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カテゴリー: 社会

どんとこい、貧困!

カテゴリー:社会

著者 湯浅 誠、 出版 理論社YA新書
 マンガ入りで、難しいことを分かりやすく、優しい言葉で解説していますので、頭の中にすうーっと入ってきます。そして、たくさんの経験に裏打ちされていますので、よくよく分かります。うん、うん、そうだ、そうなんだよね。しきりにうなずきながら一心に読み進めて行きました。
 貧困とは、溜め(ため)がないこと。つまり、単にお金がないだけじゃなく、頼れる人間関係や、「やれるさ」という前向きな気持ちを持ちにくい状態を指す。逆に言うと、たとえお金がなくて「貧乏」でも、周囲に励ましてくれる人たちがいて、自分でも「がんばろう」と思えるなら、それは「貧困」じゃない。それが、貧困と貧乏の違いだ。
 必要なことは、「甘えるな」と突き放すのではなく、「世の中、捨てたもんじゃない。誰もが、あなたを見捨ててるわけじゃない」ということを、口先だけでなく、ちゃんと形で示すことだ。
 死ぬ気になれば、なんだって出来る。それは、そうかもしれない。しかし、その結果、不幸な人たちが増えて、社会としても不幸になるのだとしたら、いったい何のためにそんなことをしなくてはいけないのか?ふむふむ、なるほど、そうですよね。
 社会は人間でつくられている。その人間をつぶしていって、社会が良くなるわけがない。お金のために人間らしい生活を放り出すという本末転倒のやり方・考え方が、まず第一の間違い。お金をかけないためといって、いろんな費用を削ってきて、結果的に余計にお金のかかる事態を生み出している。これが第二の間違い。つまり、二重の間違いを犯している。
 自分が苦しければ苦しいほど、他人はずるいという気持ちが強まる傾向がある。そして、あまりにも違い過ぎる人には目がいかず、自分に近いところでちょこっとだけずるしているように見える人のことばかり気にかける。そうなんですよね。
 貧困状態に放置された人の選択肢は、次の5つしかない。
①家族に頼る
②自殺する
③罪を犯す
④ホームレス状態になる
⑤NOと言えない労働者になる
 自己責任論は、溜めがなく、がんばれなくなってしまった人たちを、さらに痛めつけるためにつかわれる。まったく同感です。
 現代日本社会は、滑り台社会だ。少なくない人たちが排除されてしまっていて、排除されると簡単に生活が成り立たなくなる。生きていけなくなる。そんな社会だ
 そうですよね。ニッサンの10人ばかりの取締役は、平均2億4000万円もの年俸をもらっています。そんな人から見たら、ホームレス状態の人はまさにがんばりが足りないとしか見えないことでしょう。でも、自己肯定感をまったく持てずに大きくなってしまった人、そして、手に何の技術も身につけていない人に、どうやってがんばれというのでしょうか……。
 今の日本社会は、つくづく弱いもの、高齢者、障害者に冷たいと思います。昔の日本では決してそうではありませんでした。
 今度の総選挙で、このことが重大な争点として浮かび上がっていないのが、私には大変残念でなりません。
 ポストバスはキアヴェンナを14時12分に出発しました。平地を走ります。左側に阿蘇の外輪山のように急峻にそそり立つ山が連なっています。
 やがて大きな湖が左手に見えてきました。バスの運転手がアナウンスしています。どうやら、コモ湖と言っているようです。湖には小さなヨットがたくさん浮かんでいます。湖面をセーリングで疾走する人もいます。モーターボートも走っていますので、ぶつからないかつい心配してしまいました。
 ボートに乗って、のんびり釣り糸を垂らしているおじさんの姿もみかけます。
 最終目的地はコモなのですが、コモ湖は人の形をした、すごく細長い湖です。左側に湖が見え隠れしながら、平坦な市街地やトウモロコシ畑をバスは走っています。
 バスが突然、大きなラッパ音を出します。どうしたんだろうと思うと、バスの左をオートバイが3台、走り抜けて前方に出て行きました。危ないぞ、と警告したようです。
 町の中を走り、山の方にのぼり、ルガーノを目指します。再びコモ湖のそばを走ります。狭い道です。バスはラッパをときどき大きく鳴らして走りますが、いよいよ離合するのが難しくなりました。反対方向に車が渋滞しています。よくぞこんな狭い道を利号して進めるものだと感心します。逆方向から走ってくる車は、バックミラーを道路沿いの塀に当てたりしています。それでも車体がこすりあわないのが不思議です。
 15分以上もノロノロ運転して進みます。ところが、スイス領内に入ると、とたんに道は広くなりました。片側一車線はきちんと確保されていますので、すいすいバスは進みます。
 高台にあるルガーノ駅に着いたのは16時30分。16時10分到着の予定でしたから、20分遅れです。湖畔道路で大渋滞だったせいです。
 ルガーノ駅にあるカフェに入って、キールロワイヤルを飲んで一息つきました。やれやれです。4時間のポストバスを乗り切って、少しばかり自信が付きました。
 
(2009年6月刊。1300円+税)

2011年、新聞・テレビ消滅

カテゴリー:社会

著者 佐々木 俊尚、 出版 文春新書
 ショッキングなタイトルの本です。ええっ、まさか……と思いましたが、テレビ記者に聞くと、テレビ業界に将来はないと思うので、真剣に転職を考えていると言います。小学生のころからテレビとともに育ってきた私ですが、大学に入ってからほとんどテレビは見なくなりました。今では、せいぜい週に30分間、野生動物の紹介番組を見るぐらい(それもビデオで)です。
 新聞を読む人々は年々激しい勢いで減り、雑誌は休刊のオンパレードだ。かつてみんなが見ていたテレビも、今では「下流の娯楽」「富裕層は見ない」と言われ、都会では人々の日常の話題にさえ上らなくなった。なぜ、そうなったのか?
 テレビは馬鹿しか見ない。あるいは、馬鹿になったときしか見ない。深い意味のない、人々の記憶や心に残らない番組を作ることこそ、「テレビ屋」としての誇りがある。うえーっ、なんだか逆説的ですね。
 アメリカを代表する高級紙、ニューヨークタイムズが、今や、破たんの一歩手前にある。日本のテレビ業界は、ちょうど3年遅れでアメリカの後を追っている。テレビの前に座っているのはネコだけ。それが視聴率の実態だ。
 テレビ番組の制作会社によると、年収400万円ほどの人たちが今のテレビを作っている。不景気のため、制作費がカットされている。テレビの制作会社の給料は、良くて年収500万円、ひどいところは300万円にしかならない。しかも、年をとっても給料は上がらない。40代も半ばになって、すっかりくたびれてしまった中年ディレクターが今のテレビを作っている。
 この本を読むと、新聞だけでなく、テレビもいずれ消え去ることは間違いないようです。
 テレビ業界の監督官庁である総務省は、2010年に情報通信法を制定して、2011年に施行を予定している。この法律は、テレビは放送法、電波やネットは電気通信事業法というように分かれているのを一本化した。
 テレビの成り立ちと現状、そして将来展望のなさをしっかり勉強することができる本です。
 28日(金)夜6時からアクロス福岡の国際会議場で、テレビ報道の現状を考えるシンポジウムがあります。高橋哲哉東大教授の講演のあと、パネルディスカッションがあります。前にもご紹介しましたが、ぜひ、ご参加ください。
 サンモリッツからポストバスに乗りました。一日一本だけ出る長距離バスです。途中イタリアに入国して、またスイスに戻り、ルガーノという駅まで4時間かけて走ります。
 サンモリッツを昼12時20分に帝国で出発しました。ゆったりした観光バスで、日本人は私たち夫婦だけ。ポストバスは事前に予約が必要です。バスの運転手が運転しながらガイドもしてくれるのですが、残念なことにドイツ語ですので、チンプンカンプンです。
 サンモリッツの湖を左手に見ていましたが、しばらく行くとまた湖があります。ヨットを浮かべている人もいます。遠くの山にはロープウェーがのぼっていて、山頂には白いものが見えます。万年雪なのでしょうか。
 さらに進んでいくと、バスは山を一気に下りて行きます。そうなんです。サンモリッツが涼しいのは、高い所にあるからなのでした。九十九折りの道をぐんぐん降りて行きます。ところが、そこを逆に自転車で登ってくる人たちがいるのです。すごいです。驚きます。
 ようやく、山のふもとの平坦な土地に出ました。小さな村の中をぬけます。青の洞門のような狭いトンネルをくぐり、村の広場に出ます。
 さらに進むと、イタリア領に入りますが、検問所の係員がパスポートを改めるのかと思うと、何もせず見送ります。
 バスはまだまだ山野中を降りて行き、やがて、キアヴェンナという駅に着きます。ここで、20分の休憩をとります。ここまででちょうど2時間、半分になりました。(続く)
(2009年7月刊。750円+税)

ジャーナリズムの思想

カテゴリー:社会

著者 原 寿雄、 出版 岩波新書
 テレビは最初から「茶の間劇場」としてスタートしたメディアである。
 「現状」をそのまま報道しようとするテレビで、事象の本質を的確にとらえるのはずっとむずかしい。
 事件、事故の結果は、そのまま絵になるが、原因を映像にすることは至難の業である。現代世界の実相を映像の具象性でとらえることが出来ると考えるのは、幻想にすぎない。真実は具象的にはとらえられない。事象の意味は絵にならない。
 映像によりかかり過ぎる「映像至上主義」は、やはり批判されるべきだろう。
 テレビの潜在的可能性は、4~5割くらい未開発のままである。
 先進国で、日本ほど組織的自己検閲がされている国はない。
 選挙で棄権が多いのは、誰が選ばれても変わらないという安心感と絶望感が反映している。マスコミが「不偏不党」に縛られ過ぎ、政党や候補者の公約と実績を具体的に点検し、報道評論しようとしない消極的な態度も大きな要因だろう。
 政治家蔑視が政治蔑視を生み、アパシー(政治的無関心)を強める。その陰で、政治はひと握りの政治家たちの勝手な振る舞いを許してしまう。
 権力者の「大悪」より、か弱い市井の庶民の「小悪」に矛先が向きやすい。
 テレビの潜在的可能性は、たしかに高いと私も思うのですが、それにしても郵政民営化、政権交代と単純2分論をあおり立てる豪雨型の報道はいかがなものでしょうか……。
 前にも紹介しましたが、28日(金)6時から、天神のアクロス国際会議場で、著者もパネリストの一人として参加されるパネルディスカッションがあります。弁護士会主催のシンポジウムです。ぜひご参加ください。
 サンモリッツからベルニナ特急に乗りました。片道2時間半ほどの旅です。イタリアのティラノという町が終点で、そこで2時間半あまり昼食をとって休憩し、夕方5時過ぎにサンモリッツに戻ります。
 ベルニナ特急は、スイスの山岳地帯を走りますので、広々と空いた車窓からの眺めはまさに絶景です。遠くに氷河を眺めたり、大きなループ橋があったり、楽しい旅となります。
 このベルニナ特急で、2組の日本人夫妻と一緒になりました。
 行きに出会ったご夫妻は、ベルニナ特急のリピーターだそうで、途中下車して山歩きを楽しむということでした。
 帰りにご一緒した夫妻は千葉出身で、地元名物という堅くて美味しいおせんべいをいただきました。ベルニナ特急から見える山の頂付近を、パラグライダーが飛んでいましたが、ご夫妻も筑波山あたりでハングライダーを楽しんでいるとのことでした。
 ベルニナ特急のあとはパリに一週間ほど滞在する計画だそうで、私もそれくらいゆっくりしたいものだとうらやましく思ったことでした。
 デジカメとビデオを夫婦して撮っておられました。
 
(2007年7月刊。700円+税)

共依存、からめとる愛

カテゴリー:社会

著者 信田 さよ子、 出版 朝日新聞出版
 ながくカウンセラーをしている著者は、ストレスがたまることはないそうです。すごいですね。私より少しだけ年長の団塊世代です。
 カウンセリングで疲れることはあっても、ストレスがたまることはない。この上なく悲惨で奇怪な話を聞くことで、人間の不可思議さに触れ、頭の中を秩序だてていたパラダイムが、音を立てて崩れ落ちる瞬間の解放感を味わう。これ抜きにカウンセラーを続けることはできない。なーるほど、そういうことなんですね。弁護士である私にも少しだけ分かります。
 親から虐待されている子どもが、親から暴力をふるわれて翻弄されながら、「すべて自分のせいだ」と認知する。わけのわからない痛みや混乱を、子どもなりに秩序だてられなければ、子どもの世界はカオスとなる。しかし、カオスの中では生きることができない。そこでシンプルな秩序を編み出すことになる。それが、「すべて自分が悪い」という究極の論理である。この論理で構築できない秩序はない。あらゆる出来事が自分の責任であり、悪い子だからだと認知する習慣は、幼児的万能感の裏返しでもある。それは成人後にも持ち越され、過剰な背負いこみ、過剰な責任感へとつながっていく。ふむふむ、そうなんですね。
 アダルトチルドレンの生きづらさの大半をしめるのが、このわけもなく過剰なままの自己責任感覚、自責感なのである。だから、これから解放されるためには、いったん、「あなたには何の責任もない」として、イノセンス(無罪)を承認される必要がある。うむむ、なるほど、なるほどですね。
 アルコール依存症者の平均寿命は52歳。美空ひばり、石原裕次郎、中島らもの享年は、みな52歳だった。うへーっ、それは知りませんでした。
 アル中の妻は、「私が見捨てれば夫は生きていけない」と考えている。夫の「妻に見捨てられたら生きていけない」というメッセージは、妻の考えとまるで鏡の裏と表のようにぴったり重なっている。妻を満たしているのは、ケアを渇望している存在にケアを与えることで得られる快感である。忍耐と苦労ばかりの生活にあって、この満足感だけが砂漠のオアシスのように感じられる。妻は、夫から振り回される存在から反転し、むしろケアを求めるように夫を操作するようになる。
 カウンセラーは妻に対して、「それは共依存です」と伝える。妻は、自分が良かれと思ってやってきたことが、夫をさらに依存させることになっていたことを自覚すると、長年のケアの与え手としての時間が否定されてしまうような感覚に襲われるだろう。しかし、そのあとに、やがて訪れるのは、途方もない解放感である。
 共依存という言葉は、日本の妻や母たちが当然のようにケアの与え手役割を強制されてきた忍耐の歴史に風穴を開けた。「これ以上ケアをしてはいけません」というシンプルなメッセージは、共依存という言葉に結晶して、多くの強制されたケアの与え手を解放した。
 女性のアルコール依存症者について、次のような指摘があります。 
妻は、夫の関心をおねだりして酒を飲んでいるわけではない。むしろ、人間として扱われなかったことへの怒り、そのような状況を変更する力のない自分への無力感が、妻を飲酒に駆り立てている。妻の冷徹な状況判断力、傷つきやすいプライドが、皮肉にも自らの現実を耐えがたくしている。
 そんな妻を見捨てずにケアをする夫は、妻が崩壊するのと反比例して、より正しく人間的な存在にのぼりつめる。自分が偉い人間になったという気分に浸ることが出来る。
 共依存の特徴は、よりかかる他者が必ず自分より弱者であること。強者であれば単なる依存にすぎない。飲み込まれるどころか、むしろ飲み込むために共依存は弱者を選ぶ。隠れた主体は巧妙に弱者である対象を操作する。
 共依存は、弱者を救う、弱者を助けるという、人間としての正しさを隠れ蓑にした支配である。その多くは、愛情と混同される。
 DV夫は、被害者意識に満ちている。逆にDVを受けている妻は、自分のせいで夫に殴らせてしまったという罪悪感を根深く持っている。これを加害者意識と呼べば、DVの加害者と被害者の意識は逆転している。したがって、DV被害者を共依存と呼ぶのは、逆転した加害・被害の意識を強化することになる。だから、DV被害者に対して共依存という言葉を用いることは、厳に慎まなければならない。
 大変教えられることの多い本でした。長年夫のDVで苦しめられてきた妻が、夫が動けなくなったときに復讐するという話がこの本に紹介されています。私も、そんな妻の弁護人になったことがあります。話を聞くと、実に悲惨でした。
(2009年5月刊。1600円+税)

ジャーナリズムの可能性

カテゴリー:社会

著者 原 寿雄、 出版 岩波新書
 いまの日本社会は、ジャーナリズムの貴重な存在価値を忘れているのではないか。著者は警鐘を乱打しています。この本を読んで、なるほど、そうだ、そうだと何度となくうなずいてしまいました。情報栄えて、ジャーナリズム滅び、ジャーナリズム滅びて、民主主義滅ぶ。そうであってはならない。公共的な情報は不要視され、権力監視や社会正義の追及に不可欠なジャーナリズムは滅びてしまいそうだ。しかし、そうであってはならない。
 著者は渾身の力をこめて力説しています。
 そして、絵にならない者はニュースじゃない。こんな映像至上主義。面白さに傾く歓声主義を戒めています。
 アメリカでは、ジャーナリズムの第一の役割を、権力監視のウォッチ・ドッグ(番犬)としている。
 権力と対決するには、メディア組織内の団結が不可欠である。これまで、報道機関は、裁判批判をタブー視してきた。NHK番組改編事件について、政治的干渉を拒否するための「編集の自由」が、政治的圧力を受け入れる自由として最高裁が保障した。おかしな判決である。しかし、公共の利益だけを守り、真実を追求するための編集の自由が、政治的圧力を受けて、企業利益を守るために行使されてはならない。
 新聞・放送の現状は、「自主規制」という名の「自己検閲」が横行している。
 視聴率が番組評価の主な資料となっている。テレビでは、視聴率がそのまま広告料金に跳ね返る。テレビ界の諸悪の根源は視聴率競争にある。
 放送局には、リッチな放送局員(正社員)と、プアーな下請けプロダクション(非正規社員)がいる。両者の格差・不平等な関係が無責任体系を生み出していた。
テレビは公共性が強いのだから、もっと大胆に権力の監視や社会正義の実現に努めようという方向をぜひ打ち出してほしい。私も同感です。
 28日(金)夜6時から、福岡のアクロス国際会議場で、著者もパネリストとして参加するシンポジウムが開かれます。『ここまで来た メディア規制―表現の自由から考える―』です。東大の高橋哲哉教授が「表現の自由と私たち」と題して基調講演し、そのあと、「テレビ報道、どこが問題なのか?」というパネルディスカッションがあります。ぜひ、ご参加ください。
(2009年2月刊。1600円+税)

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