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最後の銃弾

カテゴリー:未分類

著者:サンドラ・ブラウン、出版社:集英社文庫
 アメリカ社会の奥深い闇をえぐり出す法廷ミステリー小説です。著者はなんと女優出身の作家です。日本にも、そんな作家がいましたね。私と同じ世代です。モデル、女優、テレビのレポーターをつとめたあと、小さいころからの夢だった作家に転じたというのです。まあ、私に負け惜しみを言わせてもらえば、私のモノ書き志向は決して小さいころからなんていうものではありません。ここでは弁護士になってから、ということにしておきます。
 タイトルの意味は、最後の最後になってようやく分かります。ということは、ミステリー小説の作家って、最後の結末を考えてから、書き出しを書きはじめるのでしょうね、きっと・・・。
 出だしは、まだるっこしい感じです。ええいっ、なんだかつまらないな。そう思わせますが、少しずつ光るものがあるので、ついページを繰ってしまいます。すると、そのうちに、なんだか思わぬ展開になっていくのです。いやあ、このあと、どうなるんだろう・・・と。
 そして、女性作家ながら、かなり過激な濡れ場シーンも出てきて、うむうむ、で、どうなるの?なんて思わせるのです。いやあ、実にうまいものです。文庫版で600頁を超える大作です。
 ミステリー小説ですので、ここでタネ明かしをするわけにはいきません。いくつものドンデンガエシがあります。そのなかで、アメリカ社会の腐敗と司法・警察の現実的意味を考えさせられます。
 それにしても、捜査にあたった警察官が被疑者の女性に本物の恋をしたらどうなるのか、なんて、日本のミステリーまたは警察小説にありましたっけ・・・?その着眼点も奇抜だと私は思いました。
 初めてこの著者の本を読みましたが、アメリカではかなり売れているそうです。フランスから帰国する途中の飛行機と車中のなかで一心に読みふけった本です。
 フランスでは、歩道に張り出したテラス部分にテーブルを並べ、そこで食事をします。室内にもテーブルがあるのですが、そこはいつもガラガラです。当然、通行人がすぐそばを通っていくわけですが、お互いにそんなことは気にしません。通行人を眺め、また眺められながら、多くのカップルが楽しく会話しています。もちろん、自動車の排ガスもかかることになりますが・・・。夜8時、9時になっても明るいので、夕食もテラスでとります。蚊やハエがいないのは、町が清潔なのと乾燥しているからなのでしょうね。日本でこんなことをしたら、蚊とり線香やハエ取り紙がたくさん必要になることでしょう、きっと。
(2007年12月刊。933円+税)

クマのすむ山

カテゴリー:生物

著者:宮崎 学、出版社:偕成社
 表紙の写真が圧巻です。ええーっ、クマが写真家になったの・・・?ついそう思わせます。クマが3脚のついたカメラをかかえて立っているのです。でも、よく見ると変です。写真をうつすのなら、カメラのファインダーをのぞかないといけません。ところが、このクマは、なんとカメラを口にくわえているようなのです・・・。
 動物写真家の著者は、長野県の中央アルプス、標高750メートルの村のなかの遊歩道に、無人で撮影できるロボットカメラを設置しました。無人カメラですから、クマたちは人間を気にすることもなく、実に伸び伸びとしています。
 この定点カメラが、たくさんのクマ、そしてキツネやイノシシ、テンをとらえました。それにしても、たくさんのクマが登場します。親子グマも少なくありません。定点カメラがいたずらされるので、近くに別のカメラをセットしました。そのとき撮れたのが表紙にもなっているクマの写真です。大きなクマが、まるで写真屋になって記念撮影でもしているかのような姿で写っているというより、好奇心まるだしで、夢中になっていじっているうちに、力が強いので、カメラをキズつけたり倒したりしてしまったのです。
 クマが木登りが上手なことは写真で証明されています。あの重たい身体をものともせずに、するすると木登りしていくのです。その身軽さは不思議なほどです。ツキノワグマは、木のぼりがとても上手なのです。そして、木の上にのぼると、枝を折ってお尻の下に敷きつめ、クマ棚をつくって、その上で食事するのです。よく見ると、山のあちこちに、このクマ棚があります。うへーっ、驚きます。
 結局、ツキノワグマは本州各地に確実に増えているようです。クマは、えさ不足でやせているどころか、みんなまるまると太っているのです。
 クマにも、積極的に人里に出て人を恐れない新世代タイプと、里には近寄らず、昔ながらの生活を好む旧世代タイプがいるようです。そうなんですか、ちっとも知りませんでした。ツキノワグマに少しでも関心のある人には絶好の写真集です。
 トールーズから電車に乗って1時間かけてカオールという町へ行きました。ここは黒っぽいこくのある赤ワインで有名です。私は実は大好きなのです。最近は好みが変わって、ボージョレーのような軽いものより、少し重味を感じる赤ワインがいいと思うようになりました。
 カオールは小さな町でした。川に歴史を感じさせる古い橋がかかっています。町の中心部の広場に面したカフェーで昼食をとり、カオール(赤ワイン)を少々のんでいい気分になりました。
(2008年5月刊。2000円+税)

獣の奏者・闘蛇編

カテゴリー:社会

著者:上橋菜穂子、出版社:講談社
 「ハリー・ポッター」は映画は全部みましたが、本の方は途中、3巻まで読んで頓挫しています。でも、一巻目は、ともかくすごい衝撃を受けました。人間の想像力って、こんなにすごいのかと感嘆したのです。先日、最終巻である7巻が出ましたが、そこにたどり着くのはかなり先になりそうです。ところで、ファンタジーの分野では、この本もすごいという評判を聞いて、遅ればせながら読むことにしました。
 な、なるほど、すごいですね。思わず車中で読みふけってしまいました。
 「年少読者だけに読ませておくのはもったいない」とオビに書かれていますが、そのとおりです。我が家の子どもたちが幼いころ、斎藤隆介・滝平二郎の「花咲き山」とか「八郎」を何回となく読みきかせてやりました。そんな絵本の世界が、この本を読んでいるうちにまざまざとよみがえってきたのです。絵本は、子どもに読み聞かせしている大人にとっても面白いものです。何度よんでも面白く、飽きませんでした。もちろん、子どもたちにも大受けでした。登場人物になり切って、その声色を変えて、役者になったつもりで読みすすめていきました。
 ここでは、闘蛇というものが登場します。絵本ではありませんから、その姿形は読み手が想像するしかありません。それがまた、いいわけです。
 ファンタジーの筋を紹介するのは野暮そのものです。推理小説の謎ときをするなんて愚の骨頂でしょう。ファンタジーは、その文章であらわされている雰囲気を全身全霊で受けとめ、楽しみ浸るための物語です。主人公の少女エリンになり切って、母の死を悲しみ、また、闘蛇とともに飛び立ち躍動するのです。そこにこそ、ファンタジーの醍醐味があります。
 でもまあ、表紙のウラに書かれている粗筋を紹介するくらいなら許されるでしょう。
 獣の医術師の母と暮らす少女、エリン。ある日、戦闘用の獣である闘蛇が何頭も一度に死に、その責任を問われた母は、処刑されてしまう。孤児となったエリンは蜂飼いのジョウンに助けられて暮らすうちに、山中で天を翔ける王獣と出会う。その姿に魅了され、王獣の医術師になろうと結審するエリンだった。そのことが、やがて王国の運命を左右する立場にエリンを立たせることに・・・。
 そうなんです。このファンタジーは、子どもの世界だけでなく、大人のドロドロした政治もからまり、いくつもの伏線を張りながら複雑な展開をみせ、次を待ち遠しくさせるのです。すごい想像力に感嘆させられます。
 フランスに行ったとき、あちこちで日本のマンガが売られているのに改めて驚かされました。MANGAと書かれている大きなコーナーがあり、私の知らない作者のマンガがたくさん並んでいました。私もそのうちのひとつを買ってフランス語の勉強をしてみました。絵でストーリーが分かりますので、なかなか勉強になりました。
(2006年11月刊。1500円+税)

ユダヤ人 最後の楽園

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:大澤武男、出版社:講談社現代新書
 ワイマール共和国について、具体的なイメージをもつことができる本でした。ユダヤ人とされる当の本人は、非常にしばしば、あるいはほとんど、自分がユダヤ人だという意識をもっていなかった。ところが、常に周囲からユダヤ人として見られていることを意識することによって、自分がユダヤ人であることを意識するようになっていく。
 うへーっ、そうなんですか・・・。はじめからユダヤ人意識がギラギラしているというのではないのですね。
 ゲットーに閉じこめられていたユダヤ人を次々に解放していったのは、ナポレオンだった。帝位についたナポレオンは征服した各地のユダヤ人を解放し、後の近代市民法に多大の影響をもたらした。ところが、ナポレオンの失脚とともに、ナポレオン法典によってユダヤ人に付与された居住・結婚の自由などが再び制限されていった。
 早くから人権思想に目ざめていたユダヤ人エリートは、いち早くキリスト教社会に同化し、一日も早くドイツ市民になりきろうとした。詩人ハインリッヒ・ハイネも、その一人だった。メンデルスゾーンも、洗礼を受けてキリスト教徒としての体裁をととのえて、ドイツ社会に溶けこもうとした。
 19世紀ドイツで、進取的ユダヤ人3万人が洗礼を受けた。しかし、結局は改宗ユダヤ人だ。ユダヤ人には変わりないと見なされた。19世紀後半の金融都市フランクフルトの銀行業の85%がユダヤ人の経営によるもので、ナチスが政権をとった1933年時点で、全ドイツのデパートの80%がユダヤ人の所有だった。1900年ころのドイツの都市のユダヤ人は、平均してキリスト教市民の4〜7倍の納税者となっていた。
 経済的に独立したユダヤ人は過去の劣等意識を克服しようと、子弟の教育に多大の投資をした。その結果、若い世代から次々にエリートが育っていった。ただし、ユダヤ人は国家の政治・官僚・軍事機構には入りこめなかったため、一匹狼として立身出世でき、しかも社会で高く評価される経営者、医師、弁護士、芸術家、ジャーナリストの分野にすさまじい進出をみせた。な、なーるほど、そういうことだったのですね。
 第一次大戦のとき、ドイツのユダヤ人はその2割、10万人が祖国ドイツのために戦った。このころドイツ最大の経営者になったワァルター・ラーテナウは、AEGグループ 130社の経営者であった。
 ベルサイユ条約の下でドイツ国民の不満と怒りが充満していたとき、ドイツ史上かつてないほどユダヤ人の進出が目立った。そして、きわめて保守的なバイエルンの首相に、ユダヤ人社会主義者クルト・アイスナーが就任した。ところが、1919年に右翼軍人に暗殺された。
 ロシア革命も、ユダヤ人トロツキーのやったことという受けとめ方がなされた。つまり、革命すなわちユダヤ人と理解されたわけだ。
 ワイマール共和国の憲法を起案したのもユダヤ人のプロイスだった。その結果、「ドイツの実情にあわないワイマール憲法」がユダヤ人によってつくられた。そんな批判が高まった。このように、ユダヤ人は、いつも集団的、団体的な責任を問われてきた。
 ワイマール期のドイツで学問・文化をリードしたのは、ユダヤ人エリートだった。アインシュタインもワイマール共和国時代にノーベル賞を受けた(1921年)。
 ドイツの人口のわずか1%にすぎないユダヤ人が大活躍していた時代はワイマール時代をおいてほかにない。
 毒ガス兵器やマイクを開発した主要な人物もまた、みなユダヤ人だった。
 そして、ジャーナリストの多くがユダヤ人だった。反ユダヤ傾向の高まりのなかでユダヤ人が右翼に属するのは不可能だった。そして、そのことが右翼や国粋主義者をさらに怒らせた。
 カフカもフロイトも、この時代のドイツ・ユダヤ人である。ノーベル賞を受賞したドイツ人の3割はユダヤ人だった。
 ユダヤ人はもともと人並みでしかない。しかし、エリート層は認められるために精進し、自己顕示欲のたえざる継続が、結果としてノーベル賞受賞につながった。ふむふむ、なーるほど、そういうことなんですね。ユダヤ人について少し理解を深めました。
(2008年4月刊。700円+税)

本を読む本

カテゴリー:社会

著者:M・J・アドラー、C・V・ドーレン、出版社:講談社学術文庫
 私は、なんといっても速読派です。だって、読みたい本がいつも目の前に山のようにありますし、少しでもたくさんの本を読みたいのです。もちろん、あたらないこともあります。でも、ときに大あたりする本に出会うこともあるのです。ですから速読・多読はやめられません、とまりません。
 読書には、情報を得るための読書と、理解を深めるための読書とがある。目的が二つあるのだから、読みかたにも当然二とおりあってもよい。
 私は、理解を深めるというより、その情緒にどっぷり浸って、心をいやす読書もあると思うのですが、いかがでしょうか。たとえば、絵本やファンタジーです。日常生活のわずらわしさから、ひととき脱出できるという効用は、きわめて大きいものがあります。
 小説は一気に読むもの。速く読み、作品に没入して読みふける。没入するとは、文学に身も心もゆだね、作品がはたらきかけるままにまかせること。自分が作中人物になりきって、どんな出来事も素直に受け入れてしまう。速く読まないと、物語の統一性が見失われやすい。集中して読まないと、細部が目に入らない。
 本を読むには規則がある。難解な本にはじめて取り組むときには、とにかく読み通すことだけをこころがける。すぐには理解できないところがあっても、考えこんだり、語句の調べに手間をかけず、ともかく前へ進んでいく。
 理想なのは、ただ速く読めるようになるだけでなく、さまざまな速度の読みかたが出来ること、場合に応じて違った速度で読めることだ。
 本に書きこみをすることは読書に欠かせない。行間に書くことをしないと、効果的な読書はのぞめない。私は、赤エンピツでアンダーラインをひきます。ですから、上着のポケットに赤エンピツは欠かせません。
 読書は著者と読者の対話でなければならい。本を読むというのは、一種の対話である。最後の判断を下すのは、実は読者である。本が読者に向かって語り、読者は本に語り返す。
 著者との対話から得る唯一の利益は、相手から何かを学ぶこと。読書の成功は、知識を得ることにある。
 物語を読むときは、物語が心に働きかけるにまかせ、またそれに応じて心が動かされるままにしておかなくてはいけない。つまり、作品に対して無防備で対するのだ。
 作品の好ききらいを言う前に、読者は、まずは作品を誠実に味わうよう努力しなければいけない。
 小説は人生のようなもの。実人生で起きる出来事が、すべて明瞭に理解できるとは、我々も思っていない。ただ、過去としてふり返ったとき、はじめて理解できる。
 楽に読める本ばかりを読んでいたのでは、読者は成長しない。自分の力以上に難解な本に取り組まなければならない。そんな本こそ読者の心を広く豊にしてくれる。心が豊かにならなければ、学んだとは言えない。
 人間の精神には一つの不思議なはたらきがある。それは、どこまでも成長しつづけること。肉体にはさまざまの限界がある。しかし、精神に限界はない。この精神もつかわないと萎縮してしまう。それは精神の死滅を意味する。自分のなかに精神的な貯えのない人は思考することをまったくやめ、やがて死が始まる。
 テレビやラジオなどの外からの刺激に反応していると、自分の精神も活動しているような錯覚に陥る。だが、外部からの刺激は麻薬と同じで、やがて効力を失い、人間の精神を麻痺させてしまう。私は映画はみますが、テレビは見ませんし、ラジオを聞くこともほとんどありません。世の中の情報は新聞・雑誌という活字からにしています。それで不自由を感じることはありません。
 すぐれた読書とは、我々を励まし、どこまでも成長させてくれるものである。
 いやあ、実にいいことを言っている本です。多読・乱読派の私が日ごろ思っていることをズバリと言い切ってくれた本に出会い、心地よいひとときを味わうことができました。
 久しぶりにサボテンを整理しました。しばらく留守にしていたあいだに親サボテンがいくつか枯れてしまいました。代替わりの時期でしたので仕方がありません。別の親サボテンにくっついていた子サボテンを火バサミでもぎとって地面におろしてやりました。我が家のサボテンは、もう10代以上になるのではないかと思います。手のひらサイズの可愛い姿です。これまであちこち知人にもらってもらいましたが、みんな無事に育っているかしらん。
(1997年10月刊。900円+税)

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