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戦争は女の顔をしていない

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ、 発行:群像社
 久しぶりに思いっきり感動しました。人間、そして社会の実相にトコトン深く迫った本だと思います。戦争という極限の状態に追いやられたとき、人間がどういう行動をとるのか、そして、平和を回復したとき社会がその過去の極限状態についてどう評価するのか。予想をはるかに超えた厳しいマイナス評価がなされます。すると、極限状態に置かれていた人々は一体どうなるのか…。
 つい最近、NHKスペシャルで、イラク戦争に従軍したアメリカ人女性兵士が本国へ帰還してから悲惨な状況に置かれている様子が2回にわたって放映されていました。戦場で13歳の少年を殺してしまった女性兵士が、我が子を素直に抱けなくなってしまったというのです。とても衝撃的な番組でした。よくぞここまで映像にできたものだとNHKを再評価したほどです。この本は、そのアメリカ人兵士と同じ状況が第二次大戦を戦ったソ連赤軍の女性兵士にも起きていたことをまざまざと浮き彫りにしています。
 ソ連では、第二次世界大戦に100万人を超える女性が従軍し、パルチザン部隊や非合法の抵抗運動に参加していた女性たちもそれに劣らぬ働きをした。
 わたしが子ども時代をすごした村には女しかいなかった。女村だ。男たちはみな戦争に駆り出されていた。女の子たちの中には「前線に出なけりゃいけない」という空気が満ちていた。
父が殺された。兄も戦地で亡くなった。母は訊いた。「どうしておまえは戦争に行くの?」その答えは、「お父さんの敵討ちに」。
 女性用の狙撃兵訓練所があった。敵といったって人間だから、ベニヤの標的は撃っても、生きた人間を撃つのは難しい。人をはじめて撃ったときは恐怖にとらわれた。自分は人間を殺したんだ。この意識に慣れなければならなかった。たまらなかった。
 戦線から戻ってきたとき、21歳のなのに、すっかり白髪だった。
 狙撃兵は2人一組で働いていた。部隊から「勇気を称える」メダルをもらったのが19歳。すっかり髪が白くなったのが19歳。最期の戦いで、両肺を打ち抜かれ、2つ目の弾丸が脊椎骨の間を貫通し、両足が麻痺して戦死したとみなされたのも19歳だった・・・。
 女の子たちは、戦闘機にも飛行士として乗った。飛ぶだけでなく、実際に彼女らは敵機を撃墜した。
 戦争で一番恐ろしかったのは、男物のパンツをはいていることだった。これは厭だった。夏も冬も、4年間も、戦場ではいていた。
 クルクス大戦車戦にも女の子たちが兵士として参戦していたそうです。
 ドイツ軍は、従軍していたソ連の女たちを捕虜にとらなかった。ただちに銃殺した。
 通信兵をしていた女の子の心臓に弾丸があたった。ちょうど、鶴の群れが頭上を飛んでいった。
「残念だわ、あたし。ね、あ、あたし、本当に死んじゃうのかしら」
 そのとき、郵便が配達された。
 「あんたの家から手紙が来てるの。死んじゃダメ」
 母親からの手紙だった。
 「あたしの大事な、かわいい娘や」
 手紙は終わりまで読み上げられた。そのあと、アーニャは目を閉じた。その様子を見て、医者は「奇跡が起きた」と叫んだ。
 簡易塹壕や焚き火のそばで、むき出しの地面に何年も寝泊りすることが、何年も軍用ブーツや軍用外套を着ていることが、どうして18歳から20歳の女の子にできるのか。しかし、戦争の中でも、女性らしい日常は忘れられてはいなかった。
 戦争はどんな色かと聞かれたら、こう答える。「土色よ」。工兵にとっては、黒や、砂の色、粘土の色、地面の色だと・・・。
 私たちは、恋を胸のうちで大切にしていた。恋愛はしないなんて、子どもじみた誓いは守らなかった。恋していた・・・。
 ソ連の従軍兵士たちは15歳から30歳で出征していった人たちで、看護婦や軍医だけでなく、実際に人を殺す兵員でもあった。ところが、戦争で男以上の苦しみを体験した彼女たちを、次の戦いが待ち受けていた。戦争が終わると、従軍手帳を隠し、支援を受けるのに必要な戦傷の記録を捨てて、戦争経験をひた隠しにしなければならなかった。「戦地に行って、男の中で何をしてきたやら」と、戦地経験のない女性たちからは侮辱され、男たちも軍隊での同僚だった女性たちを守らなかった。
 取材される女性たちは、戦場でのあの地獄を追体験したくないといって語りたがらなかった。
 戦後何十年もして、ジャーナリストが『プラウダ』に女たちも戦争に行ったことを初めて書いてくれた。従軍していた戦闘員の女性たちが家庭を持てず、今も自分の家もない女たちがいること、その人たちに対して国民みんなに責任があるということを書いた。それから初めて戦争に行っていた女たちに少しずつ注意が向けられるようになった。
 すさまじい戦争の実相がよくぞ語られています。胸の奥底深くに迫ってくる衝撃の本でした。一読されることを、皆さんに強くおすすめします。 
(2008年7月刊。2000円+税)

日清戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:原田 敬一、 発行:吉川弘文館
 いちやくしんを破り。これは、日清戦争が始まった1894年を語呂合わせで覚えるための暗記文句です。今でもすぐに出てきます。ところが、この本を読むと、1894年の何月何日に日清戦争が始まったのか、今に至るまで確定していないそうです。
 しかも、日本軍は敵の清国兵を追う中で罪なき中国の多くの市民を各地で虐殺したというのです。その申し訳なさを恥じ入って、しばし頭を下げざるを得ません。
 7月23日、日本軍は漢城電信局の電話を切断して王宮に攻め込んだ。実行したのは、大陸浪人(国粋主義者)たちである。この日、工兵隊は爆薬を用意し、歩兵隊は斧や鋸(のこ)、長竿などを持参して、朝鮮王宮に入る段取りを完了していた。きわめて計画的な行動であり、偶発的な要素はまったくなかった。
 この日、1894年7月23日に日清戦争は始まり、1896年4月1日に終わる。1年8ヶ月あまりの、近代日本にとって最初の対外戦争であった。このとき明治天皇は42歳という壮年期であり、侍従武官たちが教育した結果、十分な軍事的な知識を持っていた。
 ところが、政府部内では、いつから日清戦争が始まったことにするのか、実は完全な一致はなかった。そして、朝鮮の豊島沖海戦で、日本海軍が清国艦隊と砲撃戦を行った7月25日を「実際戦の成立したる日」として開戦の日と定められた。すると、7月23日の戦闘での戦死者は、法的な「戦死者」ではなくなる。
 日本軍は、旅順市街地で残敵掃討作戦として、非武装の中国人を虐殺した。これが1894年11月28日のイギリス紙『タイムズ』に旅順虐殺事件として報道された。「日本国は文明の皮膚を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣」と記された。
 伊藤博文首相も陸奥宗光外相も、旅順攻略戦に成功した第二軍の処罰を提案できず、強力に弁明につとめ、事件の糊塗に走った。このとき、日本軍の山地師団長は、「今よりは土民といえども、我が軍に妨害する者は残らず殺すべし」と命令していた。
 日本の新聞の従軍記者も旅順市街地が死体で満ちていたことを報じている。
 都市攻略戦において、敗残兵が市街地に逃げ込み、市民と区別できなくなる可能性がある。そんなとき、攻略側はどうすればいいのか。この問いを誰も発しないまま時は過ぎ、日本軍は1937年12月の南京戦を迎えた。歴史を学ばなければ、2度目の悲劇が繰り返される、という事例である。
本当にそうですよね。この旅順大虐殺は日本人には案外知られておらず、日露戦争で日本軍がロシア兵捕虜を人道的に処遇したことのみが大きく報道され、日本人の記憶になっています。しかし、それは日本軍を公平に見たことにはなりません。日本人2万人、清国人3万人、朝鮮人3万人以上というのが日清戦争における犠牲者とされています。旅順虐殺事件では、推定で4500人以上が犠牲となっています。
 そして、日本は日清戦争において軍事的勝利は勝ち取ったが、三国干渉と清国分割に見られるようにヨーロッパのアジア侵略をもたらしたという意味で、外交的には失敗した。伊藤博文と陸奥宗光の失敗は明らかである。
 さらに、翌1895年10月、日本が台湾征服のための戦争を続けていたころ、日本公使三浦梧楼が兵士・警官・壮士を使って朝鮮王宮を襲い、王妃の閔妃を惨殺し、宮廷内の親露派を一掃した。この事件によって、日本軍の影響力は逆になくなってしまったのである。
 いやあ、日清戦争って、日本の対外侵略戦争の本質をまざまざと表しているものだということを改めて認識させられました。この「悪しき伝統」を断ち切ることが現代日本に生きる私たちに課せられていると思います。
 あとで気がついたのですが、『旅順虐殺事件』(井上晴樹、筑摩書房)という本が出ていました。1995年12月刊で、1996年2月に私も読んでいます。この本には日本軍が虐殺した証拠となる写真が多数紹介されています。なかには、殺した死体に銃剣を突き刺して得意そうな日本人兵士が写っている、おぞましい写真もあります。
(2008年8月刊。2500円+税)

出星前夜

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:飯嶋 和一、 発行:小学館
 島原の乱をテーマとする本は私もかなり読んだつもりですが、この本は出色の出来ばえです。 みなさんじっくり腰を落ち着けて読むことをおすすめします。540頁の大部な本ですし、中身がぎっしり詰まっていますので、速読を旨とする私もさすがに読了するのに3日かかっていまいました。次の展開がどうなるのか知りたくて、法廷のちょっとした待ち時間にもカバンから取り出して読んでいたほどです。
 島原の乱は宗教戦争という側面はたしかにあるけれど、その本質は苛政に対して民衆が決起した一揆であるという視点から、当時の農民の置かれた状況が生々しく語られています。
 ただ、最近の研究では、いわゆる百姓一揆は飢餓という極限状態にまで追いやられた農民たちが、死を賭して決起したというのは必ずしも正しくなく、自分たちの既得権益を守り、人間としての尊厳をかけて起ち上がったという側面も大きいと指摘されています。食うや食わずに陥った人には、もはや戦いに立ち上がる元気もないし、ましてや組織だって動くことは無理だ。一揆はかなり組織的で統制がよく取れていたというのです。
 百姓一揆の決起を促す文章には、飢餓状態について、かなりの誇張があるという指摘もあるのです。日本人の知的レベルの高さを忘れてはいけないという点は、私も大事な点だと思います。島原半島では、いったいどうだったのでしょうか。この本には、島原の乱の首謀者の中に、秀吉の朝鮮出兵で中国(明)軍と死闘を繰り広げた経験を持つ元武士もいたこと、熊本(肥後)の旧加藤家の武士などキリシタンでない者も多数含まれていたことが紹介されています。
 幕府側の討伐軍として出征した柳川・立花藩や久留米・有馬藩の兵士たちの不甲斐ない戦闘ぶりが描写されていますが、これって本当なのでしょうか。
 甘木には、島原の乱へ参戦するときの行列を描いた詳細な絵があると聞いていますが、私はまだ見ていません。ぜひ見たいものです。
 この著者の『神無き月十番目の夜』という本を読んだとき、私はしびれる思いでした。ええっ、ここまで臨場感あふれ、迫真の時代小説が書けるのか、と感嘆し、当時、周囲の誰彼となくすすめたものでした。同じ著者ですから、その思いが再びよみがえってきました。じっくり読むに値する本です。
 秋の夜長に満月が出ているのを見ると、つい南フランスの夏を思い出します。外のテラスで月を眺めながら、食事をゆっくり楽しみました。前にも書きましたが、なぜか蚊もおらず、虫も飛んでこないので、静かに食事ができるのです、目下、写真集を作っているところです。ブログでお見せできないのが残念です。カメラはアナログ(フィルム)とデジタルと両方持って出かけることにしています。
(2008年8月刊。2000円+税)

なにがスゴイか?万能細胞

カテゴリー:人間

著者:中西 貴之、 発行:技術評論社
 人間の身体は、およそ200種類の細胞でできている。皮膚や筋肉・内臓などは、その臓器専用の細胞が集まってできている。
 ところが、受精卵にまでさかのぼると、身体を構成しているすべての種類の細胞はたった一個の受精卵が細胞分裂してできたものである。そして、今や皮膚などの、既に万能性を失ってしまった細胞を初期化する方法が存在することが発見された。取り出された皮膚などの細胞から、その技術を応用して臓器細胞を作り出すことが可能になりつつある。
 脳細胞でさえ、幹細胞が存在し、記憶や学習にともなって神経細胞が誕生していることが判明している。
1996年に誕生したクローン羊「ドリー」は、世界初の体細胞クローン哺乳類であった。これによって、遺伝子も初期化できる可能性のあることが示された。
 赤血球の消耗はすさまじく、造血幹細胞は毎日1000〜5000億個もの赤血球を作っている。うひゃあ、こ、これって、あまりにもすごい数ですよね。信じられません。まさしく人間の身体の神秘です。
 今では、哺乳類もふくめて、神経系は再生することができることが判明している。たとえば、脳のニューロンが損傷を受けたときには、神経幹細胞が活躍して、その損失を補おうとする。
 この万能細胞が病気の治癒にも活躍し始めているようですが、下手に扱うと、生命を人間が勝手にいじくり回して変な奇形の身体ができる心配もあるのではないでしょうか。また、営利主義で運用されるのも困りますよね。それはともかく、カラーで、たくさんの絵ときがなされていますので、なんとなく人体の不思議が分かった気にさせてくれる本です。
 10月の連休は、久しぶりに庭の手入れをしました。このところクモの巣だらけになっています。いつもより多いのは、旅行が続いて手入れを怠ったからでしょうか。黄金グモなどにゴメンヨと声をかけてクモの巣を払い落としました。ヒマワリが終わりましたので、根っこから掘り起こしました。今またエンゼルストランペットの黄色い花がさかりです。
チューリップの球根を植えるため、コンポストに入れておいて枯葉などを埋め込みます。畳一枚分を彫り上げると、ふっと思わず嘆息を漏らすほどの重労働です。陽が落ちると、ずぐに夕暮れになってしまいます。初夏の頃は夕方7時すぎまで明るかったのに、今では6時半には夕闇に包まれてしまいます。右膝の痛いのは、この庭仕事のせいだと思いますが、なんとか暗くなる前に畳一枚半分のチューリップ畑を確保することができました。これからチューリップの球根を植えていきます。
(2008年7月刊。1580円+税)

細胞の意思

カテゴリー:未分類

著者:団 まりな、 発行:NHKブックス
 生命の神秘に迫る本です。私は神様の存在を信じていませんが、いったい何も考えているはずのない(?)細胞がどうして自主的に合理的な行動をするのか、不思議でなりません。それは神様が導いているのだと○○教信者なら言うのでしょうが、「神様の意思」がどうやってこのミクロの世界で細部にわたって反映されているのというのか、そこでまた謎が生まれます。
 細胞は直径10ミクロン(1ミリの100分の1)ほどしかないので、顕微鏡を使わないと見えない。だが、肉眼で見える細胞もある。たとえば、鶏の卵の黄身、イクラやスジコ、数の子やウニ。これらはすべて卵(ラン)である。
今は細胞内にあるミトコンドリアは、昔、独立のバクテリアだった。バクテリアのなかのあるものが大昔に、太陽の光からエネルギーを取り出すという特殊な能力を持つタンパク質を持った。そして、このエネルギーを利用して空気中にふんだんにある炭酸ガスから有機物を作るようになった。これが光合成細菌(シアノバクテリア)の出現である。
 いま、人間にとって必須不可欠の酸素は、この頃のバクテリアにとっては猛毒でしかなかった。この猛毒から身を守るため、あるバクテリアは地中深くに潜り込み、別のバクテリアは何匹か融合して身体を大きくし、DNAを細胞膜に付着させたまま体内に取り込んだ。これがミトコンドリアの祖先である。ミトコンドリアの祖先は、酸素を利用してブドウ糖から効率よくエネルギーを取り出す代謝経路を作り出すことに成功した。毒を薬に変えてしまったのである。ミトコンドリアを包む二重の膜が二枚とも完全に閉じているのは、ミトコンドリアがもともと「よそもの」だったからである。
 たとえば、自分が当面目指していることが成し遂げられないと悟った細胞は、しかるべき方法で自分の身体を退縮させ、「私を食べてください」という掃除屋細胞にあてた信号を細胞表面に出し、迷い込んだその場から潔く身を引いていく。
 受精卵が透明帯をかぶっているのは、一個の細胞としては身体が大き過ぎて、こうでもしておかないと、ちょっとした衝撃で破裂してしまう危険性が高いから。ちなみに受精卵は、普通の細胞に比べて2000倍もの体重を持っている。
 そして、1日に1回の分裂を繰り返し、3日目には8細胞となる。
 このように、細胞は単なる入れ物ではなく、原始のように小さく規則的なものでもなく、フツーの人間と同じように様々な状況を把握し、あの手この手で切り抜けていく生活者である。
 うむむ、細胞とは、生きた生活者というわけなんですか……!?
 庭の片隅にハゼの木があります。私が植えたのではなく、いつのまにか育って大きくなりました。細かった幹も、今ではずいぶんと太くなり、その時期になると毎年、見事に紅葉します。今がちょうどそのときです。
 実は、何の木か分からなかったのですが、近所の人にハゼの木だと教えてもらいました。
 私は小学生の頃、ハゼの木を手に持ってチャンバラごっこをして、その汁にかぶれて顔一面が腫れあがり、お岩さんのようなかさぶたができて一週間学校を休んだことがあります。大きくなりすぎて屋根の雨樋かかるので、切らなくてはいけないのですが、またかぶれてしまわないか心配しています。
(2008年7月刊。970円+税)

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