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カテゴリー: ヨーロッパ

窓から逃げた100歳老人

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ヨナス・ヨナソン 、 出版  西村書店
 スウェーデン発の奇想天外なストーリーです。
この100年間に世界で何が起きているのかをおさらいすることのできる痛快本でもあります。ありえない、こんなこと絶対にありえない、なんて思っていたらダメなんです。ふむふむ、なるほど、そう来たか。では、この次はどんな展開になるのだろうか・・・。
 その発想の奇抜さには、何度となく腰を抜かしそうになりました。400頁の本ですが、私にしては珍しく、3時間もかけて読みふけってしまいました。
 話は100歳の老人の脱走劇に始まるのですが、このストーリーは、老人の青年時代の回顧談というか、世界の超有名人と交わって活躍する話が盛り込まれているので、面白いのです。
 スペインのフランコ将軍、アメリカではロスアラモスの原爆製造会議に参加して、トルーマン副大統領と仲良しになる。中国に渡ると、毛沢東夫人の江青の生命を助ける。
 イランでは、秘密警察に捕まって処刑される寸前にまでなってしまう。しかし、結局、ウィンストン・チャーチル首相の危機を救って、本人も無事に脱出できる。
 次には、ソ連に渡って、ベリヤやスターリンと一緒に食事をする。しかし、ついには、強制収容所に送られてしまう。そこを何とか脱出して、金日成と金正日に面会する。まあ、よくも、こんなストーリーを考えついたものです。
 一応の史実を下敷きにしていますので、次の展開を知りたくなって、ついつい読みすすめてしまったのでした。
 映画はみていませんが、スェーデン初の喜劇作品として読むと、気持ちが軽くなります。
(2014年10月刊。1500円+税)

ぼくはナチにさらわれた

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  アロイズィ・トヴァルデッキ 、 出版  平凡社ライブラリー
 ポーランド人の子どもが、幼いうちにナチス・ドイツにさらわれて、ドイツ人の子どもとして育てられたのです。そして、そのことを成人してから知りました。いったい、その子どもはどうなるのでしょうか・・・。ヒトラー・ナチスは本当に罪深いことをしたものです。
 第二次大戦中、ドイツに占領されたポーランド西部の町でナチスによって、2歳から14歳までの少年少女が大勢さらわれた。青い目で金髪の子どもたちである。その数は20万人以上。
 著者も4歳の時に母親から引き離され、ドイツに連れ去られた。孤児院に入れられ、ドイツ人の名前をつけられ、子どものいないドイツの家庭にもらわれた。そして、ポーランド語も、母親のことも忘れ去った。
 ヒトラーが考え、ヒトラーが具体化させた「レーベンスボルン」という1936年に設立された秘密組織があった。「生命の泉」という意味で優秀な子どもを増やすための組織だった。表向きは、子どもと母親を守る社会福祉の「活動」をしていた。
 表の顔は二つあり、その一は、優秀なドイツを数多く、自然の出生を待たずに産ませること。大切なのは目の色と髪の色、そして、とりわけ頭の形。丸い頭のもなはまったくチャンスがなかった。
 ドイツ人の名前に変えるときには、できるだけ本名のほうがいい。新しい名前と前の名前とが似ているほうが子どもの記憶のなかで混合しやすいから。工夫のしようがないときには、新しいドイツ名は、できるだけ平凡な、どこにでもある名前にする。特徴的な名前を付けるのは厳禁された。
 「レーベンボルン」で生まれた子どもはエリートになるはず。果たして、そうなったのか・・・。
 戦後の調査では、そうはなっていなかった。知能でも体力でも後退が認められた。
 幼いときにドイツ語に無理やりに変わらされ、そのため思考に困難を生ずることがあった。
 また、大きくなって、本当は自分はドイツ人ではなかったと分かった子どもたちは、また母国語の勉強をし直した。だから、大学まで行けた子どもは少なかった。みな、心に深い傷を負っていた。
 4歳の子どもは、悲しみも早く癒え、忘れてしまう。それに大人は驚いてしまう。
 子どもは、速く言葉を覚え、速く忘れもする。 はじめに子どもに希望を与え、あとで残酷に断って、いいようのない絶望に突き落とすぐらいの野蛮なことはない。孤児院にいた子どもは、終生、愛への飢えを抱き続ける。
著者は高校生の年頃で、ポーランドに戻ったのですが、ドイツ人だった頭のなかをポーランド人に切り替えるのに実に苦労したようです。
 それでもポーランドの大学に入って勉強するのでした。そしてドイツ人の育ての親と再会するのです。思春期という、ただでさえ難しい年頃に、ドイツ人からポーランド人に戻るのは、本当に大変だったと思います。
 全遍が手紙で語る形式となっていて、その心理描写がよく出来ている手記です。
(2014年9月刊1400円+税)

おだまり、ローズ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ロジーナ・ハリソン 、 出版  白水社
 イギリスの上流階級の生態がよく分かる本です。
 じつは、私の家にも若い女性がお手伝いとして同居していたことがあります。私が小学生のころです。小売酒店で、子どもが5人もいて(私は末っ子です)。ちっとも広くない家に住み込みの女性がいたなんて、今ではとても信じられません。要するに裕福ではない家にも、ほんの少しでも余裕があれば(実際には、そんな余裕というかスペースはなかったと思うのですが・・・)、かつては行儀見習いと口減らしを兼ねて住み込みで働く人がいたのです。
 同じように、ノリ作業のシーズンには長崎県の生月島から大量の出稼ぎ人が有明沿岸には住み込みで働いていました。もっとも、これは、後で聞いただけで、そんな光景を見たわけではありません。要するに、少し前、つまり50年も前の日本では、住み込みの奉公人というのは、ちっとも珍しいことではなかったのです。今では、そんな光景は、どこにも見あたりません(と、思いますが、どこか、まだありますか・・・?)。
 この本のオビには、「型破りな貴婦人と型破りなメイドの35年間」と書かれています。
 貴婦人は、イギリス初の女性国会議員です。もちろん、スーパーリッチ層で、お金の苦労などしたこともありません。それに仕えたプライドの高いメイドの語る体験記ですから、面白くないはずがありません。
 ふむふむ、そうなのかと、ついつい深くうなずきながら、往復の電車の2時間の車中で364ページの本を満足感に浸って読了しました。
 イギリスには厳然たる階級社会が今もあるようです(フランスにも・・・)。著者が仕えた家では、娘たちとも、あくまで主人とメイドの関係だった。友人ではなく、単なる知人でもなかった。
 上流階級では、子どもたちは、母親から目に見える形の愛情が与えられることはなかった。しかし、本当は、愛は目に見える形で子どもに与えられなくてはならないものだ。
 主人の家族とメイドとの間には、はっきりした境界線がある。自分の地位や期待されている役割、許される言動と許されない言動を正確に判別する必要があった。
 メイドは、真珠かビーズのネックレスは許容範囲内で、腕時計もかまわない。しかし、それ以外の装飾具をつけるのは、顰蹙を買う。化粧もしないほうがいいとされ、口紅をつけても、とがめられた。だから、外出中に、主人(奥様や娘も)とメイドとが主従を取り違えられることはなかった。
 レディー・アスターは、淑女ではなかった。ころりと気を変えて、メイドにも頭を切り換えることを要求する。メイドとして、1日18時間、年中無休で集中力を切らさずにいることを求められた。奥様は、イギリス初の国会議員として活動した。
 一度つかった服を洗濯せずに身につけることは決してしない。
 ボタンホールの花も、香りの高い花が、毎日、新しく届けられた。クチナシ、チューベローズ、マダガスカル・ジャスミン、スズラン、そしてラン。香りの高い花ばかり。
メイドとして物を言うと、返ってくるのは、「おだまり、ローズ」のひとことだけ・・・。
 奥様は感情が顔に出る。化粧はほとんどしない。香水はシャネルの五番のみ・・・。
メイドとしての著者にとって、睡眠は貴重なものだった。夜9時から朝6時までは、何があっても自分の時間として確保し、10時過ぎまでで起きることは、めったになかった。仕事をきちんとこなそうと思えば、心身ともに健康でなくてはならず、そのためには毎晩しっかり睡眠をとる必要があった。
イギリスの貴婦人は、丹那様は、はっちゅう替えるけれど、執事は絶対に替えない。
 奥様が旦那様と子どもを連れて旅行するときには、雌牛を1頭と牧夫を同行させた。子どもたちに飲ませる牛乳の質にこだわったからだ・・・。
これには、腰を抜かすほど驚いてしまいました。スーパーリッチって、そこまでするのですね・・・。
 よくぞ、ここまでことこまかく書いてくれたかと思うほど、詳細な上流階級の生態です。「私は見た」という家政婦の話以上に面白い本だと思いました。
(2014年10月刊。2400円+税)

祖父はアーモン・ゲート

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ジェニファー・テーゲ 、 出版  原書房
 知的な黒人女性の顔が表紙になっています。憂いを秘めたまなざしが印象的です。
 本のタイトルだけではピンとくる人は少ないでしょう。でも、かのナチ強制収容所の所長の孫というサブタイトルをみると、まさかと思います。ナチの所長の孫が黒人のはずはない・・・、と思うのは誤った先入観なのです。
 あの有名な映画『シンドラーのリスト』に登場する残虐なナチ収容所長こそ、著者の祖父アーモン・ゲートなのです。
 アーモン・ゲートは、映画『シンドラーのリスト』のなかで収容所内の罪なきユダヤ人を面白半分に射殺していた冷血なナチス親衛隊指揮官でした。そして、映画で描かれていたとおりの事実があったのです。
シンドラーとアーモン・ゲートの二人は同い年で、酒、パーティー、女性に目がなかった。二人ともユダヤ人迫害によって富を得ていた。ゲートは、ユダヤ人を殺害してすべてを取り上げたことによって、シンドラーはユダヤ人が所有していた工場を受け継ぎ、ユダヤ人を低賃金の労働者として働かせることによって富を得た。
 ドイツ特務機関のスパイとしてポーランドで活動していたシンドラーは、金もうけのためにクラクフへ来た男だった。後に、稼いだ財産の大部分をユダヤ人救出にあてているが、最初は戦争成り金だった。
 アーモン・ゲートとオスカー・シンドラーは、どちらも権力をもっていた。一方は、それを救うために使った。シンドラーは、その従業員1100人を最後まで守ったのでした。
 アーモン・ゲートがライフルを手にもって、短パンをはいてバルコニーに立っている写真があります。このようにして、罪ないユダヤ人を勝手気ままに殺したのでしょう。まさしく、おぞましい殺人鬼です。
 アーモン・ゲートは、17才で右翼思想に傾倒し、ヒトラー・ユーゲンに入会した。1931年にナチ党員となり、やがてナチ親衛隊員となった。幼少時に両親から世話してもらえず、ほったらかしにされたと語っていた。
 気に入らない者がいれば、髪のあたりをわしづかみにして、その場で撃ち殺した。この残酷な人殺しの化け物は、美的な柔らかさを帯びた面持ちで、しかも温和な目つきをもち、巨体で逞しく堂々とした風貌に見えた。
 これは、アーモン・ゲートに仕えていたユダヤ人書記の証言です。
 また、アーモン・ゲートには、ユダヤ人のメイドもいたのです。
 この二人は、結局、殺されずに生きのびていますが、いつ殺されるか分からないという状況がずっと続いていました。恐るべき状況です。
 アーモン・ゲートはドイツの敗戦後に発見・逮捕され、裁判にかけられました。1946年にクラクフで絞首刑に処せられ、遺骨はヴィスワ川に流された。
 長身だったアーモン・ゲートは絞首刑がうまくいかず、二度目になってやっと刑死した。
愛人のルート・イレーネ・ジェニファーはアーモン・ゲートのやったことは何も知らなかったと言いはり、1983年に睡眠薬を飲んで自殺した。
 著者の母は、ナイジェリア人との間に著者を生んだ。生後4週間でカトリック系の養護施設に預けられ、3歳で里親のところに行き、7歳で養子縁組した。実母の写真は出てきません。著者は38歳のとき図書館で、たまたまアーモン・ゲートが祖父であることを知ったのでした。母について書かれた本を偶然に手にしたのです。
 ナチ高官の子や孫たちの人生はさまざまのようです。
 ヒムラーの娘は、ネオナチとして活動している。しかし、たいていは、父親への賛美と、実父への憎しみの間を、いったり来たり、揺れ動いている。すべての子どもに共通していることは、過去から逃れられないということ。ナチの子孫で、不妊手術を受けたとか、自分の意思で子どもをつくらないことにしたという男女も少なくない。自殺者もいる。
 大変重たい内容の本でした。ナチスの影響は、今なお、こういう形でも残っているのですね・・・。
(2014年8月刊。2500円+税)
 一昨日(17日)朝おきて外を見ると、白くなっていました。霜でも降ったのかと思うと、ホラホラ雪が降っているのが見えました。うっすらと積もっているのでした。この冬、初めての雪です。私の娘は「ゆき」と言いますが、前日に戻ってきましたので、「ゆき」を連れて来たね笑ったことでした。
 衆議院の総選挙で投票率52%というのは低すぎます。もっと投票所に足を運んでほしいものです。
 自民党が「大勝」したとマスコミは言っていますが、実際には、得票数も得票率も減らしています(議席も)。小選挙区のマジックで、自民党が議席を維持しただけなのです。民意を反映しない小選挙区はやめてほしいです。
 選挙が終わったら、原発再稼働を次々に認め、武器輸出に国が補助金を出すなんて、恐ろしい話が着々と進行しています。大変な世の中です。

ヒトラー演説

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  高田 博行 、 出版  中公新書
 ヒトラーの演説の移り変わりを丹念に分析した本です。大変興味深い内容でした。
 1913年、ヒトラーは、ウィーン時代と同じくミュンヘンでも絵を売って生計を立てていた。そして、マルクス主義に関する本を読みあさった。信奉していたのではなく、「破壊の教義」と考えていたのです。
 1920年ころ、ヒトラーの演説は夜の8時半に始まって、11時ころに終わった。ふつう2時間は演説した。このころ、1年半前には民主主義と社会主義の夢にとりつかれていた民衆が、今や国粋主義に熱狂している。
 ミュンヘンのビアホールには、面白い見世物があるのを楽しもうという人々が集まった。そこでは、大げさぶりが一番通用する場所だった。ヒトラーは、きちんとした演説原稿を用意することはなかった。その代わり、演説で扱うテーマについて、扱う順番にキーワードもしくはキーセンテンスを書いてまとめたメモを作成した。そのメモを手元に置いて、演説をはじめ、演説を終わることができた。
 1923年11月のミュンヘン一揆の失敗でヒトラーは刑務所に収監されたが、その獄中生活は待遇が良く、『我が闘争』の原稿をつくった。ヘスに自分の考えを口述筆記させた。
 大衆の受容能力は非常に限定的で、理解力は小さく、その分、忘却力は大きい。
 大衆は、頭の回転が遅いため、一つのことについて知識を持とうという気になるまでに、常に一定の時間を要する。したがって、もっとも単純な概念を1000回くり返して初めて、大衆はその概念を記憶することができる。多くを理解することができない大衆の心のなかに入り込むには、ごくわずかなポイントだけに絞り、そのポイントをスローガンのように利用する。
 演説家は、その時々の聴衆の心に話しかけることが大切だ。
 聴衆の反応をフィードバックしながら演説を修正していくことが必要だ。
 同じ演説するにしても、どの時間帯でするかによって、効果に決定的な違いがある。
 朝10時では、さんざんだった。晩の方が午前より印象が大きい。晩には、人間の意思力はより強い意思に支配されやすい。
 ヒトラーは、敵対的なあり方をユダヤ人に代表させて、唯物主義、金銭至上主義として表現している。聞き手は、共通の敵が設定されていることによって、集団としての一体感を獲得する。ヒトラーは、演説のとき、「わたし」ではなく、「われわれ」をもちいる。
 知識層を好まないヒトラーは、初めは大学生をナチ運動に取り込むことに積極的ではなかった。しかし、合法政権を掌握したあと、考えを改め、ナチス学生同盟を重視するようになった。
 1930年、ヒトラーの演説を聞いた人は、次のように報告した。
 「彼はタキシードに身を包んでいた。ヒトラーは生まれながらの弁士だ。徐々に高い熱狂へと上りつめ、声は次第に大きくなる。大事なところは、両手をあげて繰り返して言う。その後すぐに、牧師のように両手を胸に当てて語る」
 聴衆の期待感、切望感を高めるため、ヒトラーは演説会場に意図的に遅れて到着した。
 1932年、ヒトラーは、オペラ歌手から発声法の個人レッスンを受けた。
 「最初はできる限り低い声で語る。そして、あとで高めていく。それまで大きな溜ができる。静寂と劇場のちょうど間に、弾劾する声を置く」
 「前列に目をやるのではなく、常に後ろのほうに目を向けておかないといけない」
 ヒトラーが政権を握る前のナチ運動期の演説でよく出てきた名詞は「人間」そして「運動」だった。それが、ナチ政権期には、「国防軍」「兵士」「戦争」などに変わった。
 ヒトラーが公共の場で演説することが少なくなったことから、人々はヒトラーとのつながりが減り、溝が広がっていった。大きな演説は、1940年に9回、41年に7回、42年に5回、43年は2回のみ。
 ヒトラーの演説に力があったのは、聴衆からの信頼、聴衆との一体感があったから。ラジオを通してヒトラー演説を聴く国民には、今や信頼感が全く欠けていた。この現実を前にして、弁論術はそれ自体いくら巧みで高度なものであったにしても機能せず、国民のなかに入っていくことはできなくなっていた。演説内容と現実とが極限にまで大きく乖離し、弁論術は現実をせいぜい一瞬しか包み隠すことができないでいた。
マイクとラウドスピーカー、そしてラジオという新しいメディアを駆使したヒトラー演説は、政権獲得の1年半後には、すでに国民から飽きられはじめていた。
 ヒトラー演説は、常にドイツ国民の士気を高揚させたわけではない。
 ヒトラー演説の絶頂期は政権獲得前の1932年7月の全国53カ所での演説だった。
 恐るべき狂気の天才的扇動家であるヒトラー演説がよくよく分析されていると思いました。ポーズだけで騙されてはいけないということですよね。安倍首相には、要注意です。
(2014年6月刊。880円+税)

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