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カテゴリー: 日本史(鎌倉)

蒙古襲来

カテゴリー:日本史(鎌倉)

                                 (霧山昴)
著者  服部 英雄 、 出版  山川出版社
 蒙古襲来絵詞は有名です。残念ながら、私はその実物を拝見していません。竹崎李長は九州は熊本の武士です。この蒙古合戦での自分の活躍ぶりを絵にして鎌倉まで出かけて褒賞を得ようとしたのです。ですから、この蒙古襲来絵詞も、竹崎李長のコマーシャル、ペーパー(宣伝物)として、いくらか割引いて考える必要があります。それにしても、よく描けていますよね。合戦から10年たって、専門の絵師に書かせたのです。
 もちろん、頼まれた絵師たちが合戦の現場にいたわけはなく、その状況を見てもいません。竹崎李長の注文どおりに、それまでの絵と実物をもとに想像して再現図を描いていったのでしょう。
 竹崎李長の出身は、菊池川の河口にある玉名郡竹崎であって、益城郡竹崎ではない。蒙古軍(東路の高麗軍)は、志賀島を基地・陣営とし、博多湾岸に夜襲を繰り返した。さらには、長門(下関)へ上陸する部隊もいた。そして、遅れて西方に新規の江南軍(旧南宋軍)があらわれ、鷹島に碇泊して、博多湾へ出撃した。当時の軍事行動は、夜戦が多かった。
 7月1日の「神風」は、蒙古軍だけでなく、日本側の船にも多大の被害を与えた。この台風より前に、日本軍の将兵は疲労の限界にあった。しかし、7月5日、志賀島の海上戦に日本軍は勝ち、7月7日にも鷹島で勝利し、蒙古側は敗れた。捕虜は御家人に預けられ、戦後になって高麗は捕虜を厚遇したことについて感謝する国書を日本へ送ってきた。
 蒙古襲来は、近代以前に日本が経験した国内において戦われた最大規模の外国戦争である。当時、中国(宋)は、世界で最高最新の科学の国だった。元のフビライ皇帝は、日本の硫黄以外にも金や米、水銀、真珠、材木などに関心を寄せていて、交易を積極的に推進し、外交も求めたが、鎌倉幕府が反抗する以上は、武力制圧が不可欠だと考えていた。
日本の地方に「トウボウ」とあるのは、チャイナタウンたる唐房・唐坊のことであり、古代中世の日本には、いくつもあった。これまで、九州に14ケ所・山口県に7ケ所ほどの「トウボウ」地名が分かっている。
 この当時は、日本の通貨は宋銭(中国銭)だった。日本は独自の銭貨をつくらずに、中国の銭貨を用いた。
 蒙古軍(高麗軍)は、大宰府の陥落を目標とし、7日間ほど合戦を続けたが、7月1日に「嵐」があり、それを契機として7月末、北風が弱まったあいだに撤退し、帰国した。
 蒙古襲来が撃退されたのは、台風が来たこともあるが、御家人たちが必死の抵抗をしたことによる。蒙古軍は台風によって全滅したのではない。全軍を率いる司令官が早々に日本へ引き揚げたことは大きい。また、日本軍が置ち、負けた蒙古軍をなで切りにしたものでもないだろう。
 『八幡愚童訓』は創作であり、これを史学に使ってはならない。
蒙古襲来絵詞で使われた絵具は部外秘のものである。
馬については、1日に15リットルの水を飲ませて、家分を落ち着かせた。対馬について、高麗や朝鮮は両属域・無境界を認識しながら、意思疎通ができることが必要だった。
 蒙古襲来絵詞の高い評価をもつ所以をしっかり認識することができました。今から700年以上も前の話しではありますが、貴重な体験をした日本は、以降は力に頼る政治がずっと続いていきます。とても残念です。
 
(2014年12月刊。2400円+税)

蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者  湯浅 治久 、 出版  吉川弘文館
ムクリ、コクリという言葉が、私の脳裡にかすかな記憶として残っています。恐ろしいものという意味です。つまり、ムクリ、コクリに襲われたら大変だということです。
 ムクリとは、モンゴル(蒙古)、コクリとは(高麗)。つまり、蒙古襲来の悪夢が現代日本人にも微かに伝わっていたということです。
 この本を読んで、西方の中国そして朝鮮半島から中国・モンゴル軍が来襲してきたとき、実は北方からも日本を襲う動きがあったことを知りました。
 蒙古は、同じころサハリンのアイヌを改め、20年後に元が再びサハリンのアイヌを攻撃した。蒙古からの攻撃がアイヌの反乱と連動していた可能性は高い。
 鎌倉幕府は、弘安の蒙古合戦に大勝したことで気を良くして、高麗派兵を企図した。そして、元のフビライは、日本遠征をあきらめず、戦艦の建造をすすめた。フビライが永仁2年(1294年)に死ぬまで、蒙古襲来の危険は続いていた。
 フビライが高麗や日本への軍事行動を始めたのも、実は南宋を孤立させるための布石であった。
 文永11年(1274年)10月、第一次蒙古合戦が始まった。来襲した兵員は、蒙古軍と高麗軍を併せて3万余人。兵船は900艘に達した。
 10月20日、蒙古軍は、百道原や今津から上陸して、日本の武士と激戦を繰り広げた。蒙古軍は、この日、筥崎宮を焼き払った。そして、混成軍の統制がとれず、思わぬ日本武士の抵抗に気後れした蒙古軍が撤退する途中に暴風に遭遇した。合浦に帰還した蒙古軍は1万3000人あまりを失っていた。
 この合戦の状況が有名な「蒙古襲来絵詞」に描かれている。
 弘安4年(1281年)、蒙古人・漢軍・高麗軍の計4万人が日本に襲来した。別に江南軍は10万人、船舶3500艘。しかも、江南軍は、鋤・鍬を所持し、日本へ移住して、大地と人民を支配することをもくろんでいた。
 この14万人の集団が平戸近くの鹿島になぜか1ヵ月も滞留していたとき、折からの台風によって壊滅的な打撃を受けた。
 蒙古との合戦直後、北条時宗が34歳で急死した。
鎌倉幕府の内部状況は目まぐるしく変遷していきます。人臭いドラマの連続です。
(2012年11月刊。2800円+税)

河内源氏

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著者   元木 泰雄 、 出版   中公新書
 目からウロコの落ちる思いのする本でした。
貴族と武士とは、決して対立的な存在ではない。武士は常に王権のもとに結集するのである。それどころか、武士も貴族の一員であり、ともに民衆に対しての支配者であった。
 かつてのように、貴族と武士を対立する階級とみなし、武士が結集して貴族に対抗する武士政権を樹立することを自明とみなしたり、貴族にとって武士は脅威であり、抑圧の対象であるといった、従来の河内源氏の理解は、もはや成りたたない。武士は貴族から生まれた。
実際の貴族は、それほど軟弱ではなかった。五位以上の位階をもつ武士を「軍事貴族」と称する。本来、貴族とは、朝廷において五位以上の位階をもつ者の呼称である。従って武士でも五位以上なら、れっきとした貴族の一員なのである。
武士にとって、力量を侮られることは単に屈辱というだけでなく、敵の攻撃を招いて滅亡する危険さえ有していた。東国武士は武名を重んじざるを得ず、無礼者には報復せざるをえなかった。源氏は、自力救済の世界における敵対関係と、降伏した者への寛容をうまく使い分けていた。
源義家は、朝廷を守る栄光の大将軍と、無用の戦争を繰り広げて残忍な殺戮を繰り返す武士の長者という二つの顔をあわせもつ武将だと貴族から認識されていた。
 源氏の共食いという忌まわしい言葉がある。源義家・義綱兄弟の対立、為義・義朝父子、頼朝・義経兄弟の対立など、河内源氏では内紛が続いた。
 当時、武士でも公家でも、家長が死去したあと、その晩年の正室が後家として亡夫にかわって家長権限を代行するという強い立場にあった。新家長に対して強い発言権を有し、場合によっては廃嫡することさえも可能であった。頼朝没後の北条政子がその典型である。当時も今も、日本の女性は強かったのですよね。
 保元の乱(1156年)。白川殿に結集した武士の中心が為義以下の河内源氏なら、それを攻撃する集団でもっとも中心的な役割を果たし積極的に行動したのも、河内源氏の義朝であった。この合戦は、まさに河内源氏の父子分裂、そして全面衝突の様相を呈した。
 合戦は後白河側の勝利となった。開戦から4時間ほどを要した激闘だった。平清盛は播磨守に、源義朝は右馬権頭(うまごんのかみ)に、源義康は検非違使に任じられ、義朝と義康には昇殿が許された。
 平治の乱(1159年)。保元の乱は平安時代で初めて首都で起こった兵乱ではあったが、その戦場になった白河は京外であった。しかし、平治の乱の舞台はケガレを忌避する神聖な空間、左京のど真ん中で発生した。それだけに、人々に与えた衝撃は大きかった。ただし、平治の乱は、源平両氏の大規模な決戦とは言い難い規模でしかない。
 武士と貴族の関係を考えさせられました。
(2011年9月刊。800円+税)

兼好さんの遺言

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著者  清川 妙    、 出版  小学館
 いま90歳、現役の講師として活躍中の著者による、読んで元気の出る本です。
 たったひとり、灯火の下に書物をひろげて、自分が見たこともない、遠い昔の人を心の友とすることは、このうえもなく楽しくて、心が慰められることだよ。
 人、死を憎まば、生を愛すべし。
 存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
 人の命は、雨の晴れ間をも待つものかは。
 明日をも予測できない生命。死は背後からそっとしのび寄り、無警戒の人をつき落とす。雨がやむまでも待っておれない。いま、この瞬間、一刹那が大事。
 以上、いずれも兼好の言葉です。いいですね。
 著者は40歳のときに物書きとなりました。
 緊張と集中と、強い意思を求められる日々。だけど、原稿を書き終えたあとの達成感と充実感は、何ものにも換えがたい。生きているという実感が心身にみなぎる。
 そうなんですよね。私も目下自分の体験をもとにした小説に挑戦中なんですが、これを書いて考えているときには、生きている、60数年を生きてきたという実感があります。
 カルチャーセンターで講義を受けるとき、講師とは一対一だと思うべし。他の人は意識から消し去ること。自分ひとりが講師と向きあう、個人レッスンだと思わないといけない。そして、頭に浮かんだことを、素直に言葉にして講師と対話すること。
 なーるほど、ですね。そうなんですか。今度、私も、フランス人の講師とそんなつもりで話してみましょう。
 生きている、そのこと自体が、魔法のように不思議なこと。
 死という、目には見えない、しかも動かぬ定めを、創造力という心の目でしかと見定め、覚悟をもとう。そして、この世にある間は、いのちを大切にして、ひたすら生をいとしみ、この世の日々を充実させて生きようではないか。
 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは・・・・。
 年を重ねてくると、その智恵は若いときよりまさる。それは、若いときには、その容貌が老人にくらべてまさっているのと同じことなのだ。
 むむむ、なるほど、まったくそのとおりです。これも私が年を取ったから同感できる言葉です。
 物事には、確かに潮時がある。しかし、本当にやりたいことがあるのなら、潮時なんて考えるな。やりたいと思ったときこそ、潮時なのだ。人生はたった一度しかないのだから・・・。
 「徒然草」の原文を読み返してみたくなりました。本当にいい本でした。90歳になっても、こんな本を書けるなんて、実に素晴らしいことです。心から拍手を送ります。
(2011年6月刊。1300円+税)

源頼朝の真像

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著者   黒田  日出男   、 出版    角川選書  
 かの有名な源頼朝がどんな顔をしていたのか、少しでも日本史に興味をもつ人なら、知りたいところですよね。著者は日本史の教科書にのっている源頼朝は別人のものだと断定します。それは、室町幕府の将軍であった足利直義(ただよし)の肖像だというのです。しかも、鎌倉時代ではなく14世紀半ばに製作されたとします。ところが、いま福岡で公開されている展覧会でも、依然として源頼朝の顔として紹介されています。学会で通説がひっくり返っても、教科書レベルの書き換えは至難のことのようです。
 では、源頼朝はどんな顔をして人物だったのか。著者は甲斐善光寺にある像が源頼朝だとしています。そして、源頼朝の実子である源実朝像との類似点も指摘されています。なるほど、この二体はまさに親子だと思わせます。似ているんです。
 では、なぜ、甲斐善光寺に源頼朝像が安置されていたのか、その謎を著者は探ります。信濃にあった善光寺を根こそぎ甲斐へ移し、甲府の地に建立したのは武田信玄の宗教的、政治的な大事業だった。そして武田信玄の死後、善光寺如来は京都に入り、そのあと40年ぶりに信濃に帰った。しかし、信濃からもたらされた源頼朝像は、そのまま甲斐善光寺に残っていた。
信濃善光寺は3度炎上したが、甲斐善光寺の大火は1度だけだった。そして、この甲斐善光寺にある源頼朝像の造像を命じたのは北条政子であった。
 通説の源頼朝の顔はいかにも貴族的ですが、甲斐善光寺の源頼朝像はとても人間臭い顔つきです。
眉間を厳しく結んだ目元は、どこか憂いをおびつつも、何かを見すえたような表情を示す。また、厳しく結んだ口元は、意思の強さを感じさせ、頬やあごのしっかりした骨格は、堂々とした貫禄を感じさせる。活動的で威圧的な風格を感じさせる像である。
 なるほど、かなりの人物だと思わせる像であることは間違いありません。そして、実朝像との類似点も指摘されているとおりだと私は思いました。学者って、すごいですね。
(2011年4月刊。1800円+税)

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