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カテゴリー: 日本史(江戸)

日本人のリテラシー

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 リチャード・ルビンジャー 、 出版 柏書房

 日本人は昔から読み書き能力(リテラシー)が高かったというのが定説になっていますが、それに疑問を提起した本です。2008年の本なので、少し古くなっているのかもしれません。

 アメリカの学者として、2000年ころ、京都の国際日本文化研究センターに研究員として在籍して調査したことがもとになっています。古文書も読めるようです。

 江戸時代の末までに、全国260ある藩のすべてで武士の子弟のための学校が設立された。ただし、藩校が公的財政によって設立されたからといって、武士たちが高い能力を獲得したとは限らない。1848年、吉田松陰が山鹿素行の兵学を講義したとき、出席者は平均して1日5人を下回った。

 江戸時代のたいていの農村では50~70%が土地所有者(全部か一部かは別として)だった。村役人は有力な本百姓や年寄衆から村人によって選ばれた。

『地方凡例録』を書いた大石久敬は、筑後国久留米藩の庄屋だった。1754年に農民一揆に巻き込まれ、藩に捕らわれたが抜け出して、上野国高崎藩で郡代として雇われるまで、九州と近畿地方を放浪した。久留米の大石弁護士の先祖だと聞きましたが…。

村の行政に関わる高水準の読み書き能力は庄屋などの村役人のみが持っていた。江戸時代の体制は、一般階層の人々が学び続けることを恐れてはいなかった。むしろ、それが村藩指導層にとどまる限りにおいて、依存すらしていた。18世紀まで、幕府も藩も、一般民衆のために質の高い教育を保障する学校などをつくったり、それを援助することはなかった。

農民は年貢負担の割り当てに関して、公平・正義・公正を求めていた。17世紀の末までには、ある程度の一般農民は十分な読み書き能力を獲得していた。

 日本は、世界のなかでも人口に関するもっとも完全な資料のある国。フランスの人口調査より、ずっと古い。17世紀初めから始められた宗門改帳がそれだ。

 平安時代の初めに花押(かおう)があらわれた。花押とは、高度に個別化され、文字としての判読も難しいほどの署名のこと。

 花押は個人を認証する公式符牒(ふちょう)として有用だった。八代将軍吉宗の時代の終わりころには、花押を木の印判に貼り付けるのが慣習になってきた。そうなると、花押は印鑑とほとんど変わらなくなって、17世紀の半ばまでには時代遅れになった。京都の商売人の住んでいる地区では、世帯主が花押を使う率は高かった。

18世紀の末までに、農村のエリート層と都市の知識人たちとの間に文化的なネットワークが形成されつつあった。

 江戸には多くの手習師匠がいた。享保時代に800人ほどいた。江戸時代全体で1万1237もの手習所があった。1830年代から新しい手習所が飛躍的に増加していった。たとえば信濃国では年に100以上の手習所が新設された。これは、手習所に通う子どもが村役人などの村落指導層の子弟の範囲をこえて、中層や下層の人々の子弟にまで広がったことによる。ただし、手習所は頻繁につくられ、また廃止される。

 江戸時代末の就業率は男性43%、女性15%とされる。この就業率は読み書き能力を示すものではないのに、日本全体の識字率だとされてしまった。

 1830年代までに、筑後の師匠たちが生計を立てるために手習所をつくり、村の外からも子どもたちがやってきていた。筑後では、1860年以降、手習所が村落エリート層のためのものから、民衆のためのものへ転換された。

 村落指導層の人々は大変高い能力を誇示していたが、その人数は少なかった。それ以外の人々が高い能力を身につける機会はごくわずかだった。圧倒的多数の一般農民は、やっと読み書きできる程度か、あるいはまったく読み書きできなかった。

 寺子屋に通っているからといって読み書きが当然できるとは限らないという指摘はもっともでした。また、識字率というのは地域差も強いということを認識することができました。貴重な研究書だと思います。

(2014年2月刊。4800円+税)

御家騒動

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 福田 千鶴 、 出版 講談社学術文庫

 御家騒動が起きると、それを絶好の理由として、幕府は大名を改易(かいえき)したというのが従来の通説。しかし、著者は必ずしもそうではないと主張します。

実際には、御家騒動が幕府に露見しても改易にならない事例のほうが圧倒的に多い。鍋島騒動(佐賀)、黒田騒動(福岡)、対馬藩の柳川一件、伊藤騒動(仙台)など、いずれも改易にはなっていない。なるほど、そうなんですか…。

 中世は「武士団」だったが、近世は「家臣団」だ。中世は武士同士が個人的に結ぶ主従関係を基礎にすえた武士団を帰属集団とする。近世は、主家(御家)の従臣として主君に奉公することで社会集団化した「家臣団」を帰属集団としていた。これらの違いの本質は、「御家」成立の有無にあった。

 江戸時代の中頃に次のような川柳がある。

 きみ、きみたらず、くさってる安玉子

 18世紀の武家社会において、主従精神が墜落し、君(きみ)が君たりえないとき、臣も臣としての役割を果たしておらず、近世節の主従関係が腐敗した状態になっていることを痛烈に揶揄(やゆ)した一句。

 器量・器用の原理は、下位者が上位者を廃立するときの論理となった。上位者は器量・器用の原理によって下位者を大きく切り捨てることが出来たが、その切った剣(つるぎ)で今度は自分の首も切られかねなかった。

 承応4(1655)年、筑後久留米藩の大名有馬家の主君・有馬忠頼(ただより)は参勤途上の船中で小姓に殺害された。このとき、幕府には病死と届けられ、4歳の松千代の相続が認められた。幕府も真相隠しに加担したわけです。

 江戸時代が泰平の社会になると、大名の寿命が延びたため、壮年になっても大名になれない嫡子が続出した。そこで幕府は、病気や老衰でなくても40歳以上の大名には隠居願を基本的に認めるようにした。

 伊達騒動では伊達安芸と原田甲斐が即死するなど、刃傷沙汰をともなう大騒動となったにもかかわらず、伊達62万石は無傷のまま安堵された。

 黒田騒動の折には、主人(大膳)の主人(忠之)は主人ではない、とする主従関係の観念があり、武士の意地が貫かれた。

 栗山大善の屋敷は福岡城内の一角にあり、その屋敷内に6、7百人が鉄砲2百挺、大砲6挺をもって立て籠った。そして、屋敷を退去するときには、火縄に点火した状態の鉄砲20挺を先頭に、総勢500人の武士が大膳を護衛する鉄砲250挺、最後にも鉄砲20挺が続いた。

このとき、主君忠之は器量なしと断定された。そして、結局のところ、黒田家は安堵され、大膳は陸奥盛岡の南部家にお預けとなった。これだけの大騒動を引き起こしたのに、切腹にはなっていないのです。

 幕府は常に大名家が存続するような様々の方策をとっている。これらの御家騒動は、小説となり、また舞台で演じられた。そこでは、大膳は、忠臣中の忠臣として庶民の賞賛を得ている。

2005年の中公新書の改訂新版です。大変勉強になりました。

(2025年7月刊。1430円)

幕末維新変革史(上)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店

 幕末のころ、帆走船から蒸気機関で走行する戦艦へ進歩した。はじめは外輪蒸気船だった。しかし、外輪だと砲撃されたら弱いし、大砲もたくさん載せることができない。そこで外輪のかわりにスクリュー船とした。エンジンは大量の石炭を消費するので、石炭供給基地を各地に必要とする。木造戦艦だと標的にされたら弱い。そこで、まず鉄板で装甲し、次に鉄艦となった。

 戦艦に載せる大砲の『砲弾』は、初めは破裂しない丸弾だったが、円錐筒型の破裂弾が開発された。1858年、イギリスはアームストロング施条式後装18ポンド砲を導入した。このアームストロング砲を初めてイギリスが実戦で使用したのは、1863年の薩英戦争、そして翌1864年の下関戦争だった。射程距離4000ヤードの巨大砲は威力を発揮した。ただし、当初は事故も頻発した。

 中国大陸の清帝国の林則徐は、アヘンを没収して焼却した。1839年9月、イギリスから軍艦が到着し、ついに戦争が勃発した。イギリスは中国などとの不平等条約を大英帝国海軍が力で維持していた。アヘン戦争が一応の終結をみると、天保12(1841)年、江戸ではイギリスが戦艦を日本に差し向けるという噂(うわさ)が広まった。アヘン戦争で清帝国が敗退すると、日本人の眼は一挙に世界に拡大した。

 ペリーは、アメリカからミシシッピ号で出帆し、喜望峰廻りでシンガポールを経由して香港に入り、まず沖縄に向かう。那覇に寄港して、必要なものを入手した。ペリーは、まずは沖縄を拠点としたのですね…。

 日本においては、ペリー来航という情報は瞬時に日本全国に伝播した。人々は、それを記録し、心配ながら見守っていた。人々は情報を求め、あらゆる手段を用いて収集し、記録し、冊子にまとめて回覧した。

日本では、あらゆる政局の背後に、その展開を凝視する3千数百万の日本人の眼があった。つまり、衆人監視の政治舞台において幕府は自らを国家として振る舞わざるをえなかった。江戸時代(幕末)の日本の人口は3千数百万人だったのですね。そして、情報が全国的に素早く伝播していったというわけです。まだ新聞はありませんが、瓦版がありました。木板摺りで、捕まる前に売り抜けてドロンという形で広まったとのこと。

そして、全国を情報に伝達する手段の一つが飛脚屋。情報を早く知りたいときには、人々は飛脚屋に出かけて確認するという習慣があった。たとえば、江戸でつくった狂歌集を毎月、各地の狂歌組織に送って広めていた。

13年前の本ですが、広い視野で幕末期の動きをとらえることが出来ました。

(2012年10月刊。3200円+税)

商人たちの明治維新

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 大島 栄子 、 出版 花伝社

 大変面白い本でした。そして幕末という時代情勢のなかで、商人がどのように行動していたのか、とても参考になりました。というのも、私はちょうど幕末の久留米の商人の動きを調べて書いているからです。

何が面白いかというと、有名な島崎藤村の『夜明け前』に出てくる「牛方騒動」の話を、その「強欲(ごうよく)」な荷問屋を主人公とする話だからです。

 藤村の話は、「牛方騒動」の調停者となった馬籠の問屋が書いた日記「大黒屋日記」をもとにしている。それに対して、この本は、「強欲」な荷問屋が書いた「永代日記」を読み解いて、ストーリー展開にしたノンフィクションなのです。あの難解としか言いようのない古文書を読み解くと、こんなに状況・心理が分かるのかと驚嘆しました。

 ところは、中山道(なかせんどう)の中津川宿(岐阜県中津川市)です。主人公は中津川宿では大店(おおだな)だった間(はざま)家に婿入りしました。ところが、この間家は、内情は放漫経営で火の車というか、1100両もの大変な借金をかかえていたのでした。ところが主人公は逃げることなく、店の建て直しを図り、見事に成功するのです。要するに、店の収支状況を数字で明らかにして、儲けを出す商売にしていったのでした。

たとえば、塩商売です。中山道を京都の公家から将軍家へ嫁入りするときは、大変な行列になるので、大量の塩が必要になると聞いて、早速、塩を大量に仕入れて大きく儲けたのでした。なんで大行列だと大量の塩が必要になるかというと、食品の保存用として塩漬けにするためと、調味料としての味噌・醬油に使うためです。そして、荷問屋として、「牛方騒動」に関わるのです。これには、主人公も言い分はあったようですが、牛方(うしかた)たちも字が読めるので、明朗取引を求めてきたということのようです。

調停人も入って、結局、主人公の荷問屋は撤退することになりました。このときの、双方の言い分、そして調停人の意見が詳しく紹介されています。日記に書いてあるのです。

そのあと、主人公は質屋、つまり金融業に力を入れ、そこで儲けていきます。幕末ですから、政治がまさしく激動しています。そこを主人公が乗り越えていく状況も詳しく紹介されていて、状況がよく分かります。

主人公自身は政治に直接関与はしなかったようですが、中津川宿の属する尾張藩からは特別に上納を命じられたりしています。儲けのための必要経費みたいなものでしょうか…。

個人の日記を読み解くと、当時の政治その他の経済を含めた状況がよくつかむことが出来ます。参考になりそうなところに、いつものように赤エンピツでアンダーラインを引きましたら、ほとんど全頁が真っ赤になりました(少しオーバーです)。

(1998年5月刊。1650円)

幕末維新変革史(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店

 江戸時代の末期から明治時代の初めというのは、まさに大激動の時代だったことが生き生きと伝わってくる本でした。

 徳川慶喜は、熟慮の末、前土佐藩主・山内容堂の建白書を受け入れ、大政奉還を決意した。慶喜は、これによって土佐藩が薩長両藩に合流することを食い止めることが出来た。

 大政奉還後の京都には殺気が充満した。世の中が一新するという期待と希望のもと、「ええじゃないか」の乱舞が町中に繰り広げられた。

 慶応3(1867)年11月15日、浪士の巨魁と目される坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で急襲された。その3日後、新選組の元メンバー・伊東甲子太郎も油小路で殺害された。

慶喜は、将軍職は辞退することにしたものの、内大臣の辞官と幕府領納地は拒絶した。

大久保、西郷そして岩倉は、軍事力を結集させて新政権を樹立し、反対勢力に対しては戦争をもって決着をつけなければ、天下の人心を一新させることは不可能だと決意した。

慶応4(1868)年正月、鳥羽伏見戦争が始まった。旧幕府側は、5000、会津3000、桑名1500ほか、諸藩の兵が加わった大兵力だった。王政復古政権側は薩摩3000、長州1500と数的には劣勢。ところが、この4日間の戦闘において、数的には優位の旧幕軍側が完敗した。その理由の第一は、薩・長軍は、装備・訓練とも格段の差があった。いずれも、既に本格的な戦争を経験し、それに即した猛訓練をつみかさねてきた兵力だった。第二に、事前に形勝の地を占め、迎撃態勢を万全に敷いていた。第三に、旧幕軍側は「朝敵」と決めつけられて志気がふるわず、そのうえ、慶喜は大阪城にとどまっていて、指揮体制が徹底していなかった。新政府軍の完勝は、不安定な新政府の基礎を盤石なものにした。戦争が局面を切り拓いた。

 慶喜が江戸城に逃げ帰ってきたところに、フランス公使ロッシュが登城してきて、慶喜に対して、フランスが軍艦・武器・資金を供給して援助するので、新政府軍と一戦を試みるよう勧告したが、さすがの慶喜も、これは拒絶した。

5月、上野の寛永寺を拠点とする彰義隊1000と新政府軍2000との市街戦が始まったが、たちまち彰義隊は完敗した。このときも新政府軍側の新鋭アームストロング砲が強力だったようです。

 新政権が成立したからには、その公約だった攘夷がおこなわれるだろうという圧倒的多数の日本人の思いが新政権には重圧としてのしかかった。新政権は攘夷を実行する気持ちはまったくなかったわけですが、先の「公約」との整合性をどうするか、要するにどうごまかすかに頭を悩ませたようです。そこで出てきたのが、朝鮮・台湾です。挑戦を武力で抑えつける、台湾に軍事出兵するというわけです。

 さらに、浦上キリシタン問題が発生した。新政府は、キリスト教を解禁すると、欧米列強の圧力に屈したと非難されることを恐れた。それはそうでしょう。先ほどまで譲夷を実行すると言っていたのですからね。そして、天皇が国家主権者であること、その根拠として記紀神話があるとする新政府にとって、天皇の神格性を真っ向から否定するキリスト教は決して容認できないものだったのです。ところが、欧米列強はいずれもキリスト教団ですから、猛烈に批判・攻撃されます。外交交渉をすすめるどころではありません。不平等条約の改定なんか出来そうもありません。そこで、潜伏していたキリシタンを投獄したものの、各地に分散させて、うやむやにしていくのでした。

歴史のダイナミックな展開の視点を身につけるのに格好の歴史書として大変勉強になりました。

(2012年10月刊。3520円)

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