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カテゴリー: 日本史(江戸)

北斎漫画2

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 葛飾 北斎 、 出版  青幻舎
漫画といっても、いわゆるマンガではありません。「漫然と描いた画」だというのですが、実際には、なかなかどうして、とても精密な絵のオンパレードです。
北斎は、一瞬をとらえ、それを一瞬のうちに描き切っている。
19世紀にヨーロッパで巻き起ったジャポニズムのきっかけをつくったのは浮世絵、なかでも「北斎漫画」だった。
北斎は、独立したときに自分の師匠は「造化」だとした。「造化」とは、「天地万物を動かす道理」のこと。北斎が生涯かけて求めていたのは「造化」であり、世の真理だった。誰も気に留めないような、画題になりそうもない日常風景までもが北斎の「師」だった。
北斎は、当時の町人としては、破格の知識人だった。北斎は、西洋画(油彩画)。知識や技術を知っていた。
北斎は、画面手前の描き方は墨絵(すみえ)の中国的な描き方、全体の構図は西洋の透礼画法(三ツ割りの法)、人物は大和絵の伝統的なテクニック、背景の山並みは絵の具を重ねて塗る油絵独特の描き方で描いた(潮干狩図)。
北斎は、実際には関西までしか行っていない。しかし、「琉球八景」というシリーズも描いている。
この第二巻「森羅万象」では、「自然博物図鑑」とでも言うべきように、ありとあらゆる生き物を詳細にかつ生き生きと描いています。そのすごさは筆舌に尽くしがたいものがありますので、ぜひ手にとって眺めてみてください。
(2017年8月刊。1500円+税)

勘定奉行の江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 藤田 覚 、 出版  ちくま新書
江戸時代というと身分によってガチガチに固まっている窮屈な社会だったというイメージがありますが、その実態は必ずしもそうではなくて、運と能力次第では、かなり上の役職・身分までのぼりつめることも出来ていたようです。
能力が求められるという点では、江戸時代の勘定奉行は、その筆頭に来ます。なにしろ破綻しかけている幕府財政をなんとか立て直すという課題について、父子相伝のボンクラ頭でつとまるはずはありません。
江戸時代は、福沢諭吉が「親のかたき」と言ったような厳しい身分制・家格制でガチガチに固められていたとみられがちだ。なるほど基本的にはそうだったけれど、勘定奉行をみてみると、必ずしもそれだけではなかった。
勘定奉行の第一の特徴は、職掌のように幅が広く、しかも職務が重要なことにある。幕府財政の運営、全国の交通体系の維持、裁判の運営、さらには三奉行の一員として江戸幕府の重要な政策・意見決定に参画していた。
勘定奉行は、それほど江戸幕府の重職・要職だった。
勘定所内部の職階を上ってトップの奉行に昇進した人が、少ないとはいえ、10%いた。この事実こそ、勘定所の昇進システムの特異なところであり、重要なことだった。このように、勘定所の職員が内部昇進する仕組は、幕府の重要役所として異例なことだった。
なるほど、なるほど、と思いながらあっというまに読了しました。
(2018年2月刊。780円+税)

北斎漫画(1)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 葛飾 北斎 、 出版  青幻舎
江戸時代を生きていた日本人がどんな生活をしていたのか、ビジュアルに分かる漫画です。
「北斎漫画」は葛飾北斎(1760~1849)が弟子たちに絵の手ほどきをするための教科書として描いた絵手本。弟子はかりでなく、一般の庶民にも親しまれ、江戸時代のベストセラーとして、10編で完話しても、さらに続編が続き、ついに15編がプラスされた。
ただし、その15編完話編が出版されたのは明治11年といいますから、なんと西南戦争の翌年なのです。もちろん北斎自身は30年近く前に亡くなっています。
「北斎漫画」の総ページ数は970。図版は4000をこえる。
人物、動植物、風俗、職業、市井の暮らしぶり、建築物、生活用具、名所、名勝、天候、故事、説話、妖怪、幽霊と百科事典さながら。
この第一巻は、「江戸百態」として、市井の人々の姿や風俗、生活用具や建物などの江戸の日常が描かれている。
「北斎漫画」は19世紀後半にヨーロッパで巻きおこったジャポニズム旋風の引き金となった。かのシーボルトは、「北斎漫画」をひそかにオランダに持ちかえったとのことです。
江戸時代の後期には、江戸だけで学術書を扱う出版社が70軒、娯楽性の高い絵草紙などを扱った出版社が150軒あった。そして、600軒以上の貸本屋があり、本が買えない庶民でも、気軽に読書できる状況がつくられていた。
子どもたちが将棋をして楽しんでいる絵もあります。
人々が農作業をしていたり、また旅姿の人々がいます。日本人は昔から旅行大好き民族だったことがよく分かります。
私も江戸時代のことについては、いろいろ本を読んできましたが、やはりこのようなイメージをしっかりもちながら、江戸時代の社会を論じる必要があると思ったことでした。少々値がはりますが、読む価値は十二分にあります。
(2017年10月刊。1500円+税)
春らんまんの候です。形も色もとりどりのチューリップが全開、青紫と紅いアネモネと美を競っています。シャガの白い花、白いなかに黄色の気品あるアイリスも咲きはじめました。足元にはピンクのシバザクラも地上を飾っています。
春の味覚、アスパラガスが昨日にひき続いて今日も一本、収穫できました。

東大教授の「忠臣蔵」講義

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  山本 博文 、 出版  角川新書
 私が生まれたのは「師走半ばの14日」です。つまり、赤穂浪士の討入りの日です。とはいっても、今のカレンダーでいえば2月になるのでしょうか・・・。
 大石内蔵助は、本当に敵をあざむくために京都の祇園で遊蕩したのか・・・。どうやら史実ではないようです。
驚くべきことに、藩の財政の一部を活動資金として、いつ、その収支明細がきちんと記帳されていたのです。さすがは日本人です。こまかい計算が好きな人は昔も今も多いのですね。
 吉良家は高家(こうけ)ですが、この「高」というのは足利高氏(たかうじ)の「高」なのですね。つまり室町将軍の血筋を引く家ということ。知りませんでした。
浅野が吉良に切りかかったとき声をかけたのは、それが武士の作法だから。そうしないと卑怯な行動になってしまう。
吉良は逃げただけで、刀に手をかけなかった。もし刀に手をかけていたら両成敗になって吉良も切腹するはめになっていた。
吉良が諸大名から贈り物を受けるのは、当時の慣行からすると、悪いことではなかった。江戸時代の慣行として、人にものを教わったときに、それ相応のお礼をするのは当然のことで、賄賂(ワイロ)ではなかった。
吉良が老中の面前で浅野の面子(メンツ)をつぶしたのは問題があった。当時の武士は、人前で悪口を言われて黙っていたら「臆病」とされ、切腹するか出奔するしか道はなかった。
実際に討入りしたのは47人だったが、盟約に加わった同志は100人ほどいた。それがいろんな事情で減っていき、ついに半分以下になった。
内蔵助は祇園や伏見に踊りを見に行っているが、息子の主税と一緒。なので、遊郭で遊んではいないのではないか。しかし、内蔵助は京都には可留(かる)という妾がいて、子どももいた(幼くして死亡)。
討ち入りの前になると内蔵助の軍資金が尽きかけていた。それで、もう延期はできなくなっていた。
浪士たちは、全員、自分たちは死ぬものだと考えていた。討ち入りが成功しても、幕府の厳しい処分が予想された。再就職のためなんて、とんでもない誤り。死ぬと分かっている討ち入りに進んで加わった。
江戸時代の武士の社会では「武士道」という道徳がなにより優先された。今日の道徳とは、まったく違うもの。
吉良邸にも100人ほどの家来がいた。しかし、非番の家臣たちは長屋にいて、浪士たちが出口を固め、長屋に閉じ込めてしまった。それで浪士たちと戦った者は40人もいなかった。
浪士たちは「火事だ」と叫んでいるが、こんなだまし討ちも、手段を選ばないのが当たり前なので、非難されることではない。
吉良家側で戦った武士のうち16人が討ち死にし、21人が負傷(重症は4人)。このほか12人が逃げ出した。討ち入りは1時間ほどしかかかっていない。
さすがによく調べてあると感嘆しながら一気に読みあげました。
(2017年12月刊。880円+税)

江戸の入札事情

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 戸沢 行夫 、 出版  塙書房
町触(まちぶれ)とは、町奉行から一定範囲の町民に触れ出された法令。現代の条例のようなもの。本書は「江戸町触集成」をもとにして江戸の入札事情を読み解いている。
江戸の元禄・享保期には経済が発展し、経済システムも巨大化、複雑多様化して、武士か町人かにかかわらず金銭の貸借にからむ訴訟、金公事(かねくじ)は増える傾向にあった。これは町触にも反映している。
「相対済(あいたいすま)し令」は享保4年も出され強行されているが、この法令は窮令した旗本や御家人には救済となったが、幕府と町奉行が「相対」を強調することで貸金を踏み倒される町人が続出して混乱した。
江戸では橋の架橋、修繕にからむ工事には巨額の投資が必要であり、大勢の人足や、日用稼(ひようかせぎ)を動員する必要があった。この入札を発注する幕府は応札者とのあいだで「相対」するが、これは談合と表裏の関係にあった。現代日本の大手ゼネコンによる入札がらみの「談合」が相変らず横行しているがこれは、江戸の元禄・享保期にはじまっているとも言える。
江戸時代の木造橋の寿命は、20年ほど、ただ、火災の多い江戸では、焼失による崩落も多く、橋の寿命はもっと短い。さらに、地震や用水害もあって、6年から8年が限度に、毎年の修繕補修も必要だった。かの有名なお江戸・日本橋も、ひんぱんに取り替えられていたというわけです。
それにしても、江戸時代に1日の通行量を調べていたというのに驚きました。しかも、なんと1日5万人も往来していたというのです。
両国橋には、武士を除いて1日3万人の通行者があった。武士を加えると5万人ほどの往来があったことになる。
なぜ通行量調査をしたかというと、両国橋を改架中の仮橋渡銭金額を査定するためです。町奉行配下の2人の道役に交通量調査をさせました。安保2年(1742年)5月12日と5月16日の2日間です。朝6時から夕方6時までの調査でした。
今も、各所でときどき通行量調査をしている人たちを見かけますが、江戸時代も同じようなことをしていたなんて、なんだか信じられません。ちゃんと武士と町人のそれぞれの実数が紹介されています。ほとんど同数だというのにもびっくりです。
隅田川には元禄期に3つの大橋の大規模な架橋修復が行われたが、これは幕府の財政に重い負担だった。18年間で総工事費は1万3115両もかかっている。ほかにも多くの橋があるので、江戸市中の橋工事にはかなり膨大な工費がかさんだと推測できる。なるほど・・・。
江戸時代の生活の断面を知ることができました。
                     (2009年3月刊。特価700円)

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