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極東のシマフクロウ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 ジョナサン・C・スラート 、 出版 筑摩書房
 本のタイトルからすると、なんだか恋愛小説かもしれないと思わせますが、内容はタイトルどおり、世界一大きなフクロウを探してアメリカ人の大学院生がロシアの辺境の地でシマフクロウを保全するため捕獲しようとする話です。いやはや大変な苦労をともなう作業です。よくぞ極寒の地での生活に耐えられたものだと驚嘆しました。
 シマフクロウを捕獲するのは、その個体が次々にどのような状況になっているのか識別し、比較するためには欠かせません。遠くから観察しているだけでは足りないのです。
 シマフクロウの羽衣の色は、周囲の樹皮の黒や茶色、灰色に溶け込み、ほとんど区別がつかない。たしかに気のウロにいるシマフクロウの写真がありますが、遠くから見たら、とても見つけられそうにありません。
この本の舞台はロシアですが、日本の北海道にも、100つがいのシマフクロウが生息しているとのことです(2022年現在)。これは1980年当時の5倍で、それは保護する努力が実ったからだそうです。たいしたものです。
 日本では、19世紀に500つがいがいたのが、1980年当時には20つがいにまで減ったのでした。もちろん、人間による開発という名の自然破壊の結果です。
 シマフクロウのつがいは、声を合わせて歌う。シマフクロウのデュエットは、たいていオスが始動する。オスがまず、短く、苦しげにホーという声を絞り出す。するとメスは、すぐにホーと、オスより低い音色で鳴き返す。フクロウは一般にメスのほうが声が高いので、珍しいこと。
 次にオスが、さっきより長めで少し高めのホーという声を出し、メスはこれにも鳴き声で応える。この四つの音による泣き交わしは3秒で終わり、その後は1分から2時間までの一定の間隔をあけてデュエットが繰り返される。2羽の声は美しくシンクロし、シマフクロウのつがいによるデュエットを聞いた人の多くが、歌っているのは1羽だと勘違いしてしまう。
 シマフクロウは、200ヘルツという低い周波音域でホーと鳴き、それはカラフトフクロウの鳴き声の周波音域とほぼ同じで、アメリカワシミミズクの2倍の低さだ。シマフクロウの声はあまりに低く、マイクで拾うのは難しい。シマフクロウが低い周波数で鳴くのは目的にかなっている。周波数の音声は、密林ではより伝わりやすく、数キロも離れた遠くからでも聞きとることができる。木があまり繁らず、ひんやりとした爽やかな空気が音波の伝達を容易にする冬と春の初めは、とくにそうだ。
 シマフクロウのデュエットには、なわばりの宣言と、つがい同士の絆(きずな)を確認するという二つの意味がある。つがいがもっとも活発に鳴き交わすのは、2月の繁殖期である。この時期は、1回のデュエットの時間が長くなって、何時間も続き、ときには一晩中続くこともある。
 オスが木と声を絞り出すときには、喉の白い部分が大きく膨らみ、直立したぼさぼさの大きな羽角(うかく)が、シマフクロウが身体を動かすたびにコミカルに揺れる。
シマフクロウは季節的な移動を行わず、夏の暑さにも、冬の霜にも耐えて、同じ場所に留まる。なので、デュエットを聞いたら、そのつがいは、森のその場所に伝え住み着いているということ。
 シマフクロウは長生きする。野生のなかには25年以上生きていた例がある。デュエットするつがいは、毎年、同じ場所に住み続けている可能性が高い。
 シマフクロウは、横穴型のうら(木の側面にできた樹洞)を利用した巣穴を好む。それは、暴風雨から身を守る効果が高いから。
 メスが巣についているとき、オスはたいていどこか近くでメスを見守っている。
 メスはオスに比べて尾羽に白い部分が多い。これは性別を判断するうえで、信頼性の高い基準だ。
 シマフクロウは、胸元の薄い黄褐色の羽毛により濃い色の横縞(しま)が転々と入っていて、それがこの鳥を木の一部のように見せている(擬態)。まるで、木の大きなコブに命が宿り、復讐心を燃やしているかのようだった。
 一般に、シマフクロウのつがいの片方が死ぬと、生き残った一羽は、その場所に残り、新しいパートナーを呼び寄せるために鳴き声を上げる。
 シマフクロウを捕獲するためには苦労する。真っ先にワナを変えた。シマフクロウを仕掛けたわなで捕まえてみると、驚くほどおとなしかった。あちこち突き回されても、呆然として横たわっているだけで、ほとんど抵抗しない。人間の側の安全のために拘束ベストを着せた。
 身体を計測し、血液を採取し、個体識別用の足環(あしわ)をつける。
 捕まえたシマフクロウには名前をつける。なわばりと性別で、たとえばファータ・オスというように。
 シマフクロウは、冬は中核エリアから離れない。メスは巣について離れず、オスは巣の側で見張りをし、パートナーに食べ物を届ける。
 春には、シマフクロウの関心は隣接するなわばりとの関心に向かった。
 いやはや、鳥そしてひいては人間の安全に生息できる環境を守るための努力というのはこんなに苛酷なことも求められるものなのか…。粛然たる思いがしました。
(2023年12月刊。3300円)

「東京の下町」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 吉村 昭 、 出版 文春文庫
 昭和の初めころの東京の下町の様子がよく描かれています。
 先日、90歳を過ぎた山田洋次監督が寅さん映画がつくられたころと今の時代との違いを説明していました。映画が撮影されたころはみんなそこそこ貧しかったけれど、まじわりあいがありました。今では、富める人はタワーマンションにこもっていて、貧しい人は死ぬほどこき使われたり、バラバラにされていて交流がありません。昔の下町にあった長屋的な交流の場は失われてしまいました。本当に残念です。
 若者が未来に夢をもてず、結婚せず、子どもが産まれない(少子化)状況が深刻化するばかりです。そんな今こそ、寅さん的笑いが必要なんじゃないかと山田監督は訴えています(と私は理解しました)。
 たとえば映画です。かつて浅草6区には映画街がありました。両側にずらりと映画館が並ぶ長いストリートがあったのです。
 江川劇場、遊楽館、万成座、三友館、千代田館、電気館、金竜館、富士館、帝国館、大都劇場、東京倶楽部、大勝館などなどです。そして、当時の写真をみると、映画街のメインストリートが歩く人々で見事に埋め尽くされています。呼び込みする係員もいたそうですが、呼び込みなんてするまでもありませんでした。また、エノケン一座が公演し、歌手の淡谷のり子が「雨のブルース」を歌った松竹座、「あきれたぼういず」が出演していた花月劇場もありました。
 私の生まれ育った町にも、小さな映画館がたくさんありましたし、旅役者が劇を演じる芝居小屋もありました。
 嵐寛寿朗の「鞍馬(くらま)天狗」の映画のなかで、主人公が馬に乗って悪漢どもから杉作少年を救出に駆けつける場面では、館内が総立ちとなり、騒然とした雰囲気のなか、「早く、早く」と声がかかり、拍手が鳴り、主人公が悪漢どもを次々に切り倒していくのです。そのシーンはまさしくクライマックスでした。
 大人も子どもも、館内一丸となっていました。この一体感のなかで、少年は助かったという満足感に浸りながら家路に着いたのです。こんな感動を今の子どもたちに味わせたいものだと本当に思います。
 1927(昭和2)年に東京に生まれた著者による東京の下町情景は、戦後生まれの私にもまだ十分に体験として分かるところがあり、うれしくなりました。
(2018年6月刊。770円+税)

モサド・ファイル2

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 マイケル・バー・ゾウハー 、 出版 早川書房
 イスラエルのガザ侵攻がいつまでたっても終わりません。私は直ちに停戦し、イスラエルは軍隊を速やかに撤退することを求めます。ガザ地区のハマスを支持しているわけではありません。ともかく戦争をやめてほしいのです。
 暴力には暴力を、力には力を、こんな単純な発想では、いつまでも復讐の連鎖反応は止まりません。
 イスラエルは、その国の存立を守るため強力に武装し、また、スパイ活動を強化しています。本書では、そのほんの一端が女性スパイに焦点をあてて紹介されています。
ユダヤ人大虐殺に関与したナチスの将校アイヒマンをアルゼンチンが逮捕・連行するとき、モサドは、そのなかに女性も1人だけ工作員に加えていた。
 アイヒマンを逮捕し監禁していたところ、連行する飛行機の都合で、10日間ほど、夫婦として何ら変わりのない日常生活を送っていることを演出しなければならなかった。
 アイヒマンは投薬され、パイロットの制服を着せられてイスラエルの機内にこっそり運び込まれました。そしてイスラエルへ連れ去られ、世紀の裁判が始まったのです。その状況を再現した映画はみました。
 この本を読むと、モサドの工作員には女性もたくさんいて、重要な役割を果たしてきたことがよく分かります。まあ、国家としては必要な期間なのでしょうが、すべては平和を守るため、戦争にならないようにするためであってほしいと心から願います。
(2023年11月刊。3300円)

悩める平安貴族たち

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 山口 博 、 出版 PHP新書
 テレビを見ていないので、なんとも言えませんが、紫式部という女性には、昔からすごく関心があります。『源氏物語』には、私も何度か挑戦しました。もちろん原文ではありません。
 平安時代の男性の生き甲斐は、出世と恋と富の三つ。そして女性は、「書く」ことに生き甲斐を見出していた(もちろん、すべての女性ではありません)。
 紫式部は『源氏物語』を書くことにより、ともすれば落ち込む心を励まし、清少納言は『枕草子』を書きつづることにより、個人臭は強烈だが、宮仕えの実相を明らかにした。
日記を書いた女性もいる。紫式部は物語だけでなく日記も書いている。菅原孝標(たかすえ)の娘は『更級(さらしな)日記』と4本の物語を書いた。
 私も「書く」ことに生き甲斐を見出しています。今は、昭和のはじめに東京で生活していた亡父の生きざまを活字にしていますが、いろんな資料を入手するたびに新鮮な驚きがあり、毎日ワクワクして生きています。
 清少納言は結婚し、離婚した。そして、28歳ころ、藤原道隆(関白内大臣)の娘であり中宮(天皇の妻)の定子(ていし)の私的女房として、定子が死ぬまで8年のあいだ仕えた。
 女房社会を謳歌するには、歌を詠(よ)むことがとても大事だった。
 紫式部にとって、華麗な貴族の生活はなじめない世界だった。紫式部の世界観は「世は憂し」だった。そうなんですか…。
 紫式部は、和泉式部についてはいささかの文才を認めたが、清少納言に対しては徹底的に批判した。才能ある女性同士のサヤ当てなのでしょうか…。
女性の棒給は男性の半分と規定されていた。ただし、定年はなく、終身雇用が建て前だった。
 平安時代の貴族にとって、自分を性的に解放して生きるのは自然なことであり、何ら非難すべきものではなかった。その後も、この伝統は脈々と生きています。和泉式部には30人から40人ほどの愛人(男性)がいた。一夜のうちに男性から男性へと渡り歩き、誰の子をはらんだか分からなくなった女房は、和泉式部だけではなかった。
 節度をわきまえた「色好み」は、人格的欠陥ではなく、当時の貴族の身に備えるべき条件だった。光源氏のモデル説のある藤原実方(さねかた)は、20人以上の女性と関係があり、清少納言もその1人だった。そうなんですか…。
藤原道長や道隆の棒給は、年収にして3億円から4億円。そのうえ、地方官から、鳥など山のように贈り物があった。これに対して、中・大流貴族の生活は苦しかった。
 右大臣までつとめた藤原良相(よしみ)は、自邸の一角に邸宅を建て、藤原氏の「窮女」「居宅なき女」を収容した。
平安時代の貴族は男性も女性も短歌がつくれなかったら評価されなかったようです。これって、向き不向きを考えると、結構きびしい条件となりますよね。
(2023年11月刊。1100円+税)

大江戸トイレ事情

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 根崎 光男 、 出版 同成社
 ヨーロッパでは畑の肥料として糞尿をまいたら、大根などの野菜を生(ナマ)で食べるなんて人々の衛生観念から考えられもしませんでした。ところが、日本では、同じように育てた大根を生でも食べているのを見て、ヨーロッパ人が驚いたということです。
 私の子どものころ、農村地帯に行けば、畑の一隅に肥料とするための糞尿ためがあちこちにありました。間違って、そこに足を突っ込んでしまうという悲劇も日常茶飯事に起きていました。私も経験したような気がします。表面は乾燥しているので、地面そのもので区別がつかないのです。
 江戸時代の初期には、町の糞尿は邪魔物でしかなかった。ところが、江戸中期以降、生鮮野菜を育てて江戸に供給する必要から、肥料として江戸の糞尿が注目されるようになった。つまり糞尿が下肥として商品価値を帯びるようになった。
 すると、糞尿を引き取りたい江戸周辺の農村ではお金を出して確保するようになった。でも、値段が上がるのは困る。そこで、農村側は下肥値段の値下げを運動として取り組んだ。そこに、一部の農民が抜け駆けをして、少しでも下肥を多く確保しようとする。なので、都市と農村側とでは、ずっとその交渉が続いた。
 その交渉のあいだに立ったのが町奉行所であり、関八州取締役だった。関八州取締役というのは、ヤクザを取締って治安を維持するという仕事だけではなく、下肥(糞尿)の取引にも介在していたのですね。
 昔は、百姓は「モノ言わない存在」というイメージでしたが、実のところ、どうしてどうして、町や奉行所に対して、自分たちの要求を通そうとして、いろいろ運動していたのです…。もちろん、そこでは、読み書きが出来ることが必須でしたが、そこは心配なかったのです。寺子屋はあるし、従来物と呼ばれるテキストを学ぶと、当局への嘆願書や訴状の見本があるのですから…。
 江戸時代、江戸には各所に公衆便所が設置されていました。朝鮮通信使が江戸に来たときには臨時の便所が設置されました。
 そして、この公衆便所には落書きもあれば、なんと広告まで貼られていたのでした。
 ちなみに、便所の周辺に赤い実をつける南天の木がよく植えられていますが、それは、「南天」が「難転」、つまり「難を転じる」から、火難よけになると信じられていたからだというのを初めて知りました。
 京阪では、人糞の売却代金は家主の収入で、小便のほうは借家人の収入とされた。
 ところが、長屋の共同便所を管理している江戸の家主は、その糞尿の売却代金の全部を自分の収入としていた。
 当時の江戸の人口は、町人が50万人、武家たちが50万人、合計100万人をこえていた。すると、糞尿(下肥)の代金総額は3万5千両を超えるものだった。たいした金額ですよね、驚きました。
 よくぞここまで調べあげたものだと感嘆しながら読みすすめました。
(2024年1月刊。2400円+税)

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