法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(江戸)

江戸の風評被害

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  鈴木 浩三 、 出版  筑摩選書
江戸時代にも風評被害があった。ええーっ、ホントですか・・・。
 ソバを食べた者が中毒死した。この噂が広まってそば屋の休業が続出した。近く小判の改鋳(かいちゅう)があるらしい。この噂が広まって、金融(両替)に支障が発生した。江戸時代の日本って、現代日本とあまり変わらないんですね・・・。
 ただし、江戸時代には「風評」とは言わず、浮説、虚説、風説と言っていた。
 江戸時代、情報の伝達は驚くほど早かった。江戸城内に起きた政変や有力閣僚の任免は、その日のうちに江戸中の上下が知るところとなった。天保の改革で有名な水野忠邦が失脚したときには、その日の夕方には、江戸の市民がその屋敷を取り囲んで投石に及んでいる。これって、すごいことですよね。もちろんテレビもラジオもない時代ですからね。早刷りの瓦判(かわらばん)でも出たのでしょうか・・・。
 文化10年(1813年)4月ころ、江戸市中に「ソバを食べると、あたって死ぬ」という風評がにわかに広がった。ソバを食べる人が激減し、そば屋の休業が続出した。
 昨年の出水によって綿作が不作となり、その畑にあとからまいたソバが江戸に出回ったことによるという、もっともらしい理由がついていたという。もちろん、デマだったわけです・・・。
 このような風説の調査、報告、取締りに関わったのは、南町奉行所、町年寄、名主というもので、江戸の都市行政機構にもとづく法令伝達のプロセスがあらわれている。
 江戸時代、町内に寿司屋が1、2軒、ソバ屋も1、2軒というほどの密度で存在していた。風説を流した浪人は、逮捕されて死刑(斬罪)となった。同じように講釈師で戯作者の馬場文耕も獄門とされた(宝暦8年、1758年)。ただし、浮説、虚説で処刑された例は決して多くない。
 名主の配下には、職能集団としての家主の集団があった。町年寄、名主集団は、相当に広い範囲の自治能力をもった公法人、公共団体として機能していた。260年にわたって、小さな組織で江戸の行政、司法を運営できた効率性の理由は、なによりも町年寄りなどを使った間接統治システムの成功にあった。
 天明6年(1786年)9月、江戸で「上水に毒物が投入された」という浮説(噂)がでまわり、上水から水をくむ者がいなくなった。当時の水道は、将軍の仁政の象徴として扱われていた側面があった。
 田沼政権の追い落としの一環として反田沼派によって計画的・意図的にこの浮説が流された可能性がある。
 なーるほど、そういう側面もあるんですね・・・。
 元禄15年(1702年)に赤穂浪士の討ち入りは、将軍綱吉の治政下、幕府批判のうずまくなかでの出来事だった。江戸の人々は、綱吉政権への不満もあって、赤穂浪士を英雄視した。討ち入りの予想日時や、討ち入り後の処分についても喧伝される状況だった。
 ええーっ、そんな風説が流れていたのですか、知りませんでした。
 江戸の火災は多かったが、その大半は、実は放火だった。明暦の大火は、幕府によって改易された大名の家臣による反幕行動としての放火だった。
 なんだ、そうだったのですか、これも知りませんでした・・・。
 確実に景気を刺激したのは、火災だった。江戸の人々は火事を喜んだ。「宵越しの銭」をもてないような下層階級の人々は火事で潤ったので、火事は、「世直し」と呼ばれた。
 江戸の消防組織は、自在に火事をコントロールする能力を備えていた。
江戸の人々の生活の実際を知ることのできる本です。
(2013年5月刊。1700円+税)

犬の伊勢参り

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  仁科 邦男 、 出版  平凡社新書
ご冗談でしょう・・・。江戸時代の中期に犬が単独で歩いて伊勢神宮にお参りをしていたというのです。フィックションではなく、実話として記録がいくつもあるといいます。信じられません。
記録に残された初めは、明和8年(1771年)4月のこと。最後の記録は明治7年。
 誰が記録したのか。たとえば松浦静山は『甲子夜話(かっしやわ)』に、日光からの帰り道に、伊勢参りの犬と道連れになったと書いた。
滝沢馬琴の息子は、千住(江戸)で伊勢参りの犬を見たと『八犬伝』執筆中の父親に報告している。根岸肥前守鎮衛(やすもり)の『耳袋』にも登場している。
 犬は、その首にひもを通して名札を付けていた。そして、銀の小玉がくくりつけてあった。飼主の所書と伊勢代参の犬であえることを示す札を首から下げていたのである。犬は人に声をかけられると立ち寄って餌をもらい、人の合図でまた家を出ていく。ええーっ、そ、そんなことが・・・。
 江戸時代には、日本中に信じやすい善男善女があふれていた。こういう時代だからこそ、犬は伊勢参りをすることができた。
 司馬遼太郎は犬の伊勢参りをウソだと断定したようです。著者は、司馬遼太郎でも、間違えるときは間違えると厳しく批判しています。まあ、司馬遼太郎が疑うのも当然だと私も思いますが・・・。
 幕末のころ、欧米に出かけて見聞きした日本人は、犬に必ず飼い主がいることに驚いた。そして、犬に税金までかかるとは・・・。
もともと日本の犬には値段がなかった。犬にお金を出す人などいなかった。
江戸時代の人間と犬との関係は、今とは感覚がまったく異なるようです。
 おとぎ話のような「実話」として面白く読み通しました。
(2013年3月刊。800円+税)

神と語って夢ならず

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  松本 侑子 、 出版  光文社
江戸時代最後の年、統幕と尊王にゆれる日本海の隠岐島で、若き庄屋が農民3000人を集めて蜂起。圧制の松江藩を追放し、パリ・コミュニケーションより3年早く、世界初の自治政府を始めた。王政復古と世直しの御一新に夢をかけた男たち。だが、その理想と維新の現実は異なっていた。さらに、思わぬ新政府の裏切りが・・・。
これはオビに書かれている文章です。明治維新に至る動きとして、あの隠岐島で自治政府が生まれていたなんて知りませんでした。まだ行ったことのない島です。ぜひ行ってみたいものだと思いました。
 ハーバード・ノーマンが、「隠岐島の事件は、維新後、数年間における日本の経験の縮図である」と書いているそうです(『日本の兵士と農民』1943年)。これまた知りませんでした。隠岐島と言えば後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒そうとして隠岐島に流され、後に、足利尊氏とともに北条家を滅ぼし、建武の新政をおこした。しかし、足利尊氏に裏切られ、吉野へ逃れて南朝をたてた。
 慶応4年(1868年)、郡代追放、年貢半減、世直しの蜂起の檄文によって島中から男たちが集合した。49の村から、あわせて3046人が終結した。島後の男は7500人。子どもと老人を除く全男子が決起にくわわった。3千本をこえる竹槍が栗のイガさながらに立錐の余地もなく並び、熱気、緊迫感がみなぎった。
 自治政府を代官屋敷に置いて、70人が役についた。まつりごと全般について話しあう会議所(立法)には、長老の4人がついた。この4人の長老による会議制となった。まずは、学校を郡代屋敷にひらいた。
 公務をおこなう行政府としては総会所(行政府・内閣)をもうけた。頭取は前の大庄屋。文事頭取(内閣官房・文部)、算用調方(大蔵)、廻船方頭取(運輸)、周旋方(外務)、目付役(裁判)、軍事方頭取(防衛)。武装した自警団を三部隊ととのえた。
 松江藩が反撃し、陣屋を奪回した。自治政府は80日間で終結した。しかし、松江藩の統治もわずか6日間で終わった。これは薩長が進出してきたことによる。
 明治維新に至る複雑な政争が隠岐島でどのように展開したかを小説によって紹介する本です。大変面白く、一気に読了しました。
(2013年1月刊。1800円+税)

幕末維新変革史(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  宮地 正人 、 出版  岩波新書
幕末、ハリスは老中首座の堀田正睦(まさよし)に次のように警告した。
 「平和の外交使節に対して拒否したものを艦隊に対して屈服的に譲歩することは、日本の全国民の眼前に政府の威信を失墜し、その力を実際に弱めることになる」
 これは、9ヵ月後、現実に転化した。第二次アヘン戦争に大勝した英仏連合艦隊の江戸湾来襲の恐怖は、何とか回避しようとした公武合体の分裂を幕府と井伊大老に余儀なくさせ、無勅許開港路線の軌道に進入せざるをえなくさせた。外を立てれば、内は立たず。征夷大将軍は国内のみならず対外的にもその実を示さないならば、何が「武職」だとの孝明天皇と朝廷の怒りはサムライと民衆の不満の期せざる受け皿となった。
 慶応元年(1865年)ころ、日本の一般民衆は、薩英戦争・下関戦争・条約勅許という三度の欧米列強による軍事的威圧への屈従のなかで、幕府と朝廷への不信感を募らせていき、国内の一致団結、内戦回避を求め、正義藩長州へ熱烈な声援と支持をおくった。このころ、朝廷に権威はなくなった。第二次長州征伐の慶応2年(1866年)夏は、未曾有の都市打毀しとし世直し一揆のときであった。戦争と民衆蜂起は表裏一体の関係をもっていた。
 ペリーが来航したとき、旗本だけで5000家以上あった幕臣のなかでオランダ語原書を読めたのは、ほとんど皆無だった。そのなかに自らすすんで蘭学を学ぼうとしたのが勝麟太郎であった。勝の能力と見識を見抜いたのは上役ではなく、商人たちであった。商人は勝のパトロンとなった。
 勝は、商人たちとの交流のなかで日本の全国的まとまり、日本民族と民族的利害というのを、幕府とは別のものとして認識するようになった。勝は長崎での5年におよぶ海軍修練のなかで、オランダ語ができるおかげで教師のオランダ海軍士官たちと差しで人間的につきあうことができ、そのなかで市民革命を経て市民社会に生活するヨーロッパ人の人間としての豊かさと幅の広さを痛感した。「西洋人は人間が広く、日本人は人間が狭い」という日本人論は死ぬまで変わらなかった。そのうえ、勝は、島津斉彬と親交し、それが貴重な財産となった。
 アヘン戦争(1840~1842年)における大清帝国の大敗と香港割譲は、朱子学に対する日本知識人の確信を大きく動揺させた。しかも、仏教の祖国、西方浄土の地とされたインド全域がイギリスの植民地となってしまったことも、この時期までに日本人の共有知識となっていた。
 軍事的威圧を受けての無勅許開港という異常な歴史段階に入った日本において、朝廷と幕府のどちらが国家の最終意思を決定するのか、という国家論の問題が日本人全体の前につき出された。サムライ階級だけの問題にとどまらなくなったのである。
 ガーン。このような視点で幕末を考えるべきなのですね。著者は、歴史過程は決して結果から見てはならないと強調しています。そうなんですよね。でも、ついつい結果から見てしまいますよね・・・。
 幕末の戊辰戦争のなかで会津藩とともに徹底抗戦を貫き、一度の敗北もしないまま最後に降伏した庄内藩は、まったく削封のないまま東北戦争後の戦後処理を乗り切った。戦闘に強いことは、なによりも戦う相手の将兵に感銘を与え賞賛の気持ちを生じさせる。恩義の念をいだいた庄内士族のなかに西郷崇拝者が続出したことも、サムライの世界にあっては何ら不思議なことではない。
 新政権の成立とともに攘夷がおこなわれるだろうとの圧倒的多数の日本人の思いを前提条件として外交の舵取りをしなければならない立場の新政権は、なによりも旧幕府と同じだ、という非難を恐れた。
 江戸無血開城後は新政権のもとで全国統治ができるだろうという新政府の楽観的見通しは、早くも4月段階で崩れてしまった。東北に至る地方で内戦が拡大し、内戦での勝利が至上命題とならざるをえず、積極的な外交展開が不可能となった。外交の試みが開戦されるのは、12月に入ってからであった。
 幕末・維新期の日本の動きを重層的にとらえた本です。この時期の視野を広く深くするものとして、関心ある人に一読をおすすめします。
(2012年10月刊。3200円+税)

江戸の読書会

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  前田 勉 、 出版  平凡社
日本人は本を読むとき、明治時代初期までは声に出して読む(音読)が普通だったそうです。ですから、江戸次第も当然のことながら音読です。
 そして、それを何人かで集まってやり、手分けしてその意味を質疑・討論するのでした。これを会読といいます。この本は、その会読の意義を究明しています。
 会読は、定期的に集まって、複数の参加者があらかじめ決めておいた一冊のテキストを、討論しながら読みあう共同読書の方法であって、江戸時代に全国各地の藩校や私塾などで広く行われていた、ごく一般的なものだった。
 会読は、上から下への一方的な教授方法ではなく、基本的には生徒たちが対等の立場で、相互に討論しながらテキストを読みあうもの。そこでは先生は生徒たちの討論を見守り、判定する第三者的な立場にいることが通例だった。
 明治の自由民権運動の時代は、「学習熱の時代」であった。政治的なテーマを議論・討論する学習結社が、全国各地に生まれた。
江戸時代、儒学を学んでも、何の物質的利益もあるわけではなかった。しかし、逆説的だが、だからこそ、純粋に朱子学や陽明学を学び、聖人を目ざした。
漢学塾での読書会読においては、上士も下士もなく、勝負して勝ち負けがはっきりする。
 会読には三つの原理があった。相互コミュニケーション性、対等性、結社性というもの。会読の場では、沈黙せずに、口を開いて討論することが勧められていた。そして、討論においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとですすめられた(対等性)。
 幕末の佐賀藩が江藤新平、大隈重信、副島種臣、久米邦武などの優秀な藩士を生み出すことができたのは、英明な藩主・鍋島閑叟のもと、藩校弘道館で全国諸藩のなかでもっとも激しい会読において競争させたことに起因する。藩校での成績の悪いものには職が与えられないほどの厳しさだった。
日田で広瀬淡窓が創設した咸宜園では、会読が教育の中心におかれ、徹底した実力主義をとった。
広瀬淡窓は、三奪法と月旦表を創案した。三奪法とは入門時に、年齢、学歴、門地をいったん白紙に戻すこと。咸宜園の入門者2915人のうち、武士が165人(16%)、僧侶は983人(34%)、庶民は1707人(61%)で、圧倒的に町人・百姓の出身が多い。
 江戸の後期になると、各藩で優秀な藩士を遊学させるようになる。各藩の藩校は自藩の藩士しか入学を許していなかったので、遊学先のほとんどは私塾だった。19世紀に入ると、武士たちは、藩士教育機関である藩校に強制的に入学させられ、会読を行うようになった。そして、各地の藩校で、国政を論ずることの禁止令が頻発した。
やっぱり、人は議論することによって目覚め、実力を伸ばすものですよね。 
(2012年10月刊。3200円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.