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カテゴリー: 中国

李鴻章

カテゴリー:中国

著者   岡本 隆司 、 出版   岩波新書  
 日清戦争のあと、日本の下関で開かれていた日中協議の最中、中国の全権使節・李鴻章は、若き(26歳)日本人壮土からピストルで顔面を撃たれた。しかし、弾丸の摘出もせず、顔面に包帯を巻いたまま、日本との協議を続けた。そのとき、73歳、なんという生命力であり、胆力の持ち主でしょうか・・・。
 怜悧(れいり)にして、奇智(きち)あり。常に放逸不羈(ふき)。無頓着に、その言わんと欲するところを言い放つ。
 李鴻章は、1840年、18歳で、科拳の第一段階である学校入試に合格した。
 李鴻章は25歳のとき、上から数えて15位で進士となった。かなりの速さだ。自信と自負の強い人物に成長した。
 清朝は、もともと華夷一体、多種族が共存する政権であった。
日本軍の台湾出兵によって、清朝の危機感は著しく高まった。
 中国民衆が心ならずも日本に譲歩することになったのは、軍備が空虚だったからだ・・・。
 李鴻章は、1860年代から、清朝きっての知日派だった。李鴻章は、中国の現況に失望すればするほど、日本に対する関心を高め、畏敬の念すら抱いていた。
 李鴻章という人物を見直すことになる本でした。
(2011年11月刊。760円+税)

台湾海峡1949

カテゴリー:中国

著者   龍 應台、 出版   白水社
 中国解放戦を勝者側から描いた過程については、これまでずっと読んできましたが、この本は敗者であった国民党軍側から描いていて、とても新鮮でした。
 1984年11月、河南省の南陽市にある16校の中学・高校から5000人の生徒と教員が集合した。千里の道を歩いて、まだ戦火の及んでいない湖南省まで疎開しようというのだ。
 5000人もの青少年が一人ひとりリュックを背負って隊列をつくった。
 1949年3月、隊列は湖南省南西の零陵に落ち着き、授業を再開した。
 これらの教員の多くは、考え方が旧式だった。北京大学や精華大学出身の教員の思想は保守的で、新しい潮流を追いかけるタイプではなかった。共産党の考えを信じなかった。先生が生徒を引率するのは、母鶏がひよこを連れ歩くのと同じで、はぐれるものなどいなかった。先生と生徒とのあいだには、人間的な結びつきがあった。先生と一緒なら保護者も安心していた。
 1949年10月、教育省から緊急電報が入った。現地を即時撤退し、疎開せよ。これを受けて学生は二手に分かれ、雨風をおして湖南と広西の省境まで歩いた。広西省に達したとき、5000人の子どもは、半分になっていた。そして、国民党軍97軍246連隊が偶然そこに通りかかって、学生を守りながら進むことに同意した。ところが、共産党軍が追いつき、激戦のなか険しい山中を逃げまわった。南陽を出発した5000人の子どもたちが1年後にベトナム国境地帯に到達したとき、その数は300人にまで減っていた。
そして、フランス兵によってベトナムで捕虜収容所に収容された。しかし、すごいのです。300人にまで減った生徒と教員が、5000人だったときと同じように、腰を下ろして授業を再開したのです。
水も電気もないベトナムの鉱山の空き地で始まった青空学校で、河南省の南陽から携えてきた『古文観止』は、残された唯一の教科書だった。教師は全生徒に、30篇の詩を諳んじるよう厳しく指導した。
 1953年6月、ついに台湾に渡ることができた。そのとき生徒数は208人。
中国の東北地方がまだ満州国だったころ、多くの台湾人が出稼ぎに来ていた。当時、5000人以上の台湾人が満州国で働いていたが、その多くは医師と技術者だった。
 日本軍はたくさんの中国人を捕らえて収容所に閉じ込め、炭鉱作業に従事する苦力(クーリー)とした。逃亡を防ぐため、見張り役は錠を何重もかけた。就寝前に労働者たちから衣服をはぎ取り、パンツまで回収した。まるで豚扱いだ。そして共産党軍が東北へ進軍するとき、十分な兵員数を保持して国民党軍と対決するため、日本軍の方法をそのまま採用した。寝る前に総員のパンツを回収した。それでも、少年兵たちは必死に逃げた。3万2500人いた兵が4500人も減った。
 さらに、共産党軍は「兵力現地補充」作戦をとった。国民党軍の兵士を捕虜にとると、次々に戦場の最前線に送り、さっきまで味方だった国民党軍と戦わせた。解放軍(共産党軍)は、百万の民工の肩と腕を頼りに、前線まで物資を運び、傷兵を後方へ送った。民工は銃前と銃後を働きアリのように行き来していた。兵士1人のうしろに9人の人民がいて、食糧の手配、弾薬輸送、電線架設、戦場掃除、傷兵看護を担っていた。
 満州人は、日本人を「日本鬼」と読んだが、台湾人のことは「第二日本鬼」と呼んだ。台湾人は、必死で自分が日本人でないことを証明しようとした。
台湾接収を任務とする国民党軍と、「王の軍隊」の到来を期待していた台湾の民衆。両者は正面からぶつかりあった。相互不理解は内出血のごとく、あっという間に悪化して、化膿した。
 そして、1947年2月28日、台湾全島で動乱が起きた。2.28事件である。
 本書は、台湾へ逃げてきた国民党政権と軍隊について、台湾支配者という強者としてではなく、故郷を失った弱者として描いたところに特徴がある。
 なーるほど、本当にそうなんです。国民党軍との内戦のすさまじさを描いた中国映画を少し前にみました(申し訳ないことに、題名は忘れてしまいました)が、中国解放戦の過程では勝者も敗者も大変な苦しみを味わったことを少しばかり実感することができました。
 2009年8月に発売され、1年半で40万部も売れるベストセラーになりました。中国本土では禁書とされているようですが、実はかなり読まれているということです。たしかに勝者の側だけでは分からないことがありますからね。
 中国解放戦の内実を知るうえで、欠かせない本だと思いました。
(2012年7月刊。2800円+税)
さすがは海の幸
 稚内に来たら、やっぱり海の幸。一晩目は、居酒屋「竹ちゃん」。ほっけ、タラバガニそして、うに、いくらをしっかり堪能しました。最後は銀杏草(ぎんなんそう)という海草のみそ汁でした。
 二晩目は、地元の人の推薦の居酒屋「いつみ」。ここは家庭的な味わいです。まるごと食べられるハタハタのからあげを初めていただきました。八角(はっかく)の軍艦焼きは、甘いみそだれです。いつもは焼酎お湯わり2杯と決めているのですが、ついつい3杯目まで頼んでしまいました。
サロベツ湿原
 ラムサール条約にも指定されている広大湿原です。泥炭が採られていた歴史があります。稚内から鈍行に乗って一時間近く。そこからタクシーで行こうとしても、なんと町に一台。30分待ちでした帰りはバス。ところが、稚内行きは、4時間後しかないのです。
 ビジターセンターは近代的建物で、湿原は板道を歩けます。20分ほど。3回歩きました。残念ながらユリ科のエゾカンゾウはすっかり終わっていました。黄色一色のお花畑が広がるのを期待していたのですが・・・。ところどころ、わずかに紫色のハナショウブ、そして、エゾニュウの白い花を見かけるくらいで、緑の大草原です。その先に、利尻富士が見えます。海を隔てていますが、間近に感じます。傑作風景写真を狙ったのですが、もう一つでした。

毛沢東、大躍進秘録

カテゴリー:中国

著者   楊 継縄 、 出版   文芸春秋
 毛沢東の最大の罪状の一つが大躍進政策下で3600万人もの中国人が餓死したという事実です。その後の文革大革命の過ちに匹敵する罪悪です。
著者は中国共産党のエリート記者として活躍していたのですが、大躍進時の中国の実情を暴いたこの本は中国では発禁となっているとのことです。
止むことのない革命的大批判、見たり聞いたりする残酷な懲罰、それらは怯(おび)えの心理状態をつくり出す。それは毒蛇や猛獣を見たときの瞬間的な怯えとは異なり、神経や血液のなかに溶け込んで生存本能となる怯えなのである。人々は、熱い火を避けるように政治的危険を避ける。
皇帝が一番偉いという考えの強い中国では、人々は中央政府の声を権威とみなす。中国共産党は、中央政権という神器をつかって、全国民に単一の価値観を注入する。経験の浅い青年たちは、この注入された価値観を心から信じ、世間を知る親たちは、あるいは神器に対する迷信から、あるいは政権に対する怯えから、自分の子どもが政府と異なる考えをもたないよう、常に子どもが従順でいうことを聞くよう要求する。
 1958年から1962年の間に中国全土で3600万人が餓死した。餓死者の特徴は、死に瀕して発熱はなく、反対に体温は下がる。
 死の前の飢餓は、死そのものより恐ろしい。トウモロコシの芯、野草、樹の皮を食べ尽くし、鳥のフン、ネズミ、綿の実、それらすべてを口にした。白い粘土(観音土)も口に入れた。死者の肉は、他人だけでなく、その家族すら食糧にした。当時、人肉食は特別なことではなかった。
公共食堂制度は、大量の餓死者を出した主要な原因である。公共食堂を始める過程は、家庭を消滅させる過程であり、農民から略奪する過程でもあった。
 公共食堂が始まった最初の2ヵ月あまり、人々はどこの食堂でも、やたらに飲み食いした。食糧が浪費された。公共食堂は、幹部特権化の基地にもなった。
 公共食堂のもっとも大きな効能は、プロレタリア独裁を一人一人の胃袋にまで徹底させたことである。公共食堂を始めてからは、生産隊長は「法廷」の長となった。そのいうことを聞かないものには飯を与えない。公共食堂とは、実際には、農民たちが飯茶碗を指導者に渡すことである。つまりは、生存権を指導者に渡すことであった。飯茶碗を失った農民は、まさに生存権を失った。
 
 農民が大量に餓死しているとき、幹部は分け前以上に食べている。これは普遍的な現象であった。
 1958年の夏秋以降、毛沢東は、公共食堂を何回となくほめたたえた。
 1960年12月に事実上、公共食堂は解散した。しかし、毛沢東は公共食堂が次々につぶれていく状況に非常に不満だった。
劉少奇や周恩来は毛沢東に反対したことはあったが、毛沢東には逆らえず、ときには、毛沢東よりもっと過激なことさえ言って火に油を注いで、さらに助長した。毛沢東に積極に加担した者、保身のために余儀なく支持した者、権力にとりいった者、無知蒙昧だった者、ドサクサに紛れてもうけた者など、いろいろいた。
 1958年の「人民日報」は完全にホラ吹き競技大会の紙面となっていて、ホラ吹きを組織していた。農民が農村で大量に餓死する一方で、都市の需要をまかないつつ、豚や卵は輸出されていた。政府の買い上げ目標が高いため、買い上げ作業は困難をきわめた。政府は、農民が食料を上納できないのは生産隊が食料を隠匿しているからだと考えた。
 1959年の廬山会議において彭徳懐は毛沢東を批判する私信を毛沢東に送り届けた。このころ、毛沢東は両目を失い指導者の地位を失うかもしれないと心配していた。
 毛沢東は、軍の高級将校たちの間に団結がないことから安心して手が打てた。周恩来や林彪は、毛沢東が彭徳懐を批判したとき、その保身に走った。周恩来も彭徳懐に対して、井戸に落ちた者にさらに石を投げつける態度をとった。
 毛沢東は1940年8月の百団大戦について否定的評価を下していた。これも彭徳懐の歴史的に重要な誤りとみなしていた。
 中国とはどんな国なのか、毛沢東の誤りはなぜ生前にただされなかったのかという点を学ぶことのできる本です。
(2012年3月刊。2800円+税)

不愉快な現実

カテゴリー:中国

著者   孫崎 享 、 出版   講談社現代新書
 サブタイトルは、「中国の大国化、米国の戦略転換」となっています。
日本がいつまでも対米従属一辺倒でいるうちに、アメリカは日本より中国を重視する政策に変わっている。それなのに、日本人はいつまでも、いざとなればアメリカが日本を守ってくれるなどという幻想に浸っている。
こんなことを厳しく警告している貴重な新書です。ぜひ、手にとってお読みください。私は、著者の話で一度じかに聞きましたが、まことに説得力のある話でした。
 著者は外務省に入って各国の大使館につとめたあと、イラン大使、そして防衛大学で教授をつとめています。ですから、決していわゆる左翼ではないのです。
 日本は、これまで外交、安全保障の分野で極端な対米従属をしてきた。対米従属で日本経済は本当に潤ってきたのだろうか・・・?
 実は逆である。日米関係を強固にする努力を続ければ、日米の反映があるという定説は、過去20年の日本に実は、まったくあてはまらない。事実でないことを、日本人はなぜ20年間、魔法にかけられたように、頑なに信じてきたのだろうか。
 今日、アメリカは、日本より中国をより重要と判断している。我々日本人には、中国が超大国になる。ましてアメリカの上にいくという事実を認めたくない。これが、今も無意識のうちに働いている。
 中国市場がどういう市場であれ、ここで勝利を収められない企業は、もはや世界市場で勝ち残れない。グローバル企業を目ざすなら、中国市場で戦うしかない。
 キッシンジャーは日本人を戦略的にものを考えない人たちと蔑視してきた。アメリカのクリントン長官にとって、普天間基地を辺野古に移転するかどうかは、不動産屋のような問題であり、知的刺激は何もない。だから、彼らは日本人と話したがらない。
中国の全体的な戦略国において、日本の重要性は甚だしく縮小した。
 米軍にとって在日米軍基地の最大の利点は、日本政府の財政負担である。日本政府は「思いやり予算」という各目で、基地経費の75%から80%近を補填している。アメリカの財政状況が厳しい折、これだけ魅力のある場所はない。
 中国の輸出金額はGDPの27%近い。今日の中国経済は輸出に依存している。したがって、冒険的対外政策をとって自国の輸出市場を失うことを避ける必要性は他の国に比べても高い。
 現在、アメリカは中国の軍事力増強を注意深く観察しつつ、しかし、政策としては協調路線を追及している。
 尖閣諸島近辺で日中刊の軍事衝突が起こったとき、日本が勝つシナリオはない。そんなとき、中国は戦闘機330機、駆遂鑑16隻、潜水艦55隻を動かせる。日本の自衛隊は、とてもこれに対抗できない。
 中国の一般市民の経済水準はアメリカの4分の1であるが、国全体としてみると、中国のGDPは世界一である。
 日本には、首相がいくらもがいても、政界、官界、経済界、マスコミにはアメリカに従属するシステムができあがっている。
 そうなんですよね。いつまでたってもアメリカの忠犬みたいに尻尾を振りつづける自民そして民主党政権と経済界中枢にはほとほと嫌気がさします。もっと日本人としての自立心をもてよと叫びたいところです。
(2012年3月刊。760円+税)

曹操墓の真相

カテゴリー:中国

著者  河南省文物考古研究所  、 出版  国書刊行会 
 『三国志』に有名な曹操のお墓が発見・発掘されたというニュースは、日本でも大きな驚きをもって報じられました。2009年のことです。
 曹操は216年に漢の献帝により魏王に封ぜられ、220年春の死後、魏武王の諡(いな)を得た。曹操は赤壁の戦いでも有名ですよね。映画『レッドクリフ』は、そのイメージをよく再現していました。
『三国演義』では曹操は奸臣(かんしん)として描かれている。旧劇の舞台でもおなじく奸臣とされたため、曹操のイメージは固定している。ところが、毛沢東は曹操を高く評価して名誉回復に努めた。曹操の詩を好み、その気魄が雄大で情緒豊か、宇宙を呑吐する様を好んだ。毛沢東は、「曹操は素晴らしい政治家、軍事家であり、また素晴らしい詩人でもある」と評価した。
曹操は古くからの部下を封賞して抜擢すると同時に、新たに優秀な人材を招聘し、寛容の心で来たる者を大切にした。功績がある者を封賞し有能の士を登用し、広く人材を集めることを通して有効に国家の管理システムを支配し、軍隊を掌握し、自身のブレーンを築き上げた。
 曹操は、中国を統一する大志を抱いていた。そして、天下を兼併するには、軍糧を手にすることが必須であることに思い至った。そのため、屯田制を始めた。屯田制が拡充されると、穀物の生産量は大いに増加し、倉庫は充実した。
 赤壁の敗戦のとき、曹操は54歳、曹操による中国統一事業における悲壮な敗北となった。
この本は曹操墓が発掘されるに至った状況を写真入で詳しく紹介し、曹操の墓だと判断した理由を明らかにしています。盗掘にもあっていたのですが、手がかりはいくつも残されていたのです。
かつて、明の十三陵を訪問したとき、中国には未発掘の陵や遺跡がまだたくさんあること、後世のため発掘には慎重であることを知って感動したことがあります。下手に発掘して貴重な遺跡を台なしにすることがないようし配慮しているわけですが、なるほどその決断は正しいと思いました。たしかに貴重な遺跡を十分な保存技術のないまま掘りあげるべきではありません。
 写真を眺めているだけでも楽しく、『三国志』や『水滸伝』を読んでわくわくしたことを思い出しました。中国のスケールの大きさを実感させられる本です。
(2011年9月刊。2300円+税)

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