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カテゴリー: 日本史(江戸)

公家たちの幕末維新

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 刑部 芳則 、 出版 中公新書

 いま、庶民つまり、百姓と町人が幕末をいかに過ごし、明治維新をどのような思いで迎えたのかを調べています。とても面白いです。ちなみに、百姓とは正確には必ずしも農業を営む農民に限らないようです。

 15代将軍の徳川慶喜が朝廷に大政奉還したとき、天皇とその周辺の公家・貴族に日本という国を自分たちで治めていく自信があったなどとはとても思えません。江戸時代の200年間、まったく政治にわることなく、窮乏生活を余儀されていたのですから……。

 慶応3(1867)年10月の慶喜将軍からの大政奉還の申出を受けるかどうかの朝議(朝廷における議論)では、政権を返上されたときに朝廷が果たして政務を遂行できるのかが議論された。関白たちは慎重意見だった。しかし、結局のところ、すったもんだしたあげく、大政奉還を受け入れることに決まった。

 徳川家の支配地は従前どおりとし、国政については有力大名の合議によって運営することになった。むしろ、本当に大政奉還がなされるのか、公家たちは半信半疑だった。そして、公家たちの考えは、公家上層部で朝廷を占めて、大名たちは「監察」という副次的な役割を果たすだけというものだった。しかし、それで薩長が納得するはずはない。

 そして、12.9政変が起きた。薩摩・土佐・広島・尾張・越前・福井の5藩が御所(すなわち朝廷)を制圧した。天皇が王政復古の大号令をかけ、新政府の三職が発表された。江戸幕府が廃止され、摂政・関白も廃止された。大宰府から戻った三条実美、そして岩倉具視が議定となった。

 ところが、その後の3年半のあいだに、公家は政府の要職から遠ざけられていった。そして、公家たちは華族となったが、政府内の要職につくことはなかった。薩長土肥の藩士たちが政府の要職を占めた。やはり、力のある者が強いのです。

 公家華族が生活の苦しさからたちまち没落してしまう恐れが出てきた。それを心配した右大臣の岩倉具視は、明治9(1876)年に華族を統括する宮内省部長局を設置し、保護・監視する体制をつくった。

 公家には、京都御所の清涼殿に昇殿できる堂上(とうしょう)と昇殿できない地下(じげ)とがある。公家たちは、家格による身分秩序を基本とし、一族と門流という横のつながりを持っていた。

 和宮降嫁という公武合体策において、岩倉具視は、幕府の求める和宮降嫁を幕主朝従から、朝主幕従へと朝権回復の好機ととらえていた。

 孝明天皇が攘夷にこだわっていたことはよく知られていますが、本当に戦争になったとき、勝つ見込みがないことは理解していた。つまり、孝明天皇は、それほど愚かな人物ではなかったようです。

孝明天皇は慶応2(1866)年12月25日、天然痘で死亡した。孝明天皇というのは、死んだあとの「おくり名」なのですね。生前は何と呼ばれていたのでしょうか……。

 幕末・維新を公家の世界、朝廷を中心としてみた新書です。

(2018年8月刊。990円)

高杉晋作と奇兵隊

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 田中 彰 、 出版 岩波新書

 高杉晋作は、このコーナーで前に紹介したように、幕末の文久2(1862)年に2ヶ月間、中国の上海に渡って滞在しています。密航したのではありません。藩主の許可を得て、幕府の所有する千歳(せんざい)丸に乗って、長崎から上海に行ったのです。上海では、清朝に反抗する太平天国軍と外国軍が応援する清朝の軍隊との戦闘を見聞しています。当時の上海は、イギリスやフランスなどによって半植民地化されていて、中国人は「ことごとく外国人の使役」となっていました。その現実を見て、日本はそうならないようにしないといけないと考えたのです。

 ところが、日本に戻ってきた高杉晋作は、攘夷を実行しようとします。まず、横浜の外人公使を暗殺する計画をたてました。これは実行寸前に計画がもれて、藩主の世子(毛利元徳)から待ったがかかって中止しました。次に、品川御殿山に新築中のイギリス大使館の焼打は実行したのでした。外国の軍事力の強大さを知りながら、なぜ攘夷に走ったのか…。安易に開国したら大変なことになるという、開国論への身を挺しての抵抗運動だった、とされています。

 文久3(1863)年5月10日、長州藩は攘夷を実行した。アメリカ船(ベムブローク号、200トン)を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカとフランスが反撃した。この状況下で、奇兵隊が結成された。「奇兵」とは藩の「正兵」に対する「奇兵」、ゲリラ軍事力。銃隊と弓隊が共存した。

 奇兵隊は、成立当初から藩にとって「諸刃の刃」のような存在だった。奇兵隊は、伝統的な家臣団を無能視するといった批判的な雰囲気が強かった。

 文久3年8月18日に京都で起きた政変によって、長州勢は京都から排除された。七卿落ちする公卿の警衛を奇兵隊は命じられ、両者の関係は深まった。

 元治1(1864)年6月5日、京都で池田屋事件(騒動)が起きた。このとき、奇兵隊員の2人が負傷(のちに死亡)した。さらに、7月18日から禁門の変が起こり、長州勢は会津・桑名・薩摩を中心とする幕府軍と戦って敗れた。この変に、奇兵隊は参加していない。

 引き続いて、8月2日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関(馬関)を攻撃した。総司令官はイギリス海軍中将のキューパー、副司令官はフランス海軍少将ジョーレス。軍艦17隻。その狙いは長州藩を撃破することによって、もはや鎖国は不可能なことを思い知らせることにあった。逆に言えば、全面戦争にならず、開港しているところには危険を波及させないようにしていた。なので、幕府にも知らせていた。幕府は、朝廷から長州藩追討の命を受けて、準備をすすめていた。

 8月5日、四国連合艦隊の砲撃が始まると、長州藩の砲台はたちまち壊滅し、その大砲70門は全部が持ち去られた。

 このとき、地上の白兵戦で長州藩は小銃のほか、槍や刀そして弓矢を使用した。長州藩の兵士の身につけた鎧(よろい)は小銃の前には役に立たなかった。それでも弓矢のほうは意外に威力を発揮した。

 幕府による第二次征長戦は、各地で農民一揆・都市騒擾・村方騒動が起きるなか、7月20日に将軍家茂が大坂城で死亡したことで休戦となった。翌、慶応3年4月14日、高杉晋作は29歳で亡くなった。暗殺されたのではなく、病死でした。

奇兵隊と同じような組織(兵制)を久留米藩もつくっています。惣兵隊といいます。武士層は面白くなかったようです。

(1985年10月刊。480円)

池田屋事件の研究

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 中村 武生 、 出版 講談社現代新書

 元治(げんじ)1年(1864年)6月5日に起きた池田屋事件の背景と推移を明らかにした新書です。

池田屋事件のきっかけは、古高(ふるたか)俊太郎の逮捕。古高が、その日の朝、新選組に捕らえられたことを知った長州毛利屋敷に集まった人々は実力で古高を奪還しようと考え、池田屋に集合した。古高は、実は、萩毛利家の世子の腹違いの兄の生母の再婚相手の孫。

文久3(1863)年、長州藩は、考えを改めた。外様猪俣は将軍の臣下ではなく、将軍をふくめて天皇の直臣(じきしん)とする。ただし、これは倒幕ではない。徳川政府はあってよいが、朝廷を決めたことを執行するだけの機関とするという考え方。

 8.18政変が起きて、薩摩島津家は、京都守護職の松平容保の協力を得て、長州の勢力を京都から放逐(ほうちく)した。同時に、三条実美ら七卿を西国・大宰府へ追いやった。(七卿落ち)。

 文久4(1864)年1月、天皇は、将軍や徳川譜代大名による合議制の政治をすすめた。そして、2月、長州征討が決められた。ところが、天皇の指示文書は薩摩がつくったことに慶喜が気がついた。天皇と島津久光が接近するなんて、とんでもなく危険なこと。そこで慶喜は、3月に参預諸俣の会議体を解散した。

 新選組は文久3(1863)年3月に創立された、京都守護職松平容保附属の浪士集団。新長州の浪士集団に対抗するためのもの。

長州関係者は、積極的に古高に近づき、有栖川宮家との多くの接触を依頼していた。

 長州は、宮家や堂上へ、スパイを潜入させていた。古高邸は、情報センターのような役割を果たしていた。新選組が古高を捕まえ、その供述によって池田屋襲撃が始まったという通説は間違い。新選組は、この日までに浪士たちの潜伏場所を207カ所もつかんでいた。

池田屋事件は、長州兵の大挙の京都攻撃=禁門の変を誘発する危険があった。新選組が池田屋を襲撃したとき、桂小五郎は、そこにいたが、すぐさま屋根を伝って逃れて対馬屋敷に入った。狭い池田屋を舞台として2時間あまりの死闘が繰り広げられた。しかし、その結果の戦死者が誰なのか、今なお不明。

 古高逮捕や池田屋襲撃をへて、会津の長州への敵意は頂点に達しようとしていた。先手を打たないと、こちらがやられるという危機意識をもっていた。

6月15日、長州の来島又兵衛が遊撃軍を率いて山口を先発した。ただし、長州勢は合戦のためではなく、嘆願のために京都に向かった。

 元治1年(1864)7月18日、慶喜は長州勢の排除を決め、孝明天皇が長州追討の勅命を下した。一橋慶喜は、孤立していた会津・桑名と手を組んだ。ここに一会桑権力が成立した。同日、禁門の変が始まった。長州は戦いに敗れた。

 一会桑権力の最重要軍事力は新選組だった。150人ほどの兵力というが決して少なくない。軍事的精鋭によって構成されているから。

池田屋事件について、本書は禁門の変の契機となった事件としています。

(2011年10月刊。1320円)

フェートン号事件

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 大井 昇 、 出版 長崎文献社

 幕末の長崎にイギリス船がオランダの旗を掲げて入港してきた。長崎奉行は焼き討ちを命じたが、警備担当の佐賀藩は当番でありながら出動が遅れ、結局、水や食糧を得てイギリス船は退去していった。直後に、長崎奉行は切腹した。そして佐賀藩主鍋島直正(閑叟)は逼塞(ひっそく)処分になった。これが有名なフェートン号事件のあらまし。

 ときは文化5(1808)年8月15日のこと。ヨーロッパではフランスのナポレオン皇帝が全盛期で、オランダはフランスが支配していた。

 フェートン号はイギリス海軍のフリゲート艦で乗組員350人。入港して出港するまで80時間。一発の銃声もなく、双方に物的な被害も発生していない。当時、日本側はロシア船の来襲を心配していた。とはいうものの、大砲(石火矢)の設置もされていなかった。

 出島のオランダ商館長(カピタン)はドゥーフで、長崎奉行がイギリス船を焼き討ちしようとするのを必死で制止した。フェートン号は風頼みの帆走軍艦。それでも大砲50門を備えていた。

 佐賀藩は当番でありながら、奉行所から減番を認められていて、兵士はほとんど佐賀に帰っており、番所に少数の兵しか残っていなかった。

日本側は、フェートン号に対して、4頭の良質な去勢雄牛(出島の牛舎にいた)、10頭ほどの山羊、鶏10羽、梨100個、野菜とサツマイモ、そして薪と水を提供した。イギリス側は対価を支払おうとしたが、受け取ったら交易したことになるので、日本側は受け取らなかった。

「水はとても清潔な大樽に容れられ」ていたとイギリス側の航海日誌に書かれている。

 大村・諫早の兵士800人、そして福岡藩から45隻の船に750人の兵士が到着したときには、フェートン号は出港していた。当番の佐賀藩がもっとも出遅れた。

 長崎奉行は、イギリス船が出港したあとの夜、庭で切腹した。誰も予想していなかった。41歳だった。

フェートン号の目的はオランダ船の拿捕(だほ)にあった。それで利益を得ようとした。ところが、当時、オランダ船は長崎にいなかったので、目的をとげることはできなかった。

 このフェートン号事件のあと、佐賀藩は苦しい藩財政にもかかわらず、軍備の近代化・西洋化を強力に推進し、最新式の大砲を製造できるようになっていきました。

 フェートン号事件の詳細を知ることのできる貴重な本です。

(2026年1月刊。1980円)

鳥羽伏見の戦い

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 野口 武彦 、 出版 中公新書

 幕末の状況を調べています。徳川幕府の失墜が誰の目にも明らかとなったのが、この鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍に完敗したことでした。

 慶応4(1868)年1月3日から6日までの4日間、薩摩藩を中心とする新政府軍と徳川慶喜を擁する幕府軍が激突した。両軍あわせて2万人の兵士が激しく戦った。戦死者は薩長側100人、幕府側290人。

前年の慶応3(1867)年10月に、将軍慶喜は朝廷(孝明天皇)に対して、大政奉還を建白した。しかし、慶喜は将軍職を辞めて引退するつもりではなかった。むしろ、朝廷を形ばかりのものとして引き続き政権を担当する(実権を握る)つもりでいた。

 薩摩の西郷隆盛はそれを見破り、幕府を武力で打倒するつもりだった。それが鳥羽伏見の戦いで現実化した。

それには仕掛けが必要だと西郷隆盛らは考えた。それが江戸市中を不安にかきたてることだった。諸国の浪人を募集して、500人の浪士隊を組織して前年11月から、挑発行動を開始する。押込み・掠奪・強請(ゆすり)が頻発し、御用金強盗が続発した。12月23日、江戸城二の丸が炎上した。庄内藩の警備屯所に銃弾が撃ち込まれた。

 12月25日、薩摩藩焼打ちの命令が下され、千余人が包囲。猛烈な市街戦となって、薩摩藩側は49人が戦死した。首謀者は薩摩藩の軍艦に逃げ込んだ。これによって、大坂城内にいた幕府側の将兵は大いに沸き立ち、慶喜は「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩に宣戦布告した。

 ところが、慶喜は明治になってから、知らぬ顔を決め込むようになった。敗戦した戦いの責任を回避しようとしたのだ。

 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が惨敗したのは新式銃がなかったので、新式銃をもつ薩長軍に完敗したという説は間違い。幕府軍側も元込銃である新式のシャスポー銃を装備していた。このフランス産シャスポー銃は射程600メートルで1分間に6回は発射できた。

 幕府軍は、シャスポー銃を備えた伝習歩兵が活躍した。ところが、薩長側は、それを上回る大砲と水銃を備えていた。薩摩軍の砲弾は1門から5月ずつ正確に発射された。敵の大砲に命中したのも、セオリー通りのこと。

 鳥羽街道では幕府軍は開戦準備の出来ていないところを撃ち込まれて大敗北。伏見では、長州藩の兵士は前に市街戦の経験もあった(禁門の変で敗退)ので、場馴れしていて奮戦した。そのうち、慶喜討伐の詔勅が出て、薩長側は勇気百倍。慶喜はついに公的に「朝敵」とされた。

幕府軍は指揮命令系統がなく、統制がとれずに、各隊はやがて勝手に引き揚げ始めた。戦場に錦旗が出現すると、慶喜はたちまち悲嘆し、朝廷に逆らう意思はなかったと言い出した。

戦局の大勢を決したのは大砲。フランス式の旋条山砲、四斤山砲を両軍とも使用した。4ポンド(1814グラム)の円錐弾を発射した。

 薩長軍が勝利して進軍すると、住民が歓呼して迎えた。それは戦争を終わらせたことを歓迎してのこと。そして、慶喜は1月5日に大坂城大広間で、大演説をぶったあと、1月6日の夜9時ころ、ひそかに大坂城を脱出し、軍艦に乗って江戸に向かった。部下を見捨てるなんて、まことに無責任な将軍です。

(2025年7月刊。946円)

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