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カテゴリー: 日本史(江戸)

見えるか保己一

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴) 

著者 蝉谷めぐ実 、 出版 角川書店

盲人でありながら「群書類従」を刊行した塙(はなわ)保己一(ほきいち)の生涯を小説にした本です。直木賞を受賞できませんでしたが、候補作ではありました。

江戸時代、江戸には当道座の惣禄屋敷があった。盲人は皆これに属し、琵琶に平曲、鍼(はり)、灸、按摩と、お金を稼ぐ生業とした。

その鍼には、小槌を用いて 鍼を肌に打ち込む打鍼、鍼を捻(ひね)り入れるように肌に差し込む捻鍼(ねんしん)の二つがあったが、もう一つ、管鍼が考案された。これは、純銀、八角の鍼管に鍼を入れ、その鍼頭を叩いて刺し入れる。狙いさえ定まれば、うんと一息。打鍼や捻鍼のように肌下で経穴を探して鍼先を這わせずにすむので痛みが少ない。

実は、私はこのところずっと鍼を打ってもらっています。きっかけは腰痛でした。ぎっくり 腰になったようで、まともに歩けないほどの痛みがありました。そこで紹介されて鍼を打ってもらったのです。鍼灸師は晴眼の男性です。物静かで、むしろ無口な先生なので、私はベッドの上でうつ伏せになると、目をつむり、ほとんど寝入ってしまいます。いつも 40分間ですが、あっという間です。終わったときは、いつも身体がすっと軽くなっています。いやあ、これはいい、それ以来、病みつきになり、安眠目的を兼ねて、2週間に一度は行くようにしています。 

さて、塙保己一です。盲人でありながら群書を引っ張ってきて、整理するなんて、晴眼者でも容易にできることではありません。

保己一は、本屋で本を手に入れると、それをいったんさらりと流し読んでもらう。そのときの読みの声の質はとても大切。声によって頭の中でこしらえるタンスの材と飾りがずいぶんと変わる。保己一は、そのため、本の類別ごとに読んでもらう者を振り分けた。

目明きの本好きは、本を目で読むだけでなく、口でも 読みたがる。本屋の客は本の種類ごとに担当をつくり、保己一が店に来るとそれを読み、店に駆けつけてくる。

保己一は、一世に出された書物を集め、編纂(へんさん)し、一つの書物にまとめ上げる。 数ある手本のなかから正しいものだけを集め、それを分類して位置づける。そうすると、あれもこれもと手を出す必要はなくなる。

「群書類従」におさめられている千種を優にこえる書籍は、「竹取物語」や「源氏物語」のような有名どころだけでなく、歌合の勝敗や寺社の社務日記、童の遊びの決めごとのような、取るに足らない雑録にまで及んでいる。

おまけに、貴重な書物の真正性を重視し、全国から集めたばかりでなく、ときには地方の蔵へ出向いて引き比べ、底本を見つける。これを36年もした。大功績だ。今日までに620冊、1万6053枚の版木を彫っている。

いやはや大変な超人としか言いようがありませんね。その丹念さに頭が下がります。圧倒されてしまいました。

(2026年6月刊。1850円+税)

老いと病でみる幕末維新

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴) 

著者 宮地 正人 、 出版 人文書院

いま幕末維新のことを一生懸命に調べています。とても参考になる本でした。

驚いたのが初老、中年、老人です。江戸時代にも70歳以上生きる人は少なからずいました。でも、それは文字どおり古稀(稀つまり珍しいことでした。

明治・大正期に至るまで、人々の平均寿命は40代後半で、50歳代は老人扱いされた。初老というのは40歳ころの人を指す。中年は、それより前の30代の人を指している。40代は真正「老人」としてあつかわれた。

西郷隆盛は、維新のとき40代後半に入ったばかりだったが、すでに「老西郷」とか「西郷老人」と呼ばれていた。

今の日本では100歳以上の人が5万人超いますから、100歳でも「古希(まれ)」ではないのです。世の中、変わりました。

ちなみに私は現在77歳で、現役の弁護士です。被疑者弁護も被害者弁護も担当しています(国選弁護人です)。同世代でも、少なくない人が現役の弁護士として活動していて、周囲も当然視しています。

江戸時代の病気として多いものの一つに、痔疾があった。畳の上に長時間すわる生活をしていて、食物繊維もたくさんとっていたから。孝明天皇も痔に苦しんでいたとのこと。

この本によると、孝明天皇は江戸幕府を打倒するなどと考えたことはなく、攘夷といっても庶民の生活がどうなるか心配してのことであって、排外主義を考えにこり固まっていたわけではないとしています。問題を先送りする思考が強い方であったために、結果として、江戸幕府の倒壊に手を貸したとみています。

幕末の時代は緊張度が高く、公家を含めて暗殺が横行していたので、人々は酒色におぼれるのも必然だったとしています。その結果、梅毒や淋病も流行していました。

伊勢参りも盛んで、隠居身分の女性達の旅は19世紀に入ると飛躍的に増加した。福岡からも何人もの女性が伊勢参りの旅に出て旅行日記を公刊しています。1週間ではありません。3ヶ月も4ヶ月もの長旅です。1日に7里も歩くなどまことに健脚です。

白米を常食とすると、脚気に苦しみます。これを「江戸患い」と言いました。麦飯を食べたらなおりました。同じく口内炎に苦しむ人も多かった。

江戸末期の人々の生活の実相をしっかりイメージすることができる本です。大いに勉強になりました。

(2014年7月刊。2860円)

海の幕末日本

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴) 

著者 後藤敦史 、 出版 人文書院

アメリカのペリー提督が日本に来る前に、イギリスの測量船サマラン号が1845年8月(弘化2年7月)に長崎にまで来ていて測量したことを初めて知りました。長崎奉行は測量禁止を通告したのに、勝手に測量したようです。

次に1849年5月(嘉永2年4月)に、イギリス艦マリナー号が江戸湾口の三崎沖合にやってきて測量しました。この船には、かの有名な漂流民の音吉(おときち)が通訳として乗っていました。伊豆の下田港にもやってきて、測量していたようです。

そこで幕府は、天保13(1842)年に撤廃されていた異国船打払令を復活させるべきか、老中や奉行たちが議論したのです。しかし、復活については反対意見は強く、復活されなかったようです。

ペリー来航(黒船来航)は1853年7月(嘉永6年6月)のことです。ペリー提督の率いる、東インド艦隊の4隻の軍艦が浦賀沖に出現しました。「たった4杯で夜も眠れず」といわれたほど日本社会に激震(大きな動揺)を与えました。

その後、アメリカ海軍は北太平洋測量艦隊を日本に派遣しています。1854年12月に鹿児島湾、翌55年3月から5月にかけて、下田や箱館に来航し、測量を実施したようです。

1853年9月、ロシアとオスマン帝国との間でクリミア戦争が始まり、翌54年3月には、イギリスとフランスがオスマン帝国側に立って参戦した。

イギリス測量艦隊に対して幕府は伊能図を提供した。これによって日本の海岸線を測量する必要はないとイギリス側は判断した。伊能図の精密度、正確さにイギリス側は感嘆したとのこと。なるほど、それはそうでしょうね…。

日本側は、その後、アメリカの測量船に「稽古」のため日本人5、6人を載せて、測量技術を習得させようとしたとのこと。

イギリスはアヘン戦争で中国・清を打ち負かしたわけですが、攘夷を実行してきた長州藩などに接して、対日戦争を意識した計画を立案していたとのこと。これまた、知りませんでした。具体的には瀬戸内海封鎖と大坂攻略。江戸は海に面しているので可能だけど、京都は内陸部にあるので無理。大坂は可能性ありと考えたようです。このころ、日本側は大坂まで攻められることはないだろうと安易に考えていたとのこと。考えが甘いようです。

1864(元治1)年3月、慶喜が将軍後見職を辞し、禁裏守衛総督・摂海防禦指揮に就任した。慶喜は島津久光を警戒していた。参与会議によって国を運営する構想があったが、薩摩藩の主導で運営される危険を察知し、慶喜は、参与会議の構想を3ヶ月で解体した。

アメリカでは1861年から65年まで南北戦争が戦われていましたが、この間、外へ目を向けられなかったアメリカに代わってイギリスが積極的に動いていたようです。

海と測量の点に重きを置いた幕末政治史として興味深い内容がたくさんありました。

(2026年4月刊。3850円)

討幕開戦への道

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴) 

著者 中村 彰彦 、 出版 中公選書

時代小説の大家が幕末期の政治の実相に迫っている本です。

幕末のころ、将軍家茂と孝明天皇が重大な局面のさなかに相次いで亡くなりました。

まず、将軍家茂です。慶応2 (1866)年7月20日、まだ数え21歳の若さで死亡。「脚気(かっけ)衝心(しょうしん)」とされていたのを、侍医の松本良順は、「心臓内膜炎」とした。これは歯の衛生状態の良くない人が発症しやすいもので、心臓の弁の内壁に細菌が付着、感染して起きる。

家茂は大の甘党で、体質的に虫歯になりやすいところ、虫歯から体内へ侵入した細菌が心臓内膜炎を引き起こし、それが、胸痛とうつ状態の原因となった。見舞品として届けられた甘いものが家茂の虫歯をますます進行させ、征長軍からもたらされる相次ぐ敗戦の知らせが家茂の衰弱した心身に激しい衝撃を与え、ついには死に至った。

続いて 孝明天皇。同年12月25日に36歳で死亡した。痘瘡による死が定説。これに対して 著者は岩倉具視を黒幕とし、女官がヒ素を飲ませて毒殺したとします。

岩倉具視は孝明天皇から遠ざけられていたのですが、天皇の死によって一気に黒幕としての行動を再開し、王政復古、そして徳川幕府の終わりに結びつけていった人です。

でも、そう簡単に天皇を毒殺できるものでしょうか…。

最下級の公家であった岩倉具視は風采(ふうさい)が上がらず短躯(わいく。背が低い)でもあるため、「岩吉」というあだ名をつけられていた。それでも、侍従、従四位上、侍従兼近習と出世していった実妹の堀河紀子は孝明天皇の後宮に入って、兄を引き立てようとした。岩倉具視は公武合体としての和宮降嫁に奔走している。

岩倉具視は孝明天皇から勅勘をこうむっていたが、その天皇が亡んでしまえば、勅勘は自動消滅する。

ヒ素は猛毒だが無色無味無臭で、水によく溶ける。かのナポレオンについても、ヒ素による毒殺説がありますよね…。

孝明天皇の死の直前の状況は急性ヒ素中毒の特徴と合致している。

著者はヒ素を孝明天皇に飲ませたのは女官のトップである大典侍の中山績子(いさこ)だとしています。

岩倉具視の指示によって孝明天皇の死を仕組んだ女官たちは、岩倉の復権とともに公職に復帰して残留し、罪を問われることなく、天寿をまっとうした。

坂本竜馬の暗殺についても、著者は大胆な問題提起をしています。慶応3 (1867)年11月15日、京都見廻組の今井信郎らによって、坂本竜馬と中岡慎太郎は斬殺された。このとき坂本竜馬の居場所を見廻組に教えたのは、薩摩藩の西郷たちではなかったか、というのです。それというのも、西郷隆盛は暴力をもって徳川幕府を倒すことを決意して、着々と布石をうっていました。ところが、坂本竜馬は、なお公議政体案を主張して徳川慶喜を要職に登用する案を主張していたのですから、邪魔な存在だったわけです。

歴史を教科書どおりに表面から眺めるだけでなく、一人ひとりの内面にまで迫って考えていこうとする著者の視点には大変教えられるところが、多くありました。続刊が楽しみです。

(2026年3月刊。3300円)

きみがなきあと

カテゴリー:日本史(江戸)

 

(霧山昴) 

著者 木内 昇 、 出版 集英社 

幕末のころ、長州そして福岡で活動していた勤王志士の一人、野村 望東尼(ぼうとうに)を主人公とする小説です。

私は、今、幕末のころの久留米藩の様子を小説として描くのに挑戦していますので、そこに登場する女性として関心があって読んだのです。

江戸幕府はペリー来航のあと、開港を決めました。ところが、そのころは尊王攘夷を叫ぶ人々の声が高まっていました。開港によって諸物価が高騰して、庶民の生活が苦しくなっていたからです。それでも、幕府の中枢にいた人々は、中国・清がアヘン戦争で敗れて、みじめな状況になっていることを知り、西洋列国の近代的な兵器を前にして、口先で「攘夷」と言うのは簡単だけど、本気で実行したら日本も惨憺たる状況になることを心配していました。しかし、朝廷の側に立つ人々は、幕府はもはやあてにならないと思い始めていました。尊王攘夷とは、倒幕でもあったのです。ただ、公武合体、つまり朝廷と幕府とが一体となって難局を乗り越えようという考えも有力でした。薩摩の島津久光もその一人です。

孝明天皇の妹が将軍家茂に降嫁します。もっとも、それには攘夷を実行することという条件がついていました。幕府は、こんな条件は、実行を先送りしたらよいと考えたようです。

そのころ夫を亡くしたモトは尼僧となった。

桜田門外の変が起きて、大老井伊直弼が暗殺された。やがて生麦事件が起き、薩英戦争が起きた。薩摩もそれなりに健闘したが、城下の大半を焼かれてしまった。やはり西洋の新式大砲にはかなわない。

七卿落ちが起きて、長州勢は押し込められた。攘夷を実行した長州藩は西洋4ヶ国艦隊の砲撃を受け、たちまち砲台を占拠されてしまった。

福岡の勤王党に加勢していたモトは、福岡藩から姫島に流刑に処された。同じころ、福岡勤王党の志士14人が斬首となった。

モトは望東尼と呼ばれた。そこへ高杉晋作が救出しにやってきた。

長州征伐の幕府軍を高杉晋作の率いる奇兵隊が打ち破る。しかし、高杉晋作は病気で倒れてしまった。

面白きこともなき世を面白く、これが高杉晋作の上の句。棲みなすものは心なりけり。これは望東尼がつないだ下の句。

当時の社会状況を踏まえての心理描写はさすがです。

(2026年4月刊。2640円)

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