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カテゴリー: 日本史(江戸)

遊清五録

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 高杉 晋作 、 出版 講談社学術文庫

 幕末に、坂本竜馬と並んで有名な高杉晋作が、24歳のころ中国の上海に渡り、2ヵ月も上海に滞在していたというのを初めて知りました。高杉晋作の書いた上海日記が現代語に訳されて文庫になっているというので、早速、注文して読んでみました。

 当時の中国は、アヘン戦争に敗れて、イギリスに対して上海など5港を開港していました。イギリスやフランスなどの西洋列強に支配され、そのうえ内乱に苦しめられている清朝中国の惨たる現実を高杉晋作は自分の眼で見たのです。やがて、この外圧は日本にも襲いかかってくるという強い危機感を抱いて、日本に帰ってきました。

 ただ、この高杉晋作の日記は本として刊行されず、広く読まれることもなかったようです。

 高杉晋作と上海に一緒に行ったのは、薩摩の五代才助(友厚)や佐賀の中牟田倉之助です。

 高杉晋作は長州藩士の長男として生まれた。19歳から、9歳年長の吉田松陰のもとに学ぶ。吉田松陰は安政の大獄で捕まり、伝馬町獄で斬首された。

幕府は開国した以上、貿易の拠点を中国の上海に持ちたいと考え、視察団を送ることにした。高杉晋作も、その一員となった。高杉晋作が中国・上海に行ったのは密航ではないのです。乗った船は幕府がイギリス商人から3万4千ドル(3万両)で買った木造帆船で、千歳丸。総勢67人でした。

文久2(1862)年4月29日に長崎港を出て5月6日に上海に着いた。8日間もかかったのです。そして、2ヶ月滞在して、7月13日に長崎に帰り着きました。

上海で西洋列強の軍事的な強さを見聞したというのに、日本に戻ってから高杉晋作が攘夷を実行していったというのは、なんとも不可解です。品川に建築中のイギリス公使館に忍び込んで、燃やしてしまったり、百姓主体の奇兵隊をつくってアメリカやフランスの軍艦と戦ったりしています。

 英米仏蘭の四ヶ国連合艦隊17隻が来襲して砲台を占拠されるなど長州藩が惨敗したときは、高杉晋作は列強との講和を担当しました。それだけ豪胆だったわけでしょう。

 その後、幕府による第一次長州征討軍が来たときには、高杉晋作は福岡にいったん逃げたあと、なんとか盛り返しています。

 第二次長州征討のときには、高杉晋作は百姓を取り込んだ奇兵隊を指揮して幕府軍を散々に討ちやぶっています。そのうち将軍家茂が死亡して、慶喜が将軍となります。なので、長州征討軍なるものも解散しました。

 いよいよこれからというとき、慶応3年4月13日、結核のため、高杉晋作は29歳で亡くなってしまいました。

 高杉晋作が24歳のとき上海に2ヶ月もいたこと、そのときの日記が残っていること、それを通じて幕末のころの日本人が世界に目を開こうとしていたことを知ることができる本です。

(2025年12月刊。1100円+税)

山東京伝研究

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 有澤知世 、 出版 ぺりかん社

 江戸時代を、まるで暗黒・停滞の300年と考えている人がいますが、まったくの誤解だと私は考えています。江戸時代の日本人と現代日本人とは、さまざまな面で連続性があります。私の専門分野である司法の世界においても、弁護士に匹敵する公事師(くじし)がいて、為替手形があって専用の訴訟形式があり、今日の和解・示談に相当する内済(ないさい)がありました。

 文化面でいうと、旺盛な出版活動がありました。出版印刷が盛んでした。浮世絵の役者絵の見事さには驚嘆するばかりです。

 この本の主人公の山東京伝は江戸時代も後期のころに活躍しています。NHK大河ドラマの「べらぼう」(私はみていません)の寛政の改革の前後に活動しています。

 山東京伝は、江戸の深川木場に町人として生まれました。まずは浮世絵師として活躍します。そのときの名前は、北尾政演(まさのぶ)です。次に、江戸戯作壇の中心人物としての山東京伝となり、洒落本(しゃれほん)、黄表紙(きびょうし)、絵巻、読本(よみほん)、さらには滑稽本(こっけいぼん)など、多くの領域を開拓し続け、流行を生み出していく作家でした。

 松平定信による寛政の改革は出版を統制したので、戯作界は大きな影響を受けた。山東京伝も好色本を描いて処罰されている。筆禍後の山東京伝は、近世初期の江戸の風俗や事物の考証に傾倒した。そのため、当代一流の学者たちと交流し、考証の成果を随筆にまとめている。山東京伝は、図案集も多く刊行し、寛政の改革のあとは紙製煙草入店を営みながら、戯作を執筆した。

 19世紀の江戸は、考証趣味が流行した。さまざまな社会的階層の人間が集まり、同一の事物について共同で研究した。

 このとき、社会的身分を緩やかに超えた知的交流の場が存在した。そのときの求心力は古(いにしえ)の事物への関心だった。山東京伝は異国意匠を積極的に取り入れた。陽刻描法も導入している。近藤重蔵(探検家として有名)も大田南畝(戯作家)も、長崎奉行出版をつとめた経緯があり、そのときに入手した舶来品が山東京伝の知人にも伝わった。「異国ブーム」が山東京伝の作品に反映している。

 山東京伝は江戸戯作の第一人者でありながら、後進の作品への目配りを忘れていなかった。戯作者たちは、同時代の戯作作品に注意を払って流行を把握し、新しい趣向を案じるのに余念がなかった。寛政の改革のあと、執筆料を受け取る職業的な戯作者が初めて出現した。それまでは、文壇の中心を占めていたのは武士の作家だった。

江戸時代も末期のことの様子を認識することができました。

(2025年2月刊。5800円+税)

天までのぼれ

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 中脇 初枝 、 出版 ポプラ社

 幕末の高知県(土佐)に生まれ育ち、明治維新になって女性に参政権がないのはおかしいと声を上げた楠瀬喜多の生涯を小説で見事に描いている本です。

 正月休みの人のいない事務所で、私は一心に読みふけりました。

 板垣退助、植本枝盛などの勤王派から自由民権運動家になった人たちとの交流が主たる流れです。そして戦前の日本で右翼の大物として有名な頭山満も少しだけ登場してきます。福岡から土佐に自由民権運動を学びに来たというのです。

 幕末のころ、女性は何かと制限がありました。寺子屋で勉強するにしても漢文の四書五経は必要ないとか、せいぜい「女大学」をやっていたらいい、とかです。

 そして、士分(武士)には格があって、一律ではなく、上下関係は厳しいのです。町人の娘なら、裁縫ができればいいとか…。

 また、娘は19歳までに嫁に行かないと変な目で見られるのです。さらには、貧乏な親がお金欲しさに娘を売り飛ばすのも決して珍しくはありませんでした。結婚相手はなかなか自由に選べない。そんななかでも好きな男女が結ばれることもあったのでした。

 そして、いよいよ江戸の将軍からの朝廷に政治の中心が移っていきます。板垣退助は西郷隆盛らとともに朝廷側の官軍で活躍します。ところが、新政府のなかで、結局、板垣たちははじき出されてしまいます。

 そこで、有司専制とたたかう動きが始まるのです。自由民権運動です。そのとき、女性が政談説会に参加して聞こうとすると、「女性はダメ」と排除されそうになります。それはおかしいと喜多はがんばります。

 また、女性に参政権がないのも許せません。それなら、喜多は納めるべき税金を支払いません。権利を行使できないのなら、義務のほうだって返上するというのです。

 勇気ある喜多の行動は多くの女性に賛同され、支持を得て少しずつ前進していきます。高知での議会に女性を排除しないというのも実現したのでした(全国的なものとなったときには排除されました)。

 めげず、くじけず、あくまであきらめないと道は開けてくるという、元気の出る話でした。実話がとても読みやすい話として展開していきます。

 私もこんな読み物を書いてみたいと思いました。

 

(2025年7月刊。2420円+税)

日本人のリテラシー

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 リチャード・ルビンジャー 、 出版 柏書房

 日本人は昔から読み書き能力(リテラシー)が高かったというのが定説になっていますが、それに疑問を提起した本です。2008年の本なので、少し古くなっているのかもしれません。

 アメリカの学者として、2000年ころ、京都の国際日本文化研究センターに研究員として在籍して調査したことがもとになっています。古文書も読めるようです。

 江戸時代の末までに、全国260ある藩のすべてで武士の子弟のための学校が設立された。ただし、藩校が公的財政によって設立されたからといって、武士たちが高い能力を獲得したとは限らない。1848年、吉田松陰が山鹿素行の兵学を講義したとき、出席者は平均して1日5人を下回った。

 江戸時代のたいていの農村では50~70%が土地所有者(全部か一部かは別として)だった。村役人は有力な本百姓や年寄衆から村人によって選ばれた。

『地方凡例録』を書いた大石久敬は、筑後国久留米藩の庄屋だった。1754年に農民一揆に巻き込まれ、藩に捕らわれたが抜け出して、上野国高崎藩で郡代として雇われるまで、九州と近畿地方を放浪した。久留米の大石弁護士の先祖だと聞きましたが…。

村の行政に関わる高水準の読み書き能力は庄屋などの村役人のみが持っていた。江戸時代の体制は、一般階層の人々が学び続けることを恐れてはいなかった。むしろ、それが村藩指導層にとどまる限りにおいて、依存すらしていた。18世紀まで、幕府も藩も、一般民衆のために質の高い教育を保障する学校などをつくったり、それを援助することはなかった。

農民は年貢負担の割り当てに関して、公平・正義・公正を求めていた。17世紀の末までには、ある程度の一般農民は十分な読み書き能力を獲得していた。

 日本は、世界のなかでも人口に関するもっとも完全な資料のある国。フランスの人口調査より、ずっと古い。17世紀初めから始められた宗門改帳がそれだ。

 平安時代の初めに花押(かおう)があらわれた。花押とは、高度に個別化され、文字としての判読も難しいほどの署名のこと。

 花押は個人を認証する公式符牒(ふちょう)として有用だった。八代将軍吉宗の時代の終わりころには、花押を木の印判に貼り付けるのが慣習になってきた。そうなると、花押は印鑑とほとんど変わらなくなって、17世紀の半ばまでには時代遅れになった。京都の商売人の住んでいる地区では、世帯主が花押を使う率は高かった。

18世紀の末までに、農村のエリート層と都市の知識人たちとの間に文化的なネットワークが形成されつつあった。

 江戸には多くの手習師匠がいた。享保時代に800人ほどいた。江戸時代全体で1万1237もの手習所があった。1830年代から新しい手習所が飛躍的に増加していった。たとえば信濃国では年に100以上の手習所が新設された。これは、手習所に通う子どもが村役人などの村落指導層の子弟の範囲をこえて、中層や下層の人々の子弟にまで広がったことによる。ただし、手習所は頻繁につくられ、また廃止される。

 江戸時代末の就業率は男性43%、女性15%とされる。この就業率は読み書き能力を示すものではないのに、日本全体の識字率だとされてしまった。

 1830年代までに、筑後の師匠たちが生計を立てるために手習所をつくり、村の外からも子どもたちがやってきていた。筑後では、1860年以降、手習所が村落エリート層のためのものから、民衆のためのものへ転換された。

 村落指導層の人々は大変高い能力を誇示していたが、その人数は少なかった。それ以外の人々が高い能力を身につける機会はごくわずかだった。圧倒的多数の一般農民は、やっと読み書きできる程度か、あるいはまったく読み書きできなかった。

 寺子屋に通っているからといって読み書きが当然できるとは限らないという指摘はもっともでした。また、識字率というのは地域差も強いということを認識することができました。貴重な研究書だと思います。

(2014年2月刊。4800円+税)

御家騒動

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 福田 千鶴 、 出版 講談社学術文庫

 御家騒動が起きると、それを絶好の理由として、幕府は大名を改易(かいえき)したというのが従来の通説。しかし、著者は必ずしもそうではないと主張します。

実際には、御家騒動が幕府に露見しても改易にならない事例のほうが圧倒的に多い。鍋島騒動(佐賀)、黒田騒動(福岡)、対馬藩の柳川一件、伊藤騒動(仙台)など、いずれも改易にはなっていない。なるほど、そうなんですか…。

 中世は「武士団」だったが、近世は「家臣団」だ。中世は武士同士が個人的に結ぶ主従関係を基礎にすえた武士団を帰属集団とする。近世は、主家(御家)の従臣として主君に奉公することで社会集団化した「家臣団」を帰属集団としていた。これらの違いの本質は、「御家」成立の有無にあった。

 江戸時代の中頃に次のような川柳がある。

 きみ、きみたらず、くさってる安玉子

 18世紀の武家社会において、主従精神が墜落し、君(きみ)が君たりえないとき、臣も臣としての役割を果たしておらず、近世節の主従関係が腐敗した状態になっていることを痛烈に揶揄(やゆ)した一句。

 器量・器用の原理は、下位者が上位者を廃立するときの論理となった。上位者は器量・器用の原理によって下位者を大きく切り捨てることが出来たが、その切った剣(つるぎ)で今度は自分の首も切られかねなかった。

 承応4(1655)年、筑後久留米藩の大名有馬家の主君・有馬忠頼(ただより)は参勤途上の船中で小姓に殺害された。このとき、幕府には病死と届けられ、4歳の松千代の相続が認められた。幕府も真相隠しに加担したわけです。

 江戸時代が泰平の社会になると、大名の寿命が延びたため、壮年になっても大名になれない嫡子が続出した。そこで幕府は、病気や老衰でなくても40歳以上の大名には隠居願を基本的に認めるようにした。

 伊達騒動では伊達安芸と原田甲斐が即死するなど、刃傷沙汰をともなう大騒動となったにもかかわらず、伊達62万石は無傷のまま安堵された。

 黒田騒動の折には、主人(大膳)の主人(忠之)は主人ではない、とする主従関係の観念があり、武士の意地が貫かれた。

 栗山大善の屋敷は福岡城内の一角にあり、その屋敷内に6、7百人が鉄砲2百挺、大砲6挺をもって立て籠った。そして、屋敷を退去するときには、火縄に点火した状態の鉄砲20挺を先頭に、総勢500人の武士が大膳を護衛する鉄砲250挺、最後にも鉄砲20挺が続いた。

このとき、主君忠之は器量なしと断定された。そして、結局のところ、黒田家は安堵され、大膳は陸奥盛岡の南部家にお預けとなった。これだけの大騒動を引き起こしたのに、切腹にはなっていないのです。

 幕府は常に大名家が存続するような様々の方策をとっている。これらの御家騒動は、小説となり、また舞台で演じられた。そこでは、大膳は、忠臣中の忠臣として庶民の賞賛を得ている。

2005年の中公新書の改訂新版です。大変勉強になりました。

(2025年7月刊。1430円)

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