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卵をめぐる祖父の戦争

カテゴリー:ヨーロッパ

 著者 デイヴィッド・ペニオフ、 早川書房 出版 
 
 ナチス・ドイツに包囲され、飢餓にあえぐレニングラード。その戦いの規模は『攻防900日-包囲されたレニングラード』(早川書房)で詳細に紹介されています。この本は、そのレニングラード防衛戦の実情を、ソ連軍からの「脱走兵」とされてしまった二人の若者の奇妙な戦争を通して浮きぼりにします。なるほど、小説って、こうやって悲惨な戦争の実態を読み物にしてしまうのですね・・・・。
 飢えに苦しむレニングラード市民、地雷犬の無残な死など、戦争の悲惨さがリアルに描かれている。ソ連政府の発表でも、100万人もの市民が生命を落としたレニングラード攻防戦。それでも、ナチス・ドイツに征服されることなく、守り抜いた。その陰には、多大の犠牲があった。しかし、レニングラードを防衛する軍の上層部には、娘の結婚式のためにケーキが必要だ、そのために卵を1ダース調達してこいと命令するくらいの余裕はあった。卵1ダースを調達するために、二人の若者が戦場へ生命かけて探しまわる。そんなお話です。なんともまあ、悲惨な状況での、おとぼけた話の展開ではあります。
 戦場の奇妙な現実を、それなりに反映しているのだろうなと思いながら、ついつい引きずりこまれて読了しました。
 
(2010年8月刊。1600円+税)

自衛隊という密室

カテゴリー:社会

著者:三宅勝久、出版社:高文研
 日本の自衛隊は死者を出し続けている。死者数でもっとも深刻なのは自殺である。1994年から2008年までの15年間で、1162人もの隊員が自殺で命を落とした。一般公務員の自殺率の2倍にあたる。
 暴力事件で懲戒処分された隊員は2007年度の一年間で80人をこす。
 脱走や不正外出で処分された隊員は326人、病気で休職している隊員が500人。脱走・不正外出は脱柵(だっさく)という。2007年度の脱柵による処分は272人。ほとんど1日から1ヶ月内に見つかっているが、半年以上も行方が分からずに免職になった隊員も7人いる。
 自衛隊法施行規則57条第6項に、「部下の隊員を虐待してはならない」と定めてある。
 「死にたい奴は死ねばいい。なにがメンタルヘルスだ」
 一佐の年収は1000万円以上、退職金は4000万円。そして納入業者に役員待遇で再就職する。防衛省との契約高15社に在籍しているOBは2006年4月、475人。三菱電機に98人、三菱重工62人、日立製作所59人、川崎重工49人。
 2008年度の1年間で、防衛省と取引のある企業に再就職した制服幹部(一佐以上)は、80人。三菱電機が一番多い。
 三菱重工と防衛省との年間契約高は2700億円。三菱重工ほど、兵器でもうけてきた会社はいない。
 まさに死の商人なんですね。ちっとも、そこにメスが入らないのは不思議です。マスコミよ、しっかりして下さいな。
 日本の自衛隊のいじめ体質は、軍隊のもつ本質でしょうね。かつてのアメリカ映画『フルメタル・ジャケット』を思い出しました。新兵訓練のしごきで、殺人マシーンに仕上げられる様子がまざまざと描かれていました。それに耐えられない、まともな神経の新兵は銃口を口にくわえて、ひっそりと自死してしまうのです。
 それにしても、日本の軍需産業の実態、とりわけ防衛省幹部の天下りがまったく知らされていないのは由々しき問題です。ぜひぜひ、誰かバクロして下さい。そこにこそ壮大なムダづかいが隠されているはずです。
(2009年9月刊。1600円+税)

今、ここに神はいない

カテゴリー:アメリカ

著者:リチャード・ユージン・オバートン、出版社:梧桐書院
 1945年2月19日、硫黄島。南海の孤島は地獄と化した。散乱する肉塊、死にゆく戦友、肌にしみこむ血の匂い。「地獄の橋頭堡」の生き残り兵が戦後40年を経て初めて明らかにした衝撃の記録。
 これはオビにある言葉です。戦後40年たって初めて書いたというには、あまりも生々しく迫真的で詳細です。本人はメモを書いていたようです。
 アメリカ軍は開戦前、数日で制圧できると楽観視していたが、予想に反して太平洋戦争での最激戦地となった。日本軍は2万人の守備兵がほぼ全滅(戦後、捕虜となった元日本兵は1000人あまり)。アメリカ軍は、それを上回る2万8000人もの戦死傷者を出した。アメリカ軍の損害が日本軍を上回った稀有な戦いだった。
 2月19日に始まった戦闘は、3月17日、日本軍の硫黄島守備は大本営に訣別を打電した。著者は海兵隊第2大隊に配属された海軍衛生兵、19歳であった。
 戦闘部隊員は、顔面に毛をはやすことは許されない。それは、顔面の傷治療の妨げになるからだ。毛が傷に入ってしまうと、感染症を引き起こす。
 上陸する前、隊員の態度に変化がおきた。隊員は静かで瞑想的になり、海を眺めたり、残してきた家族に手紙を書いたりして過ごした。会話もほとんどなく、めいめいが個人的な思いに沈んでいた。あるいは、これが最期の時かもしれないと・・・。
 上陸した直後の海岸はひどい混乱状態にあり、地獄のようだった。そうとしか言いようがなかった。浜辺全体が多数の火を吹くような爆発に見舞われ、地面が膨れて濃い灰色の砂山となり、それが散って灰色のすすけた煙の噴出となるのだった。
 人体、隊員が運んできたヘルメット、ライフル、その他の装備は、浜辺で吹き飛ばされていた。隊員たちは地面に倒れ、動いている者もいれば、じっとしている者、あるいは服から煙が上がっていたり、燃えたりしている者もいた。服に燃えている鉄片が刺さっていたのだ。第26連隊が上陸した区画は400メートルの幅があった。そこは隊員と装備でいっぱいだった。
 日本軍迫撃砲手は、見事な腕前だった。彼らは摺鉢山で、アメリカ兵より高いところで北の方角から撃ってきた。
 乱戦のなか、日本軍が海兵隊員の死体から制服と装備を奪い、制服を着て、海兵隊の防衛線の中に入り込んできた。そして、完璧な英語を話した。
 ええーっ、これって本当のことでしょうか・・・?でも、死んだ日本兵がテキサスの短大で発行された写真つきの学生証をもっていたとありますから、本当だったのでしょうね。
 海兵隊と日本兵は近接して入り乱れながらの接近戦を展開していたようです。著者も、そのなかで2時間半近くも気絶していたことがありました。九死に一生を得たのです。
 重傷を負った隊員が叫んだ。
 「神よ、なぜ、こんなことをお許しになるのですか?」
 著者は答えた。
 「神は今ここにいらっしゃらないんだ!」
 2月23日、上陸5日目にして摺鉢山に星条旗がはためいた。しかし、現実には戦いは始まったばかりだった。
 人により、自分の体の一番守りたいところは違ってくるのに気がついた。ある者は顔が大事、他の者は下肢、陰部、手だった。著者は手を胸の下に置いたり顔の下に置いたりして、手を大事にしたいと思った。死が一番恐ろしかったのではなかった。手足がバラバラになるのが怖かった。
 このような脅威に常にさらされていると、心は体とつながりがなくなっていくように感じた。まず最初にアドレナリンが血中に入り、興奮するが、次に恐怖が来る。このような刺激が続くと、感覚が鈍ってくる。心が次第に機能しなくなり、体が動かなくなる。
 自分の考えをコントロールすることができなくなり、まとめることもできなくなった。手で顔を触ることができるが、感じることができなかった。
 戦友のあごが緩み、口が開き、唾液が口角からあごに流れ落ちている。目に感情の色を失い、見ているものが脳に認知されていないことは明らかだった。
 砲撃を受けたあと、一度ならず泣いている兵隊、ヒステリックに泣きじゃくる隊員を見た。目の刺激に反応しない。命令や質問に応ずるのも、非常にゆっくりだ。
 上陸して3日間は、ほとんど眠れなかった。ベンゼドリンの錠剤をたくさん服用したが、目をつぶることさえできなかった。まぶたを閉じようとしたが、まぶたを閉じる筋肉が動かなかった。
 慣れることのできなかった恐ろしい光景の一つが、降伏を拒み掩蔽壕や洞窟から出てこない日本軍に対して火炎放射器が使われたこと。中にいた日本兵はゼリー状の火炎を浴びて、焼け焦げていく。外に走り出て、体を包んでいる炎から逃れようとする。生きながら燃えている人間の光景と音は、えもいわれぬ嫌なものである。
 硫黄島で死んでいった2万人もの日本兵を心より哀悼したいという気になりました。もちろん、海兵隊の死傷者と同じように、という意味です。残酷な戦場がまざまざと迫ってくる迫真の体験記です。クリント・イーストウッド監督の映画二部作もすごかったのですが、この本も期待以上の内容でした。当時、わずか19歳だった著者が40年後に書いたとはとても思えない内容です。
(2010年7月刊。2500円+税)

スティーブ・ジョブズ、驚異のプレゼン

カテゴリー:アメリカ

著者:カーマイン・ガロ、出版社:日経BP社
 iフォン、iパッド、iポッドを成功に導いたアップルのスティーブ・ジョブズのプレゼンは、すごいもののようです。
 実は、私も一度もみたことがありません(見ても英語のダメな私には、そのすごさが分かりません)。
 それはともかく、裁判員裁判(私はまだ体験していません)ではフツーの市民へのプレゼン能力が求められています。その意味で読み、また大いにひきつけられる内容がありました。
 ジョブズのプレゼン能力はすばらしい。しかし、そんな能力を持って生まれてきたわけではない。努力して身につけたのだ。プレゼンには、わくわくするようなストーリーが必要だし、そのストーリーには力がなければならない。
 体のつかい方、しゃべり方、服装も大事である。そして、練習だ。構想はアナログでまとめる。ジョブズは、まず紙と鉛筆からスタートする。スライドをつくる時間は、全体の3分の1以下におさえる。聞き手に訴えるのはストーリーであって、スライドではない。ジョブズは、ビデオクリップをよく使う。しかし、プレゼンではビデオクリップを使うべきだが、その長さはせいぜい2~3分にとどめる。
 私も思いついたアイデアは真っ白の紙にまず書きなぐります。裏紙利用の白紙が最高です。いくら書いて失敗しても、もったいないと思わないからです。
 人間の頭が楽に思い出せるのは、3項目から4項目である。だから、ジョブズは3点にまとめる。
 私は、いつも指をかざして二つ言いますよ、と言っています。三つあるというと、3番目に何を言いたかったのか忘れてしまう危険があるからです。
 3点ルール。たとえば、毎日、三つのことをすべきです。一つは、笑うこと。第二が考えること。三つめに涙を流すほどに強い心の動きを覚えること。という具合に・・・。
 敵(かたき)役をストーリーに登場させる。そうすると、聴衆は、主人公(解決策)を応援したくなる。
 なーるほど、そうなんですか・・・。
 10分ルール。10分たつと、聴衆は話を聞かなくなる。そこで、話を区切り、休憩時間を入れる。聞き手の脳を休ませる。
 言葉でなく、写真で考えて説明するには、度胸と自信が必要だ。
 一枚のスライドはひとつのテーマに絞り、それを写真や画像で補強する。
 数字は、理解しやすい文脈に入れないと力を発揮しない。理解しやすい形とは、みんながよく知っているものと関連づけること。
 数字を多く出しすぎると、聞き手がいやになってしまう。文脈性が大事。数字を聞き手の暮らしに密着した文脈に置くことが大切である。
 業界の特殊用語は幅広い人々と事由に意見を交換する妨げとなる。
 ジョブズは、いつもやさしくくだけた言葉をつかう。
 退屈なものに脳は注意を払わない。脳は変化を求める。人は、ものごとを目から吸収する人、耳から吸収する人、体から吸収する人の三種類に分けられる。デモをつかうと、三種類すべての人とつながりを持つことができる。
 記憶に残る瞬間を演出するコツは、部屋を出たあとも聴衆に覚えていてほしいことを一つだけ、ひとつのテーマだけに絞ること。
 うっそー、な瞬間をつくりあげる。
 感動の瞬間に向けた筋書きをつくる。
 聴衆と視線をあわせて話す。身ぶり手ぶりもよくつかう。大事なポイントは手の動きで強調する。そして、声は一本調子でなく、声で筋書きを補強する。
 大きくしたり、小さくしたり、しゃべるスピードを変えたりして、しゃべり方に変化をつける。ドラマチックな演出には、間が不可欠である。
 常に自信をもって行動すること。評価の大勢は、最初の90秒で決まってしまう。自分がしゃべっているところを録画して見る。体が発するメッセージを感じ、しゃべり方を確認する。壇上であがらないためには、しっかり準備するのが一番。話すとき、基本的にメモは使わない。
 どれほど周到に用意しても、計画どおりにいかないことがある。これを失敗と認めない。失敗とは、起きてしまった問題に注目して、プレゼン全体を台無しにしてしまったときにしかいわない。小さいことを気に病まないで、先に進めてしまう。さらっと認め、にっこり笑って次に進む。自分も楽しむのだ。
 なるほど、なるほど、そういうことなんだね。同感できる話が満載です。英語ができたら、本物の話を一度聞いてみたいのですが・・・。
(2010年8月刊。1800円+税)

上田誠吉さんの思い出

カテゴリー:司法

 著者 自由法曹団、 自由法曹団 出版 
 
 ミスター自由法曹団というべき存在だった上田誠吉弁護士は、最高裁判所の長官にふさわしい人格、識見、能力だったと衆目の一致するところでした。惜しくも昨年5月10日、82歳で亡くなられました。
 私の生まれた1948年に東大法学部を出て、司法修習生(2期)になりました。上田弁護士は戦後の著名な刑事事件の多くに関わっています。メーデー事件、松川事件、三鷹事件、千代田丸事件、白鳥事件・・・・。
 これらの事件は、戦後日本を揺るがす大事件であったと同時に、司法界においても大変重要な事件であり、貴重な判例を残しました。そして、上田弁護士は弁論要旨だけでなく、数々の著書をモノにし、世に問うています。私が大学一年生のときに読んで、身体中が雷に打たれた衝撃を覚えたことを鮮明に覚えているのが『誤った裁判』(岩波新書)です。国家権力というのは、自己の威信を守るためには無実の人を死刑にしてもかまわないと考えること、一般市民は丸裸にされたときには、きわめて弱い存在であると痛感させられました。それまでは、警察や検察というところは人権と弱者を守るために存在するとばかり思い込んでいたのです。ひどく認識が甘いと思わされました。
その後、上田弁護士は、自由法曹団の幹事長に就任します。41歳のときです。
 上田弁護士は『国家の暴力と人民の権利』(新日本出版社)を世に問いました。私が司法修習生のときでした。感激をもって必死に読み、大いに学ぶことができました。
 そして、私が弁護士になった年(1974年)10月、自由法曹団の団長に就任しました。まだ48歳の若さでした。しかし、既に風格がありました。それから10年間、団長の要職をつとめました。
団長在任中、石油ショックが起こり、石油業界のヤミ・カルテルが摘発されました。東京と山形・鶴岡の消費者がこぞって裁判に起ちあがりました。弁護士1年生の私も末席に加えていただきました。上田弁護士と同じ弁護団の一員となったのです。
この灯油裁判と呼ばれる消費者訴訟は最終的に敗訴しましたが、途中で消費者の権利を認める高裁判決を勝ちとるという画期的な成果もあげています。上田弁護士は、理論的にも、運動においても、中心の柱になっていました。
 上田弁護士の旺盛な著述活動は、その後も続きました。『裁判と民主主義』(大月書店)、『ある内務官僚の奇跡』(同)。後者は、上田弁護士の父親について書かれています。父親は、なんと特高課長つとめたキャリア組の内務官僚だったのでした。中国・上海総領事館の警察部長もつとめています。ですから、上田弁護士も、上海に暮らしていたことがありました。戦後、上田弁護士は、父親から左翼にだけはなるなといって、顔を叩かれたこともあります。ところが、その父親も亡くなる前には松川事件の弁護団の一人になったのでした。
 上田弁護士は、63歳のときに胃がんで胃を全摘しました。しかし、その後も著述活動だけでなく、アメリカに渡った訪米団の団長として、また、警察による盗聴事件を追及して、活躍しました。最後には、自らが住民の一人として無用な道路建設に反対する運動に加わり、裁判の原告になりました。
 この本は、上田弁護士の没後1年たち、「しのぶ会」の開催に合わせて、弁護士やかつての裁判の元原告たちが思い出を寄せたものです。大変読みやすく、上田弁護士の飾らぬ人柄、そして、その能力と見識の高さがにじみ出る冊子となっています。
 上田弁護士は東大法学部に入学するも、学徒出陣の時代ですから、川崎の高射機関に砲部隊に配属されてしまいます。戦後、大学に戻って学生運動に参加するのでした。
 大阪の宇賀神(うがじん)直弁護士が「上田誠吉さんと裁判闘争」と題して、少し長文の思い出を寄せていて、勉強になりました。
 裁判闘争の基本、土台というのは、裁判で問題となっている生活事実をつかむこと、これが大切である。裁判官もまた人間である。人間がものごとを決めるときに寄るべきものは事実の認識であって、そのうえに立って道理を考える。そこでは、事実と道理、対決と説得そして共感が大切なのである。一面では対決であり、他面では説得である。説得の武器は、対決の場面もふくめて、事実と道理である。そのために知恵と力を出す。裁判官の良心を取り戻し、それに灯をともし、その灯を強めていく。それが成功するなら、裁判官は事実を素直に見るようになる。そして、救済を決意する。ここには飛躍がある。裁判所が何を考えているかを読みとること、これが実は弁護士にとって一番苦しい任務なのである。
 上田弁護士をしのび、大いに学ぶべき存在であることを改めて思い知らせてくれるいい冊子です。若い弁護士に広く読まれることを期待します。
(2010年9月刊。価格は不明)

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