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赤ちゃんの不思議

カテゴリー:人間

著者   開 一夫 、 出版   岩波出版
 赤ちゃんって、いつ見ても可愛いですよね。我が子も、みな、とっても可愛くて、眼に入れても痛くないというたとえが実感としてよく分かりました。孫のほうは残念ながらまだ経験がありませんが、とても可愛いとみな言ってますね・・・。
 その赤ちゃんが可愛いだけの存在ではなくて、意外な能力とパワーを発揮していると言うのです、ええーっ、どんな・・・?
 赤ちゃん学は、この30年ほどで目覚ましい発展を遂げた。それまで、まったく無力と考えられてきた赤ちゃん像がくつがえされている。今では生後まもない赤ちゃんでも、さまざまな能力を持っていることが明らかになっている。
 生後1時間にもみたない新生児も「顔まね」する。「顔まね」というのは、たとえば大人が赤ちゃんに向かって、舌をベローッと出すと、赤ちゃんも舌を出すということです。こう動かすと視覚的にこうなるというのを、鏡によって理解していなくても顔まねできるというわけで、これは本当に不思議なこと。
 母親が妊娠中にリラックスするために見ていたテレビドラマのテーマソングが胎児にも影響していることが分かった。
 人間の顔が正面を向いて目もこちらを見ている写真と、あらぬ方向を見ている写真とを比べてみせると、明らかに赤ちゃんは、目が正面を向いている刺激のほうにひきつけられる。赤ちゃんは、早いうちから自分なりのやり方で世界をとらえ、様々な情報を非韋に効率的に処理している。赤ちゃんは、何か描かれるのをただじっと待っているキャンバスではなく、もっと能動的でダイナミックな対象としてとらえるべき存在だ。
一般的に、生後12ヵ月までに男の子と女の子とは違う玩具を好むようになる。
 女性は男性と比較してコミュニケーション能力に長けている。相手の表情から感情状態を読みとったり、延々とおしゃべりするのが好きだったり、一般的には対面コミュニケーションや社会的認知能力が優れている。
 赤ちゃんって不思議な存在だ、なんて言ってるうちに、みるみる大きくなっていき、幼児が小児になり、児童、そして少年やがて大人になります。ですから、私たちの未来は赤ちゃんにかかっているわけです。そんな赤ちゃんを、みんなで大切に育てたいものです。
(2011年5月刊。720円+税)

スピーチの奥義

カテゴリー:社会

著者  寺澤 芳男  、 出版  光文社新書
 人前で話すのは、とても難しいものです。私も、今ではなんとか慣れましたが、一瞬、頭の中が真っ白になるという経験は何回もしました。焦りましたよ・・・・。
 この本は、その克服法が具体的に語られていて、とても参考になります。
 聞く人も、とても緊張している。このことを意識するだけで、自分自身の緊張は、かなり和らぐ。自分が聴衆の緊張をほぐさなければという気持ちになったらいい。相手を緊張させまい、自分が緊張している場合ではない。そう思うこと。これで結果として、うまく緊張をほぐすことができる。
 面白くなかったという経験をたくさんしているだけに、人々のスピーチに対する期待度はそれほど高くはない。存外おもしろい話を聞けると、ものすごくトクをした気分になる。
スピーチをする以上は話を聞いてもらわなければ意味はない。最初の一分で聴衆の耳目をひきつけられたら、8割方は成功。
聴衆の期待に応えなくては、というプレッシャーから解放されて、自分なりに一生懸命に話すことに集中しようと思うこと。
ウケを狙った作為的なスピーチは十中八九、失敗する。大切なのは、ウケようなどとあざといことを考えず、これを伝えたいんだという情熱に任せて、とにかく自信を持って、突っ走ること。そうすると、内容がそれほど面白くなくても、聴衆は、話し手の必死な姿に心を打たれる。
第一声はジョークにしたらいい。最初に一気に緊張をほぐす工夫が必要だ。ええーっ、そんなこと言われても、ジョークから話を切り出すなんて難しいことですよ・・・・。
自己紹介は、自慢話に聞こえないように配慮する必要がある。
はじめに型にはまった挨拶はいらない。挨拶抜きで、いきなり本題に入ったほうがいい。
私も、日頃そのことを心がけています。急にピンチヒッターを命じられまして・・・・とか、くどくどした弁解話なんて、誰も聞きたくなんかありません。
相手の頭の中に何を残すかを優先して考える。自分の口よりも、相手の耳を意識すること。
人間というのは、不思議なもので自ら弱点を堂々とさらけ出す人のことは逆に信用する。聴衆が話し手である自分に懐疑的もしくは否定的な目を向けているような集まりでは、そんな聴衆の気持ちをまずしっかり受け止めること。その気持ちを代弁しながら、そう思われるのも、ごもっともですと自分の弱点をさらけ出す。これが大切だ。
 なーるほど。でもこれって、なかなか出来ないことですけどね・・・・。
人間の集中力は、せいぜい15~20分。長く話すときは、聴衆の集中力の切れる15分を目処に話の切れ目をつくって、注意を喚起することが必要だ。
 聴衆が、もう少し聞きたいと思うところで話を終える。8割でスピーチをやめて、ちょうどいい。テーマは、2つ以内にしぼること。どんなに多くても3つに留めたい。
毎日を人生最後の日と思って努力すれば、いずれ望みはかなえられる。もし、今日が自分の人生の最後の日だったら、今日の予定をそのままこなすか?そのように自問自答すること。時間には限りがある。
他人の人生を歩むのはやめよう。他人のつくった固定観念の罠にとらわれないようにしよう。
 結論ファースト、これが鉄則だ。最初に1、2分のまくらがあって、すぐに今日はこういう話をすると肝心なメッセージを送っておく。結論を先延ばしにすると、聴衆の気持ちは離れていく。
話が難しければ、難しいほど、平易な言葉で分かりやすく話すことが重要になる。
 話すときには動き回ったほうがいい。そのほうが話に躍動感が出てくるし、頭の回転も良くなる。
とても実践的で、役に立つ内容でした。早速つかってみましょう。
(2011年5月刊。740円+税)

100年の残響

カテゴリー:アメリカ

著者    栗原  達男  、 出版   彩流社
 西部の写真家、松浦栄。こんなサブタイトルのついた写真集です。
 松浦栄は、明治6年(1873年)に東京は向島で生まれ、27歳のとき単身アメリカに渡った。シアトルに上陸し、西部にあるオカノガン峡谷で町の写真家となった。1913年、惜しくも39歳の若さで独身のまま病死した。
 松浦はインディアンと親しくつきあうためにチヌーク語(フランス語、英語、インディアン語の混合語)までマスターした。
 100年前、すでにアメリカの人々は野球場でプレーしていた。インディアンの居住するティピが近くに林立する中で、人々が野球に打ち興じている写真があります。
 今はさびれ果てた小さな町ですが、当時は銀山景気にわいていたようです。
 当時、すでに絵ハガキが売られていたのには驚きました。そして、フランク松浦のとった写真が、今、町のあちこちで建物の壁を大きく飾っています。町の人々にとっても100年前の風景はなつかしいものなのです。なんと100年前の建物がそのまま残っています。
 メインストリートで人々が大勢あつまって競馬を楽しんでいる写真があります。屋根の上にまで見物する人々が鈴なりです。インディアン一家が8人の子どもと一緒におめかしして馬車に乗って出かけている、そんなのどかな光景も撮られています。
 ビリヤード店の外側に男たちが18人もずらりと並んで腰かけている様子は壮観です。
インディアンの住むティピ(テント)が円形にずらりと囲むキャンプ地の遠景写真は一見の価値があります。それだけインディアンの人々と仲良くなっていたのでしょうね。
 100年前のアメリカ西部の様子を伝える貴重な写真集です。
(2011年7月刊。3800円+税)

雨森芳洲

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   上田 政昭 、 出版   ミネルヴァ書房
 日本人に、こんな偉大な人がいるのを知ると、うれしくなります。福岡にも雨森芳洲の子孫がおられます。消費者センターで活躍しているということで、一度ご挨拶したことがあります。
 文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)について、芳洲は次のように厳しく批判しました。
 秀吉は大義名分のない戦争(無名之師)を起し、両国の無数の人民を殺害した。このような暴悪は許されない。そんな批判です。さすがですね。
 そして、朝鮮の人々と「誠信の交(まじわり)」をするべきだと提唱しました。互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることをすすめたのです。
 朝鮮外交の心がまえを書いた『交隣堤醒』を芳洲が書きあげたのは享保13年(1726年)のことでした。
 芳洲について、新井白石はライバル視していたそうです。
豊臣秀吉の朝鮮侵略を雨森芳洲より先に批判した儒学者に見原益軒がいる。驕(きょう)兵・貪(どん)兵・忿(ふん)兵という表現をつかって批判した。
また、津軽藩の重臣(乳井貢)も、太閣は異国に押し入り、人の妻子家僕を暴殺して、わがものとした。大小は異なっても実は盗賊の業(わざ)なり、と言い切っている。
1607年に始まる朝鮮通信使の来日を日本への朝貢使ととらえるのは、まったくの間違い。朝鮮通信使の来日は、壬辰・丁酉の倭乱の戦後処理として始まった。現実に通信使は日本に連行されていた人々1390人もの人々を本国(朝鮮)に連れ帰った。
 第二に、江戸時代といえば「鎖国」と思われているが、これも史実に反する。実際にはオランダや中国(清)とは交易があり、朝鮮や琉球との間では、通商ばかりでなく、外交関係もくり広げられていた。
江戸時代というと「鎖国」というイメージが強すぎますよね。かなり外国に開放されていて、交易していたのですね。偉大な人物の存在を知ることのできる本です。
(2011年4月刊。2500円+税)

画文集、炭鉱に生きる

カテゴリー:社会

著者   山本 作兵衛 、 出版   講談社
 世界記憶遺産に日本で初めて登録された貴重な画文集です。画文集というコトバは聞き慣れませんが、要するに画(え)だけでなく、そばに説明の文章もついている本だということです。そして、それによって画(絵)の意味がより深く理解できるわけです。
 ユネスコの世界記憶遺産には、『アンネの日記』もふくまれているそうです。なるほど、すごいことだなと改めて思ったことでした。そこで、この新装版を改めて購入し、再読したというわけです。それにしても、よくよく当時の炭鉱(やま)の採炭状況、人々の生活の様子が活写、再現されています。
 山本作兵衛は明治25年(1892年)に筑豊で生まれた。早くも7歳のときから親の手伝いとして坑内に下がって働いた。以来50年以上も炭鉱で働いた。そして、60歳を過ぎてから、絵筆をとって描き始めた。9年間のうちに600点あまりの絵を描き、6冊の大学ノートに記録した。
 唐津下罪人(げざいにん)のスラ曳く姿、江戸の絵かきもかきゃきらぬ。
坑夫はすべて大納屋(おおなや)の支配を受けていた。
 坑夫もまた、いずれ劣らぬドマグレ者(常軌を逸した人間)ぞろいだった。
 炭鉱の風呂は役人用、職工用、坑夫用、特殊風呂と別れていた。役人用は4分の3坪、職工用は1坪、坑夫用も同じく1坪、特殊風呂は半坪。いずれも男女混浴だった。
男女混浴というのはなにも炭鉱だけではありません。私も小学校の低学年のころ、父の実家のある大川の農村地帯に夏休みに行くと、集落の共同風呂に入っていましたが、そこも男女混浴でした。今でも山の温泉の露天風呂で男女混浴のところがありますが、戦後までそれがあたりまえの地方は少なくなかったのです。
 坑夫は炭鉱から給料として現金ではなく切符が支給された。現金の握れない坑抗夫は、否応なく、切符の通用する炭鉱直営の売勘場(うりかんばと呼ぶ)が指定商店から買い物するしかない。そして、この売勘場(大牟田では、ばいかんばと呼んでいました)の品物は市価より高かった。それでも会社直営なので、文句は言えない。
筑豊でも米騒動が起きた。大正7年8月17日のこと。8月27日にはボタ山に700人の坑夫が集合して喊声をあげた。警察では鎮圧できず、直方にいた軍隊が出動して鎮圧した。その結果、手当が50%増額されたというから、たいしたものです。
 ところが、米騒動の嵐が静まった大正7年秋には未曾有の石炭景気となって、ぜいたくに流れる坑夫も出てきた。
朝は午前2時から3時には起きて入坑し、10時間も12時間も地底でモグラのように働いた。なんの因果か・・・。
 子どもたちも坑内に下がって働いていた。学校に行けない子どももたくさんいた。
 昭和6年12月の法令で禁止されるまで女性が坑内でも働いていた。
 日々にヤマ(炭鉱)の人間を脅かしつづけるのは、死の恐怖だった。ひとたび坑内に下がると時々刻々が死に神との戦いだった。いつ何時、落盤するか、ガス爆発するか、あるいは炭車が逸座するか、だれ一人として予測できる者はいなかった。だから、坑夫は信仰や迷信にすがりついた。そして、縁起をかついだ。何でもないことに死の災害を連想しては、すぐに仕事を休んでいた。
 実は、私も一度だけ炭鉱にもぐったことがあります。海底深い採炭現場にたどり着くまで1時間以上かかりました。真暗闇の坑道を人車に乗っておりていきます。途中で、マンベルトというのにも乗りました。要するにベルトコンベアーなのです。昇ったり平地を歩いたりして、現場に着くまでに既に一仕事をしたという気分です。頭上のカンテラの光だけが頼りで、周囲は闇のなかに静んでいます。それはそれは不気味です。トイレなんて、もちろんありません。その必要もないでしょう。なにしろ何も見えない漆黒の闇の世界にいるのですから・・・。
 山本作兵衛は、耳さえ悪くなかったら、きっと無産運動に飛び込んでいただろうと述懐しています。つまりは労働組合運動ですね。すごいことです。
 92歳まで長生きした山本作兵衛は芥川龍之介、古川英治、佐藤春夫と同い年。毛沢東より一つ年上だった。そんな同時代人がいるのですね。
 筑豊における炭鉱生活を知るうえでは必須の画文集です。
(2011年8月刊。1700円+税)

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