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加害者は変われるか?

カテゴリー:司法

著者:信田さよ子、 発行:筑摩書房
 過去に例を見ない貧困層の発生、不況脱出の掛け声とはうらはらな格差社会の進行。増え続ける子どもの虐待は、そこを行き続ける若者の希望のなさを知らないと、理解不能だ。
 なーるほど、ですね。これって鋭い指摘だと私は思います。でも、日本経団連も、自民・公明の政権も、それでよしとするのです。格差があって何が悪い。格差の存在こそ、社会発展のバネだというのです。先日、新聞を読んでいましたら、アメリカのAIGグループが行き詰まったけれど、その社長の月給は、なんと1億円だったというのです。従業員がどうなろうと知ったことじゃない。社長が毎月1億円もらって何が悪いと開き直っているそうです。ひどい経営者です。でも、今の御手洗・日本経団連は、まさにアメリカ式高給優遇の経営者を目ざしています。許せません。労働者を首切って、食うや食わずの状況に追いやっていながら、自分さえ良ければ、というわけです。アメリカも昔はもう少しましでした。経営者が超高給取りになったのは、この20年ほどの現象なのです。
 言葉も持たず、大切にされた経験もなく、ただただ年齢だけ大人になった人々。お金もなく、暴力以外に人に関わるスキルもなく、親から保護を受けた記憶もない。将来、豊かに暮らせる見通しもなく、目先の消費と快楽しか存在しない。
 子どもの虐待は、これまで、世代間で連鎖すると考えられた。しかし、今では虐待は多くの研究から必ずしも連鎖するわけではないことが明らかになっている。世代連鎖が必ず起きるという強迫観念にとらわれることはない。だから、世代連鎖という言葉は慎重に用いるべきだ、と著者は提唱しています。
 もっとも危険な親は、当事者性を持たない、つまり、虐待しているという自覚のない親たちである。子どもを栄養失調で餓死させた虐待事件の親は、口をそろえて「しつけだった」と弁解する。
子どもを殴っているとき、私を見つめる怯えた目の中に、不意に幼い頃の自分の姿を見てしまうことがある。
これは子どもを虐待していた母親がグループ学習のときに発表した言葉。
悪い夫は、良き父親にはなれない。
DV被害者の妻は、夫を許すものかという怒りと、DV被害者と呼ばないでほしいという。私が夫の被害者だなんて、そんなことは認めたくありません。だって、夫に負けたことになるでしょ。このように主張するのだそうです。
 あまりに暴力がひどいので、110番通報した妻が驚くのは、警察官が駆けつけると「妻はいま精神的に不安定でして、ご迷惑をおかけしました」と穏やかな口調で語る夫の姿だ。このようなDV夫に共通して欠けているものは、妻に対する共感と想像力である。
 痴漢常習者は、スイッチが入ってから、計画し遂行するまでのプロセス自体が快楽なのである。それは決して一瞬の気の迷いなどという刹那的とか一時的なものではない。彼らは電車に乗り込むときから、すでにスイッチが入っている。痴漢常習者は、決して対象のほうを見ていない。指と性器に神経を集中させながら、目は吊広告を見たり、電車の窓外の景色を何気なく見るふりをしている。
 うむむ、なるほど、そうなんですか・・・・・・。
(2008年3月刊。1500円+税)

障害者の権利と法的諸問題

カテゴリー:司法

著者:大分県弁護士会、 発行:現代人文社
 10月下旬、別府で開かれたシンポジウムで報告された内容がまとまっている本です。大分県弁護士会はシンポジウムを開いた後に本にするのではなく、その前に本にまとめてシンポジウム当日に発表するのをよき伝統としています。たいしたものです。ただ、シンポジウムでの議論も取り入れたら、もっと素晴らしい本になると私は思います。
 私はシンポジウムの会場でこの本を読みながら、報告とパネリストの発言を聞いていました。障害者自立支援法って、本当にひどい悪法だということをしみじみ実感しました。
 というのも、気持の上でこそ、まだ青年法律家なのですが、現実には還暦を迎えるのもあと1か月あまりに迫ってきているからです。60歳なんて、立派な老人じゃありませんか。
 老人ホームにおいて養護されることは、老人に与えられた権利ではなく、反射的利益にすぎないという判決を今から16年も前に東京高裁の裁判官が出したそうです。その裁判長も、今や、きっと後期高齢者になっているでしょうから、自分の出した判決の誤りを深く反省していることでしょう。誰だって、明日は我が身なのですから。
 憲法25条は、すべての国民に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障している。ところが、障害者自立支援法は、応益負担制度をとっている。これによると、障害の重い人ほど必要なサービスの量は多くなるので、障害の重い人ほど負担がより大きくなる。
 この法律は、福祉サービスを利用することを「受益」「私益」ととらえ、その利用に対して対価を課している。受益者負担の意味するところは、障害者の自己責任論であって、障害者に対する「差別」にほかならない。障害を持つことを「自己責任」とみなしてしまう。
 そして、応益負担制度は、サービス需要を抑制する有効な装置として機能している。
 「受益者負担」の理論は、本来、社会保障の分野への適用の余地はない。
 この本は、障がい者をめぐる逸失利益についての判例の動向もまとめており、その点も大変に参考となります。
 人間一人の生命の価値を金額ではかるには、障がい者作業所における収入をもって基礎とするのでは、あまりに人間一人(障がい児であろうが、健康児であろうが)の生命の価値をはかる基礎としては低い水準の基礎となり、適切ではない。換言すれば、不法行為によって生命を失われても、その時点で働く能力のない重度の障がい児や重病人であれば、その者の生命の価値をまったく無価値と評価されてしまうことになりかねない。
 施設などのサービスが不足している現状で契約自由の原則を貫徹すると、施設の側が利用者を逆に選択するという心配がある。
 障がい福祉サービス事業全般について、国と地方自治体に整備責任があることを法に明記すべきである。
 応益負担を廃止して、10割給付を実現しなければいけない。今の制度では食べていけるかもしれないけれど、人間らしく生きていくことはできない。たとえば、冠婚葬祭の支出を出す余裕がない。そうすると、交際ができないことになる。それは社会的な孤立化をもたらす。現代日本で餓死者を生み出している原因の一つがこれである。
 自由基底的理論という、私にとっては初めて見る言葉が登場しています。社会保障全般の制度を設計するうえでの根本理念を提供するものだということですが、正直言って、よく分かりませんでした。
 いずれにせよ、障がいのある人々を差別する制度は75歳以上のお年寄りを後期高齢者と勝手に名付けて一くくりにし、保険料を年金から天引きしていくという悪法と同じ発想です。こんなことでは、日本人の老後は安心できません。保険会社に頼るのではなく、国と地方自治体の責任で対処すべき問題です。そのための政治ではありませんか。私は、この本を読んで、ますます今の自公政権の冷たい福祉政策に怒りがわいてきました。プンプンプン。
 連休中にチューリップの球根を植えました。これで400個ほどは植えたと思います。庭のあちこちを掘り返して、整備しなければと思っていますが、一度にはできません。いま、エンゼルストランペットの黄色い花が満艦飾です。これが今年最後の花でしょう。霜が降りると幹から枯れてしまいます。
(2008年11月刊。3200円+税)

アフリカ・レポート

カテゴリー:アフリカ

著者:松本 仁一、 発行:岩波新書
 この本を読むと、アフリカの現状には絶望的な気分に陥ってしまいます。アフリカ解放運動の栄光が地に堕ちてしまったようで、残念でなりません。
 列強の植民地からの脱却を目指した指導者がとてつもなく腐敗し、堕落してしまったというのを知ると、ええっ、どうして・・・・・!?と、つい叫びたくなります。
 まずはジンバブエ。その人口1300万人の4分の1にもあたる300万人が隣国の南アフリカへ越境出国していった。しかも、不法出国者のほとんどが40歳以下の男性。働き盛りが大量出国するようでは国は壊れてしまう。
 ジンバブエのインフレ率は、政府発表でも年率7634%(2007年7月)。それが2008年には16万%という。まるでなんのことやら、わけの分からない数字ですよね、これって。
 かつて、アフリカには希望の星とも言われたルムンバ大統領がいた。1960年6月にベルギーから独立したコンゴ(旧ザイール)の大統領だ。ルムンバは獄中で暗殺される前に遺書を書いた。
 「子どもたちよ、私はもうお前たちに会えないかもしれない。しかし、お前たちに言っておきたい。コンゴの未来は美しい、と」
 しかし、それから半世紀がたった今、コンゴは美しくない。ルムンバ政府をクーデターで倒したモブツ将軍は、独裁者となった。1997年にモブツ政権が崩壊しても、今なお政情は不安定だ。銅、コバルト、そして希少金属に恵まれたアフリカ最大の鉱物資源国でありながら、その富は国家の会計に寄与することなく消えていく。
 1960年代から70年代にかけて、アフリカの国の多くは農業輸出国だった。しかし、腐敗した指導者たちは、農業に関心を払わなかった。その結果、アフリカは農業輸出国から輸入国に落ち込んでしまった。そのマイナスは年間700億ドルにものぼる。
 アフリカのほとんどの国で、指導者は自分の部族に属するもの、地縁、血縁者に国家利益を分配し、それによって自分の地位の安定を図っている。その結果、国づくりが放置される。指導者が私物化した巨額の公金は海外の銀行に蓄財され、国内の市場に出回らない。蓄財したお金が社会資本として回転しないため、経済の進展もない。指導者は「敵」を作り出すことで自分への不満をすりかえる。そして、それは国内の対立を激化させ、国家的統一とは逆の方向へ国民を駆り立てる。
 南アフリカの国民解放組織(ANC)も、政権の座に就くと、幹部たちはあっけなく腐敗しはじめた。その結果、治安が悪化する。マンデラ政権が誕生した1994年に、1ヶ月平均の殺人事件は1400件を超した。1日あたり47人が殺された。警官殺しも月に15件あった。そして、2005年度は、殺人が1万8千件を超し、強盗は20万件に近く、強姦事件は5万件を超す。
いま、アフリカでは、中国が新植民地主義の主役となろうとしている。中国政府がアメリカの石油を持ち出し、中国人商人が安価な中国製品を持ち込んで、その国の市場を占拠しようとしている。そこで、中国人は、ギャングに目を付けられている。アンゴラで中国批判はご法度だ。
 そんな大変なアフリカにおいて、何人かの日本人が国の再建に貢献している話も最後に紹介され、少しだけほっとします。いやあ、ともかく大変すぎる深刻な状況です。南アメリカで進んでいる革新の息吹とは違って、アフリカには残念なことがあまりにも多すぎますね。人間も大変ですけれど、シルバーバックのゴリラなども破滅の危機にあるようで、こちらも心配です。 
(2008年8月刊。700円+税)

色を奏でる

カテゴリー:社会

著者:志村 ふくみ、 発行:ちくま文庫
 10月のなかばに福島に行ったとき、県立美術館で志村ふくみ展があっていて出会った本です。展示されていた織物、そして糸の色合いの素晴らしさに感嘆して、この本を買い求めました。カラー写真で、たくさんの色が紹介されていますが、現物にはまったくかないません。でも、写真でおよそのイメージはつかめます。
緑と紫は決してパレットの上で混ぜるな。ドラクロアは、このように警告した。
 緑と紫は補色に近い色彩だ。この補色どうしの色を混ぜると、ねむい灰色調になってしまう。ところが、この2色を隣り合わせに並べると、美しい真珠母色の輝きが出る。これを視覚混合の作用という。
 また、赤と青の糸を交互に濃淡で入れていった着物を見て、ある人が美しい紫だと言った。しかし、そこには紫は一色も入ってない。これが補色の特徴であり、視覚混合の原理だ。いやあ、そうなんですか。ちっとも知りませんでした。
 ゲーテが、色彩は光の行為であり、愛苦である、と言った。光が現世界に入って、さまざまの状況に出会うときに示す多様な表情を、ゲーテは色彩としてとらえた。
 植物(木)を炊き出して色を得る。しかし、時期はいつでもいいというわけではない。植物にも周期があって、春を迎えるためにために桜が幹の中に、枝の先々まで花を咲かせる準備をしていた、その時期こそ、見事な色が出る。同じように、梅も刈安(かりやす)も、花の咲く前、穂の出る前の色に精気がある。
 植物が花を咲かせるために、樹幹にしっかり養分を蓄えて開花の時期を待っているとき、残酷なようだけど、そのつぼみの季節に炊き出して染めると、えもいわれぬ初々しい、その植物の精かと思えるような色が染まる。
 草木の染色から直接に緑色を染めることはできない。緑したたる植物群の中にあって、緑が染められないなんて、不思議なことだが事実だ。青と黄を掛け合わせて初めて緑が得られる。藍がめに刈安・くちなし・きはだなどの植物で染めた黄色の糸を浸けると、緑が生まれる。
 織物の色を作り出す仕事をしている著者が写真つきで、たくさんの色を解説してくれています。色は光の加減で生まれてきます。そもそも、色に実体があるのかないのか、私には良く分かりませんが、この本に出てくるさまざまな色調と、それを言い表す言葉の豊富さに、私は目を見開くばかりです。よく晴れた秋の日の昼下がりに美術館を訪れ、目と心を洗っていい気分でした。福島大学が移転した跡地が広々とした美術館になっています。
 10月末に別府に出かけました。駅前の横丁に有名なラーメン屋さんがありましたが、まったくの更地になっていました。地元の人の話によると、高層マンションを建てる計画があるそうです。別府駅前の商店街もシャッター通りにまではなっていませんでしたが、かなり寂れていました。
 夕食をとるためにステーキハウスに入りました。横丁の2階にある小さな店です。コース料理を頼むと、魚のほうは少し皮が焼きすぎて固くなっていましたが、豊後牛のほうは、久しぶりに肉を堪能することができました。ナイフを入れるとスーッと切れます。レアを注文したので、ほどよい赤さが目に快く、いかにも美味しそうで食欲をそそります。実際、口に入れると舌の上でとろけてしまう柔らかさです。そのうえ、さっきまで大自然のなかに放牧されていたと思わせる牛肉の香り高いうまみが口中にひろがり、幸せ感をもたらしてくれるのです。いつものようにテーブルワインを2杯飲みながら美味しくいただきました。そのあと、久しぶりのスギノイ・ホテルで温泉に入り、満ち足りて夜10時過ぎにシャンソンを聴きながら眠りに就きました。 
(1998年12月刊。1000円+税)

不平等国家、中国

カテゴリー:中国

著者:園田 茂人、 発行:中公新書
 中国の不平等現象には、市場経済を導入しているすべての地域で見られる普遍的な現象と、社会主義で顕著に見られる特殊な現象が複雑に絡んでいる。
 中国で腐敗が深刻化しているのは、中国が党の幹部や官僚を中心とした社会主義的国家運営をし、彼らに巨大な権力が与えられていることと無関係ではない。
 1992年の中国で下海(シアハイ)という言葉が流行した。党や政府の幹部や学者、技術者などがその職を辞め、経済界に身を投じることを意味している。1992年に「下海」した官僚は12万人に達する。
 1991年に10万社だった私営企業は2004年に365万社となった。1990年代半ばからは、それまでの国有企業が私営企業へと転換していった。
 社会主義の中核部分から市場経済の担い手が現れたことは、それだけ市場経済化が本格化したことを意味する。同時に、共産党員が市場経済の中核に位置するようになり、経済的資源の多くを手にする可能性が高くなったことも意味している。国有企業の民営化や「下海」を通じて、1990年代半ば以降、多くの共産党員が私営企業のオーナー経営者になっていった。
 それまで共産党への入党が認められていなかった私営企業家を先進的な生産力を支える階層とみなし、彼らを取り込むことで広範な人民の利益を代表しうるというメッセージを送った。これは私営企業は資本家であり、階級敵だといった公式的階級制と決別したことを意味している。
 党員比率の点で、中国共産党は、もはや農民労働者を基盤としていない。2000年初めに党中央組織が極秘のうちに党員対象で質問した結果、共産主義を信じるか、という問いに対して、7割以上が「信じない」と回答した。4分の1以上の党員が「もう一度入党の誘いを受けても入党しない」と回答した。
 中国の人々がチベット問題について冷淡なのは、民族や宗教が不平等の原因になっているという意識が薄いからだ。
 中国には、日本語で死語になりつつある「立身出世」の観念が依然として生きている。子どもの教育費かせぎのための農村からの大量の出稼ぎ者、子どもの学費捻出のために親は自分の食費を切り詰めている。
 一般家庭の支出における教育費の割合は3分の1に達している。現在の中国における過酷なまでの学歴獲得競争は、さまざまな理由で大学に進学することが出来なかった親たちの「リターンマッチ指向」の現れである。
 中国の人々は、学歴によって所得が決まることに異議を唱えるどころか、それを公正なものとして認めている。権力を利用した高収入の獲得には批判的だが、学歴など業績主義的要因の高収入には肯定的なのが中国人の一般的な傾向だ。
 中国の高学歴者は外資系企業(18%)で一番高く、国有事業体(16%)、国家機関(16%)で働く人がこれに続く。国家機関で働く者の57%、国有事業体で働く者の26%が党員資格を持っている。国家機関や国有事業体といった、共産党の幹部が集中する職場の平均年収は高い。
 私は、マスコミがときとして振りまく「中国・脅威論」にはまったく根拠がないと考えています。 
(2008年5月刊。740円+税)

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