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カテゴリー: 日本史(江戸)

幕末維新変革史(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店

 江戸時代の末期から明治時代の初めというのは、まさに大激動の時代だったことが生き生きと伝わってくる本でした。

 徳川慶喜は、熟慮の末、前土佐藩主・山内容堂の建白書を受け入れ、大政奉還を決意した。慶喜は、これによって土佐藩が薩長両藩に合流することを食い止めることが出来た。

 大政奉還後の京都には殺気が充満した。世の中が一新するという期待と希望のもと、「ええじゃないか」の乱舞が町中に繰り広げられた。

 慶応3(1867)年11月15日、浪士の巨魁と目される坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で急襲された。その3日後、新選組の元メンバー・伊東甲子太郎も油小路で殺害された。

慶喜は、将軍職は辞退することにしたものの、内大臣の辞官と幕府領納地は拒絶した。

大久保、西郷そして岩倉は、軍事力を結集させて新政権を樹立し、反対勢力に対しては戦争をもって決着をつけなければ、天下の人心を一新させることは不可能だと決意した。

慶応4(1868)年正月、鳥羽伏見戦争が始まった。旧幕府側は、5000、会津3000、桑名1500ほか、諸藩の兵が加わった大兵力だった。王政復古政権側は薩摩3000、長州1500と数的には劣勢。ところが、この4日間の戦闘において、数的には優位の旧幕軍側が完敗した。その理由の第一は、薩・長軍は、装備・訓練とも格段の差があった。いずれも、既に本格的な戦争を経験し、それに即した猛訓練をつみかさねてきた兵力だった。第二に、事前に形勝の地を占め、迎撃態勢を万全に敷いていた。第三に、旧幕軍側は「朝敵」と決めつけられて志気がふるわず、そのうえ、慶喜は大阪城にとどまっていて、指揮体制が徹底していなかった。新政府軍の完勝は、不安定な新政府の基礎を盤石なものにした。戦争が局面を切り拓いた。

 慶喜が江戸城に逃げ帰ってきたところに、フランス公使ロッシュが登城してきて、慶喜に対して、フランスが軍艦・武器・資金を供給して援助するので、新政府軍と一戦を試みるよう勧告したが、さすがの慶喜も、これは拒絶した。

5月、上野の寛永寺を拠点とする彰義隊1000と新政府軍2000との市街戦が始まったが、たちまち彰義隊は完敗した。このときも新政府軍側の新鋭アームストロング砲が強力だったようです。

 新政権が成立したからには、その公約だった攘夷がおこなわれるだろうという圧倒的多数の日本人の思いが新政権には重圧としてのしかかった。新政権は攘夷を実行する気持ちはまったくなかったわけですが、先の「公約」との整合性をどうするか、要するにどうごまかすかに頭を悩ませたようです。そこで出てきたのが、朝鮮・台湾です。挑戦を武力で抑えつける、台湾に軍事出兵するというわけです。

 さらに、浦上キリシタン問題が発生した。新政府は、キリスト教を解禁すると、欧米列強の圧力に屈したと非難されることを恐れた。それはそうでしょう。先ほどまで譲夷を実行すると言っていたのですからね。そして、天皇が国家主権者であること、その根拠として記紀神話があるとする新政府にとって、天皇の神格性を真っ向から否定するキリスト教は決して容認できないものだったのです。ところが、欧米列強はいずれもキリスト教団ですから、猛烈に批判・攻撃されます。外交交渉をすすめるどころではありません。不平等条約の改定なんか出来そうもありません。そこで、潜伏していたキリシタンを投獄したものの、各地に分散させて、うやむやにしていくのでした。

歴史のダイナミックな展開の視点を身につけるのに格好の歴史書として大変勉強になりました。

(2012年10月刊。3520円)

「おくのほそ道」を読む

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 長谷川 櫂 、 出版 ちくま文庫

 古池や蛙(かはづ)飛びこむ水のおと

松尾芭蕉が、この句を詠(よ)んだのは1686(貞享3)年の春、43歳のとき。

 「おくのほそ道」の旅に出発したのは1689(元禄2)年春なので、その3年前になる。このとき46歳だった。

芭蕉というのは、38歳のときに門人から株を送られ、翌39歳に自ら芭蕉と号した。

芭蕉は51歳のとき最後の旅に出かけ、大坂で病気になり、「旅に病(や)んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」を詠み、10月12日、そのまま亡くなった。

 「蛙飛びこむ水のおと」が先に生まれ、「古池や」があとで出来た。つまり、芭蕉は草庵の一室にいて、蛙が跳びこむところも古池も見ていない。どこからか聞こえてくる蛙が水に飛び込む音を聞いて、芭蕉の心の中に古池が浮んだ。つまり、この古池は、芭蕉の心の中にある。地上のどこかにある古池ではない。古池は、芭蕉の心の中に現れた想像上の池。

 芭蕉の心の世界を開くきっかけになったのは、音だった。

 古池の句を詠んでから、芭蕉の句風は一変した。広々とした心の世界が句の中に出現する。蕉風とは、まさに、この現実のただ中に開かれた心の世界のこと。

閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声

この「蝉の声」も、同じく心の世界を開くきっかけになっている。したがって、この句も典型的な古池型の句と言える。

 このとき芭蕉が感じた静けさは、現実の静けさではなく、宇宙全体に水のように満ちている静けさ。現実の世界の向こうに広がる宇宙的な静けさを芭蕉は感じとっている。

 芭蕉が考えた不易流行は、何よりもまず一つの宇宙観であり、人生観。この宇宙は暗転きわまりない流行の世界なのだ。一見、暗転きわまりない流行でありながら、実は何も変わらない不易である。この流行即不易、不易即流行こそが芭蕉の不易流行である。

 芭蕉は、「おくのほそ道」の旅のあと、句風を一変した。悲惨な人生を嘆くのではなく、さらりと詠むという句風への変化、「かるみ」が誕生した。

 ちくま新書として刊行されたものが、ちくま文庫となってとても分かりやすい解説が加えられていて、勉強になります。

(2025年5月刊。1100円)

暦のしずく

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 沢木 耕太郎 、 出版 朝日新聞出版
 江戸時代の中期に活躍した講釈師・馬場文耕が講談のなかで、時の幕府中枢を批判したら、なんと斬首・獄門となったという史実が物語になっています。江戸時代に深く関心のある身として、これは読まずばなるまい、そう思って読みはじめたのです。朝日新聞に連載されていたそうで、堂々550頁を超す大作となっています。
 講釈師とは、今の講談師のこと。今日の日本でも人間国宝に指定される講談師がいます。一龍斎貞水、神田松鯉など。残念ながら話を聴いたことはありませんが、女性講談師がいま何人も活躍していますよね。
講談のなかで、時の政府をチクリチクリと批判するのは当然のことです。時の政府を持ち上げるばかりの講談だと、歯が根元から浮いてしまって、最後まで聴こうとも思わないでしょう。でも、聴衆が聞きたいのは政治演説ではありませんので、適当な批判にとどめます。そこらあたりのサジ加減がとても難しいとは私も思います。
 馬場文耕を死刑(獄門)にする判決文が残っている。
 「かねてより古い軍記物などを講釈して生活していたが、貧しさのあまり衣服の手当てもままならず、聴衆に援助してもらうべく、極秘の物語を講釈すると喧伝(けんでん)し、現在、公儀で吟味中の事件を文章にし、実際にそれを講釈した」
 当時の出版物(書物)には、版木を掘って印刷したものを束ねる刊本と、筆で書き写したものをまとめて本にする写本の二つがあった。刊本は、幕府の許可が必要のため、あまり過激な内容のものは出すことができなかったが、原稿を書き写すだけの写真は、簡単に世の中に出すことが出来たため、政治的に過激なものが出されていた。馬場文耕の作品は、すべて写本であった。
 江戸時代の読者には、写本は、書かれているのは事実に違いないという思いがあった。
 えっ、待って…。もしかして、これって、現代SNSのフェイクニュースを真実と思い込む人と似ていませんかね…。うむむ、難しいところですよね。とんでもないインチキ政党(参政党)の言っていること(外国人は犯罪が多い…)を真実だと思い込んだ日本人が何百万人いたという事実に、私は身の凍る思いがしています。
 美濃(みの)郡上(ぐじょう)の金森家の苛政を馬場文耕は取りあげました。まさしく、公儀が内密に問題として取りあげたテーマです。ここの百姓一揆は、結局のところ、劇的な勝利を遂げるのです(首謀者は獄死したとしも…)。
 ときは徳川九代将軍家重、そして田沼意次(おきつぐ)の時代です。
 田沼家は、将軍吉宗のときに紀州から江戸入りしたのですね…。江戸時代も中期になると、公事宿(くじやど)が反映していました。江戸の人々は不正そして権力の横暴に対して黙っていなかったのです。それは自分の生命を賭けての抗議でもありました。
 金森騒動については、五手掛の裁判となった。寺社奉行、北町奉行、勘定奉行そして大目付と目付の五人が裁判体を組んだ。この評定所で吟味中の金森騒動を講釈師が取り上げて、あれこれあげつらうなど、幕府にとって許せるものではなかった。その結果は、老中や若年寄、勘定奉行が改易やら重追放、「永預け」「逼塞」など、いかにも厳しい処断がなされた。江戸時代の処分としては空前絶後の厳しさだった。そして、百姓一揆の側も、牢内で次々に死んでいった。そして判決は獄門が4人、死罪10人だった。
 文耕に対しては、「不届き至極(しごく)につき、見凝(みこ)らしのため、町中引き廻し、浅草において獄門を申し付ける」となった。
 いやあ、すごく重たい内容の本でした。それにしても、同時にその心意気を大いに買いたい気持ちで一杯になりました。いい本です。
(2025年6月刊。2420円)

幕末維新史への招待

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 町田 明広 、 出版 山川出版社
 幕末の日本にやってきたアメリカのペリー艦隊と、その結果としての日米条約は、アメリカ国内での南北戦争(1861~65年)の直前のことだった。浦賀沖にペリー艦隊が来たのは1853(嘉永6)年6月のこと。翌1854年3月に日米和親条約が締結され、安政3(1856)年7月、総領事ハリスが来日した。ハリスとの交渉で安政5(1858)年6月、日米修好通商条約が締結された。
アメリカにとって、日本と関係を結ぶことは、太平洋横断航路における石炭補給地の確保、および捕鯨船員の救助という一石二鳥の策であった。日本は、まずは航路上の寄港地であって、日本との通商自体の優先順位は低かった。
 ペリーがアメリカを出航(1852年11月)したときの大統領はホイッグ党のフィルモア。しかし、1853年3月、民主党のピアースが大統領になった。そして、1860年5月、幕府の使節たちがワシントンで会った大統領は民主党のブキャナンであり、同年11月には共和党のリンカンが大統領となっている。
 文久3(1863)年6月の下関戦争のとき、アメリカの軍艦ワイオミング号は、南部連合軍の軍艦を追撃するために東アジア地域に派遣されていた軍艦であり、日本自体は赴任地ではなかった。
 慶応3(1868)年1月、南北戦争が終了していたので、兵庫の開港にあわせて、アメリカのアジア艦隊に属する軍艦が日本近海に終結した。
ロシアのプチャーチンはアメリカのペリーに対抗するために派遣されたというのは間違い。そうではなく、ペリーが日本と結んだ条約と同じものをロシアにも得ることが目的だった。
 文久1(1861)年2月、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に軍事哨所を建設した。それは対馬の全島を獲得するまでの意図はなかった。対馬の良港に海軍の拠点を設置するのが目的だった。
 明治政府にとって、千島列島の統治は、予想をはるかにこえる困難なものだった。千島列島に残留したアイヌはロシア語を母語とし、日本語はまったく分からない。しかも、彼らはロシア正教の信者だった。
この本を読んで最大の驚きは、幕府末期に、すでに欧米は海底にケーブルを敷設していたということです。ただし、まだ太平洋の海底には敷設されてはいませんでしたが…。それにしても、早くも大陸間で電話が通じていたのですね…。
 もう一つの驚きは、沖縄です。もちろん、当時は、琉球です。琉球に王様がいたことは知っていますが、江戸時代の人々は、琉球人を「異国人」とみていて、日本人だとは思っていなかったし、琉球人も、自分たちは琉球人も、自分たちは琉球人であって日本人とは思っていなかったというのです。なるほど、そう言われたら、そうでしょうね。ただ、琉球人と日本人が全然別の民族だというのは、私はそうは思いません。
また、ペリーが、日本より先に琉球に寄港していたこと、ペリーは那覇に合計して5回も寄港していたというのは初めて知りました。
 しかも、ペリーは、太平洋を渡って日本に来たのではなく、大西洋からアフリカのケープタウンを回って、シンガポール、次いで香港・上海を経由して琉球にやって来たのです。
 面白いこと、知らないことが満載の本でした。
(2025年5月刊。1980円)

動物たちの江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 井奥 成彦 、 出版 慶應義塾大学出版会
 江戸時代、人々は今より以上に動物とともに生きていた。
 犬は、江戸初期は「食べられる動物」だったのが、中期の元禄期の「生類憐みの令」によって保護される存在となり、後期には、愛玩動物(ペット)としての特色が強くなった。日本も昔は、中国や韓国と同じように、犬を食べていた。将軍綱吉の「生類憐みの令」がそれを禁止した。四谷に1万9千坪、大久保に2万5千坪、中野に16万坪の犬小屋をつくって、中野だけでも10万頭の犬が収容された。当時の犬の寿命は10年もなく、大量の犬を飼育するのは難しくて、病死する犬も多かった。この「生類憐みの令」によって、日本人は犬を食べなくなった。
そして、何頭もの犬が単独で伊勢参宮を果たした。もちろん、これは人々が伊勢参りに行っていたので、その同伴者(犬)としてのこと。新潟市から伊勢神宮まで参宮に出かけ犬が記録されている。犬は、首に巻きつけた袋に、自宅に戻ったときは銭1貫700文も入っていた。吉原遊郭(ゆうかく)では、狆(ちん)という犬種に人気があった。犬の墓のなかには、戒名の彫られた犬の墓石が発掘されている。
江戸後期には、犬や猫はペットとして愛されていて、死んだら墓がつくられていた。
江戸城の大奥では、猫が飼育されていった。猫(ミチ姫、サト姫などと呼ばれていた…)は、餌代が年に25両もかかっていた。
 東日本と九州では、牛より馬のほうが多く、西日本では牛の比率が高かった。日本の馬は小柄で、サラブレッドのような高さはなかった。江戸時代の馬は、およそポニーと呼ばれる中・小型馬。体高130センチに満たない馬がほとんどだった。牛は、使役の役割を果たすと、供養塔を建ててもらっていた。
ペットの供養源となっていたのは「鳥屋」。鳥屋にはブリーダーとしての一面がある。
江戸時代の人々は「薬食い」と称して、猪や鹿などの獣肉を食べていた。
 象が日本にやって来たのは15世紀のこと。それ以来、何度も日本にやって来て、記録が残っている。
 江戸時代、「接待・饗応」の場として、鶴しかも黒鶴が珍重された。
 江戸時代には芝居小屋があって、芝居が演じられた。曲馬芝居というのは、衣裳を着けたプロが馬上で芝居をするという馬上芝居だった。
 江戸時代が決して暗黒の時代ではなかったことが分かります。
(2025年4月刊。2640円)

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