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カテゴリー: 日本史(江戸)

風花帖

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  葉室 麟 、 出版  朝日新聞出版社
 もちろんこれは、小説なのですが、どうやら史実をもとにしているようです。
 北九州の小笠原藩に、家中を真二つに分けた抗争事件が起きたようです。文化11年(1815年)のことです。
 小倉城にとどまった一派を白(城)組、黒崎宿に籠もった一派を黒(黒崎)組と呼んだ。白黒騒動である。白黒騒動は、いったん白組が敗れたものの、3年後に白組が復権して、黒組に対して厳しい処罰が加えられた。
派閥抗争は、こうやって、いつの時代も後々まで尾を引くのですね。
 根本は、藩主・小笠原忠固が幕府の老中を目ざして運動し、そのための費用を藩財政に無理に負担させようとすることから来る反発が家中に起きたことにあります。要するに、藩主が上へ立身出世を試みたとき、それに追従する人と反発する人とが相対立するのです。
 それを剣術の達人とその想い人(びと)との淡い恋愛感情を軸として、情緒たっぷりに描いていきます。家老などが360人も引き連れて城下を離れて藩外へ脱出するなどということは、当時にあっては衝撃的な出来事でしょう。幕府に知られたら、藩主の処罰は避けられないと思われます。下手すると、藩の取りつぶしにつながる事態です。
 双方とも武士の面子をかけた争いです。
 江戸末期の小笠原藩の騒動がよく描けた時代小説だと思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)

鬼はもとより

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  青山 文平 、 出版  徳間書店
 江戸時代の小さな藩の財政立て直しの話です。よく出来ています。アベノミクスの失敗は明らかですが、それは弱者切り捨てまっしぐらだからです。かつての「年越し派遣村」がビッグ・ニュースになったときのような優しさが今の日本にないのは不思議なほどです。
 アベノミクスは、原発・武器・カジノというのが目玉でもあります。とんでもないものばかりです。これで、子どもたちに道徳教育しようというのですから、狂っています。
藩札は、宝永4年(1707年)にいったん禁止された。その後、新井白石の改鋳があり、貨幣の量が激減し、世の中が金不足となって、享保15年(1730年)に再び許可された。
 正貨と藩札を交換する札場の項では、その数や配置のみならず、用員の取るべき態度まで示され、受付の御勤めに限っては、商家に委託するとされた。
 藩札の板行には、小判や秤量(ひょうりょう)銀などの正貨の裏付けが不可欠だ。
 一両の小判を備え金(そなえかね)にして、三両の藩札を刷る。1万2千両を備え金にして、3万両の藩札を刷る。それだけの正貨があれば、いつ、藩札を正貨へ変えてくれと言われても応じることができる。換金さえ約束されたら、紙の金でも立派に貨幣として通用する。
藩札板行を成功させるカギは、札元の選定や備え金の確保といった技ではない。藩札板行を進める者の覚悟だ。命を賭す腹がすわっていなければならない。
 藩札は専用の厚紙でつくり、偽札を防ぐために透かしを入れる。紙の厚い、薄い差を使って絵を描く。偽造防止の手立ては、透かしだけではない。複雑な文様のなかには、市井のものには字とは見分けられない梵字や神代文字がさまざまに組み込まれている。このありかを知らないと、同じ文様のようでもずい分と違ってくる。一枚一枚では分からなくても、多くを集めると、誰の目にも明らかなほどの違いが生じてくる。
 藩札の十割刷りを強行した藩は一揆を招いて、結局、幕府から改易処分を受けて、藩そのものが滅亡した。別の小藩では、強力な藩札によって、他国に負けない強力な特産物を育て、藩が一手に買い上げて領外に売る。その代金は正貨で受けとる。これで藩は丸もうけとなる。
 では、何を特産物とするか・・・。浦賀に、魚油と〆粕、大豆を送ってもうけるという。
 この商法を藩内に定着させるために取られた手法に驚かされます。小説とは言え、ぐいぐいと惹きつけられるのでした。私は、出張先の鹿児島の中央駅に着いて2時間あまり、駅ビルの喫茶店で読みふけったことでした。
(2014年5月刊。760円+税)

潜伏キリシタン

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  大橋 幸泰 、 出版  講談社選書メチエ
 宗教とは何か?
 「宗教とは、人間がその有限性に目覚めたときに活動を開始する、人間にとってもっとも基本的な営みである」(阿満利磨)
 江戸時代のキリシタンについて「隠れキリシタン」と呼ぶことが直ちに誤りだとは言えない。しかし、江戸時代はむしろ潜伏状態にあったとするのが実情にあっている。
 豊臣秀吉は、天正15年(1587年)6月18日に「覚」11ヶ条を、翌19日に「定」5ヶ条を発令してキリシタンを制限した。ただし、秀吉はキリシタンを制限しようとはしたが、明快に禁止までは踏み込まなかった。南蛮貿易の収益が宣教活動の資金源になっていた構造からして、キリシタンを禁止すれば南蛮貿易もあきらめるしかなかったからだ。
 徳川幕府になってから、慶長17年(1612年)に岡本大八事件が起きて、キリシタンがはっきり禁じられた。しかし、これで全国一律にキリシタン排除が進んだのではない。幕府は、具体的なキリシタン禁制の方法を示さなかった、というより、示さなかった。
 なぜなら、近世期キリシタンをあぶり出すための制度として有効に機能した寺請を一律に実施するための条件が、この17世紀前期では、まだ整っていなかったから。村社会の寺院の成立と百姓の家の自立という二つの条件が整うのは、7世紀中後期のことである。
 キリシタンについて、伴天連門徒と表記されていたのが、「切支丹」とされたのは1640年代から。それは、1637年(寛永14年)の島原天草一揆を契機としている。
 島原天草一揆は、近年は宗教戦争とみる方が有力である。
 一揆勢は、混成集団だった。キリシタンの神戚のもとに、混成集団としての一揆勢は、正当性を帯びた集団となって幕藩権力に抵抗した。一揆指導者は混成集団であること自体を否定し、最後までキリシタンとして命運を決することを表明した。
 近世人にとって、一揆とは、島原天草一揆のことをイメージした。
 寛政期(1800年ころ)は、潜伏キリシタン集団として存在するなかではないかと疑われる事件が起こり始める時期でもある。
 島原天草一揆の強烈な記憶によって、「切支丹」とは世俗秩序を乱す邪教であり、一揆とは、そのような邪悪な集団を引きおこす武力蜂起であるとするイメージが定着していた。
 このとき、幕府軍にも多数の犠牲者が出た。佐賀藩では、50年ごとに藩をあげての法要をしてきた。明治になってからも、250年忌法要が行われた(明治20年、1887年)。このとき、戦死者の子孫は藩主に拝謁を許されたあと、料理と酒をふるまわれた。
 こうして、「切支丹」は、常に島原天草一揆とセットでイメージされた。
 「切支丹」は、18世紀以降、そのイメージの貧困化にともない、怪しげなものを批判するときの呼称として使われるようになった。潜伏キリシタンも村請制のもとに組織された生活共同体としての村社会の一員だった。
 一村丸ごと信徒であったというのではなく、信徒と非信徒とが混在していた。彼らは信徒としてコンフラリアという信仰共同体の一員であるとともに、村請制のもとに運営される近世村落という生活共同体の一員でもあった。
潜伏キリシタンが特別に極貧であったとは言えない。村の機能の停止は、キリシタンはもちろん非キリシタンにとっても死活問題であったから、村社会という枠組みと維持するためにも、キリシタンは放っておかれたのが実際だろう。
村社会において、キリシタンが存在することは明白のことであったが、世俗秩序を維持するためにキリシタンの存在は許容されていた。
江戸時代の潜伏キリシタンは、実のところ、模範的な百姓として許容されていたから、明治まで生き延びることができた。
 それにしても、よく調べてあり、とても納得させられる本でした。明治時代の「カクレキリシタン」とあわせて、ご一読ください。日本人の心を知ることができます。
(2014年5月刊。1650円+税)

天の星、地に花

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  帚木 蓮生 、 出版  集英社
 久留米版では江戸時代に何回か目ざましい大一揆が起きています。
 享保13年(1728年)と宝暦4年(1754年)の2回です。
 1回目の享保13年のときは藩当局の年貢の引き上げが撤回され、家老は閉居を命じられ、奉行が切腹させられた。しかし、百姓のほうは一人に犠牲も出さなかった。
 ところが、宝暦4年のほうは、3万人もの百姓が立ち上がって要求を貫徹したものの、その後の藩当局の巻き返しによって、1回目の死罪は18人、そして2回目は19人が死罪となった。死罪となったなかに、1回目に大庄屋が一人と庄屋が3人、2回目にも庄屋が2人ふくまれていた。
 この本は、大庄屋の息子と生まれて病気(疱瘡)のあと医師となって村人の生命・健康をたすけた高松凌水を主人公としています。
 貴賤貧富にかかわらず、診察には丁寧、反復、婆心を尽くせ。医師たるもの、済世救苦を使命とせよ。
 弁護士生活40年の私にも反省を迫る言葉です。日頃、ともすれば、能率と効率に走りがちになるからです。
 一回目の享保の一揆をおさめた家老の稲次因幡が床の間に飾っていた掛け軸の言葉は
 天に星、地に花、人々に慈愛 
 だった。
 3万人が筑後川の河原に集結したという久留米藩大一揆については、いくつか紹介する本もありますが、専門的な文献は乏しいような気がします(あったら、ぜひ教えてください)。その中で、この本は、医師の目を通して、当時の農村部の生活を描きつつ、人生を生きる意義を問いかける本となっています。
600頁の本です。じっくり味わいながら読みとおし、胸の奥にほのかに明るさと暖かさを感じることが出来ました。この著者の本は、いつもいいですね・・・。
(2014年8月刊。1900円+税)

幕末維新の漢詩

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  林田 愼之助 、 出版  筑摩選書
 幕末の志士たちが、見事な漢詩をつくっていたことを紹介した本です。
 江戸時代は、漢詩が本格的に成熟をみせた時期である。
 平安時代には、嵯峨天皇や菅原道真などの漢詩人がいるが、まだ唐詩の模倣段階にあった。室町時代には、宋(中国)からの帰国僧、絶海中津、義同周信などのすぐれた漢詩人が登場するが、禅風詩が多かった。
 徳川幕府は朱子学を政道の基本にすえたので、武士階級の教養として、漢学、儒教の学を修得することが不可欠となった。その一環として漢詩をつくるのが、ごく普通のこととなった。
 文人が誕生し、自律した存在となり、武士だけでなく富裕な商人層にも普及した。
 漢詩についても、格調主義から、自由で砕けた宋代風の詩風が流行した。漢学的なものに反旗を翻す専門的な詩人・文人が相次いだ。幕末になると、倒幕に動く憂国の志士たちが、さかんに時世を慷慨(こうがい)する詩をつくった。
 佐久間象山(しょうざん)、藤田東湖(とうこ)、吉田松陰、橋本左内(さない)、高杉晋作、西郷隆盛らは、折につけ浮沈する思いや感慨を、多くの漢詩に託している。その詩の出来栄えは、江戸期の専門的な漢詩人にくらべて、少なくとも見劣りしない詩的力量を発揮している。
 人間 到処 有青山
 (じんかん、いたるところ、せいざんあり)
 山口県生まれの僧、月性の有名な漢詩の一節です。
 「人間」は、中国風に「じんかん」と読むのが漢詩文の常識で、世の中、世間という意味。
 詩をつくる人は温潤で、詩を好まない人は刻薄である。詩は、もともと情より出ずるもので、詩を好まない人は、情が稀薄である。
 西郷隆盛が西南の役で敗れ、ふるさとの城山で自刃する直前につくった漢詩がある。
 尽日 洞中 棋響 閑
 (じんじつ、どうちゅう、ききょう、のどかなるを)
 日がな一日、この洞窟の中で碁を囲み、その音が響くなかで、のどかに暮らしていることだ。
 洞窟のなかで、死の寸前まで隆盛は囲碁をしていたというのです。これには驚きました。
 竹角一声響
 指揮非有人
 弱氓皆猛虎
 潤屋乍微塵
 酷吏空懐手
 姦商僅挺身
 撫御誰違道
 乱党本良民
 これは山田方谷が体験した松山藩内に起きた百姓一揆のありさまを詠じたものです。
 一揆にたちあがった農民は善良な民である。政治が道を間違えているのだと、方谷は百姓一揆を詠じて、はっきりと政治の疲弊を断罪している。
幕末の志士たちの教養の深さに感服しました。
(2014年7月刊。1700円+税)

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