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カテゴリー: 日本史(江戸)

日本人と参勤交代

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 コンスタンチン・ヴァポリス、  出版 相書房
 アメリカの学者が江戸時代の参勤交代の実情を丹念に掘り起こした労作です。
 著者は、参勤交代の道の一部を実際にも歩いているそうです。すごいものです。
 加賀藩では、参勤交代はあくまで軍役であると意識して、藩士は自炊しながら旅をしていた。殿様はぬかるんだ道で駕籠を担がせるのはかわいそうだからと家臣を思いやって駕籠に乗らなかった。逆に、殿様が駕籠に乗らないため、年老いた家臣たちまで駕籠に乗れずに困ってしまった。このような参勤交代の旅をする人々の現実の姿を生き生きと描いています。
 通常、宿駅の通知は、宿は予定から通算して6ヶ月前には行われ、その時点で一行全員の宿の手配がなされた。大集団の定期的移動にかかる費用は膨大だった。藩全体の支出の5~20%が参勤交代のために費やされた。これに江戸藩邸と江戸詰め藩主の維持費用を加えると、全藩の収入の50~75%が消えた。うひゃあ、これはすごいですね。
 当初は、出費の多さを競った大名たちも、まもなく出費を切り詰めるようになり、宿や茶店から吝嗇の評判を受ける大名も少なくなかった。
 暮れ六つ泊まりの七つ発ち。これは、早朝4時に出発し、暗くなってからようやく宿に入るということ。なーるほど、ですね。
戦略上の理由から、大名に船旅が許されたのは大坂まで。あとは陸路を行くように要請されていた。だから船による参勤交代の絵を見かけないわけですね。
 大名が病気を訴えたとき、その多くは偽りだった。しかし、単に1~2ヶ月の延期しかなく、ずっと病気で、数年も参勤交代しなかったという大名はいない。
江戸時代の庶民にとって、大名行列は一種の劇場であった。それを藩主たちも十分に承知していた。衣装は、その豪華で彩り豊かな細部によって庶民の目を惹いた。
 行列の最大は2千人から3千人で、馬も400頭前後だった。それは加賀藩のこと。さすがは百万石ですね。これに対して、九州の諸藩は平均して280人の供を従えた。ただ、出立と到着時には、日雇人夫を雇い、威厳のために人工的な行列水増し策をとった。
藩主は常に携帯用のトイレと風呂桶も携えて行列した。ペットを連れて旅する大名もいた。
行列の道具のなかでは、地位の表象として、槍と難刀がもっとも重要であった。
 江戸屋敷に住む藩主たちは、長屋に住みながら欲食を楽しみ、書き物をし、将棋や囲碁などのゲームに興じて自由時間を過ごしていた。おおむね健康的な生活水準を維持していた。なるほど、そのような姿を描いた絵があります。
 江戸滞在は好奇心旺盛な藩士たちの人生を大きく変えるほどの影響をもたらすこともあった。文化的な生活を追い求める藩士たちは、江戸での生活体験を通じて、新しい知識の源泉や技術に触れ、また自藩にいては得られないような文化も体験した。
 江戸体験にはピラミット的な効果があり、実際に江戸まで旅をしてそこで生活した人々だけでなく、そうでない人々にまで影響を及ぼした。
なるほどと思わせる絵がたくさん紹介されています。参勤交代に参加した武士たちの日記まで掘り起こした結果だといえる貴重な労作です。江戸時代って、決して暗黒の停滞した時代ではなかったのですね・・・。
(2010年6月刊。4800円+税)

龍馬史

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  磯田 道史、  文芸春秋  出版 
 
 坂本龍馬が暗殺されるにいたった幕末の情勢がきわめて明快に語られています。なるほど、そうだったのかと、私は何回となく膝を叩いたため、膝が痛くなったほどです。
坂本龍馬の生家は、高知県城下でも有数の富商である才谷(さいたに)屋から分家した、郷士(武士身分)の家柄だった。
 才谷屋は、高知のトップ銀行に匹敵する実力を持っていた。豪商・才谷屋は、6代目八郎兵衛直益のときに郷士株を手に入れ、長男が分家して郷士坂本家が誕生した。坂本家の屋敷は500坪の広さがあった。これは、500石クラスの上級藩士の武家屋敷に匹敵する広さだった。
江戸時代、武士でないものが武士になるのは、それほど難しいことではなかった。郷士の養子となるか、藩に御用金を献上して郷士株を入手する。後者のルートで郷士となったものを献金郷士と呼んだ。
坂本龍馬は、上士に比べれば差別的扱いをうける郷士の出身だったが、その分、お金には不自由しない富裕層だった。なーるほど、だから亀山社中という商社の発想がありえたのですね。
 城下にいる兵農分離された武士は、おとなしく明治新政府の方針に従ったが、兵農分離していない、みずから土地経営をしていた郷士たちは、自分たちの特権や土地経営がなくなるという危機感から激しく抵抗した。
 龍馬は、家督を継げない次男だったので剣術で名をあげようと考えた。だから、江戸で剣術道場に入門したのですね。
坂本龍馬は、誰よりも早く海軍の重要性を理解し、しかも実際に海軍を創設してみずから船を動かして実戦をたたかった。この点が、むしろ過小評価されている。
龍馬は志士として活動するときには才谷姓を名乗った。龍馬は、薩摩藩の要望にこたえたて、独自の海軍をたちあげるために、1865年(慶応元年)、長崎に亀山社中という商社をおこした。亀山社中の経営者は龍馬であり、そのオーナーは薩摩藩だった。
後藤像二郎は土佐勤王党を弾圧した側だったが、龍馬と意気投合して、脱藩の罪を許して、土佐藩支配下の海援隊の隊長に任命した。
寺田屋事件で龍馬は危うく幕府役人に捕縛されそうになった。最近、そのときの報告文書が発見され、幕府は薩摩と聴衆の同盟を仲介していた龍馬を要注意人物とみていたことが判明した。
 龍馬暗殺の下手人は京都の見廻組であって、新撰組ではない。見廻組は旗本や御家人の子弟を中心とする組織であり、浪士の集まりである新撰組より地位が高かった。
 見廻組は変装された密偵を龍馬の下宿に張り付かせていた。龍馬に致命傷を追わせたあと、さらに34ヶ所も滅多突き突多斬りの状態にした。そして、襲撃犯たちは追撃戦を恐れて、一かたまりとなって帰っていった。この見廻組に命令したのは京都守護職の松平容保(会津藩主)である。そして、会津藩公用人の手代木勝任(てしろぎかっとう)が手配していた。幕府にとって龍馬はいかにも危険な存在だから、抹殺してしまおうということだった。なるほど、なるほど、そうだったのですね。
龍馬の人間としてのスケールの大きさを実感できる本でもありました。とても面白い本です。一読をおすすめします。
(2010年9月刊。1333円+税)

北斎漫画を読む

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 有泉 豊明、    出版 里文出版
 ヨーロッパでもっとも知名度の高い日本人は、葛飾北斎だと書かれていますが、本当でしょうか・・・?
 北斎に『北斎漫画』という全15編(冊)の画集があったなんて、知りませんでした。今では、北斎というと『冨獄三十六景』のほうが有名ですが、江戸時代には、『北斎漫画』も同じほど人気を集めていたというのです。
 この『北斎漫画』には、当時の人々の好みの粋(いき)や、戯(おどけ)、知的ユーモアがふんだんに用いられている。
 マンガ(漫画)という言葉は、北斎が『北斎漫画』で初めて用いた言葉である。当時、「漫筆」という言葉があったので、それを応用してつくった言葉と思われる。
 今では世界で通用するマンガというのは、なんと江戸時代に北斎がつくった言葉だったのですね・・・。
 北斎漫画は、知的レベルがかなり高いものです。平和で道徳的レベルの高い、粋(いき)で洒落(しゃれ)や滑稽を好む、教養の高い当時の民衆に向けて発せられた作品であり、現代の漫画のルーツである。ふむふむ、そうなんですか・・・。
 『北斎漫画』は、文化11年から文政2年の5年の間に刊行された。
 「龍の尾で・・・絃(げん)を解(と)く」で劉備玄解くとなる。というように、「三国志演義」が大人気であることを前提とした絵が描かれている。
 そうなんです。私などは、いちいち絵のナゾを解読する文章を読んで、やっと意味が分かりますが、当時の江戸人は、それを一人で理解してニンマリしていたというのです。実にハイレベルの絵です。
 このころの江戸人のさまざまな顔の表情が活字されています。あまりにもよく出来ていて、現代の日本人にも、いるいるこんな顔の人がいるなと思わせます。さすがに、たいした描写力です。
 あとがきに、「北斎漫画はこんなに面白い本だったのだ」と書かれていますが、まさしくそのとおりです。そのうち、現物を手にとって眺めてみたいものだと思いました。
(2010年10月刊。1800円+税)

江の生涯

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  福田 千鶴 、 出版 中公新書
NHKの大河ドラマが始まり、今もっとも注目されている女性です。
戦国時代に生まれた女性のなかで、もっともしたたかな生涯をまっとうしたなかに浅井江(あさいごう)は間違いなく入る。戦国一の美女と称された小谷(おだに)の方(織田信長の妹である市。おだいち)を母に、浅井三姉妹の末娘として生まれ、三度目の結婚で徳川秀忠の妻となり、三代将軍の家光の母として崇敬され、江戸城の大奥で過ごした。54歳で亡くなり、従一位を贈られ、当時の女性として最高の単誉に浴した。
 浅井三姉妹とは、豊臣秀吉の妻となった長女茶々、高極高次の妻となった次女の初(はつ)、徳川秀忠の妻となった三女江(ごう)のこと。近江の名門浅井長政を父に、天下人織田信長の妹の市(いち)を母にもつ由緒正しき出身の姫君たちである。
 浅井江は、天正・文禄・慶長・元和(げんな)・寛永という時代を生き抜いた。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代である。そして後半は、徳川秀忠の正妻、将軍家御台所(みだいどころ)として安定した生活を送り、徳川250年の基盤づくりに貢献した。
戦国時代、日本の武家社会では夫婦別姓を基本としていた。つまり、姓は結婚によって変わらなかった。
 徳川秀忠にとって、江との結婚は形式的には再婚となる。もっとも、初婚の相手の「小姫」は7歳で死亡している。江が秀忠と結婚したのは文禄4年のこと。江は数えの23歳、秀忠は同じく17歳。6つ年上の妻であった。そして、長女千(せん)が生まれたとき、江は25歳、秀忠は19歳。
子に乳母が必要とされたのは、生母だけでは乳が足りないという現実的な理由もあったが、長男の場合はとくに生母が育てると母子の情愛が深くなることを避けていたことも理由の一つである。というのも、情愛が深いと母は子を戦陣に送り出せなくなるし、子も母のことを想って戦陣で死する覚悟が鈍るから、武士の子(男)は、母の情愛を知らずに育てさせるのが基本であった。つまり将来、戦闘集団の長として戦陣に赴かねばならない惣領が、生母に愛されないことをもって自殺を図るようでは、すでに武家の棟梁たる資格を失っている。うむむ、なるほど、さすがは絶えず死に直面していた戦国の世に近接していた時代ならではの考えですね。
 江は家光の生母ではない。だから、家光の正嫡としての立場は揺れ動いていた。しかし、江が家光の誕生日を極秘にしたという強い意向からはたとえ表向きであっても、母として家光を守り、御台所として徳川将軍家を守らねばならないという強い信念が読みとれる。江は家光の表向きの母としての役職を十分に演じていた。
 うひょう、江は家光の生母ではなかったというのですか・・・?そして、実子である忠長は、それを知っていたからこそ、なぜ自分が将軍になれないのか、自暴自棄になっていたというのですね・・・。これって、歴史学者の一致した見解なんでしょうか。
 江と秀忠との間に生まれたのは、干、初の二女と忠長の一男である。うむむ、そうなんですか・・・。
 徳川将軍家の御台所のなかで、唯一人、将軍の生母として崇敬され、死後においても歴代将軍の正室・側室のなかで33回忌が行われたのは江だけであった。しかも、50回忌法会まで営まれているのである。うへーっ、たいしたものですね。
 当主の子を生んだ女性がすべて御部家様(側室)になるわけではなく、侍妾は子を生んでも奥女中(使用人)としての立場は基本的に変わらず、出産後も奥女中の仕事を続ける。
 正室である江が統括する江戸城大奥で侍妾から生まれた娘は、すべて正室所生として扱われ、育てられた。むひょう、なるほどなるほど、大奥のしきたりというのは、そうなっているのですね。とても興味深い本でした。
 
(2010年11月刊。800円+税)

江戸農民の暮らしと人生

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 速水 融、  出版 麗澤大学出版会
 
 岐阜県の一農村の97年間にわたる宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)を分析した本です。農村の一断面、とりわけ江戸時代の農村が閉ざされていなかったことが良く分かります。この村から関西方面へ、男も女も出稼ぎ・奉公に行っていたのです。
 日本の江戸時代には豊富な史料・文献が残されている。公私にわたる膨大な文書、記録の山がある。これは識字率の高さにもよる。幕末期の日本において、成人男性の45%、女性の15%が読み書き能力を持っていた。これって、実は、すごいことですよね。昔から日本人の好奇心、知的欲求度の高さを反映している数字だと思います。
 初めの49年間では、夫婦5組に1組は離婚している。残り50年間には離婚数は減った。100年間を通してみると、離婚数は結婚数の11%、9組に1組の割合となっている。しかも、離婚件数26のうち14組には子どもがいた。日本では、離婚は昔から少なくなかったのです。
 女子の結婚年齢は、上層ほど低く、下層では高い。これは、小作層から多数の奉公人が出稼ぎに出ていたからである。
 そして、結婚の継続期間は比較的短かかった。5年以内では離縁が最も多く、妻の死亡によることも少なくなかった。わずか1年内で終了するときには、その8割が離縁だった。
 夫婦が若いうちに離死別したときには、残された夫または妻が再婚する事例は多い。男は、40歳前だと、そのほとんどが再婚し、女も、35歳以下なら半数は再婚している、
 長男が家督を承継する制度ないし慣習が確立していたとは決して言えない。
 ここでは、女性が戸主である率は全体の7.1%であった。
 そして、長男以外の男子による家督の継承は、戸主の死亡の時にかなりの頻度で見られる。戸主が死亡したとき、その半分で女性が継承者となっている。前戸主の妻が継承者となることが多い。これは、夫より妻の方が年齢が低かったことによる。
 江戸時代の農村の実情を知ることができる本として、おすすめします。
(2009年9月刊。2400円+税)

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