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カテゴリー: 日本史(戦国)

天下統一

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  藤田 達生 、 出版  中公新書
 家康が攻めたてた大坂の陣では、火縄銃と大砲によって間断ない攻撃が加えられた。大砲の玉は、素材や形状が多様だった。焼夷弾や散弾などもあった。後装式の仏郎機(フランキ)砲は、城門や要塞の破壊に使われた。家康が購入したカルバリン砲(最大射程6300メートル)、セーカー砲(同3600メートル)などのヨーロッパ製の長距離砲も実戦に投入され、少なからぬ威力を発揮した。
 大坂の陣で秀頼たちが大砲の脅威にさらされたというのは知っていましたが、それがヨーロッパ製の長距離砲だというのは初めて知りました。
 集権化を支えた信長の軍事力の秘密を解くカギは、戦闘者集団である武士と生産者集団である百姓との身分と居住区の截然たる分離、すなわち兵農分離にある。
 信長は、尾張を統一したあと、清須、小牧山、岐阜、安土へと本城を移動させるたびに、家臣団に引っ越しを強制した。長年住み慣れた本領を捨てて、主君と運命を共有する軍団を目ざしたのだ。本拠地移転を進めながら兵農分離を促進し、同時に戦国時代最長といわれる三間半(6.3メートル)もの長槍や大量の鉄炮の配備をすすめて軍隊の精鋭化を図る。
信長は三間半という長槍を採用した。長槍は、主として突くのではなく、叩くものだった。敵の長槍隊と遭遇したときには、長ければ長いほど有利だった。鉄炮戦が本格化する前の戦争は、長槍隊が主力だった。長槍は長いほど重く、しなることから、統一的な操作が難しく、日常的に足軽たちに軍事訓練を科さないと、大規模な槍衾(やりぶすま)を組織的に編成することはできなかった。
信長は、長槍隊には銭で給料を支払い、生活を保障した。信長の軍事的成功は莫大な銭貸蓄積に支えられていた。信長は、「三間半の朱槍を五百本ばかり」用意し、斎藤道三を警戒させた。信長は、長さばかりか色もふくめて同じ規格の長槍を大量に準備し、足軽たちに装備した。
  近習と足軽隊に重きを置く戦術は、尾張時代の信長の特徴だった。千人に満たない規模の直属軍が、軍事的カリスマである信長の意思にもっとも忠実に従う軍団の中核を形成した。
信長や秀吉は、天下統一を進めながら、軍人として純化を遂げた武士団が高度な軍事力を独占するようにしていった。ところが、鉄炮足軽に対してその軍功を讃える軍忠状を与えた例はない。軍事的重要性の高まりに比例して足軽たちの政治的地位が向上したとは考えられない。
 信長は、足軽兵増強の一方で、一向一揆を初めとする大規模一揆の鎮圧には容赦なく鉄炮を大量投入した。数万人規模の死者を出すような凄惨な戦争は、鉄炮戦が一般化する前には、ありえなかった。
 軍事に専念する兵身分を誕生させるためには、家臣団に所替えを強制して城郭と本領を取り上げ、家臣団と彼らの父祖伝来の領地・良民との強い絆を否定することが前提となる。つまり、家臣団から自立性を奪うことが始まりなのだ。
 信長の家臣団には二つの特徴があった。第一は、商人的家臣の存在である。これによって信長は必要な物資の確保と莫大な銭貸を獲得した。そして、これが軍団の兵農分離を促進した。第二に、非嫡男や庶流家が家臣団に目立った。前田利家も嫡男ではない。
 これまで足利義昭政権は信長のカイライだとされてきたが、根本的に考え直す必要がある。義昭政権は、幕府機構を整備し、御料所を再興し、さらに京都の商業権益・地子銭等を掌握した。つまり、幕府としての実態を持っていたのだ。
 義昭の幕府と信長権力は、それぞれが独立的に存在していたが、光秀らの実力者が接着剤となり、一体となって政権が機能していたとみられる。
足利幕府って、信長政権の誕生とともに滅亡したって教わりましたよね。
 義昭からすれば、信長は幕府再興を実現した大恩人であっても、重臣にすぎなかった。
 信長は、京都五山禅院の住持の任命権を、義昭から奪取することができなかった。
安土城において、天下人信長の執務空間たる天主は、天皇を凌駕する為政者として可視的に表現され、安土城の中心軸に配置された。
 信長は、自らを将軍と天皇の権限を統合した存在であり、天から支配権を付託された絶対者として自己を位置づけ、神格化さえ試みた。信長が好んだ龍は、中国では皇帝の象徴だった。安土城の天主には、その内外に中国思想が凝縮されていた。
 このあと秀吉の分析が続きます。織田信長そして豊臣秀吉の果たした役割を改めて検証しています。そのために役立つ視点満載の知的刺激にみちた本です。
(2014年4月刊。860円+税)

信長の大戦略

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  小林 正信 、 出版  里文出版
 いわゆる学者の書いた本ではありませんが、読んでいて、なるほどと納得できる内容でした。学会では、どのように評価されているのか、ぜひ知りたいと思います。
鎌倉時代より征夷大将軍を奉じていた関東の地には、東国における事実上の国家に君臨する王権としての地位があった。すなわち、征夷大将軍の地位は、関東に不可欠のものであり、その不在は武家の建前の上から正常ではないと考えられていた。
 将軍家を継承した京都の室町殿は、征夷大将軍を関東に返還し、天皇・朝廷を守護する武官である右近衛大将から大臣になり、功績によっては「右大将家」を世襲して、大政大臣になればよかった。
 武家社会では、律令官制と異なり、重盛や頼朝の先例によって、左大将よりは右大将が尊ばれた。
織田信長は平家を黙認し、清盛の子で右近衛大将に任じられた重盛の先例から、天正3年(1575年)に右近衛大将の地位に就いた。信長の次にこの地位に就いたのは、徳川秀忠である。
信長は戦国大名の嫡子として、武術や肉体の鍛錬に熱心であっただけでなく、小鼓の名人であり、武人として屈指の能筆家でもあった。茶道にも大変精通している。
 信長の師匠は、「信長公記」によって、兵法の平田三位、弓術の市川大介、鉄砲の橋本一巴(いっぱ)であることが判明している。信長は、師匠たちを域に招いて、個人的に指導を受けていた。
織田信秀、そして信長の重要な政治的・経済的基盤は、熱田や津島の商業者だった。
信長が若いころ、異形異類の様相(風体)をしていたことは有名です。なぜ、こう言う格好を信長はしたのか・・・。著者は、信長の身分では決して出入りしてはいけない場所、つまり、「散所」に通うためだったとします。
 「散所」は、被差別民のいるところ、武具に欠かせない必需品の生産・集積地だった。そして、軍事情報の宝庫として重視させるところでもあった。
 秀吉の出目は百姓(農民)ではなく、非人だった。連雀商人と関連あるものだった。このような秀吉の出目では、天皇の権限で公家として関白にはなれても、武家階級の代表者である征夷大将軍には、初めからなれないことは明らかだった。
 秀吉は、信長や家康が任じられた近衛大将にもなっていない。信長と同年代の小姓たちと秀吉は「幼なともだち」だった。
 信長は大人になっても、秀吉を「猿」と呼んでいた。信長44歳、秀吉42歳のときも、「猿、かえり候て」とある。二人の関係が大人になってから始まったものだとこのような呼び方はしない。むしろ、少年期からのつきあいだったからこそではないのか・・・。
 秀吉の木下藤吉郎にしても、「木から下る」という意味で、「猿」を意味していた可能性がある。要するに、秀吉は信長にとっても幼ともだちだったのではないか、という指摘です。なるほど、それはありえますよね・・・。
 秀吉は、読み書きが出来た。秀吉が清洲域を普請したとき、知恵だけでなく、それが出来るほどの財力をもっていたからではないのか・・・。
 桶狭間の戦いのとき、信長に直属する旗本と言える2千が今川義元を急襲したのも、織田の本隊が今川勢の敗走を追撃してすべて出払い、十分な予備兵力が手元になったから、と考えるべき。
 これは、通説とは、まったく異なる戦いの状況についての主張です。
 信長は今川義元の大軍を包囲殲滅させようとしたのであって、わずか2千の兵のみで奇襲をかけたというのは誤解にすぎない。今川勢の総崩れは、義元の討死から始まったのではない。今川勢の総崩れによって義元は孤立した。そこを旗本に襲われて討ち死にしたのだ。
桶狭間の戦いについては、最近、いろいろ研究が進んでいて、まわり道をして突撃したのではなく、正面から突撃していったとされていますが、まだまだ尽きない論点があるんですね。これだから、歴史の本はやめられません。ゾクゾクしてきます。
(2013年8月刊。1800円+税)

天地雷動

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  伊東 潤 、 出版  角川書店
 長篠合戦と、それに至るまでを克明に描いた小説です。長篠合戦では、織田信長軍が鉄砲三千挺を三段撃ちしたという通説が疑われていましたが、最近、それが逆振れして、やはり通説どおり三段撃ちはあったのではないかということに収まりつつあります。私も、そのように今では考えています。
 この本は、では、どうやって、三千挺もの鉄砲を織田信長はそろえることができたのか、そして、そのため玉薬をどうやって確保したのかが、大きな主題となっています。逆に、反対側の武田軍の鉄砲と玉薬についてはどうなのか、ということにも目配りされています。要するに、武田勝頼も鉄砲はそれなりにもっていたけれど、玉薬のほうが枯渇してしまった(枯渇させられた)という状況なのです。
 この本では、武田勝頼は突撃しか知らない馬鹿な若殿様ということにはなっていません。信玄亡きあと、実力で「御屋形様」になったものの、信玄に仕えていた有力武将たちとの折りあいに苦労していた様子が描かれています。
 このころの鉄砲は南蛮物が主流でした。しかし、その南蛮物は、使い古したものが輸入されていたので、すぐに壊れた。4分の1は使いものにならず、武将たちは辟易していた。
 玉薬は、硝石7割、木炭1.5割、硫黄1.5割を混ぜてつくる異色火薬のこと。弾丸を飛ばすときに使われる粒子の粗い胴薬(どうぐすり)と、点火のために使う粒子の細かい口薬の二種を、鉄砲足軽は常に携行していた。
 長篠合戦は、織田信長の作戦勝ちだとしています。つまり、まず、武田軍の玉薬を欠乏させ、その確保のためには前進するしかないようにする。そして、後詰め(後方部隊)を奇襲して全滅させ、前進するしか活路を開けないようにしたのです。そこを、三段構えで、鉄砲足軽が待ち構えているというわけです。
 武田軍の主要な武将たちも、勝頼から、「この期(ご)に及んで命を惜しむのか」と皮肉られたら、前方の織田軍へ突進するしかなく、バタバタと倒れていくのです。
 この本は、最新の学説の到達点を見事に小説にまとめあげている点もすごいと思いました。
 「この時代小説がすごい」1位というのも、うべなるかな、です
(2014年4月刊。1600円+税)

戦国大名

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  黒田 基樹 、 出版  平凡社新書
 戦国大名と織豊大名・近世大名とは、領域権力ということで、基本的な性格を同じくし、社会状況の変化に応じて、その様相を変化させていったもの。
太閣検地、兵農分離、石高制などは、研究上の世界におけるある種の幻想でしかなかった。
戦国大名とは、領国を支配する「家」権力である。大名家の当主は、「家」権力の統括者という立場であり、権力体としての「戦国大名」は、大名家の当主を頂点に、その家族、家臣などの構成員をふくめた組織であり、いわば経営体ととらえるべきもの。
 戦国時代について、当時の人々は、まだ「室町時代」と認識していた。当代とは室町幕府の治世を指し、「先代」とは鎌倉幕府の統治時代を指した。
 戦国大名は、領国内において、平和を確立するが、それは内部における自力救済の抑止によって成り立っていた。
 中世における自力救済のキーワードである「相当」(同量報復)、「兵具」(武装)、「合力」(援軍)の禁止によって領国内の平和が形成・維持された。
 検地は、個々の百姓の土地所有権を決定するものではなかった。個々の百姓の所有地は、むしろ村によって決定されていた。
 通説では、石高は生産高となっているが、誤りである。近世の石高も、年貢賦課基準高でしかなかった。検地によって決定された村高が、そのまま年貢高になるのではなかった。村高から、いろいろの「引方」と呼ばれる控除分が差し引かれて、その残りが年貢高(定納高)となった。それこそが、大名と村との間における高度な政治交渉の反映だった。村高に対する引方の割合は、おおよそ2~3割におさめられていた。
 一反あたりの年貢量は、田地一反あたり五斗二升。平安時代後期の反別三斗の2倍にあたり、江戸時代の85%にあたる。
 したがって、織豊・近世大名の検地が戦国大名の検地より多くの富を収奪したというのは幻想なのである。こうした検地は、主に大名の「代替わり」ごとに行われた。
村という組織は、決して固定したものではなく、人員構成も領域も変動する可能性を常にもっていた。
 棟別銭は、屋敷地に対する賦課役で、屋敷地の家数に応じて賦課された。
 陣夫役は、先陣のたびごとに人・馬を徴発するもの。
 戦国大名の領国支配のなかで、大きな歴史的意味をもった政策が目安制による裁判制度の構築だった。
 目安は訴状のこと。評価衆が組織され、目安制による訴訟の審理にあたった。双方の出頭が求められ、出頭しなければ、無条件で敗訴とされた。
 目安制の全面展開について、北条氏康は、「百姓に礼を尽くす」政策の筆頭にあげている。そして、これが他の戦国大名に広がっていった。
 この目安制の意義は、領国を構成する社会主体である村のすべてに対して、大名家への直接訴訟権を認めたことにある。それは、すべての人々に訴訟権を認めた、万人に開かれた裁判制度がここに始まったと言ってよいもの。現代の裁判制度は、この延長線上に位置している。
 戦国大名の実際を知ることが出来ました。
(2014年1月刊。780円+税)

明智光秀の乱

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  小林 正信 、 出版  里文出版
 明智光秀とは何ものだったのか?
この本は、明智光秀の正体を執拗に追跡し、明らかにしています。その立証過程は実に詳細であり、こまかすぎで辟易するほどです。
 でも、それがいかにも研究者による真面目な学術的研究なので、最後まで、何とかおつきあいさせていただきました。推理小説ではありませんので、ネタバラシしてもいいでしょう。
 著者の結論を紹介します。
 ①明智光秀とは、室町幕府の奉公衆であった進士源十郎藤延である。その父は、進士(しんし)美作守(みまさかのかみ)晴舎(はるいえ)である。
 ②室町幕府の将軍・足利義輝の側室の小侍従は、明智光秀の妹のツマキである。
 ③ツマキの子・明智光慶は、足利義輝の遺児・小池義辰である。
著者は、「本能寺の変」と呼ぶのは誤りだと主張します。明智光秀が動員した軍勢1万3千という規模、織田政権の転覆を意図したことから、これは大規模な軍事的反乱であった。つまり「乱」であって、小規模な兵力による襲撃を指す「変」とは言えない。なーるほど、ですね。
 織田信長は、足利義昭を追放しておらず、室町幕府を滅ぼしたわけでもはない。
 室町幕府の統治機構を実際に統治していたのは明智光秀である。
 明智光秀は、天正10年(1582年)6月2日に信長、信忠親子の殺害に成功はしたものの、徳川家康とその重臣たちを取り逃してしまった。これが光秀の破滅をもたらした。
 この乱の直接的な要因は、信長の政権構想をめぐる家康の処遇をめぐっての信長と光秀のきわめて深刻な対立にある。
 光秀は、室町幕府の官僚機構の中心的存在であった「奉公衆」の出身者であったからこそ、「奉公衆、奉行衆」などを統括する存在として、織田政権においても重きをなしていた。
 織田政権における光秀の役割とは、事務方全体をまとめる官房副長官として幕府の官僚機構全体を取りまとめ、信長の幾内統治を円滑に担うことにあった。信長の要請・命令に応じて幾内の軍事力として室町幕府の幕臣たちを動員することが、織田政権内における光秀の高い地位を規定していた。
 明智光秀は、奉公衆・奉行衆など将軍直臣としての信条、武家社会における名門としてのエリート意識、そして歴史的に形成された伝統・慣習にもとづく室町幕府のカルチャーを代表する存在だった。
 明智光秀の乱を主導した勢力は、京都を中心として信長の強大なカリスマ的支配を支えてきた基盤であるとともに、その実態は室町幕府機構そのものであった。光秀は、このような既存の奉公衆・奉行衆などによる伝統的かつ官僚的支配層の利益を代表することにより将軍・足利義昭の出奔後も織田政権を支えていた。
 幕府の周辺勢力を動員して兵力にも転用しうる、即戦力として、あるいは潜在的にその能力が十分にあったからこそ、光秀は信長から格別の地位を与えられていた。
 織田政権の全期間にわたって室町幕府は存在していた。足利義昭は、信長の死後もなお、天正16年(1588年)正月まで将軍であり続けた。
 明智光秀は、その前半生、そして父母兄弟も妻も不明である。
 この本を読んで驚いたことの一つとして、昔の武将が、何度も姓名を変えていることです。これでは、うわすべりに歴史の本を読んでいても、同一人物が名前を変えているだけかもしれないというわけですから、歴史の迷路にさまよいかねません。
 私のご先祖様だと勝手に思っている上杉謙信は、虎千代、平三、長尾(平氏)、上杉(藤原)、上杉政虎、輝虎、謙信と変遷しています。大変です。
 信長は、これを利用して、家臣に九州の名族を名乗らせ、九州の国々にちなんだ官を受領させた。東国の者がそれを聞けば、信長は既に九州の土地を併合しているかのように錯覚させることを目論んだ。それで畏服させようというのだ。
 同じく、光秀も改姓によるものでは・・・。
 信長の側近には「秀」の字が目につく。秀吉も、その一人だ。
 光秀の享年は不明である。54歳、いや67歳と、いろいろあって定まってはいない。
 進士(しんし)氏は、鎌倉以来の足利家の家臣(被官)として、武家の故実の「儀礼・式法」を伝承している家として知られていた。進士氏は、「御前奉行」としても知られ、武家儀礼において特に重要な将軍が重臣や守護大名の邸宅を訪問する「御成」の際の手順、その料理に関する総合プロデューサーという役割を代々になってきた式法の家である。
 幕府官僚機構を統括していた光秀が信長の「御成」を認めることは、信長を足利将軍に代わる武家の棟梁として認知することになり、それは足利(室町)幕府体制の否定を意味するものだった。
 大変刺激的であると同時に、説得力のある本でした。400頁のずっしりした本に、ついつい読みふけってしまったことでした。
(2014年7月刊。2500円+税)

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