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カテゴリー: アジア

シャンタラム(上)

カテゴリー:アジア

著者   グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ 、 出版   新潮文庫
 インド(ボンベイ)のスラム街の生活が描かれています。
 長大な小説の第1巻ですが、自身の体験をもとにしていますので、その迫力は絶大なものがあります。
インドとインド人についての単純な、それでいて驚くべき真実は、インドに行ってインド人と付きあうときには頭より心に従った方が賢明だということだ。その真実がこんなにもあてはまる国は、世界中どこを探してもほかにない。
 不誠実な賄賂はどの国でも同じだが、誠実な賄賂が存在するのはインドだけだ。
 ええーっ、本当でしょうか。信じられませんね。そう言えば、最近もインドで、賄賂をなくせという集会とデモがあったと報道されていました・・・。
 主人公はオーストラリア人。刑務所を脱獄したから、もはや本国には戻れません。
 刑務所で暮らすということは、何年ものあいだ、午後の早い時刻から翌日の午前の遅い時間まで、毎日16時間も監房に閉じ込められ、日の出も日没も夜空も眼にすることがないことを意味する。つまり、刑務所で暮らすということは、太陽と月と星を奪われることを意味する。
刑務所は地獄ではなかったが、もちろん天国も見あたらなかった。それはそれで地獄にいると同じくらい悲惨なことだ。
 人市場で子どもたちが売りに出されている。しかし、この子どもたちは人市場にたどり着かなかったら死んでいただろう。餓えに苦しめられ、すでに自分の子どもの一人かそれ以上が病気になって死んでいくのを見てきた親たちは、「人材発掘人」が来てくれたことに感謝し、ひざまずいて彼らの足に触れ、息子や娘を買ってくれと懇願する。せめて、その子の生命だけでも助けたいという思いからだ。
 これって、本当なのでしょうか・・・。哀れすぎです。
 主人公はボンベイのスラムで医師まがいのことをして、住民の生命を救い、頼りにされるのでした。インドは行ってみたい国ではありますが、とても行く勇気はありません。
 そんなインドに住みついた白人脱獄囚の冒頭にスリルにみちた話が展開していき、次はどうなるのかと恐る恐る頁をめくっていきました。
(2011年12月刊。990円+税)

経済大国インドネシア

カテゴリー:アジア

著者  佐 藤  百 合 、 出版  中公新書
 インドネシアという国には、あまりいい印象がありませんでした。長く軍部独裁が続いてきた国で、9.30事件では共産党をはじめ民主的人士を大量虐殺し、近くはチモール独立運動も圧殺した国というイメージです。
 ところが、この本によれば、そんなインドネシアが最近ぐんと変化したといいます。
 インドネシアの人口は2億4000万人。日本の2倍。ロシアの1.7倍。日本とメキシコの2倍。経済成長率の高さでは、中国・インドが突出していて、それに続くのがインドネシアである。
2004年、インドネシアは建国史上初めての直接大統領選挙を成功させ、ユドヨノ大統領が誕生した。これをもってインドネシアに民主主義体制が確立したといってよい。
 インドネシアでは、毎年200~250万人の新規参入労働力が発生する。
インドネシアは多民族国家である。1128の民族集団と745の言語がある。インドネシアは、6000あまりの無人島を含む、1万7504の島々から成る最大の群島国家である。インドネシアの国語は、最大民族集団のジャワ人のジャワ語ではない。文法がシンプルで表記が簡便なムラマ語(マレー語)を国語としている。
 インドネシアは総人口の88%、2億1000万人がイスラム教徒、世界最大である。しかし、インドネシアはイスラム教を国教とはしていない。ヒンドゥー教のヴィシェヌ神を背に乗せて飛ぶ神の島、ガルーダを国章にしている。インドネシアという国は、各地の多種多様な民族がオランダを共通の敵として共にたたかったという歴史的事実を唯一の根拠として誕生した国である。
 インドネシアでの現地生産の長い日系企業のなかではインドネシアの作業員の質の評価は高い。手先の器用さ、眼のよさ、作業効率の高さ、忍耐強さなどである。
 インドネシアの輸出相手国として、日本は原油・天然ガスの最大の仕向け先として一貫して第一位を占めている。
 うむむ、日本って、インドネシアとそんなに深い関係だったのですね。
 日本から見て、インドネシアは最大の援助対象国である。ODAについて、日本政府からの債務が270億ドルで44%を占める。
 しかし、同時に日本はインドネシアを南進策の下で占領した歴史がある。インドネシア人の日本観も、日本による軍事占領の歴史を起点としている。
 そうなんですね。日本人の私たちの忘れがちなところです。加害者は忘れても、被害者は忘れることができないものです。
 インドネシアの今日を、ハンディに知ることのできる貴重な本でした。
(2011年12月刊。840円+税)

僕は日本でたったひとりのチベット医になった

カテゴリー:アジア

著者   小川 康 、 出版   径書房
 実に面白い本でした。一日中ずっと読みふけっていたい本です。
 何が面白いって、チベット医学を日本人が学び、それを習得するまでの苦労が生き生きと、手にとるように描かれています。笑いあり、涙あり、驚嘆すべき暗誦ありの日々なのです。
 1970年生まれですから、いま41歳でしょうか。東北大学薬学部を卒業し、しばらく人生の展望を見失っているとき、ひょんなことからチベットに渡ったのです。なんという運命でしょう。チベット医学を学ぶときには、外国人枠(ヒマラヤ枠)で入学できたのでした。
それにしても、短期間のうちにチベット語を習得し、仏教、歴史その他の科目で500点以上(1000点満点)を獲得しなければならないのを突破できたというのですから、実に偉い。なみの努力ではここまでできませんよね。
 試験問題は、たとえば、薬師如来のご身体の色は何色か。その理由を述べよ、というものです。うひゃあ、こんな問題に答えきれるなんて・・・。
 朝7時に起床し、お堂で読経が始まる。般若心経、文殊菩薩、ターラ菩薩のお経を次々と猛烈なスピードで諳んじていく。
ヒマラヤで薬草を採る実習がある。20日間にわたる実習が続く。奈良の正倉院に納められている薬草を調べると、そのひとつがヒマラヤのホンレンであることが判明した。丸一日かけてとってきた薬草を乾燥させると、たった手のひら一杯ほどになってしまう。
 ここでは、教典(四部医典)と解読書を90分のうちに早口言葉のスピードで暗誦させられる。
 著者は、なんとこの暗誦に挑み、成就したのでした。座布団の上で足を組み、背筋を伸ばす。そして、薬師如来の祈りの言葉を捧げると、大きく深呼吸して眼を閉じた。抑揚をかなり大げさにつけた語り口で暗誦を続けた。
 1年に1日だけ、それも満月の光のもとでしか作ることのできない神秘の薬がある。その名も月晶丸。最後に牛乳を混ぜる作業は必ず満月の下で行わなくてはいけない。
 うむむ、この神秘一番の薬はぜひとも服用したいものですね。いったい何に効くのでしょうか?おもに胃かいようなど、胃の熱病に用いられるとのことです。
 順風満帆のように思われる5年間の勉学生活ですが、実はまったく違います。1年のときは快進撃でした。しかし2年生のときはノイローゼになり、3年生で休学し、そして、4年生で復学して、ついに卒業にこぎつけたのです。まさに七転八倒の学園ドラマを演じたのでした。しかし、それにしてもチベット人のなかで日本人一人よくもがんばったものです。すごいです。偉いものです。
 卒業のとき、著者は、4時間半に達成することができたのでした。ここまでくると、読んでいる私も、自分のことのようにうれしくなってしまいます。
 果てしなく続く暗誦です。ええーっ、4時間半も座って暗誦するなんて、とんでもないことです。まさにカミワザですね。そのときの写真が紹介されています。教師や学友たちに囲まれ、広くない講堂の中央に座って暗誦している姿です。途中から、著者がずっと可愛がっていた野良犬が二匹、著者のそばに寄り添っていたというのも嘘のような話でした。
 こうやって著者はチベット医(アムチ)になったのでした。暗誦できるのがどれだけ医者として役に立つのかなどというのは無用の詮索です。すごい勉学の日々でした。読んでいるうちに、なんとなく、私もまだがんばれるかもしれない。そんな不思議な気持ちになりました。
 ちなみに、著者は、今は長野県小諸市で「アムチ薬房」を開設し、チベット医学とともに日本古来の伝統医療の紹介・普及につとめているとのことです。いちど、お世話になりたいと思いました。
 いい本をありがとうございました。
(2011年10月刊。1900円+税)

悲しきアフガンの美しい人々

カテゴリー:アジア

 著者 白川 徹、 アストラ 
 
 泥沼のアフガニスタンへ今、日本の自衛隊もアメリカの目下の軍隊として出動しようとしています。とんでもないことです。
 福岡県出身の中村哲医師のペシャワール会の営みを支援することこそ日本政府のなすべきことではありませんか。軍隊を派遣して平和を回復することなんて出来っこありません。もし、それが出来るというのなら、世界最強のアメリカ軍だけで足りたはずではありませんか。
 アフガニスタンの実情が写真とともに詳しくレポートされている本です。表紙にある少女が泣いている写真は問題の本質をついたものです。本当に泣きたくなりますよね。
 アメリカ軍は「人道援助」を隠れ蓑とした武装勢力の捜索をする。それによって村民の反発が高まっている。アメリカ軍の「人道援助」なるものは、名ばかりのもので、その内実は旧日本軍の宣撫工作に近い。住民を味方につけ、敵の情報を得るという行為は、「人道」という言葉にそぐわない。
 アフガニスタンでは、男性の識字率は50%、女性は15%未満でしかない。
 アフガニスタンの知識層の多くは戦乱のなかで、祖国を捨てて欧米などに移住した。いまの福島からの「自主避難」と同じことですよね。
 アメリカは、イラク戦争をふくめて6000人以上のアメリカ人青年の生命を失い、また総額1兆ドル(80兆)もの巨費を支出した。それだけの支出に見合う「収入」があったとは、とても思えない。
 ペシャワール会のアフガニスタンでの活動が紹介されています。そして、それが見事に現地で定着していることを知ると、同じ日本人として誇らしい気分になります。
 ペシャワール会が水路をつくった周辺にはケシ畑はない。十分な水があれば小麦や米の栽培が可能であり、わざわざケシ栽培という「やばい橋」を渡る必要がないからだ。
 軍事ですべてが解決するなんて、まったくの幻想だと思いました。もっと日本は平和憲法、九条の精神を世界に広める努力をしていいし、すべきだと思います。
         (2011年9月刊。1700円+税)

イラン現代史

カテゴリー:アジア

 吉村 慎太郎      有志舎
 イランとかイラクとなると、さっぱり分からない国というイメージです。
 なんとか少しでも理解しようと思って読んでみました。
 イランは7000万人の人口をかかえ、世界第3位の石油産出国であり、天然ガスと石油の確認埋蔵量で第2あるいは3位。GDPは3851億ドルで、世界26位。
 イランは教育と学問に熱心な国である。
 イランはペルシア系がようやく過半数に達するほどの、多民族国家である。民族別の人口センサスが取られたことはないので推定によると、ペルシア語を母語とするペルシア系民族は50%前後。クルド人も北西部に住む。ムスリム人口は99.4%。世界的には少数派のシーア派が支配的である。テヘランの人口は700万人以上。
 19世紀のイランを支配したトルコ系ガージャール族は、小規模な部族であったが、巧みな操作で130年間も支配を続けた。ガージャール政府は、敵対的でない部族集団には既存の部族長や支族長の権力温存を図り、自治を許した。地主権力にも介入しなかった。また、地主や富裕商人を中心とする地方名士の権力も容認した。
ガージャール朝権力は、大規模な軍事力も官僚機構もなくしてすました。軍事力は部族軍に、完了機構は地方有力者層に依存し、最低限の高級官僚さえ抱えればよかった。
 ガージャール朝は、半独立的な宗教勢力を直接従属させるのではなく、シーア派の擁護者としてふるまった。
 イランを含む西アジアの国々に今なお親日的感情が強いのは、同じアジアの日本が1904年の日露戦争において大国ロシアに勝利したことへの高い評価が関係している。
 1917年のロシア革命によって、イランは1907年協商にもとづく英露2極支配から解放されたかのように見えた。だが、戦後のイランを待ち受けていたのは、英-イ協定という単独保護国家を目指す英国の政策であった。当然、それに反発する反英抵抗運動は高揚することになる。しかし、反英、反テヘラン中央政府の立場で共通する姿勢を示しながら、そこに生まれた運動は一枚岩的な民族運動へと発展できず、テヘラン政府の動向を受けて動揺した。
 1920年代後半のレザー・シャー政権の特徴はガージャール朝期の政治家や官僚、知識人への依存にあった。
 1941年8月、突如として英印軍(2個師団)とソ連軍(12個師団)が南北から進駐を開始した。この共同進駐で、レザー・シャーが多額の予算をつぎこんで強化したはずのイラン軍(全12個師団)は、各地であっけなく敗走・解体した。そして、イラン全土は南北で英ソ両軍の占領下に置かれた。
イランにおける冷戦との関わりで重要なのは、新ソ派共産党「トゥーデー(人民)党」の成立である。
 1953年6月のクーデターはアメリカCIAとチャーチル政権下の英国秘密情報部(SIS)によって練りあげられた陰謀によっていた。クーデターの1か月前に潜入したCIA工作員によると、10万ドルが計画実施のために使われた。
 列強による石油支配とアメリカの支援に依拠し、国内的には自由な政治活動や言論を許さないシャー独裁体制が構築された。シャーは、アメリカからの経済的・物理的支援とともに、増大した石油収入も注ぎ込んで軍事力の増強を図った。12万人から20万人への兵力拡大と軍備増強のために生じた軍事予算は、石油収入の60%を占めるまでに膨れ上がり、異常なまでの軍事力重視策がとられた。1975年には、軍兵力は38万5千人にまでなった。
 シャー権力を支えたサバクはシャーの眼と耳であり、必要な場合には鉄拳となり、体制に背くすべての者を抹殺した。
 イランの軍事大国化は、アメリカからの兵器輸入によった。年間57億ドルの兵器を購入した。ところが1977年1月に成立したアメリカのカーター政権の人権を重視した姿勢は、シャー独裁に不満をもつ人々を刺激した。
 アメリカは人権重視の立場から国務省が武力弾圧を最小限に抑えるよう要求し、徹底弾圧によって治安回復を求める国防省などの要請と相異なるシグナルによってシャー政権は混乱した。在イランCIAはサバクに依存していたため、アメリカの対応は遅れた。
 2005年6月の大統領選挙で無名に近いアフマディーネジャードが勝利したのは大番狂わせだった。かつてハータミーを支援した世論が、「保守派」を後ろ盾にして、実行力をもち、貧困層から身を起こした出自など、多様な新味をもつ人物に将来を託したとみることができる。
 イラン社会は、西欧志向とイスラーム志向という両極に分化した多重性がある。
 歴史が実証するように、イランの多くの人々は専横な権力への従属状況に沈黙し続けることがない。政治社会的にいっそう成熟しつつあるイラン人の新たな、そして主体的な「従属と抵抗の100年」の幕は、すでに切って落とされている。
 イランとは、なかなか迂余曲折のある、一筋縄ではいかない国だと思ったことでした。
   
           (2011年4月刊。 2400円+税)

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