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カテゴリー: ヨーロッパ

戦時下のベルリン

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ロジャー・ムーアハウス 、 出版  白水社
ナチス・ドイツ支配下のベルリンの市民生活を詳しく紹介した本です。
ベルリンには、最後まで少なくないユダヤ人が隠れ住んでいました。それも、ベルリンに革新的な土壌があったからだというのです。ナチス・ヒトラーの一色で染めあげられていたのではなかったというわけです。
 戦時中のドイツで、1万2000人ほどのユダヤ人が地下に潜ったと推定されている。その大部分は、匿名性を保つのが容易な大都市に隠れた。左翼的・自由主義的伝統と、ユダヤ人が定住した歴史のあるベルリンが生きのびる最大の機会を提供した。地下に潜ったユダヤ人の半分、7000人ほどが首都ベルリンにいたと考えられている。
潜ったユダヤ人は、自分の外観を代えるのが急務だった。地下の生活の黄金律は、「だらしない身なりをしないこと」で無精ひげを生やしていたり、襟が垢だらけだったりすると、必ず人の注意を惹く。生きのびるためには困難な状況にもかかわらず、自信にみちた、「普通の」態度をしていなければならなかった。
 ユダヤ人の「潜水夫」は雄々しい自助努力をしたけれど、ほとんどの場合、アーリア人の協力者にすっかり頼っていた。独りの逃亡ユダヤ人を助けるのに、平均7人のドイツ人の協力が必要だった。
ユダヤ人女性で、ナチスのまわし者になって逃亡ユダヤ人を密告してまわったシュテラという人物が紹介されています。ゲシュタポはシュテラとの約束を破り、両親をアウシュビッツに送り、シュテラも捕まった。しかし、戦後まで生きのび、1994年、シュテラは72歳で自殺した。うむむ、裏切り者は必ずいるものなんですね・・・。
 1943年夏、ベルリンには40万人もの外国人強制労働者がいた。ベンツ、AEG、ボッシュ、ジーメンス、ドイツ鉄道で働いていた。労働者はヨーロッパ各地からやって来た。10万人がドイツ軍占領地区から、かつてのソ連軍占領地区からやって来た。占領下のフランスから6万5000人、ベルギーから3万人、オランダとポーランドからも同数が来た。
 ベルリンの外国人労働者の3分の1は西ヨーロッパから来た。その3分の1は女性だった。「東労働者」が病気だと申出るのは、自殺の遺書を書くのに等しかった。
 1941年秋、ベルリンのゲットーのは20万人のユダヤ人が押し込まれて住んでいた。
 大部分のベルリン市民は、ホロコーストの陰惨な真実を、たとえ知っていたとしても、信じるのは難しかっただろう。信じたがらないことが多かった。ある人種が「工業規模」で組織的に殺されるというのは、大方の人間の想像力をこえていた。そんなことは信じがたいという気持ちが蔓延していた。それは本当にそうなんだろうなと私も思います。
ラジオのもつプロパガンダの側面は、ナチにとってきわめて重要だった。1938年に始まったイギリスBBCのドイツ語放送に、多くのドイツ人は自国の放送より高く評価していた。ドイツ人の3分の2が外国放送を定期的に聞いていると推定された。
 ゲシュタポの絶頂期でさえ、ベルリンにいた工作員とスパイは800人をこえなかった。450万人の都市において、1人のスパイが5600人のベルリン市民を相手にしていた。
ベルリンはナチスの第三帝国に対する抵抗の中心だった。自由主義的、コスモポリタン的性格をもち、ユダヤ人が大勢住み、伝統的に左翼の稜堡であったベルリンは、ナチにとって有利な選挙区ではなかった。ヒトラーに投票した人は全国平均を下回った。ナチが選挙で大躍進した時でさえ、いくつかの地区では一般の投票数の半分しか得られず、ベルリンのナチが獲得した投票数は合計の3分の1以上には達しなかった。ただし、多くの普通のベルリン市民にとって、しっかりと組織化された抵抗運動に加わるのは、自殺に等しいと思われていたに違いない。
 1943年2月、首都に残っていたユダヤ人が一斉に逮捕された。そして、ユダヤ人の夫をもつアーリア人の妻たちが抗議に集まった。600人から1000人の女性が、「私達に夫を返して」と叫んだ。ローゼン通りに何時間も、毎晩毎晩、壁のように立って叫んだ。そして、ついに一週間後、「特権的ユダヤ人」つまり異人種間結婚していたユダヤ人たちは家に帰された。ローゼン通りで自由になったのは1800人。1943年のドイツ、ベルリンで公然と抗議の示威行動があり、要求を勝ちとったというのは驚くべきことだ。
ベルリンは英国空軍から大空襲を受けたが、ドイツの民間人の士気は、それほど失われなかった。広い並木道と石造りの大通りは簡単には燃えなかった。それでも、ナチに抱いていた信頼感が次第に薄らいだのは確かだった。
 1943年、スターリングランドの敗北のあと、ベルリン市民は無気力状態に陥り、なんとかして戦争を生きのびたという単純な願望になった。
 1945年4月、ベルリンをソ連赤軍が占領した。ソヴィエト兵によって強姦された女性は13万人をはるかにこえると推測されている。強姦された女性の1割が自殺した。1946年にベルリンで生まれた子どもの5%がロシア人の子どもだと推定されている。
 多くのベルリン市民は、戦争の経験とナチ体制と共犯関係にあったことで、すでに傷ついていたので、輪をかけた屈辱を受けいれるのが難しかった。
 戦争というのは、まことに多面的な状況をうみ出すものだと痛感させる本でもありました。
(2013年3月刊。4000円+税)

キャパの十字架

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  沢木 耕太郎 、 出版  文芸春秋
戦勝写真家として名高いキャパの写真「崩れ落ちる兵士」の真相を追求した本です。とても説得力があり、すっかり感嘆しました。
 推理小説ではありませんので、ここで結論をバラしてしまいます。あの写真はキャパが撮ったのではなく、パートナーの女性が撮ったものであり、兵士は撃たれて崩れ落ちたのではなく、足元の悪い斜面で足をとられてあおむけに崩れ落ちたのだということです。この点について著者は現地に何回も行って、見事に論証しています。たいしたものです。
問題の写真の舞台は、スペイン戦争です。共和国政府に対して、ナチス・ドイツなどが後押しするファシスト派が叛乱を起こし、結局、共和国政府は打倒されてしまいます。そのスペインの叛乱の渦中に起きた「出来事」(兵士の死の瞬間)が迫力ある写真として世界に紹介されました。
 そして、この兵士の氏名まで判明したのです。ところが、実は、この兵士は撃たれて死んだのではなく、キャパたちの求めに応じて演じていたのでした。
 キャパの本名はエンドレ・エルネー・フリードマン。両親はユダヤ系のハンガリー人。夫婦で婦人服の仕立て屋を営んでいた。そして、ナチス・ドイツが台頭してきて、フランスはパリに逃れた。そこで、同じユダヤ人女性、ゲルタ・タローにめぐり会った。このタローという名前は、岡本太郎にもらったものだそうです。当時、彼女はモンパルナスで同じ芸術仲間だったといいます。
 キャパの相棒だった、このゲルダ・タローは、1937年7月に共和国軍の戦車が暴走して事故死してしまいます。まだ27歳という若さでした。
 「崩れ落ちる兵士」は銃弾によって倒れたのではない。しかし、ポーズをとったわけではなく、偶然の出来事によって倒れたもの。そして、その場には2台のカメラがあり、カメラマンが二人いた。このあたりは、たしかにそうだろうと思えました。というのも、あの有名な写真のほかに、連続してとられた多数の写真があり、状況を再現することが可能だったからです。
 キャパは、ついにベトナムの戦場で地雷を踏んで死んでしまいました。アメリカのベトナム戦争の被害者になってしまったわけです。
 でも、その前、第二次大戦中のノルマンディー上陸作戦にも参加して、死にかけたのでした。戦場カメラマンというのは本当に危険な職業ですね。今の日本にもいますし、そのおかげで居ながらにして戦争の悲惨な状況を写真で知ることができるわけです。それにしても、キャパの写真をここまで執念深く追求したというのは偉い。つくづくそう思いました。
(2013年2月刊。1500円+税)

成功する人の「語る力」

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  フィリップ・コリンズ 、 出版  東洋経済新報社
イギリスのブレア元首相のスピーチライターによるスピーチ原稿のつくり方を紹介する手引書です。
 優れたスピーチを書く技術を身につけたければ、書く内容が定まっていなのに書きはじめたり、内容そのものよりも耳に心地よいスピーチをすることは避けなければならない。
 いいスピーチは、骨組みがしっかりしている。
 スピーチは、いちばん核となるテーマを一行で表してみること。もし、一行でまとめられないのなら、自分のテーマがまだ分かっていないということ。
スピーチが果たす基本的な機能は、情報性、説得力と刺激の三つである。
 スピーチとは、一度マイクの前に立ったら、誰かに邪魔されることなく、20分は話ができる素晴らしい機会である。
 スピーチでは、できるだけわかりやすく明確に話すことが必要だ。
スピーチに最適なのは午前11時ころ、最悪なのは昼食直前だ。聴衆は、まだ話をきく態勢になっていない。
効果的に説得するにはコツがある。まずは寛大な態度を示す。そのうえで、論理立てて相手の意見を切り崩していくこと。初めから反対論者を叩きのめそうとしてはいけない。
 スピーチするとき、あなたという人格が伝わることが大切だ。そして、聴衆が遠くからでもわかるように、あなたの個性をわざと目立たせる工夫も必要だ。
 ひとたびステージにあがったら、ゆったりとふるまう。前口上は短く終わらせ、やや長めの間を取って、これからスピーチを始めるのだと聴衆に知らせよう。
 ステージ上では、少々大げさに話す。いつもの調子で話してしまうと、迫力に欠け、あまりやる気ないように見えてしまう。そして、話すペースに変化をつける。
オバマ大統領の秘密は、すべてその声にある。オバマは歌うように言葉を発する。オバマの原稿を読んでも、それほどの感動はない。
とても実践的なスピーチ原稿のつくり方の本でした。
(2013年4月刊。1500円+税)

トロツキー(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ロバート・サーヴィス 、 出版  白水社
大学生時代、私にとってトロツキストというのは暴力学生であり、権力と通じて街頭で派手に暴れまわり、心ある人々を困らせる存在というイメージでした。この本は、トロツキーの素顔に迫っています。大変興味深く読みました。ただし、上巻だけで400頁もの大作です。
 トロツキーは、政治の空を駆け抜けるまばゆい彗星のようだった。誰が見ても、トロツキーはロシア革命でもっとも弁舌の立つ人物だった。トロツキーは10月に臨時政府を打倒した軍事革命委員会を率いた。赤軍の創設に誰よりも貢献した。トロツキーは、レーニンとお互いに反目もした。
 トロツキーは1929年にソ連を追放され、ソビエト国家のどこがおかしくなったのか、というトロツキーの分析は外国では影響力を持ち続けた。トロツキストは、政治状況が許せば、どこでも登場した。
 スターリンは、トロツキーを十月革命の敵として描き、1936~38年の見世物裁判で有罪宣告をし、ソビエト諜報機関に暗殺を命じた。そして1940年、暗殺に成功した。
存命中のトロツキスト集団は政治的にはごくわずかな影響力しか及ばさなかった。そして、トロツキーの死後、運動はジリ貧となった。
1968年にヨーロッパとアメリカの学生運動が起きて、一瞬だけトロツキーは復権したが、年末には沈静化した。これが私の大学生のころのことです。一瞬だけ、だったんですね・・・。
ソ連では嫌悪され続けたが、1988年にゴルバジョフがトロツキーの政治的な名誉を回復した。西側のトロツキストは、相変わらず従党を組んで遁走に明け暮れ、しばしばトロツキーなら飛びあがったはずの思想を喧伝した。トロツキーは、暗殺されたことによって政治的な殉教者となり、おかげで通常なら疑問を抱いたはずの著述家も好意的に解釈してくれた。
 スターリン、トロツキー、レーニンは、反目する部分より、共通する部分のほうが多かった。スターリンではなく、トロツキーがソビエトの至高の指導者になっていたとしたら、ヨーロッパにおける大流血のリスクは大幅に高まっただろう。
トロツキーの傑出した能力には疑問の余地はない。見事な演出家で、オルグ家としても指導者としてもすばらしかった。だがトロツキーだって聖人君子などではない。独裁権力と恐怖政治への指向は、内戦時代には露骨なほどだった。
 トロツキーは、23歳までレイバ・ブロンシュテインだった。自分がユダヤ人の出身なのを否定はしなかった。両親は、その地方で有数の農民だった。
 ブロンシュテイン家は、近所でもっとも豊かなユダヤ人だった。父親は、あまり熱心なユダヤ教徒ではなかったので、子どもをキリスト教の学校に平気で通わせた。
 レイバは、いったん教わったことは、ほとんど忘れなかった。
 トロツキーは、1902年、パリに到着した。そこでトロツキーは演説し、華々しい大成功をおさめた。聴衆を魅了する才能を示した。そして、人もうらやむ速筆ぶりだった。
 どこへ行っても、トロツキーは大成功をおさめた。
 プレハーノフは、心底からトロツキーを嫌った。老いたプリマドンナは頭角をあらわし始めた新しいプリマドンナを嫌うものだ。
 1904年に日露戦争が始まると、トロツキーは、日本との戦争は国益全般に被害を与えたと主張した。トロツキーは、日露戦争は革命の見通しを高めたと判断した。トロツキーはレーニンに刃向かい、そのことによってボリシェヴィキの敵対者たちからの評価を高めた。
 1908年、ロンドンにいたトロツキーは、どの派閥にも属さないと宣言し、メンシェヴィキとボリシェヴィキの双方の戦略を糾弾した。だから、トロツキーは、党中央委員に選出されなかったが、それも当然だった。それでもトロツキーは、党内に居場所を失ってはいなかった。相変わらず、党全体の融和を主張していた。だが、党内の多くの人にとって、トロツキーは、日和見主義に見えた。どちら側の意見もオープンに聞くトロツキーは、多くの敵をつくり、信用できない人物とされた。
 1917年、トロツキーは、ニューヨークに着いた。演壇に上ると、そこにいるのが天才弁士だと言うことは誰の目にも明らかだった。
 1917年、ロシアにトロツキーは戻った。トロツキーの話し方は、文法どおりだった。その流暢さは非凡だった。冷笑的で、説得力があり、情熱的だった。もじゃもじゃの赤褐色の髪が風にそよぐ。スリーピースのスーツを着て、いつもこざっぱりとしていた。聴衆のほとんどよりも背が高く、聴衆を揺り動かすための言葉やテーマを選び出しつつ、しなやかに動いた。トロツキーは身振りを多用した。そして、論点を強調したいときは、右腕を前にはねあげて、人差し指で聴衆を指さした。トロツキーは、ロシアの新しい「政治」を明らかに楽しんでいた。
 「レーニンはどんなに賢くても、トロツキーの天才と並ぶと、かすんで見える」
 これは当時の評である。しかし、レーニンのほうは急進左派に自分のライバルがいるなどと心配はしていなかった。
 1915年5月。トロツキーは、デマゴギー的な戦術をためらったことはなかった。
 9月。主要なボリシェヴィキが党代表として登場するとき、みんなが見聞したいのは、トロツキーだった。ボリシェヴィキのなかで、カーメネフも、大衆的な人気の点では、トロツキーの足元にも及ばなかった。このころレーニンはヘルシンキに隠れており、新聞論説でしか影響力を行使できなかったが、ほとんどの人は新聞など読まない。
 トロツキーは執筆し、演説し、議論した。組織をまとめた。革命ロシアで最高の万能活動家だった。レーニンとトロツキーはロシアの政治における不可分の存在となった。一心同体で、敵に対しては国家テロルを含む容赦ない手段を使う決意だった。
 トロツキーは、レーニンとのパートナーシップを楽しんでいたため、党の指導部内でどれほどの恨みを買っているか、気がついていなかった。
 今や、レーニンが統治問題のあらゆる重要な点の相談相手はトロツキーだった。
 世間的な名声でトロツキーはいい気になってしまった。トロツキーは、もともと組織への忠誠などで動く人間ではなかった。
 1918年2月、トロツキーは、自分の信念のために戦い、そして闘争に負けた。トロツキーは、ロシアがもはやまともな軍隊を持っていないと知っていたくせに、みんなに「革命戦争」が可能だと思わせようとした。
 1918年8月、トロツキーは、いやいや戦っていたのではない。人道的な面などまったく考慮せず、政治革命を暴力的手段で嬉々として深めていった。
 1918年12月、赤軍が総崩れとなった。白衛軍がロシア中心を目ざした。モスクワへの進路を防衛する軍をまとめられるのはトロツキーしかいなかった。スターリンですら、これは否定しようがなかった。
十月革命と内戦で世間の賞賛を集めつつ、トロツキーは党内で、かなりの嫉妬と疑惑を引き起こしていた。そしてトロツキー本人は、これにほとんど気をつかわなかった。
 ありとあらゆる問題について、正しいのは自分だと思っていたトロツキーは、党を自分の見方に無理矢理従わせるのが義務だと考えていた。トロツキーは自分の地位を当然のものと思っていた。
 トロツキーがレーニンと反目しあっていたこと、そしてレーニンと一緒に内戦を乗り切ったこと、スターリンがそれを若々しく思っていたことなどが上巻で紹介されています。下巻が楽しみです。
(2012年4月刊。4000円+税)

バルザックと19世紀パリの食卓

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  アンカ・シュルシュタイン 、 出版  白水社
フランス大革命はレストランを流行させたのですね。
 「食卓」の重要性を意識していたバルサックは、偉大なる食通ではなかった。エキセントリックな「食べる人」だった。バルサックは、ほとんど食事をとらずに長時間にわたって執筆に没頭した。そして原稿を書き終えると、そのお祝いに、はかり知れぬほどのワインやカキ、肉料理やヴォライユの料理に身をゆだねた。
 バルサックは、8歳から6年間を寄宿舎で過ごした。幼い生徒にとって、食事は喜びではなく、屈辱だった。バルサックは親からプレゼントをもらえず、孤独を感じていた。寄宿舎で過ごした数年間、バルサック少年は食事のかわりに読書に情熱を傾けていた。
 バルサックは17歳で代訴人(弁護士)事務所の見習いとなった。この事務所で、バルサックは家庭内の悲喜こもごもに出会い、それが、あとで小説のネタとなった。
バルサックにとって不幸なことに、使う金額以上に稼げたことが一度もなかった。この大作家は最期まで、借金のために牢屋に入れられるのではないかと心配しながら生活していた。
バルサックは書くのが早かった。債務者たちにせつかれ、豊かな想像力に駆り立てられ、仕事に取りかかるやいなや扉を閉ざす。日に18時間も働き、2ヶ月には名作の原稿が完成していた。
創作に打ち込んでいるあいだは水しか飲まず、果物で栄養をとっていた。バルサックは、かなり濃いコーヒーを大量に飲んでいた。眠気を追い払い、自身を興奮状態に保ち想像力を増すためだった。
 バルサックは借金のためではなく、国民衛兵として使えるという義務を何度も繰り返し怠ったため、牢獄生活を余儀なくされた。
フランス大革命の前、上流階級の人々は1日に3回の食事をしていた。朝6時から8時のあいだに何か詰め込み、午後2時にディネをとり、夜9時以降に夜食をとっていた。
 これに対して、農民や職人は一日2回の食事ですませていた。夜食は、夜会や感激に行く特権階級に限られたものだった。
当時の人々は膨大な量の酒を飲み、水を飲むのはまれであった。
 夕食会は3時間をこえてはならなかった。さっさと片づけることがとても重要だった。
 フランスでシャンパンへの趣向が高まったのは非常に遅い。イギリスよりも、はるかに後のこと。ポンパードール夫人はシャンパンを高くし評価した女性の一人であり、彼女がワインを流行らせた。
夕食のとき、料理を次から次に給仕するのを、バルサックは好まなかった。というのも、この方式だと食べることが大好きな人々にとって、ものすごく食べることを強いるし、最初の料理で食欲が収まってしまう小食の人たちには、もっとよいものをなおざりにさせてしまう欠点があった。
 フランス大革命のころの食習慣を知ることができました。バルサックの奔放な生き方には圧倒されます。
  (2013年2月刊。2200円+税)

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