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カテゴリー: 日本史(江戸)

和算

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 小川 束 、 出版 中央公論新社
江戸時代、庶民においても「読み、書き、珠算(そろばん)」は必要なものと考えられていた。江戸時代の人々は、みな算数が社会において重要な知識、技能であることを理解していた。「そろばん(珠算)が何の役に立つのか」などと文句を言うモノはいなかった。江戸時代、珠算は必須の技能だったからだ。
神社に奉納した絵馬のようなものとして算額がある。江戸時代、数学の愛好者は互いに問題を解いたり、算額を奉納していた。神社は数学の発表の場だった。現存する最古の算額は、1683年のもの。関ヶ原合戦(1600年)から83年たっただけ。このような算額奉納は世界に例がなく、日本独自の文化現象。現存している算額は884枚だが、復元された91枚、文献に出てくる1646枚を加えると、2621枚にのぼる。
算額は天明(1781~1789)年ころから急激に増えはじめ、1800年から1809年にピークを迎えた。この10年間だけで、算額は300枚近い。算額は東日本に多く(東京369枚。次は岩手184枚、福島153枚、長野109枚、新潟105枚)、西日本は比較的少ない。
江戸時代の人々が数学を学ぶとき、初歩を終えると、数学を教授する師匠の下に入門するのが普通だった。数学にはいくつかの流派がある。
数学を教えながら、全国各地を歴訪した人がいたというのも驚きです。法道寺善という安芸国(広島県)出身の人です(1820年生まれ)。法道寺は、豊前(大分)、肥後、長崎、北陸道、東山道を遊歴し、各地で数学を教授したといいます。
江戸時代の人々にとって、もっとも身近な算学(数学)の教科書は、「塵劫記(じんごうき)」だった。1627年に刊行された、この本によって近世日本の数学文化は一挙に花開いた。
江戸時代の数学は世界的にみて最先端をいく成果をいくつもあげた。関孝和は日本の和算の創始者。関は存命中は1冊の本しか出していないが、一般人には難しすぎる傑作だった。
江戸時代の数学は、抽象的な計算技能と、その応用分野としての平面幾何、立体幾何から成り立っていた。そんな数学文化が継続できたのは、幾何の問題を無尽蔵に生み出すことができたから。そこには、図形の美しさという美的感覚、複雑な計算の完遂という高揚感があった。
なーるほど、すばらしいんですね。アルファベットも、X・Yもない時代、そして0(ゼロ)もなくて、どうやって計算していたというのか、ぜひ知りたいところなんですが…。
(2021年1月刊。税込1980円)

ウィリアム・アダムス

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 フレデリック・クレインス 、 出版 ちくま新書
三浦接針。つい先日、長崎県平戸市でアダムスの遺骨だと判明したというニュースが流れました。ええっ、徳川家康に重宝されて江戸に住んでいたのではなかったの…。そんな疑問がこの本を読んで解けました。徳川家康からはイギリスへ帰国しないでくれと懇願されていたようですが、家康が亡くなり、秀忠の時代には疎遠となり、イギリスが商館を開いていた平戸に行き、そこで病死したというのです。
でもアダムスにはイギリスに妻子がいるほか、日本にも妻子がいました。日本人の妻はカトリック教徒だったようです。アダムスの死後、どうしたのでしょうか。また、息子と娘がいましたが、その子どもたちはどうなったのでしょうか。秀忠はキリスト教を厳しく禁圧しましたので、ひょっとして、その犠牲になったのでしょうか…。そこらはこの本に書かれていませんが、ぜひ知りたいところです。誰か教えてください…。
それでも、三浦接針となるまでのウィリアム・アダムスと、彼を取り巻く世界情勢がよく解説されていて、とても興味深い本です。
ウィリアム・アダムスは、オランダ船に乗っていたけれど、イギリス人の航海士。このころ、イギリスはエリザベス女王の治世下。イギリスは、軍事力ではスペインの足下にも及ばないので、スペインとの全面戦争を避けていた。
それでもイギリス船はスペインの船を襲って掠奪していた。それで名を上げたのがフランシス・ドレイク。アダムスが青春時代を送った1570年代のこと。スペイン艦隊からイギリス船団が奇襲攻撃を受けてなんとかドレイクは逃げのびたこともあった。このように、イギリスとスペインは互いに憎悪の関係にあった。
イギリスはスペインの無敵艦隊との海戦で大勝しましたが、そのとき、ドレークの艦隊にアダムスも乗っていた。戦争のあと、アダムスはイギリスのバーバリー商会に就職し、船長あるいは舵取りとして働いた。そして、オランダ商船団がアジアに行くのに乗り込んだのです。
この船団の真の目的は、太平洋に面した南アメリカの海岸でスペインの拠点と船を狙って財宝を略奪し、それらの財宝をもとにアジアで貿易することにあった。
なので、アダムスの乗っていたリーフデ号が遭難して大分県臼杵湾にたどり着いたとき、船内には大量の武器があったのです。大型の大砲19門、複数の小型大砲、鉄砲5百挺、鉄砲弾5千発分、鈷弾3百発分、火薬50キンタル(3千キロ近い)、鎖帷子(くさりかたびら)入りの箱3個、火矢355本、現金2千クルサンド(4千万円)、そして毛織物入りの大箱11個。24人の船員には商人らしきものはおらず、船員は兵士の船体をしている。
イエズス会の宣教師たちは、このオランダ船の船員が「異端者」だと分かって、すぐに悪口を言いたてはじめた。
家康はこのとき59歳、アダムスは大坂城に連れてこられて家康から直接の尋問を受けた。ときに1600年5月12日のこと。家康は、イギリス人(アダムス)とオランダ人(ヨーステン)に興味津々で、質問を重ねた。ヨーステンは、八重洲と名を残しているのでしたよね…。
アダムスは世界地図を示して家康に話したようです。また、家康の命令で船の建造もしています。関ヶ原の戦いや大坂夏・冬の陣などで多忙な家康でしたが、アダムスをそばに置いて、いろいろと質問攻めしたようです。アダムスも、そのうちに身につけた日本語で答えていたと思われます。家康は好奇心旺盛の人物だったんですね。
イギリスとオランダ、そしてカトリックの宣教師たちとの敵対関係、競争関係にアダムスは翻弄されたようです。一枚岩ではなかったのです。三浦接針についての興味深い本でした。もっともっと知りたくなりました。
(2021年2月刊。税込1012円)

天才 富永仲基

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  釈 徹宗 、 出版  新潮新書
 江戸時代の中期に31歳の若さで亡くなった町人学者の話です。仏教について、まったく分からないままの私ですが、仏教経典を読破して、成立過程を明らかにして、仏教思想を解明した若き町人学者がいたというのですから、驚きます。20歳までに仲基は仏典をほぼ読破していたというのも信じられません…。
阿含(あごん)経典類は、釈迦滅像200年から300年たって現在の形にととのえられたもの。大乗経典は、仏滅後500年もたってから現われはじめたもの。般若経典や法華経は1~2世紀に成立し、華巌経は4世紀に成立した。大乗経典は、小乗経典成立後に編纂され、大乗経典を低く評価することで、自説の優位性を主張している。
 仲基はこう言った。インドの俗は幻を好む(神秘主義的傾向が強い)、中国は文を好む(レトリックを重視する傾向が強い)。日本は秘を好む(隠蔽する傾向が強い)。
 仏教経典が文字化されたのは釈迦滅後、2~300年してからのこと。それまでは口伝だった。初期の教えを伝えているパーリ語経典や阿含経典は、紀元前3世紀から紀元後5世紀までに編纂され体系化されていった。
 法華経や般若心経など日本によく知られている経典の大半は大乗仏教の経典である。その大乗経典は、大乗仏教の展開にともなって制作された。
 釈迦には3人の妻がいた。もともとの仏教では、肉食に対して、それほど厳格ではなかった。知らないことばかりでした。
 20歳までに仏教の経典をあらかた読み終えたなんて、とても信じられません。
(2020年9月刊。税込880円)

氏名の誕生

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 ちくま新書
私の名前(姓名)は霧山昴(きりやま・すばる)。これは養子縁組でもしない限り、一生変わりません。これが現代日本の当然すぎる常識。ところが、江戸時代は、名前(姓名)は年齢(とし)とともに変化するもので、一生同じ「名前」を名乗る男など、まったくいなかった。その常識が激変したのは明治時代の初めのこと。
この本は、このような常識の変化を丹念に追跡していて、もう頭がくらくらしてきます。何が何だか分からなくなってくるのです。それは、江戸時代の武士と庶民に通用していた常識と、朝廷での常識が別物だったことにもよります。明治維新によって朝廷が王政復古で昔のように変えたくても、ことは簡単ではなく、あれこれ変更を重ねて、ますます混迷をきわめていくのです。ここらあたりは読んでいて、まったく五里霧中。とてもついていけませんでした。
現代日本における人名の常識は…。人名は「氏」と「名」の二種で構成されていて、「氏」は先祖代々の大切な家の名で、「名」は親がつけてくれたもの。「氏名」を恣意的に変えることは、原則としてありえないこと。
ところが、江戸時代の名前で親が名づけるのは幼名だけで、改名は適宜なされていて、「かけがえのないもの」でもない。この二つの常識は、まるで違うもの…。
江戸時代の人間は、幼名、成人名、当主名そして隠居名という4種類の改名があるのが一般的。幼名は親などが名づけるが、15歳か16歳で成人したあとは、本人が自ら名を改める。
江戸時代の名前は、社会的な地位をある程度は表示する役割を担っていた。たとえば、~庵(あん)は医者一般がよく名乗るもの。名前は身分格式にもとづく秩序を重視する近世社会において、社会的な地位を相手に知らせる役割をもっている。
江戸時代、庶民も苗字(みょうじ)をもっていたが、それは自ら名乗るものではなく、人から呼ばれるものとして用いられていた。
この本ではありませんが、江戸時代の庶民も「氏名」をもっていたが、それは名乗るものではなかったので、あたかも庶民は「氏」をもたなかったかのように現代日本人が大いなる誤解をしたと指摘する本を読んだことがあります。
江戸時代の庶民にとって、苗字とは、自分から他者に示すものではなくて、呼ばれるものだった。また、「壱人両名」(いちにんりょうめい)という、一人で二つの身分と名前を同時に保持することができていた。これは、イメージとしては本名とペンネームの関係ですが、本質的にはまったく異なります。それぞれ、公の場で通用するものだからです。
そして、明治8年、山県有朋が、徴兵事務のために、平民に必ず名乗らせることにして以降、ついに現在の戸籍制度が完成したのでした。つまり、国が国民を兵隊にとる便宜をあくまで優先した結果として、現在の私たちの常識が成り立っているのです。
江戸時代は夫婦別姓でしたし、死後も別墓が当然だったのです。繰り返しますが、現代日本の常識は江戸時代の日本には通用しません。とても興味深い本でした。頭の体操にもなります。ぜひ、あなたもチャレンジしてみてください。
(2021年5月刊。税込1034円)

湯どうふ牡丹雪

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 山本 一力 、 出版 角川書店
久しぶりに山本一力ワールドを楽しみました。俗世間の垢にまみれて、ちょっとギスギスした気分のときには、このワールドにどっぷり浸ると、心の澱(おり)がすっと抜けていき、全身に新鮮な血が流れてくる気がしてきます。血生臭い殺人事件が起きることもありません。詐欺事件が起きそうで、どうなることやらと、ハラハラしていると、途中から予期せぬ展開となり、しまいにはほっと心休まる結末となって…。そして、そこに至るまでに江戸情緒をたっぷり味わうことのできるのが、山本一力ワールドの心地良さです。
江戸時代にもメガネ屋という職業が本当にあったのでしょうか…。創業120年を迎える老舗(しにせ)眼鏡屋(メガネ屋)のあるじは、知恵と人情で問題に挑む、お江戸の名探偵。こんなオビの文句なのですが…。
江戸は小網町のうなぎ屋も登場して、江戸情緒をかき立てます。
店の自慢のタレに含まれたミリン、しょう油、うなぎ脂そして酒が備長炭で焼かれると、旨味(うまみ)をたっぷり含んだ、あの煙となる。
薬種(やくしゅ)問屋では、3種の丸薬を売って名高い。乙丸は、男の精力増強剤、丙丸は武家や老舗商家の内室・内儀が顧客。丁丸は小児の夜泣き・疳(かん)の虫・夜尿症の症状改善に効く。これは、漢方薬の薬局として今もありますよね…。
「明日は味方」が家訓の一つ。これは、今日をひたむきに生きていけば、迎える明日が味方についてくれるということ。なあるほど、そうなんですよね。
江戸町内で人気のあった瓦版(かわらばん)の記者を「耳鼻達(じびたつ)」と呼んでいた。
ストーリー展開が意表をついていて、その展開に心がこもっていますので、最後まで、安心して読み続けることができます。期待から裏切られることがないって、すばらしいことですよね…。
(2021年2月刊。税込1980円)

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