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カテゴリー: 社会

岩盤を穿(うが)つ

カテゴリー:社会

著者 湯浅 誠、 出版 文芸春秋
 日本中を震撼させた年越し派遣村の村長だった著者は、民主党政権の下で、内閣府参与となり、ホームレス等の対策にあたっています。著者には私も大いに期待しています。これは、決して皮肉ではなく、本心からの言葉です。皮肉なんて言っていられないほど、事態は深刻かつ急迫していると思うのです。
 著者は活動家を募っています。そこで求められている活動家は次のようなものです。従来のものとはかなりイメージが異なります。
 活動家は、夢見る権利を擁護し、夢見る条件を作ろうとする。認定された夢だけを夢とする社会の岩盤にぶち当たらざるをえない。
お金がなければアウト、非正規だったら負け組、恋人ができなければ人間失格、マイホームにマイカーがなければ甲斐性なし、病気をすれば自己管理が不十分、老後の貯蓄がなければ人生のツケ。いやはや、なんと寂しい日本の現象でしょうか……。
 国が企業を守り、企業が男性正社員を守り、男性正社員が妻子を守る。そのルート以外の守られ方は、自堕落、怠惰、甘え、努力不足、負け犬……。いい加減にしてほしい。
 この「いい加減にしてほしい」に形を与えること。形を与えるための“場”をつくること。そして、他なる社会を夢見る条件を作ること。それが活動家の仕事だ。
 なるほど、こんな言い方もできるのですね。こうやって運動の輪を大きく広げていって、現代日本の社会を少しでも良い方向に、みんなで少しずつ、一歩一歩、変えていきたいものです。
 私も日比谷公園にはよく行きます。有楽町駅から歩いて日弁連会館に行く途中にあるからです。そこにできた年越し派遣村に来た人は、5日間で500人を超したのでした。そして、ボランティア登録をした人は1800人、のべ5000人となった。寄せられたカンパは2300万円。ちなみに、今年の公設派遣村は昨年を上回って、800人でしたか、1000人でしたか……。
 多くの人にとって、「見たくない現実」だった。忘れてはならないのは、「その現実を生きている」人たちがいること。この現実を直視できるかどうか、そこに日本社会の地力が現れる。そうなんですよね。貧困は目をそむけたら見えなくなるものです。
 かつての日本では、山谷(東京)や釜ヶ崎(大阪)の寄せ場に日雇い労働者はいた。しかし、今では日本全国に広がっている。貧困の問題は、フツー、目に見えないという特徴がある。貧困が見えにくいのは、アメリカでもイギリスでも同じで、これは世界共通のものだ。野宿の人たちは、炭鉱のカナリアのような存在だ。
 日本では、まわりの人から「簡単に人に頼っちゃいけない」と言われて育っているので、SOSの出し方が分からない。
 企業の多くは「地球を大切にしています」などと広告・宣伝している。しかし、「私たちの企業は、非正規労働者の命などなんとも思っていません。そんな私たちですが、良かったら商品を買ってください」と言うべきだ。
 ふむふむ、なるほど、なるほど、そのとおりですよ。日本経団連の露骨な、あまりに金儲け本位の姿勢を少しでもまともなものに改めようと考える資本家はいないのでしょうか……。
 国がセーフティネットを確立しようとするのは、実は19世紀のビスマルクの時代に始まったのだそうです。人間がボロ雑巾のように使い捨てにされる社会は弱くなるにきまっている。これが理由です。そうなんですよね。弱者をどんどん切り捨て、排除していく社会は、全体的な力も弱めてしまうのです。お互い、明日は我が身ですよ……。
ホームレスの人数確認が困難なのは、夜は寒さをしのぐために歩きまわり、昼間は図書館などの公共施設に入って仮眠を取る人が捕捉できないから。なーるほど、そういうことなんですね。
 政治不信は言われ始めて久しい。しかし、本当に深刻なのは、むしろ社会不信ではないのか。どうにも這いあがれない状態に追い込まれながら、そのこと自体が「努力が足りない」と叩かれる理由になっている社会では、何かを言ったところで、誰もそれを受け止めてくれるとは思えなかったとしても不思議ではない。
 自己責任論は、人を黙らせるもの。活動は、人を喋らせるもの。
 著者の提起を受け止め、私も著者のいうような活動家になりたいと改めて思いました。
 
(2009年11月刊。1200円+税)

山田洋次

カテゴリー:社会

著者 新田 匡央、 出版 ダイヤモンド社
 映画『おとうと』を見ました。世間から鼻つまみ者にされている弟を姉が最後まで面倒みるストーリーです。笑いながらも涙を流してしまいました。すごいものです。山田洋次監督の技のすごさに、今さらながら感嘆しました。『母べえ』と同じく、心が洗われ、すっきりした思いで雨のなか帰路につきました。
 この映画には「みどりのいえ」というホスピスが登場します。ほとんどボランティアで運営されている施設のようです。私は申し訳ないことに知りませんでした。こんな施設が存在すること、そして、それを大勢のボランティア・スタッフが支えていることは、もっと世の中に知られていいことだと思いました。その点でも、山田監督はすごいと思いますし、この映画を見る意味があります。ぜひ、みなさん映画館に足を運んで見てください。
 せめて映画館に入る時くらい、このむごい世の定めを忘れたい、と観客は願っている。そんな思いに応える映画をつくるためには、スタッフは皆仲良くなければいけない。仕事を楽しくしなければならない。
 山田監督の映画作りのときには、出演を予定していない人もふくめて、みんなで芝居を見て、役者を励まそうと呼び掛けられる。出演しない人が、外でタバコを吸って一服しているということはない。
 山田監督は、脚本に描かれたことだけを撮影すれば事足りるという姿勢に与しない。
 山田監督の指示どおりにスタッフが動くことを、山田洋次は嫌う。
 監督から言われたとおりにはするな。いや、だったら、こうしたほうがいいんじゃないかと提案すべきなんだ。山田洋次は提案者を待っている。ただし、悩みに悩んだ提案者だ。単に、「いまどきの若者はそんなことは言わない」と批判するのでは足りない。山田洋次はそれでは絶対に納得しない。なぜ言われないのか、どうして昔のような言い方がいけないのか。現在の社会はどういう状況にあるのか、そのなかで若者の生態はどうなっているのか。そして、観客が何を求め、観客に何を伝えるのか。理由とともに具体的な提案をすれば、山田洋次は決して否定しない。採用しなくても、なぜ提案を採用しないのか、必ず考える。
 映画の成否はシナリオの出来が6割を占める。次いで俳優のキャスティングで、これが3割の重要性を持つ。だから映画監督のできることは実は微々たる割合しかない。
 ぼくたちは全部ウソをついている。これが映画の極意。何のためにウソをつくか。映画を見る人達も騙されようと思って騙されている。でも、上手く騙してくれないと怒る。ありえないウソだといって……。
 より真実を描くためにウソをついている人だ。
 これは山田洋次の言葉です。なるほど、そうなんですよね。
 著者はこの本が初めての単行本だということですが、映画『おとうと』の出来上がる過程をよくとらえています。凄い技を持っていると感嘆・感激・感謝します。これからも大いにがんばってください。
 
(2010年1月刊。1500円+税)

天下りの研究

カテゴリー:社会

著者 中野 雅至、 出版 明石書店
530頁を超える大部な研究書です。この本を読んで、まず驚いたことは、天下りという言葉が最近のものであって、戦前にはなく、その定義も一定していないということです。民間の大企業でも関連会社への天下りがありますから、なるほど定義するのは難しいと思いました。
「広辞苑」に天下りが初めて登場するのは1979年だというのです。その前の1955年版には、「天降り」という言葉でした。ただ、天下りは日本だけではなく、私の愛するフランスはもっとすごいようです。フランスでは、製造業の会社のトップ15位のうち、12社までが官界から来た人間によって経営されています。官僚が企業トップに転身するのが当たり前になっているのです。これらの官僚は、グランゼコルというスーパー大学院の卒業生です。
「天下り」に否定的なニュアンスがあるのは、本来、天下りする者には相当の実力があり、天下る先の様相を大きく変えるような存在でなければいけないが、現実には、まったくこれと異なっている現実があるからだ。
国家公務員については、離職後2年間は営利企業への再就職が国家公務員法103条によって規制されている。しかし、地方公務員法には同様の規定はなく、私企業への再就職についての規制はない。
天下りは必ずしも高級官僚に限定されない。ノンキャリア企業の民間企業への天下りが、相当露骨に行われている、
天下り人の再就職は一度では終わらない。二度目、三度目の天下りが行われるのが一般的であり、「わたり」などと呼ばれる。
平成になってからは、天下り批判を避けるため、緊急避難的に用意されている座布団機関を経由する再就職も多い。
防衛省は豊富な天下り先を持っている。平成19年に退職した制服組155人のうち、再就職した148人について見てみると、顧問として40人、嘱託として36人いる。これは、経営中枢というより、防衛省と何らかのコネクションを期待しているもの。
アメリカの軍需産業は、政界中枢と癒着して、アメリカの政治を動かしていると言われていますが、日本でもアメリカほどではないとしても同じ構図です。
事務次官経験者の多くが非営利法人に天下る。それは傷つかない、社会的地位があるという基準にもとづく。つまり、個々人の能力を再利用しようという能力本位の視点からではない。
JAF自身は否定しているが、JAFには全額出資した子会社があり、監督官庁である警察庁・運輸省の天下り官僚が子会社の役員を兼任することで、二重に報酬を受け取っているとみられている。
天下り先における給料は、原給保証である。つまり、辞めたときを上回るようになっている。また、同窓会相場というのもある。東大法学部卒で民間企業に就職した同窓生の収入相場を、東大法学部卒の多い官僚の収入が下回らないようにしている。
審議会委員の報酬のもっとも高いのは、自給換算で43万7000円となっている。日本は必ずしも公務員が多いわけではなく、むしろ先進国では最も少ない。
1000人あたりの公務員はフランスが1位で87.1人、2位のイギリス79.1人、3位のアメリカ78人、4位のドイツ54.9人。これに対して日本は32.5人でしかない。
天下りを受け入れる側にとってのメリットは情報の入手とコネクションの形成にある。退職公務員の知識・能力ではなく、その培った役所内での人間関係を利用できること。中央官庁だと、その仕事の幅の広さにある。
人事課長よりも上のポストである事務局次官や局長については、官房長が扱い、課長クラスのキャリア退職者は官房人事課長が扱い、ノンキャリアは官房人事課の職員や原局の人事担当者が扱うというような役割分担がある。
大蔵省OBは大蔵同友会に入るが、大蔵同友会の人事も現役人事と一緒に組織的に決定している。同友会の会員は1人3回は天下り先を斡旋される。叙勲の対象となる70歳をゴールとするのが目安。1カ所5年として、55歳から50歳まで15年だから、都合3回となる。
なるほど、官僚の天下りというのはこんな仕組みになっているのかと認識することができました。大変に貴重な労作として紹介します。
(2009年10月刊。2800円+税)

多読術

カテゴリー:社会

著者 松岡 正剛、 出版 ちくまプリマー新書
 鳩山首相が著者に案内されて本屋に行ったというニュースを読みました。私をはるかに上回る多読・多作の人物です。
 読書は二度するほうがいい。
 私は書評をかくために、たいていざっとですが、読んだ本を振り返ります。といっても、赤エンピツで傍線を引いたところだけなんですが……。
 読書も出会いである。
 私は、新聞の書評、そして、本屋に出かけて背表紙をみて、面白そうだなと思って手にとります。本は買って読むものです。読んだ本で引用されている本も買うことが多いです。
 読書は鳥瞰(ちょうかん)力と微視力が交互に試される。
 なーるほど、そういうようにも言えるんですね。
 読書の頂点は全集読書である。
 私は全集は買いません。なんだか義務づけされるようで、いやなのです。あくまで自由に好きな本を読んでいたいんです。
 読書の楽しみとは、未知のパンドラの箱が開くことにある。無知から未知へ、これが読書の醍醐味だ。読書には、つねに未知の箱を開ける楽しみがある。
 この点は、私もまったく同感です。
 本は、理解できているかどうか分からなくても、どんどん読むもの。
 読むという行為は、かなり重大な認知行為である。しかも複合認知。
 読んだ本が「当たり」とは限らないし、かなり「はずれ」もある。しかし、何か得をするためだけに読もうと思ったって、それはダメだ。
 たしかに「あたった」という本に出会ったときの観劇は大きいですよ。必ず誰かに紹介したくなります。
 読みながらマーキングする。このマーキングが読書行為のカギを握っている。
 そうなんです。ですから、私はポケットに赤エンピツを欠かしたことがありません。私の読んだ本には赤エンピツで傍線が引かれていますので、古本屋は引き取ってくれないでしょうね。そのうえ、私のサインと読了年月日まで書き込んであります。本こそ、私の財産だからです。こうやって、他人の書いたものを自分の本にしてしまうのです。楽しい作業です。お金儲けとは違った喜びが、そこにはあります。
 書くのも読むのも、コミュニケーションのひとつだと考える。
 まったくそのとおりです。ですから、私は読んだら書いて、発信しています。
 電車のなかで揺れながら本を読むと、けっこう集中できる。喫茶店でも本は読める。
 ほんとうにそうです。私は基本的に車中読書派です。不思議なことに眼が悪くなりません。好きなことをやっているからだと考えています。車中読書時間を確保するためには、布団のなかできちんと睡眠時間を確保しておく必要があります。車中睡眠派では、本は読めません。人生、何を大切にするか、選択を迫られます。私は断然、読書の楽しみをとります。
 2009年に読んだ本は、583冊でした。
(2009年5月刊。800円+税)

1968年に日本と世界で起こったこと

カテゴリー:社会

著者 毎日新聞社、 出版 毎日新聞社
 1969年1月19日の東大安田講堂の攻防戦は、視聴率72%に達した。世帯平均視聴時間は、1時間54分に達し、ほぼ全世帯が注視していた。
 このテレビ観戦で全共闘への共感が高まった形跡はない。
 機動隊による実力排除についての世論調査は、「むしろ遅すぎた」15%、「当然だ」26%、「やむをえない」35%、合わせると8割。「やるべきではなかった」は6%に満たない。
 冷戦下のアメリカは、日本で自民党政権がつぶれ、社会党と共産党の政権になるのをもっとも恐れていた。新左翼は反スターリン主義を掲げてソ連の影響力を排除し、社会党や共産党から独立して暴れまわった。しかし、彼らは議席を得るはずもないし、機動隊とぶつかる程度だったから、体制にとっては大きな影響はない。だから、アメリカからすると、実は日本の新左翼はさして困った存在ではなかった。
 道理で、さんざん暴れさせていたはずです。
 東大の入試中止を決めたのは、安田講堂「落城」の直後。これについて、学者グループが発案して佐藤栄作首相に上申したと書かれています。
 大学紛争の収拾のために、何人かの学者たちがホテルの一室にこもって対策を練った。そのとき、知恵をしぼったのは、どうすれば大学紛争に無関心な一般社会の耳目を集め、事態を収められるかということ。東大入試を中止すれば一番困るのは大企業だから……。
 山上会議所に文学部のノンセクト学生が集まり、安田講堂占拠について議論していたとき、アナーキストの学生が、「いや、面白いからやるんだよ」と言って、一気に結論が出て
占拠することになった。この、面白いからやる、が、大学紛争の意義のほぼすべて、である。
 全共闘運動には、論理的一貫性が欠けていた。
 もっともらしく理論付けする学者が少なくありませんが、当時、反対側の渦中にいたものとして、この指摘はかなり同感と言わざるを得ません。
 三島由紀夫は全共闘の味方だった。また週刊誌『サンデー毎日』の編集部も全員が全共闘の味方だった。『アサヒ・ジャーナル』もそうでしたね。
 総じて、マスコミは全共闘びいきでした。ちょっぴり批判はするのですが、結局のところ、彼らにも言い分があると書き立てるのです。そして、全共闘はすべてのマスコミは敵だと決めつけていたのでした。まことに不可思議な共依存関係でした。
 
(2009年6月刊。2400円+税)

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