なくてはいけない。全体を見渡せて、棟梁だ。個室に戻って、仕事のことを考えるのから解放されたいというのではダメ。共に耐え、忍ぶ心がなければ、一緒に暮らすのは無理。
 器用は損だ。器用な人は器用におぼれやすい。不器用の一心にまさる名人はいない。
 叱られるのが修業。叱られて身につけていく。叱られるのが大事。しかし、いつまでも叱ってはもらえない。親方に怒られて10年。この10年で基礎を学ぶ。
 檜(ひのき)は強い。法隆寺も薬師寺も、日本の1000年以上の建物は檜があったおかげ。檜は、鉄やコンクリートよりも強い。
 ところが、今の日本は肝心の木がない。
 未熟なうちに仕事を任せるのが肝心。任されるほうもできるとは思っていないけれど、親方がやれと言ったから、オレもできるかもしれないと思う。このタイミングが必要だ。
 頭の中をいつも整理整頓させておくこと。整理されていない頭では次のことが考えられない。これって、まったくそのとおりだと整理整頓の大好きな私は思います。
 健全な組織であるためには、組織を腐らせないこと。
 弁護士にとっても大変役に立つ指摘にみちみちていました。ところで、著者は引退したあと、何をするのでしょうか・・・?
(2008年4月刊。1524円+税)

暗闇のヒミコと

カテゴリー:司法

著者:朔 立木、出版社:光文社
 サク・タツキと読みます。刑事事件を主に扱ってきた現役の著名弁護士だということです。実名を知れば、私も名前くらいは知っている人なのでしょう。著者の『お眠り、私の魂』には度肝を抜かれました。東京地裁につとめる裁判官の赤裸々な私生活が描かれていましたので、私は、てっきり現役裁判官の覆面作家が登場してきたものと思いました。それほど裁判所内の描写は真に迫っていました。次の『死亡推定時刻』も読ませました。ぐいぐい引きこまれてしまいました。ただ、このときは田舎(山梨県だったと思います)の弁護士が能力のない弁護士と描かれている印象も受け、同じ田舎の弁護士として少々ひがんだことでした。著者は他にも本を書いているようですが、私は本書が3冊目です。前2冊よりは少々物足りないところがありました。それは推理小説のような真犯人探しと、明快な絵解きを期待したからです。現実の裁判では、明快な論証というのはきわめて困難なものです。双方の言い分が真っ向から反しているとき、どちらにも疑問を感じて、灰色の決着をみるということが現実には多々あります。その点が、この本にも反映されています。
 東京の奥多摩にある高級養護老人施設の老人(男女)2人が水死体となって発見された。当初、事故死とみられていたが、遺族の訴えから殺人事件として捜査が始まり、施設につとめていた看護師が容疑者として浮上する。
 警察官は、自分のしゃべったことがマスコミを通じて「事実」に変わっていくことを知り、マスコミを利用することを学習した。
 そうなんですよね。世間に人は、マスコミの報道は、すなわち真実だと思いこむ(思いこまされる)ものなんです。だから、マスコミって怖いし、下手なことはしゃべれません。
 ところが、この事件の容疑者は、マスコミに派手に登場して、自分の無罪を吹聴していました。それが余計に捜査官を刺激し、執念をかきたててしまったのです。
 日本は自白に頼って捜査し、裁判する国だ。裁判官は、自白があれば他に証拠が弱くても安心して有罪にする。反対に、自白がなければ有罪にするのをためらう。
 日本の、古来(ここでは戦前以来、という意味です)からの自白偏重主義は、やってもいない人が「自白」するはずがないという単純明快な「思い込み」を根拠とします。ところが、実際には、人はやってもいないのに、あたかもやったかのような「自白」をするものなのです。恐ろしい真実です。
 死刑になるのは遠い先のこと。今の、この苦しみから抜け出せれば何と言うこともないという心理のもとで、やってもいないことをやったかのような「自白」をするわけです。
 警察と対決するようなシビアな事件では、家族の面会や差し入れすら警察官による妨害を受けることがある。そういうときには、弁護士が自ら差し入れる。身柄をとられている依頼人の身体的・心理的負担を少しでも軽くして、そういう不自由さのために、心ならずも自白に追いこまれるような事態を避けるのも、日本では重要な弁護活動である。
 日本の裁判官は、『合理的な疑いを越える証明』なんて、考えてはいない。だから、裁判官の考え方ひとつで、同じ証拠で有罪になったり無罪になったりする。それを決めるのは、その裁判官が有罪判決を書きたいか、無罪判決を書きたいか、だけのこと。
 したがって、毎日のように言い渡されている有罪判決の中には、本当は無実の者もふくまれている。ところが、無罪判決を受けた被告人の中にも、ごくまれに、本当はやっているのに無罪判決をとる者が含まれている。
 高裁の審理では、審理が簡単だと被告人に不利な結果になることが多い。逆転有罪って、本当はたくさん証拠調べを追加してはじめて原判決を破棄し、有罪を自判できるはず。ところが、それをせずに逆転有罪となった。ひどいものです。
 推理小説仕立てですから、ここで筋を明らかにするわけにはいきません。悪しからず、ご了承ください。
(2007年12月刊。1600円)

ジバク

カテゴリー:社会

著者:山田宗樹、出版社:幻冬舎
 いまの勝ち組は、いつ何時、負け組に転落するかもしれない、そんな危うさをもっていることを立証するかのような寒々とした小説です。
 主人公は、初めは年収2000万円のファンド・マネージャーとして、格好よく登場します。年に1千億円を動かしている。住まいはJR恵比寿駅近くのマンション。賃料35万円。
 高校の同窓会でも勝ち組として誇らしげだった。ところが、昔あこがれの女性と不倫におちいり、いつのまにか禁じられたインサイダー情報に手を汚し、それが発覚してクビになる。
 ここから暗転が始まります。強いセレブ志向の妻に離婚を申し渡され、せっかくの預金はガッポリもっていかれてしまいました。そのときの妻のセリフは紹介するに値します。
 「あんな大学、行かなきゃ良かった。周りの友だちが、みんなお金持ちで、お父さんが大企業の社長だとか、外交官だとか、医者だとか、そんなのばっかり。学生なのにBMWやポルシェを乗り回して、ファッション誌でモデルが着てる服を当然のように着てきて、たまに家に遊びに行ったら、びっくりするような豪邸で、話をしてもわたしとは縁のない世界のことばかりで。わたしは必死に仲間のような顔をして愛想笑いするしかなかった。貧乏人なのを見抜かれやしないかってビクビクしながら・・・。そのときのわたしの気持ち、わかる?父親が普通のサラリーマンで、ずっと借家住まいの家庭に育ったわたしが、どんな思いで(大学生活の)4年間を過ごしたか、あんたに想像できるの!わたしは、もう、あんな惨めな思いをしたくなかったの!」
 この気持ち、私には理解できませんが、少しだけ想像することができます。私の身近にいた先輩の女性があこがれの学習院大学に入りました。きっと、こんな気持ちになったんじゃないかな、そう思いました。私は、大学生のとき、比較的に「貧乏人」のいる寮(今はない東大駒場寮です。6人部屋でした)に入りましたから、コンプレックスを感じることもなく、ぬくぬくと生活できました。『清冽の炎』第1巻(花伝社)に描かれているとおりの生活でした。
 主人公は次に未公開株を売りつけるインチキ会社に入って、電話でのアポ取り仕事に従事します。でも、なかなか営業成績は上がりません。そんなときに言われて、目を開かされたのが次のセリフです。
 「電話の向こうにいるのは、カモ。それ以外はゴミ。買ってくれるお客様はカモ。買わない奴はゴミ。短時間でゴミを見分けること。あいまいなことを言ってグズグズするだけのタイプはまず買わないので、ゴミ。声がいかにも不機嫌なのもダメ。こういうのは、さっさと切り捨てて、次に行く。ゴミに余計な時間は使わない。ゴミがいくら腹を立てようが、何を言おうが、我々の知ったこっちゃない。勝手にさせておけばいい。しょせんゴミだから、気にするだけバカバカしい」
 「日本には、300万円くらいなら、電話1本でぽんと差し出す金持ちがいくらでもいる。そういう客にあたるまで、ひたすら電話をかけまくる。50万円で臆病風を吹かすような貧乏人なんか、関わるだけエネルギーのムダ。そんなのは、さっさと捨てる。ゴミと分かったら、1秒でも早く捨てて次に行く。まずは数をこなす。1日250本を目ざす。大切にしなくてはいけないのは、おいしい肉をたっぷりと食べさせてくれるカモだけ。お金に余裕のある人なら、必ずもうけ話に興味をもつはず。そういう客にあたったら、ここぞと勝負をかける」
 「ほとんどの人間は、誰かに操られたがっている。人の心を手玉にとったときの快楽は、ほんとうにしびれるほど。その快楽を味わうためにこの仕事をしている」
 「相手が受話器をとっても、すぐにしゃべってはいけない。一呼吸おいて、様子をうかがう。相手の声のトーンに神経を集中し、想像力をフル回転させ、相手の状態を把握する。忙しいのか、ヒマなのか、元気なのか、疲れているのか。
 第一声では、決して早口になってはいけない。言葉を区切って、ゆっくりと相手を確認する。これで、ただの営業ではないかもしれないという印象を与えられる。
 いやあ、ホントなんです。この手の被害にあった人の相談をよく受けます。ところが、被害回復はなかなか難しいので、弁護士としてももどかしく思うことの多いのが現実です。
 仏検が終わって、みじめな思いをかかえて上京するため福岡の空港でチェックインしようとしたら、「予約ありません」という表示が出てきてびっくり。なんと、1日あとの便を予約していたのです。きちんと確認をしなかった私の完全なミスです。まったく厭になってしまいました。でも、なんとかキャンセル待ちで目ざす便に乗ることができました。
(2008年2月刊。1600円+税)

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