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昭和20年生まれからキミたちへ

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 落合 恵子 ・ 松島 トモ子ほか 、 出版 世界書院
 今、80歳の人たちが語っています。大学生のころは、80歳なんて「カビの生えたような、モーロク爺さん、しわくちゃ婆さん」というイメージでしたが、どうしてどうして、そんなものじゃありません。この本には登場しませんが、新聞連載のときは、同じ世代の吉永小百合も登場しています。どうですか、あの元気ハツラツとした、輝く美しさ。80歳だから「しわくちゃ婆さん」なんて、とんでもありませんよね。
 でも、1945年生まれは、日本敗戦前後の生まれですから、生死に関わる大変過酷な状況を生き抜いたのです。松島トモ子は、満州の奉天(現瀋陽)で生まれた。
 日本へ引き揚げる前、現地の中国人から赤ちゃん(松島トモ子)を売ってほしいと懇願されたそうです。帰国するまでに死んでしまうから、生きてるうちに売って、生きのびさせたほうがよいだろうと言われたそうです。実際、幼い子どもたちが次々に死んでいったのでした。
 岡田尚さん(神奈川で弁護士)は両親が教員として赴任していた中清南道生まれた。生後10ヶ月のとき、母親が闇船を探しまわって見つけて日本に戻ることができた。それでも栄養失調気味のため、母親は生きて連れ帰れないと心配したとのこと。
日本敗戦の年(1945年)は、出生数が167万人でしかない。戦前の1943年が225万人、戦後の1947年が268万人と比べると、はるかに少ない。明らかに戦争のせいだ。
 落合恵子の母は、未婚の母として、生まれた娘を必死で育てた。しかし、物心ついた娘は、母が清掃の仕事をしているのが恥ずかしくて、「辞めて」と頼んだ。すると、母は清掃の仕事場に娘を連れていって、「なぜ辞めてほしいのか、ちゃんと理由を説明しなさい」と問いただした。いやあ、これはたいしたものですね。母親の必死の思いがよく伝わってきます。
 元外交官の東郷和彦の話も胸を打ちます。その祖父は、戦犯にもなった外交官の東郷茂徳で、獄中死しています。
 時の政府の言いなり、拡声器の役割しかしない外交官ばかりのなかで、東郷和彦は軍事力の強化で中国に対するのではなく、平和外交の積極的な展開が必要だと強調しています。まったく同感です。また、難民支援に日本はもっと積極的に取り組むべきだとします。これまた同感至極です。
 福岡の生んだ偉人・中村哲医師のやってきた人道的活動を日本政府も取り組むべきことも強調しています。日本にも、こんな骨のある外交官がいるのですね。うれしくなりました。
 なお、以上の人名に「さん」とか敬称をつけないのは、たとえば日本では松本清張について、「さん」とも「先生」ともつけずに呼び捨てするように、あまりにも有名人の場合には呼び捨てにする慣行に従ったまでです。
 なので、熊本県玉名出身で私の親しい岡田尚弁護士には、超有名人とまではいかないので、「さん」をつけたのです。その岡田さんから送ってもらいました。お互い元気にもう少しがんばりましょうね。
(2025年8月刊。1650円)

團藤重光日記(1978-1981)

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 畠山 亮 ・ 福島 至(編著) 、 出版 日本評論社
 私は司法試験を勉強するとき、刑法は団藤(ダンドー)の「刑法網要」上下の2冊を基本書としました。最終盤では、朝から読み始めて夜までに500頁もある部厚い本をなんとか読みあげることができました。結局、繰り返し4回ほど読んで自信をつけて試験に臨み、合格できました。弁護士になってからは読み返していませんが、今も本棚に愛読書として飾ってあります。団藤さんから授業を受けたという記憶はなく、刑法は藤木英雄でした。
 団藤さんは最高裁判事となり、大阪空港訴訟も担当しています。政治が介入して大法廷に回付されたことを怒ったと日記に書いているというので、その部分を探したのですが、今までのところ探し当てていません。
 最高裁判事というのは皇室とは親密な関係にあるようで、この本には、鴨狩りの様子とあわせて天皇以下の皇族との会話が何回も紹介されています。
 私が驚いたのは、団藤さんが天皇に対して、「福江(長崎の五島列島の島)の裁判所には昔、脱獄囚が判事になっていたことがございました」と話しはじめ、天皇の反応が良かったので、詳しく話したということが紹介されていることです。これは一部に有名な実話です。判事になった脱獄囚というのは三池炭鉱が囚人を働かせていたときのことで、そこから脱走したということです。ところが、団藤さんは天皇に対して2つ間違った紹介をしているようです。
 その一は、「執行猶予になり」としていますが、そうではありません。その二は、晩年を東京で暮らしていたとしていますが、これも間違いなのです。詳しくは、次に紹介するとおりです。
 この日記で紹介されている脱獄囚で裁判官になったというのは、本名を渡辺魁といい、東京生まれだけど島原に育った。父親は島原藩士だった。魁は東京に出て一橋大学の前身の商法講習所で学び、三井物産長崎支店に勤めた。手形を扱っていたことから、支店長印を乱用して460円を横領したのが発覚し、懲役終身(無期懲役)となった。当時の巡査の初任給が6円なので、それなりの被害額だけど、それにしても無期懲役とは重すぎるとされています。
 ところが魁は脱走に失敗して、三池炭鉱に送られて囚人として労働させられることになった。そして、1ヶ月もしないうちに三池炭鉱から脱走し、長崎で裁判所に勤める父親のところに行き、そこから、大阪、鳥取そして大分にまわって、そこで辻村庫太と名前を変えて裁判所に事務員として働くようになった。真面目に仕事をしているうちに見込まれ、書記官となり判事登用試験に合格して判事補になった。そして、長崎は五島列島の福江の裁判所で判事として活動するようになった。年俸600円の高給取り。ところが、世間は甘くない。偽名を見破って通報する人がいて、逮捕された。もちろん有罪になるわけだけど、判事として下した判決は有効なのか、本当に官文書偽造が成立するのかという難問をかかえている。そのためか、なんと非常上告では無罪となり、元々の懲役終身刑についても特赦の対象となって釈放された。団藤さんは、その後は東京に住んでいたらしいと書いているが、実は島原で印刷業などを営んで、ひっそりと暮らし、64歳で亡くなった。
 魁は、戸籍は、寛永寺で彰義隊が官軍と戦ったときに孤児になったと嘘を言って新しくつくってもらったという。ウィキペディアには関連する本がいくつも紹介されています。そっちの話ばかりになりましたが、あまりに刻明な日記であることに驚きました。そして、執務時間中に、ゴルフの練習場に通ったりもしていたようです。団藤さんの私生活がよく分かりました。
(2025年2月刊。4400円)

自由民権創成史(上)

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店
 明治の初め(7年、8年ころ)、新聞の発行部数は、「日日」が223万部、「報知」206万部、「朝野」55万部、「曙」80万部、「真事誌」53万部となっている。新聞史上の戦国時代だった。すごい部数ですね。今はどの新聞も大激減し、みんな青息吐息の状況です。
新聞の絶大な威力に脅威を感じた太政官政府は、本腰を入れて対応しはじめた。
 「真事誌」が目の上のコブとなっていたことから、政府は編集者のブラックを内国人でないとして編集にあたられないようにした。明治8年6月、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例が制定・公布され、内務省の所管となった。そして、「曙」、「朝野」、「報知」の各編集長が、禁獄2ヶ月とか罰金20円などに処せられた。
 明治5年、民事訴訟の代理人として代言人を制度化した。刑事訴訟の弁護が認められるのは明治15年1月の治罪法施行のあと。
 福沢諭吉も代言人制度には強い関心をもっていて、塾内に代言社を組織した。
明治8年5月から、大審院以下の裁判所制度が行政と分離して確立しはじめるなかで、全国の代言人の数は増加していった。
 当初は、裁判所の許可さえあれば、誰でも代言人をつとめることができた。しかし、明治9年2月、代言人規則を制定し、代言人試験に合格したものだけに資格を付与することにした。明治9年から、年に数回の試験が実施された。
幕府を倒すのに力があったのは頼(らい)山陽で、今は福沢諭吉だ。そう言われるほど、福沢諭吉の影響力は絶大だった。
 太政官政府は、王政復古と廃藩置県という二大変革を断行することによって、近世天皇、朝廷制度を確固として支え続けてきた将軍制度、そして大名制度を結果的に廃棄してしまった。
 明治8年6月、第1回の地方官会議が木戸孝允の議長のもとで開会した。この開催前に、公選民会を既に開催しているところがあった。ただし、福岡県にはなかった。
国会設立が先か、地方民会が先か、こんな論争があり、刃傷沙汰まで発生した。
 国会開設運動の中心には士族民権的色彩の強いものと、反華士族の立場を明確にした平民民権的なものとが混淆(こんこう)していた。
 士族の廃藩処分に対する思いは複雑だった。家禄を支給されつづけている士族たちは、数年前までの支配階級としての身分意識・自尊心を抱きつつ、自らの社会的存在意義を示す必要を痛感せざるをえない。
彼らにとって、対外危機は絶好の機会となる。士族の不満を外に転換させるための台湾出兵決定は、明治7年2月のこと。
 百姓・町人の立場からは、士族がその識を失ったあとも家禄が支給され続けていること自体が問題だった。すなわち、士族は人民保護の役割が消滅したと同時に、士族の兵役義務も存在しなくなった。
 士族以外の平民が民選議院の主体にならなくては、国政の根本的変化を惹起させることは不可能だというのが、平民民権論だった。華士族の家禄泰還こそが平民の辛苦を除去する方法とするのが平民民権論の特徴の一つだった。
 民選議院設立建白そのものが日本全国に衝撃を与え、全国の農民に新しい視野と斬新な展望を与える起爆剤となった。
 明治初めのころの激動する日本の実情を生き生きと紹介している本でもあります。
(2024年10月刊。3800円+税)

丸刈りにされた女たち

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 藤森 晶子 、 出版 岩波現代文庫
 第2次大戦中のフランスでドイツ兵と親しくしていた女性たちが終戦後、ナチス・ドイツへの復讐といわんばかりに、頭髪を丸刈りにされ、市中を行進させられました。この本は、その被害にあった女性を訪ねて、その心境、そしてその後どのような人生を送ったのかを掘り起こしています。
 著者は広島生まれの40代の日本人女性です。どうやら、フランスでは先行研究があまり多くはないようです。
 この本によると、戦後のフランスで丸刈りにされた女性が2万人いて、そのうち半数がドイツ人兵士と性的関係をもっていた。残り半分の女性は、経済的協力者、密告者、対独協力的組織に加入していた政治的協力者など。
捕まった女性は、対独協力が市民として許容範囲内とされたら釈放され、そうでなければ祖国反逆罪を問われ、公民権が剥奪された。
 公共の場で丸刈りをするというのは、実は、ナチス・ドイツが始めたもの。これに対しては市民が被害者に同情を抱き、ナチスに対して拒否的な態度をとる市民は多かった。
フランスでドイツ人兵士と性的関係をもったフランス人女性は多かったが、実際には、丸刈りを免れた女性のほうが圧倒的に多かった。それは、人前で大っぴらに付き合っていなかったら分からなかったから。
 ノルウェーには多くのドイツ人兵士が駐留していたことから、人口3千万人の国にドイツ人兵士が父親とされる子どもは1万2千人近くもいるとされている。
フランスで女性の丸刈りを実行したのは住民が自発的にやったこととされてきたが、実はレジスタンスの活動家が8割を占めていた。そして、それは、占領下のときから準備されていた。
 丸刈りの対象となったのは、娼婦については比較的に寛容であった。女性たちは、身体ではなく、心を売ったことが咎(とが)められたのだった。
 歴史は、いつの時代にあっても、ジグザグに進むものなんだな…。そんな感想を抱きました。
(2025年4月刊。1060円+税)

北の森に舞うモモンガ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 柳川 久 、 出版 東京大学出版会
 この本は、エゾモモンガ(モモンガ)に関する、日本で初めてのモノグラフだそうです。驚きました。モモンガって、なんとなくなじみのある生き物なのに、これまで、まとまった研究の本がなかったというのです。
 著者がモモンガの研究を始めたのは今から37年も前の1988(昭和63)年のこと。まだ20歳台でした。
 冒頭にモモンガの団子三兄弟の写真があります。血のつながっていないモモンガが3頭、背中の上に乗って、じっと動かなかったそうです。
 モモンガは夜行性ですから、昼間はじっとしていて、夜、遅くなってから活動しはじめます。モモンガを追跡するために使った発信機の重さは2グラム。1円硬貨2枚分です。
 モモンガは滑空する。といってもコウモリのように飛翔するのではなく、高いところから斜めに落ちることで、距離を稼いで離れた場所にたどり着く。とてもエコ(経済的・省エネ的)な移動方法。
 モモンガはやせっぽちで筋肉量が少ない。これは翼面荷重を少しでも減らすためのもの。
 モモンガは若葉や花序(花穂)を好んで食べる。セミなどの昆虫を食べる個体もいるが、地域差もあるらしい。
モモンガにも右利きと左利きがいる。人間と同じく右利きが多い。
 モモンガは利用する樹洞の条件にあまりうるさくなく、あるものを選り好みしないで使う。
 モモンガにとって林がなくなるのは生存の危機につながる。
モモンガの子は、出生時は赤裸で、体重は3~4グラム。巣から顔を出して出始めるのは40日ころ、50日ころから滑空を始め、60日ころに巣立ちする。
 モモンガの母親は、自分のこと他者の子を区別できない。自分が何匹の子を育てているのかの認識は出来ていない。それで、巣のひっこしをするときには、「子の数プラス1回」、古い巣と新しい巣を往復し、古巣に赤ちゃんが残っていないか確認する。日本での観察では「プラス1回」以上となっている。
 モモンガの天敵はフクロウとクロテン。
 モモンガは、おもに音声によって天敵のフクロウを認識している。
北海道のモモンガは、アイヌからは好意的に見られていた。
食性の違いからか、北海道のモモンガは植物食中心でのんびりしていて積極的。これに対して、アメリカのモモンガは肉食性が強く、活発で積極的。
 可愛らしい写真とスケッチもたくさんある、貴重なモモンガ研究書です。
(2025年6月刊。2800円+税)

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