法律相談センター検索 弁護士検索

夢顔さんによろしく

カテゴリー:社会

著者:西木正明、出版社:文春文庫
 最後の貴公子・近衛文隆の生涯というサブ・タイトルのついた上・下2冊の文庫本です。タイトルの意味が分からず、まったく期待もせずに読みはじめたのですが、どうしてどうして、意外や意外、すこぶるつきの面白さでした。途中からは手に汗を握るほどの大活劇の展開となりました。ええーっ、これって本当のことなの・・・と思いながら、後半は頁をくるのがもどかしいほど一気に読みすすめていきました。2000年の柴田練三郎賞を受賞した本だということを読み終わってから知りました。なるほど、なーるほど、と納得した次第です。
 1945年2月14日、近衛文麿は昭和天皇に対して、次のように上奏した(要するに口頭でレクチャーしたということ)。
 敗戦は必至である。米英の主流は日本の国体の変更までは求めていない。敗戦だけなら、国体の護持は可能だろう。むしろ憂慮すべきは、敗戦にともなって起こりうる共産革命である。
 天皇は大いに驚き、その根拠を近衛に問いただした。昭和天皇が共産党と共産革命を恐れていたことについては別の情報もあって裏付けられています。
 終戦後の昭和20年12月16日、近衛文麿は青酸カリをのんで自殺した。54歳だった。そのとき、息子の近衛文隆はシベリアの収容所に抑留されていた。陸軍砲兵中尉であった。身長1メートル79センチ、体重81キロ。
 近衛文麿は一高から東大に入学したが、途中で京大に転じた。社会主義に傾倒し、マルクス主義経済学者である河上肇に師事し、オスカー・ワイルドに夢中になった。
 文隆の愛称をボチという。これは、「ぼくは・・・」と言うべきところを「ボチは・・・」と何度となく言ったことから来ている。
 文隆はニューヨークで勉強するようになり、エイミー・ベルグマンという金持ちの女性と親密な関係になった。ところが、その女性はアメリカ共産党の隠れ党員と交際があった。そこで、文隆は女性と別れさせられた。突然のことである。
 やがて文隆は東京に戻ってくる。そこでドイツの新聞記者ゾルゲと知りあい、親しく交流するようになった。そうなんです。あの有名なソ連スパイのゾルゲです。
 文隆は、父の文麿が首相になったとき、その秘書官として政治の中枢で働いた。ただし、わずか5ヶ月あまりのこと。そのあと、文隆は上海に渡る。そこで美貌の中国人女性ピンルーと深い仲になるのです。それを知って面白くないのが日本の憲兵隊。文隆に警告を発します。強引に別れさせられることになるのです。文隆は日本に戻り、やがて召集令状が来ます。徴兵検査も受けていないのだから、意図的な召集だった。敗戦後、文隆はシベリアに抑留される。
 ゾルゲと尾崎秀実がスパイ罪で絞首刑にされたのは1944年11月7日のこと。しかし、その事実は、戦後の昭和24年2月10日まで秘匿されていた。もちろん、ソ連に抑留されている文隆は何も知らない。
 文隆に対してソ連当局は元首相の息子として利用価値ありと判断し、ソ連のスパイになるようにもちかけた。文隆はそれを断わった。そのころから、文隆の健康は思わしくなくなり、ついには原因不明の病気で亡くなった。
 うむむ、なんだか変ですね・・・。ところで、タイトルの夢顔さんによろしくとは、何でしょうか。ムガンと呼んで、ゾルゲの生地のことだというタネ明かしがされています。ふむふむ、なるほど、そういうことなのでしょうね。
 よく調べてあるうえ、読みものとしてもよく出来ています。感心しながら、ついつい読みふけってしまいました。
(2002年10月刊。629円+税)

第三帝国の中枢にて

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ゲルハルト・エンゲル、出版社:バジリコ
 総統付き陸軍副官の日記というサブタイトルがついている本です。総統とは、もちろんヒトラーのことです。本のオビに、「1938年から1943年にわたり、ヒトラーの副官をつとめた若手将校の日記が伝えるナチス・ドイツ深奥の作戦中枢における生々しい人間模様」と書かれています。たしかに、ナチス・ヒトラーとドイツ陸軍との水面下のドロドロとした対立状況が伝わってくる第一級の資料です。先に紹介しましたヒトラー暗殺計画の動きも、この本とあわせて読むと、かなり理解できるところがあります。つまり、ドイツ陸軍内部が必ずしもヒトラー一辺倒だったわけではないことがよく分かります。
 ドイツ国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル長官は、ヒトラーに歯向かうことはほとんどなく、周辺から「おべっか使い」と揶揄(やゆ)されていた。
 ブラウヒッチュ陸軍総司令官も、妻と離婚に際して多額の慰謝料を支払うために引き受けたことから、ヒトラーに借りがあった。さらに新しい妻の素性が怪しかったため、ヒトラーにおもねるしかなかった。
 ヒトラーが任命した軍務大臣フォン・ブロムベルク陸軍元帥は、いかがわしい噂のある女性と結婚したことが原因で失脚した。結婚したすぐあとのことだったので、結婚立会人をつとめたヒトラーは非常にまずい立場に立たされた。保守的な将軍らの抵抗にもめげずに自分の政治的路線を支持してくれた信用できる男、ブロムベルクを犠牲にせざるをえなかったヒトラーは、その後、保守勢力による権力掌握阻止に動いた。陸軍と国家指導層との関係を改善できなかったことから、ヒトラーは常に不安にさいなまれていた。
 イギリス軍がダンケルクから脱出できた裏話も興味深いところです。要するに、ヒトラーが政権を握ったあとに創設されたドイツ空軍に決定的な役割を果たさせる点で、ヒトラーはゲーリングと意見が一致したのだった。ヒトラーが5月24日に停止命令を出したのは、ゲーリングの発言を信頼したから。ヒトラーは、伝統的に保守的傾向の強い陸軍より、空軍には国家社会主義(つまりナチス)の精神がよく浸透していると考えていた。
 ヒトラーは、世界観戦争の観点からも、また国内の士気を高めるためにも、スターリングラードの攻略は欠かせないと考えていた。したがって、ヒトラーは、突撃はやめるべきだという提言には、一切、耳を貸さなかった。
 スターリングラードで、ついにパウルス将軍が降伏したとき、ヒトラーは自分の非を認めようとせず、むしろほかの誰かに失敗の責任を転嫁しようとした。そして、その態度が戦線指揮官らの怒りを買うことになった。
 この日記は危機に直面したときのヒトラーの優柔不断ぶりを伝えている。その一方、ヒトラーには、細かい知識や情報を吸収して記憶する並はずれた才能があった。
 エンゲルが副官になったのは32歳のとき。エンゲルは1943年4月に実戦の指揮官に転出し、最終的には中将にまで昇給し、1944年12月のアルデンヌの森の反撃で負傷した。以下、少し紹介します。
(1938年6月25日)
 ゲーリングは元帥の地位にありながら、次々に陸軍を批判し、偏見にみちた参謀本部攻撃を行い、西部要塞監督局について無礼きわまりない意見をのべた。ヒトラーもこれに同調した。
 (1940年12月18日)
 バルバロッサ作戦の指示が出た。陸軍総司令官から、ヒトラーが本当に戦闘を望んでいるのか、それともこけおどしにすぎないのか探るように命じられた。ヒトラー自身も分かっていないと確信している。ヒトラーは、ロシアは弱い、イギリスの譲歩を期待し、アメリカの参戦はないと信じている。ドイツの空軍力に対する信頼は驚くほど高い。
 (1941年1月17日)
 ヒトラーは、ソ連赤軍の戦闘能力に関して、非常に楽観的だ。武器や設備は時代遅れで、とくに飛行機は少なく、戦車も旧式だ。
 (1941年7月28日)
 レニングラードとモスクワという2つの大きな腫瘍を除去しなければならない。それはロシア国民にとっても、共産党にとっても、大きな打撃となる。ゲーリングは空軍だけでやれると断言するが、ダンケルク以降、余(ヒトラー)は少々懐疑的になっている。
 (1943年2月1日)
 スターリングラードは、もう終わりだ。ヒトラーは深く落ちこんで、ミスや命令不履行がなかったかどうか、くまなく探している。
 軍事戦略の「天才」ヒトラーは、同じ「天才」スターリンとまったく同様の俗物そのものだったことがよく分かります。
(2008年4月刊。2600円+税)

「情熱のシェフ」

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:神山典士、出版社:講談社
 福岡出身のシェフがフランスでミシュランの星を獲得しました。それも、わずか28歳とは、恐るべきことです。この本は、その若きオーナー・シェフである松嶋啓介の足どりを丹念に追いかけています。いやあ、プロの料理人(シェフ)というのは、すごいものです。一度は、ぜひとも味わってみたいものです。
 この本の人物紹介を紹介します。
 1977年に福岡県で生まれる。高校を卒業したあと、上京し、料理学校「エコール辻東京」に学ぶ。渋谷「ヴァンセーヌ」などで働いたあと、20歳でフランスへ渡る。フランス国内で修業を重ね、南仏ニースに2002年12月、25歳のとき自分の店
「Kei’s Passion」をオープン。素材の魅力を存分に生かした斬新な料理が話題を呼び、3年後の2006年、28歳でミシュラン一つ星を獲得した。
 その後、店を拡張し、「KEISUKE MATSUSHIMA」に改めた。近く東京にも進出する。
 ケイは、食材の組み合わせは基本的なものであっても、完成したときに意外性を出す。料理はエンタテイメントなのだから、「驚き」は大切な要素だ。
 まずは食材・素材ありき。食材に対する感動こそ、料理人に対する最大の賛辞となる。料理人は、ある意味で、生産者の通訳である。
 ケイは味覚を複雑にせず、食材の良さを前面に出すような作品を心がける。その代わり、シンプルな料理は味覚の組み立てが完璧でなければいけない。
 ケイにとって料理をつくるのも楽しいことだが、一番うれしいのはフロアーに出て客から「メルシー」と言われた瞬間だ。料理は、自分のためではなく、人に喜んでもらうためにこそある。
 ケイの父は福岡市城南区に住む団塊世代の営業マン。祖父は太宰府に住む。1000坪の農地でニワトリを飼っていた。
 ケイは子どものころ、やんちゃの一言に尽きる悪さ坊主だった。ただし、味覚の良さは抜群だったし、母親はいつも手づくりの料理で、冷凍食品はめったにつかわなかった。
 ケイは東京で調理師学校に通うかたわら、東京の有名レストランを見てまわった。
 ニースのレストランが居抜きで1000万円に売りに出されるのを買ったのです。すごい決断ですね。24歳のときです。25歳の誕生日に店はオープンしました。20歳でフランスに渡って、わずか4年でフランスで店を構えるというのですから、その実行力と決断力は常識はずれのものがあります。
 しかも、開店して3日目には22席が満席になったというのです。
 今や、夏に月商13万ユーロ(2100万円)、冬でも10万ユーロ(1600万円)。1日の売上が平均4000ユーロです。店は150平方メートル(45坪)です。フロアと調理場をあわせて17人。うち日本人が6人(19万円の給与)、フランス人11人。平均年齢は、なんと22.6歳。最年少は15歳。調理場にも16歳2人、17歳、19歳がいる。ニースの料理学校から実習に来ている少年少女たち。
 ところが、スタッフの確保と養成は大変なようです。
 毎朝、市場にまで買い出しに行って、そこで生産者と顔を合わせながら、食材を自分の目で選び、その食材に合わせて料理を考えるというケイのスタイルに大いに魅かれるものがありました。これからも大いに活躍してほしい日本人、いえ福岡県人です。
(2008年6月刊。1700円+税)

虚構のナチズム

カテゴリー:未分類

著者:池田浩士、出版社:人文書院
 1930年当時のドイツの人口は6300万人。そのうち、ユダヤ人は56万人ほど。つまり、全人口の1%にもみたなかった。いったい1%しかいないユダヤ人がどうして全ドイツの脅威として感じられたのか。また、ドイツにいたユダヤ人が56万人というのなら、アウシュヴィッツなどで殺された600万人ものユダヤ人はどこから来た(連行されて来た)のか。これをドイツの若者たちに考えさせたという教育実践が紹介されています。なるほど、と思いました。
 1936年にオリンピックがドイツで開催された。このときヒトラーは、ニュルンベルク法の精神に反する超法規的な譲歩を行ってまて、オリンピックを実現した。オリンピック期間中は、ドイツの町々から反ユダヤ人キャンペーンのポスターその他をすべて撤去した。外国の選手団にユダヤ人がふくまれていても妨害しないし、ドイツ代表団に2人のユダヤ人選手を加えることも決めた。うひょー、そ、そうだったのですか・・・。
 オリンピックの終わった3週間後にニュルンベルクで開会されたナチ党の第8回大会は、「名誉の党大会」という名称を掲げた。
 1937年7月、ミュンヘンでヒトラー頽廃芸術展と題する美術展を開いた。その4ヶ月半のあいだに200万人ものドイツ人が観賞した。終了後、オークションで売却され、国家は莫大な利益を得た。
 ナチズム体制とともに、ドイツ市民の映画をみる回数が増えていった。それはドイツにとって戦況が不利になっていった1943年になっても変わらなかった。
 窮屈な暮らしのなかで人々が映画に娯楽を求め、時代が悪くなればなるほど映画が遺されたわずかな楽しみとなっていた。
 1934年6月、ヒトラーはSA隊長のエルンスト・レームなど幹部たちを急襲し、裁判抜きで処刑した。当時の公式発表では死者77人とされていたが、実は1000人をこえることが大戦後わかった。
 SA隊員には「第二革命」を唱えるものが少なくなかった。ヒトラーの首相就任は「国民革命」の第一段階にすぎず、このあと、民族民衆自身が真に国家社会の主人公となるための「第二革命」が闘われるはずだというもの。これはヒトラーにとって容認しがたい過激主義だった。ヒトラーは、この事件のあと以後、千年間、ドイツにはもはや革命は起きないと宣言した。
 ナチス・ドイツの社会の実情を多面的に追跡した労作です。たくさんの知らないことが書かれていましたが、大半を省略してしまいました。
(2004年3月刊。3900円+税)

性犯罪被害にあうということ

カテゴリー:司法

著者:小林美佳、出版社:朝日新聞出版
 読んでいるうちに思わず粛然とした思いになり、襟をただされ、背筋の伸びる思いがしました。若い女性の悲痛な叫びが私の心にもいくらかは届いた気がします。
 24歳の夏、私は見知らぬ男2人にレイプされた。道を聞かれ、教えようと近づいたところを、車内に引きずりこまれた。犯人はいまも、誰だか分からない。
 その夜から、私は生まれ変わったと思って過ごし、放たれた矢のように、何かに向かって飛び出した。
 この本は、このような書き出しから始まります。レイプされてからの著者の痛ましいばかりの変わりようが、淡々と描写されていきます。何回となく吐き気を催したという記述があり、読んでいる私のほうまで気が重くなり、胸に重たいしこりを感じました。
 警察に届けに行き、警察官から被害者としての取り調べを受けたとき、著者は被害の事実をありのまま語ることができませんでした。
 事実と嘘が、めちゃくちゃだった。聞いて助けてほしい気持ちと、知られたくない、離したくない、思い出したくない気持ちがまざり、中途半端な証言になってしまっていた。警察とよりは他人に対する防衛本能、拒否感は自然に芽生えていた。
 たとえ相手が警察とはいえ、初対面の人をいきなり信用することができなかったのかもしれない。冷静に、いま起こったことの順を追って話せるほど気持ちも落ち着いていなかった。自分さえ、夢だと言い聞かせていたのだから。
 著者は、事件後、職場を欠勤も遅刻もしなかった。そのとき、事件のことを隠すことや言えないことへの疑問や反感、悔しさがあり、事件そのものを偽って伝えることに抵抗があった。どこまでを他人に話し、どこからを隠したらよいのか判断がつかず、本当は誰かの口から休む理由を伝えてほしかった。毎日の生活は、いつもと変わらない日常をこなすことで精一杯だった。仕事や社会生活など、周りに他人がいて事件のことを公言できない場での私の生活は、何かあったと悟られないように過ごし、それまでと変わらないように見えていたはずだ。しかし、一人の時間には、それまでと同じ生活はまったくできなくなっていた。
 食べることも忘れてしまう日々が続いた。ひと月で13キロも体重が落ちた。そもそも、生きる気力を失った人間が、食べようと思うわけがない。辛くて食べられないのではなく、食べる必要がなかった。だから、お腹も減らなかった。昼休みは飲み物を片手に、一時間、ずっと歩き続けていた。
 セックスで理性が外れることが、とても怖かった。自分の快楽だけのために時間を過ごしている人のために、苦痛に耐えさせられることがとても悔しかった。うむむ、なるほど、この表現って、なんとなく分かりますね。
 カウンセリングは、決して弱い人が行くところではない。自分の考えや気持ちに気づきはじめた人が、他人に合わせることに違和感をもちはじめたとき、その違和感を取り除く方法を見つけに行く。カウンセリングは、そんな場である。
 人が人を裏切った瞬間が、とても汚いものに思えて寂しいし、悲しかった。加害者が著者に手をかけた瞬間は、加害者が道を教えようとした著者の信頼や親切を裏切った瞬間なのだ。その一瞬の信頼を裏切られたときのショックは大きかった。
 著者の顔写真が表紙にのっています。いかにも寂しげです。信頼を裏切られた思いを今も重くひきずっている表情です。
 忘れることのできる体験ではないと思いますが、ぜひ前を向いて生きていってほしい。私は心からそう思います。それにしても、恐らく私とほとんど同じ世代であろう父親の対応が残念でなりませんでした。子どもにもっと寄りそう柔軟性があっても良かったのでは・・・、そう思いました。私も、あまり偉そうなことは言えませんけれども。
(2008年4月刊。1200円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.