弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2008年11月28日

学歴・階級・軍隊

著者:高田 里恵子、 発行:中公新書

 日本の高学歴者たちは、ドイツと違って、兵役をすませて予備役少尉になっておくことを男の名誉ととらえる心性をついに持たなかった。
 日本の官僚や高級サラリーマンにとって、兵隊さんの位はなんの益ももたらさなかった。
 日本における職業将校の社会的威信は低かった。
 職業将校への道は、あまり元手をかけずに「月給取り」になれる道の一つだった。ただし、軍人の給料は、「貧乏少尉のやりくり中尉のやっとこ大尉で114円」と揶揄されたように、大学出のサラリーマンと比べて低かった。職業将校も世俗的な学歴序列、「月給取り」序列のなかに組み込まれ、しかも大学出よりも下位のランクを与えられていた。
 多くの優秀な少年たちは、立身出世やエリート志向ではなく、精神の自由を求めて旧制高校への進学を希望した。とりわけ昭和10年代の後半は、そうだった。
 そこで、庶民の味方を自称した陸軍が、国家のための官僚養成所のように見える一高と東京帝国大学法学部を「自由主義者の温床」あるいは「左翼と反戦主義者の温床」として憎んだ。
日本軍は、最後の最後まで、学生、学徒兵の力を信じていなかった。
 それでも兵営は、高学歴者が、教育を受けない、受けられない層と接触しうる数少ない場所だった。
 三島由紀夫は即日帰郷になって入営を免れた。つまり、徴兵を疫病か、あるいは軍医の好意的な「誤診」によって忌避したのだろう。
  日本軍の構成、そして欧米の軍隊との違いを考えさせられました。
 朝、庭に出るとエンゼルストランペットのピンクの縁取りのある白い花が露に濡れていました。霜でやられてしまうのも、もうすぐです。クルミの木と桜の木の間に大きな黄金グモの巣がかかっていましたが、取り払ってしまいました。夫婦なのか、兄弟なのかわかりませんが、見事な2匹の黄金グモでした。庭仕事の邪魔になりますので、ゴメンネと言ってはらいのけました。今、イチゴの木が白い小さな壺のような花をたくさん咲かせています。
(2008年7月刊。880円+税)

2008年11月11日

新聞―資本と経営の昭和史

著者:今西 光男、 発行:朝日新聞社

 朝日新聞社から出版され、朝日の記者が書いた、朝日の裏面を鋭くえぐった画期的な労作です。
 大正14年(1925年)ごろ、大阪では朝日と毎日新聞が激しくしのぎを削っていた。朝日は夏目漱石を迎え入れ、毎日は原敬を年俸5000円で社長に招聘した。
 原敬が大阪毎日新聞社の社長として勤めていたことを初めて知りました。
 この両紙は、関東大震災前にそれぞれ100万部を超える巨大紙になっていた。
 ところが、大震災によって東京各紙は壊滅的な打撃を受け、朝日、毎日という大阪紙が首都でも席捲することになる。そこで、廃刊の危機にあった読売新聞を内務官僚だった正力松太郎が買収し、面白い新聞、売れる新聞を前面に押し出した激しい販売攻勢をかけた。
 このころ、新聞は「政権打倒」を標榜し、政権側も新聞の政治的影響力を無視できなかった。そこで、寺内内閣は内相の後藤新平が先頭に立って公安刑事に内偵を命じるなど、権力を動員して虎視眈々と新聞社弾圧の口実を探っていた。
 大阪朝日は、時の権力から「一大敵国」と名指しされ、言論弾圧の標的とされた。
 そして、事件が起こり、ついに朝日新聞は、権力に全面屈服した。編集綱領に定められた「不偏不党」は、「偏った政権批判」をしないという恭順の誓いだった。そうなんですよね。今でも新聞は、結局、政権与党ですよね。
 ところで、朝日新聞社はスタートした時点で政府から資金援助を受けていた。政府の機密費から2万5千円が支払われていたのである。
 政府は、朝日のような中立的大衆紙を、御用新聞や政権新聞としてではなく、報道主義を中心とした新聞に育てて国民の信頼を得、あわせて、そのような新聞によって官民の調和を図ろうとしたと推測される。
 朝日をはじめとする言論機関が、安寧秩序、朝憲紊乱という天皇政護持を口実にした権力の弾圧や、右翼による物理的な脅迫にはきわめて弱いことをさらけ出した。1925年1月、朝日の社長と勘違いした右翼が緒方竹虎編集局長を帝国ホテルで襲った。このとき、朝日は右翼に裏金を支払った。それが広告主への圧力が新聞社脅迫の手段として有効であることを右翼に教え、以後、この種の右翼交渉には金銭的解決をはかることが常套化した。
 1928年、朝日は右翼からの襲撃に備えて、東京編集局長室に何丁かのピストルを用意して壁にぶらさげた。当時は、一定の条件がある人は護身用のピストルを所持することができた。社内でピストルを調達するのに困難はなかった。緒方竹虎は日本刀を会社に持ってきた。また、浅草のヤクザに頼んで、人を集めて社屋を警戒する「自警団」を組織した。
 うひょーっ、こ、こんなことが朝日新聞社であっていたのですね。右翼の襲撃に備えて、日本刀やピストルを編集局長室などに用意していたなんて、とても言論機関のなすべきこととは思えません。信じられない記述でした。
 済南事件、満州事変による中国大陸での戦争勃発によって、新聞は再び号外競争に突入した。号外は、当時、最大最強の速報手段だった。
 朝日も毎日も、関東軍を中心とする日本軍の「快進撃」を連日報道し、満州の日本の権益擁護に同調していた。やがて、朝日は、満州事変容認、政府支援が社論統一の大方針となった。
 この社論転換は、ただちに軍部に伝わった。憲兵司令部から参謀本部次長への極秘通報がある。当局は、昔も今もジャーナリズムをこまかく監視しているわけです。
 満州事変が勃発してから、朝日新聞の販売部数の増加はすさまじい。1931年に91万部だったのが、1932年には105万部となった。全社で39万部増えて182万部となった。まさに、戦争は新聞にとって神風だった。
 日中戦争が激化すると、朝日新聞は1937年(昭和17年)7月から、軍用機献納運動を読者に呼びかけ、1ヶ月で462万円ものお金を集めた。
 残念なことに、いまや朝日新聞も含めた日本の新聞は「一大敵国」と呼ばれるような、権力から本当に恐れられるような存在ではもはやないようだ。権力によって新聞が「馴化」された面もなしとしない。
 本当にそのとおりだと思います。自民党と民主党とでは本当はどこが違うのか、また本質的には同じではないのか、もっと広く市民の声を反映するにはどうしたらよいのか、いろいろ本質的なところで日本のジャーナリズムは安心できないところが多々あります。いえ、ありすぎます。その本質的根源がこの本によって究明されています。
 私と同じ団塊世代の著者から贈呈されて読みました。ありがとうございました。
 渡り鳥のジョウビタキの鳴き声が聞かれるようになりました。人にすごく近づき、尻尾をチョンチョンと振って挨拶する愛想のいい小鳥です。
 曇り空の日曜日、チューリップの球根を200個植え付けました。富山産で、40個で1000円しません。1個20円あまり。畳一枚ほどの区画を掘り起こして整備して植え付けていきました。これで500個近くにはなりました。
(2007年6月刊。1400円+税)

2008年10月21日

日清戦争

著者:原田 敬一、 発行:吉川弘文館

 いちやくしんを破り。これは、日清戦争が始まった1894年を語呂合わせで覚えるための暗記文句です。今でもすぐに出てきます。ところが、この本を読むと、1894年の何月何日に日清戦争が始まったのか、今に至るまで確定していないそうです。
 しかも、日本軍は敵の清国兵を追う中で罪なき中国の多くの市民を各地で虐殺したというのです。その申し訳なさを恥じ入って、しばし頭を下げざるを得ません。
 7月23日、日本軍は漢城電信局の電話を切断して王宮に攻め込んだ。実行したのは、大陸浪人(国粋主義者)たちである。この日、工兵隊は爆薬を用意し、歩兵隊は斧や鋸(のこ)、長竿などを持参して、朝鮮王宮に入る段取りを完了していた。きわめて計画的な行動であり、偶発的な要素はまったくなかった。
 この日、1894年7月23日に日清戦争は始まり、1896年4月1日に終わる。1年8ヶ月あまりの、近代日本にとって最初の対外戦争であった。このとき明治天皇は42歳という壮年期であり、侍従武官たちが教育した結果、十分な軍事的な知識を持っていた。
 ところが、政府部内では、いつから日清戦争が始まったことにするのか、実は完全な一致はなかった。そして、朝鮮の豊島沖海戦で、日本海軍が清国艦隊と砲撃戦を行った7月25日を「実際戦の成立したる日」として開戦の日と定められた。すると、7月23日の戦闘での戦死者は、法的な「戦死者」ではなくなる。
 日本軍は、旅順市街地で残敵掃討作戦として、非武装の中国人を虐殺した。これが1894年11月28日のイギリス紙『タイムズ』に旅順虐殺事件として報道された。「日本国は文明の皮膚を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣」と記された。
 伊藤博文首相も陸奥宗光外相も、旅順攻略戦に成功した第二軍の処罰を提案できず、強力に弁明につとめ、事件の糊塗に走った。このとき、日本軍の山地師団長は、「今よりは土民といえども、我が軍に妨害する者は残らず殺すべし」と命令していた。
 日本の新聞の従軍記者も旅順市街地が死体で満ちていたことを報じている。
 都市攻略戦において、敗残兵が市街地に逃げ込み、市民と区別できなくなる可能性がある。そんなとき、攻略側はどうすればいいのか。この問いを誰も発しないまま時は過ぎ、日本軍は1937年12月の南京戦を迎えた。歴史を学ばなければ、2度目の悲劇が繰り返される、という事例である。
本当にそうですよね。この旅順大虐殺は日本人には案外知られておらず、日露戦争で日本軍がロシア兵捕虜を人道的に処遇したことのみが大きく報道され、日本人の記憶になっています。しかし、それは日本軍を公平に見たことにはなりません。日本人2万人、清国人3万人、朝鮮人3万人以上というのが日清戦争における犠牲者とされています。旅順虐殺事件では、推定で4500人以上が犠牲となっています。
 そして、日本は日清戦争において軍事的勝利は勝ち取ったが、三国干渉と清国分割に見られるようにヨーロッパのアジア侵略をもたらしたという意味で、外交的には失敗した。伊藤博文と陸奥宗光の失敗は明らかである。
 さらに、翌1895年10月、日本が台湾征服のための戦争を続けていたころ、日本公使三浦梧楼が兵士・警官・壮士を使って朝鮮王宮を襲い、王妃の閔妃を惨殺し、宮廷内の親露派を一掃した。この事件によって、日本軍の影響力は逆になくなってしまったのである。
 いやあ、日清戦争って、日本の対外侵略戦争の本質をまざまざと表しているものだということを改めて認識させられました。この「悪しき伝統」を断ち切ることが現代日本に生きる私たちに課せられていると思います。
 あとで気がついたのですが、『旅順虐殺事件』(井上晴樹、筑摩書房)という本が出ていました。1995年12月刊で、1996年2月に私も読んでいます。この本には日本軍が虐殺した証拠となる写真が多数紹介されています。なかには、殺した死体に銃剣を突き刺して得意そうな日本人兵士が写っている、おぞましい写真もあります。
(2008年8月刊。2500円+税)

2008年10月11日

父の戦地

著者:北原 亞以子、 発行:新潮社

 召集され、遠くビルマへ派遣された父親が、故郷日本へ送った葉書70数枚が再現されています。愛する我が娘(こ)が小学校に入学する姿を見れず、祝福の声をかけられなかったって、どんなに残念なことだったでしょう。その娘によって、葉書に書かれた状況が生き生きと再現されています。亡き父親は残念な思いと同時に、今では、この本を知って天国で満足しているのかもしれません。それにしても、人間の作り出した戦争って、罪な存在だとつくづく思いました。好戦派の石破大臣も、自分や家族が戦地に出されたら身にしみて分かると思うのですが、今はひたすら口で勇ましいことを言うばかりで、厭になってしまいます。戦争は、中山前大臣みたいな「口先男」と利権集団のために起こされるものだとしか思えません。
 直木賞作家の著者の父は、著者が3歳のときに応召してビルマへ派遣された。東京・新橋で家具職人として働いていた。ビルマに送られてからは、絵入り葉書を故郷の娘へ大量に送ってきた。
 カタカナ文字に絵が描かれているのですが、素人絵ながら、本当に味わいがあります。決して上手な絵ではないのですが、それが妙に面白いのです。
 母が父の戦死の公報を受け取ってきた日のことは鮮明に覚えている。よく晴れた日、外で遊んでいた小学3年生の著者は、母に呼ばれて、日当たりの良い座敷に座った。終戦の翌年(1946年)のこと。
 「ちょっと話があるんだよ」
 「なあに」
 「お父ちゃんは死んだよ」
 「お父ちゃんが死んだなんて嘘みたい」
 母は泣いていなかった。母の膝にふつぶせて泣いた。自分の悲しさをどうすればよいのか分からず、ただ泣きじゃくっていた。
 昭和20年4月、ビルマから退却していた途中、輸送船に乗っているところを空襲されて死んだらしいということが分かった。
 父があの世へ旅立ったのは、父が病に侵されたからではない。まして、死にたいという意思があったからではなかった。もっと生きていたかったはずである。この世に未練も執着もあった。
 母に宛てた葉書に、「若く見られて恥ずかしいって、結構だ。うんと若くつくれ、今まであまりにくすぶりすぎていたから、これからはうんと若くつくれ。ズキン、ワイシャツ、どんな格好だろうな。どんなでもいいから、きれいにしていてくれ」と父は書いている。
 最後に、その父親の写真が一枚だけ紹介されています。俳優にしていいような素敵な笑顔です。つい、私は、亡くなった佐田啓二を連想してしまいました。
 幼い娘を泣かせてしまった戦争を私は憎みます。 
(2008年5月刊。740円+税)

2008年10月 7日

平頂山事件とは何だったのか

著者:平頂山事件訴訟弁護団、 発行:高文研

 わずか180頁の薄い本ですし、1400円ですので、多くの人に買ってぜひ読んでほしいと思いました。日本人として知っておくべき事実がこの本には書かれています。私もなんとなく知ったつもりになっていましたが、平頂山事件についての正確な事実経過とことの本質を知っていませんでした。
 1932年(昭和7年)9月16日、当時、満州(今の中国東北部)の撫順に駐屯していた日本軍が、平頂山地区の住民3000人を崖下の平地に追い立て、一斉機銃掃射を浴びせかけ、その遺体はガソリンがかけられて燃やされたうえ、ダイナマイトで崖を爆破して土砂によって完全に隠蔽した。
 1932年というと、日本で5.15事件が起きた年です。軍部の横暴・独走がますますひどくなっていたころ、中国で日本軍はとんでもない大虐殺事件を起こしていたのです。被害者は何の罪もない労働者とその家族です。国民党軍でも八路軍でもありません。
 平頂山事件の起きた1930年代の撫順には、日本人が1万8000人も住んでいた。ちなみに、朝鮮人は4000人、中国人は44万5000人。日本人のうち1万人は、日本の国策会社である満鉄の社員とその家族である。
 撫順炭鉱は満鉄が管理していた。石炭埋蔵量は9億5000万トンといわれ、世界有数の規模を誇っていた。撫順炭鉱は、関東軍によって厳重警備されていたが、抗日義勇軍(大刀会)が撫順炭鉱を襲撃した。そこで、日本軍の守備隊は、平頂山の村民が抗日義勇軍に加担したとみて、今後の見せしめのためにも、徹底的に殺しつくし、焼き尽くすという方針に出た。村民をだますために、記念写真を撮るとか、適当な嘘を言い募って住民を集合させ、重軽機関銃で一斉掃射した。
 ところが、当時の日本政府の見解は、不正規軍や共産党員の男たち2000人からなる部隊捜索のために村に入ったところ、日本軍が攻撃されたために戦闘となり、戦闘中にその場所の大半が焼けて壊滅したが、住民虐殺はなかったというもの。
 そして、この日本政府の見解は、今もなお、正式に改められてはいない。そして、日本では今も平頂山事件そのものがまったく知られていない。まったく、そのとおりです。
 この平頂山事件でも生き残りの人々がいました。(幸存者と呼ばれています)。幸存者の人々が日本政府を被告として訴えを起こしたのです。
 ところが、日本政府は「国家無答責」という論理を使って、責任を認めようとしません。これは、国の権力的行為によって生じた損害については、国は賠償責任を負わないという考え方です。なぜ権力的行為なら賠償責任を負わないでいいというのか、私には理解できません。
 「国家無答責」というのは、明治憲法下において、判例の積み重ねによって徐々に形成されていった法理論のようです。しかし、日本国憲法下の裁判所が戦前の法理論に拘束されるというのは、おかしな話です。なのに、現代日本の裁判所はそれを認めた判決を次々に下しています。
 学者は次のように解説します。国家無答責(無責任)の法理が認められるのは、たとえば強制執行処分、徴税処分、印鑑証明の発布、特許の付与といった国の権力的公務が法律によって許されている場合に限られるし、そもそも外国人には適用されない。平頂山事件は1932年の事件であって、いわゆる日中戦争のさなかの事件(行為)ではなく、平和に暮らしていた中国の一般市民を突然に、日本軍が残虐の限りを尽くして虐殺した事件であるので、国家無答責の法理は適用されるべきではない。
 なるほど、そう、そうですよね。ところが、残念なことに、日本の裁判所は一審も二審もそして最高裁も、幸存者の請求を認めませんでした。残念ですし、中国人の被害者・遺族の方々に申し訳ないと思います。
 被害者の要求は3つです。第一に、日本政府が平頂山事件の事実と責任を認め、幸存者と遺族に対して公式に謝罪すること。第二に、謝罪の証として、日本政府の費用で謝罪の碑を建て、被害者の供養のための陵苑を設置し警備すること。第三に、平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないため、政府は事実を究明しその教訓を後世に伝えること。
 いやあ、どれもごくごく当然の要求ですよね。一刻も早く日本政府がこれらの要求を受け入れることを私も強く望みます。
 ところで、この3つの要求には金銭賠償が含まれていません。いろいろの議論があったようですが、その点も当然考えられるべきものと私は思います。
 それにしても、この困難な裁判を日本で起こし、遂行していった日本の弁護士の皆さんの労苦にも感謝したいと私は思います。
 ちなみに、私も「すおぺい」ニュースを読んでいます。 
(2008年8月刊。1400円+税)

2008年9月27日

戦争の法のもとに

著者:宮道 佳男、 発行:クリタ舎

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。その直前の7月28日、呉軍港にアメリカ軍が空襲をかけた。このとき、沖縄から発信したB-29が2機、そして艦載機も2機が撃墜され、アメリカ兵12人が捕虜となった。B-29の機長は、尋問のため東京へ護送され、残る捕虜11人が広島に残った。8月3日にはB-24の5機編隊が広島市街地を爆撃し、1機が高射砲で打ち落とされ、9人が捕虜となった。1人は住民に殺され、将校2人は東京へ護送されて、残る6人が広島に残された。
 そこで、アメリカ兵17人(23人説や11人説もある)が、広島師団内の拘置所に収容されていた。8月15日の終戦時にアメリカ兵が広島に何人生存していたのか、明確ではない。8月19日にアメリカ兵2人が死亡したことは確実だが…。結局、広島にいたアメリカ兵の全員がアメリカの原爆によって死亡した。
軍律裁判は軍法会議とは異なるもの。軍法会議は主として自国兵士の規律違反と罰するもの。敵前逃亡兵は銃殺が決まりである。軍律裁判は、戦闘地域とか占領地域で敵国民や被占領国民に対して占領国的違反を罰するものである。軍律裁判は、戦闘地域であるため、即決非公開、弁護人はなく、上訴もない。懲役もなくて、すべて銃殺ばかりという特殊性があった。それでも、少なくとも戦場における即決リンチ処刑よりはましなものだった。戦後、連合国が行ったA級戦犯そしてBC級の戦犯裁判は、この軍律裁判と同じものだ。
 この本は、原子爆弾で壊滅させられた広島にいたアメリカ兵たちに対して、軍律裁判で死刑に処せられようとするに至るまでを克明に描いています。
無差別爆撃は人道無視の暴虐非道の犯罪だ。だから死刑になるのも当然だ。このような暗黙の前提で裁判はあっという間に終わってしまいます。そして、やがて処刑されてしまいます。
 はたして、死刑に処する必要があったのか、あったとして、では軍の最上層部には責任がなかったのか、という疑問にぶち当たります。
 著者は、私の司法研究所での同期の名古屋の弁護士です。先日、箱根で開かれた35周年記念行事のとき、本人からサイン入りでもらいました。手術を受けて入院中に執筆し始めたということでした。実は、東京に出張したとき日弁連会館の地下の本屋にこの本を見かけたので、次のときに買おうと思ったところ、その次にはありませんでした。やはり本は買おうと思ったらすぐに買わなくてはいけません。
 それにしても、よく調べてあるなと感心しながら読みました。 
(2008年5月刊。1400円+税)

2008年9月25日

天皇制の侵略責任と戦後責任

著者:千本 秀樹、 発行:青木書店

 明治天皇は日本軍の朝鮮半島出兵には積極的だった(1894年)が、清国が乗り出してくると聞いて急に不安になった。そして、日清戦争の始まりは不本意であり、ストライキもやった。ところが、勝った勝ったとの報告が相次ぐと、最後の決戦を行って清国軍主力をたたくため、自ら中国大陸へ乗り込もうとする。大本営を旅順半島、さらには洋河口へ進めようとまでした。これは、さすがに政府・軍首脳部が反対して思いとどまらせた。
 うひゃあ、こ、これは知りませんでした。なんと、大本営を天皇自身が中国大陸へ持っていこうとしたなんて…。そりゃ、身の程知らず、無謀でしょ。
 日露開戦のとき、明治天皇はロシアを恐れていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
2.26事件(1936年)のとき、昭和天皇は侍従武官長、軍事参議官会議、東京警備司令官という統帥の要に当たる組織や人物、さらに川島陸相らが反乱軍側に肩入れするなか、孤立しながらも強い意思を持って統帥大権をもつ者として鎮圧の命令を発し続けた。それこそが将軍たちの思惑を排し、2.26事件を4日間で解決する力となった。
張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略事件であるが、この陰謀を昭和天皇は承認した。むしろ真相の徹底究明・軍紀粛清を目指した田中義一首相を罷免したことから、侵略的体質の強い関東軍を大いに力づけることになった。昭和天皇は政治に強い関心をもっており、田中義一首相に対して「辞表を出したらよい」とまで言った可能性がある。
 うひょお、そういうこともあり、なんですか…。
 1941年9月に開かれた御前会議で、日本開戦が正式に決まった。このときの昭和天皇の関心は、あくまでも戦争に勝てるかどうかであって、政治的に、あるいは思想的に平和外交を主張するものではなかった。いわば、「勝てるなら戦争、負けそうなら外交」というものであった。つまり、昭和天皇が日米開戦に消極的であったというわけではない。そうなんです。昭和天皇が開戦に消極的で平和主義者だったというのではないのです。
 終戦のときの「聖断」神話は間違いである。昭和天皇は、支配層の中では陸軍に次いでもっとも遅くまで本土決戦論にしがみついていた一人だった。ただし、それを放棄してからは、積極的に終戦の指導にあたった。そして、その結果、さらに多くの沖縄県民が犠牲になったわけです。
 1945年3月に始まった沖縄の地上戦について、昭和天皇に「もう一度、戦果を」という頭があったため、激戦が長引いてしまった。ポツダム宣言が日本に届いてからも、昭和天皇は、大本営の長野県松代への移転と本土決戦を覚悟していた。
 終戦後、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、次のように語った。
 日本人の教養はまだ低く、かつ宗教心の足らない現在、アメリカに行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うようなものも少なくない…。
 昭和天皇から宗教心が足りないと言われたくはありませんよね。だって戦前の日本では、それこそ日本人は靖国神社にこぞってお参りしていた(させられていた)のではありませんか。
 この本は著者のゼミで学んだ学生(永江さん)が私の事務所で働いていますので、勧められて読みました。私の知らなかったことも多く、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2004年9月刊。2200円+税)

2008年9月17日

「百人斬り競争」と南京事件

笠原十九司 大月書店

 靖国神社のご神体が刀だということを初めて認識しました。この本は、第二次大戦(日中戦争)中、日本軍が中国大陸において、罪なき市民や法廷で裁かれ捕虜待遇を受けるべき敗残兵を日本刀で虐殺していた事実をあますことなく立証し尽くしています。
 日本刀は、日本軍が戦時国際法に反して、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵、更に便衣兵の疑いをかけた中国人を捕獲し、座らせて背後から首を切り落とす、いわゆる「据え物斬り」には大変有効な武器であった。弾丸も節約でき、銃声もせず(周囲に知られる危険がない)、一刀の斬首によって絶命させられるので、銃剣の斬殺よりも処刑法として効果的だった。
 日中戦争で、日本から兵士が中国戦場へ送られ、戦傷者も多くなるに従い、護身用の「お守り」として、下士官・兵卒でも日本刀を携行するのが「黙認」されるようになっていった。親などが士征に際して餞別として与えていた。
 地方紙は、各地の郷土部隊の将兵の軍功を競って掲載し、戦場の手柄話が郷土の新聞に掲載されることは名誉として戦場からも歓迎された。
 日中15年戦争において、中国戦場には、何百・何千の「野田・向井」がいて、無数の「百人斬り」を行い、膨大な中国の郡民に残酷な死をもたらした。
 中国兵の捕虜を「据え物斬り」したというのは明らかに戦時国際法に違反する行為であるが、戦争犯罪行為をしているという意識は全くなく、上官・軍事郵便の検閲も「皇軍の名誉を失墜するもの」と考えないどころか、新聞に掲載させるに値する「名誉な」行為だとしていた。
 全国各地の新聞が実質のコピーと共に紹介されていますが、戦前の日本はまさに狂気の支配していた国であったことがよく分かります。武器解除された無抵抗の捕虜を斬首していった実情を新聞記事では戦場における白兵戦という勇壮な手柄話に脚色して報道していたというのが事実なのです。
 なにしろ師団長だった中島今朝吾自身が、日記に中国を捕虜として収容・保護せず、処理(殺害)する方針だったことを明記しているのです。
 そして野田少尉は、鹿児島で小学生を前に自らの武勇伝を語ったのですが、そのとき、「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない。あとは投降した中国兵を並ばせて片っ端から斬った」と述べ、聞いた小学生が「ひどいなあ、ずるいなあ」とショックを受けたという話が紹介されています。この小学生の感想はまともですが、世間一般は、あくまで武勇伝としてもてはやしていたのです。そこに日本社会の反省すべき汚点を認めなければならないと思います。これは決して過去の話ではありません。
 中国戦場にあっては、日本軍の将兵が軍民を問わず中国人を殺害するのは日常茶飯事だった。野田少尉が抵抗しない農民を無惨にも切り捨てた。そのことを士隊長も知っていながら黙認した。そして、マスコミも農民であることをぼかして報道した。
 著者は、南京大虐殺事件の被害者が「30万人」であったか否かという数字(人数)にこだわるべきではないと強調しています。私も、まったく同感です。「30万人」という数字にこだわると、日本側の「否定派」の思うツボにはまることになるからです
 二人の若手将校を「百人斬り競争」の英雄として喝采し、時代の寵児に仕立て上げた「異常な競争社会」が戦前の日本には実際にあった。日本刀は、捕虜にならない、捕虜はとらない、という兵士の使命を軽視し、人権を無視した行為を日本軍将校に強制する上での凶器となった。
 そして今日、少なくない日本人が「異常な競争社会」から目覚めていない、あるいは目覚めることが出来ていない。その根本的原因はどこにあるか。主要には、多くの日本人が「他人の足を踏んづけておいて、踏まれた人の痛みを考えもしない」自己中心的な思考の枠にはめられ、また、その枠を出ようとしないからである。
 「百人斬り競争」については、日本刀で斬首された中国人の立場を考えようともしないで、「できるはずがない」「やるはずがない」と常識論から簡単に否定してしまう。そして、左右のイデオロギーの「泥仕合」だと嫌悪して、歴史的な事実はどうだったのかについての思考を停止してしまう。
 加害者の側にある日本人としては、被害者の中国人の恐怖、衝撃、怨恨、憤激の感情を伴った記憶の仕方を理解するように努力することが必要である。
 そこに目を閉ざす者、南京事件という非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、「異常な戦争社会」を到来させる危険に陥りやすい。
 いやあ、本当に鋭い指摘です。いっぱい赤鉛筆でアンダーラインを引きながら読み進めた本でした。
(2008年6月刊・2600円+税)

2008年8月20日

占領期の朝日新聞と戦争責任

著者:今西光男、出版社:朝日新聞社
 まったく面識はありませんが、経歴をみると私とまったく同世代のようです(正確には、1月に既に定年退職したということですので、1学年だけ上のようです)。
 終戦時、「朝日」社主の村上長挙は51歳。「朝日」の主筆などをつとめていた緒方竹虎は57歳だった。いずれも、今の私の年齢より若いわけですが、すごい権威と権力をもっていました。
 終戦直後に東久邇宮が首相に任命されたわけですが、この首相が児玉誉士夫を内閣参与に任命したというのを初めて知りました。児玉といえば右翼の親玉ですが、旧日本軍の軍需品を流用・私物化して巨萬の富を得た男です。児玉は、そんな汚れた資金をもとに自民党の黒幕として戦後ながく君臨していくわけです。私が右翼を忌み嫌うのは、いかがわしい新興成金体質にみちみちているからでもあります。福田内閣のメインである自由民主党は、児玉が日本陸軍からかすめとった財宝を資金(もとで)として結成されたものです。これが平和・民主主義の日本の七不思議の一つです。汚れたお金で結成された政党による政権が、戦後60年以上たっても、連綿として続いており、若い保守政治家が自民党と名乗るのに何の恥も感じていないというのです。いやあ、気の弱い私なんか、それだけでも自民党の議員になるなんて恥ずかしくて、よう言えませんが・・・。
 そして、朝日新聞は、戦時中に、日本帝国海軍「徴用」という名目によって少なからぬ特典・特権を享受したというのです。これでは戦争批判など、しようと思ってもできるものではありません。
 1945年9月29日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問したときの写真が公表された。黒いモーニング姿で小柄な天皇が正面を向いて直立しているのに対して、頭一つ長身の元帥は襟元のボタンをはずし、両手を腰にあてリラックスした姿だった。
 会見に同席したのは通訳の外務省情報部長一人。元帥が30分間にわたって、とうとうと話し、天皇はごくわずかしか話さなかった。天皇は、このときマッカーサーを下手に怒らせて戦争責任を追及されるのが怖かったのです。
 東久邇宮首相と緒方竹虎書記官長は、内閣の基盤を強化するため、これまで野党あるいは反体制側だった無産政党や労働運動、農民運動などの政権参加が必要だと考えた。そして東久邇宮は、在日朝鮮人組織の指導者と会見(10月2日)するなど、左翼陣営や諸団体との協力を模索し、場合によっては共産党との連携も検討していた。ひえーっ、本当ですか、これ・・・。
 ところが、閣内の2人の大臣がとんでもない発言をした。山崎内相は、反皇室宣伝をする共産主義者は容赦なく逮捕する。共産党員は拘禁を続けると言い切った(1945年 10月5日)。岩田宙造法相も、政治犯の釈放は考えていないと高言した。これを聞いたマッカーサーは怒り、「自由の指令」を発した(10月4日)。これで東久邇内閣は発足して50日で総辞職した。後任は、73歳の幣原元外相が就いた。そして、近衛文麿は  1945年12月16日、マッカーサーから切り捨てられ、青酸カリを飲んで自殺した。
 1945年2月、近衛は昭和天皇に対して、「ここまで来ては、敗戦そのものより、その後に来たる共産革命が深刻だ」と述べ、さらに10月4日にはマッカーサーに対して「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキストである」を述べていた。
 ええーっ、近衛の歴史認識って、こんなにひどいものだったんですか・・・。
 日本に進駐したGHQは、情報局総裁を兼務していた緒方書記官長を呼び、「占領政策に反する新聞をつくらない、米ソ関係を紙上でコメントしない、この2点に違反しない限り、日本の新聞の存続は認める」という方針を伝えた。同じ敗戦国のドイツ・イタリアの新聞は廃刊に追いこまれたのに、日本については、すべての新聞が戦前と同じ題号で発行を続けることが認められた。
 朝日、毎日で経営陣が退き、従業員の選出による新しい執行部が誕生するなか、読売新聞では正力松太郎がそのまま社長室に君臨していた。
 「この社はオレの社だ。勝手なことはさせない」
 自分の戦争責任につながる社内の動きは絶対に認めない。それが正力の強い決意だった。正力は、内務警察官僚として共産党弾圧の張本人の一人であり、また、ナチス・ドイツを崇拝する記事を読売にのせていた。
 その正力に対して労働者の怒りが爆発した。そのころ、日本共産党書記長になったばかりの徳田球一が読売新聞の実権を握るようになった。ところが、正力は依然として、半分近い株主を保持していた。これが復帰のバネとなった。
 鳩山の追放に成功したことによって、GSにとって皮肉なことに、鳩山より手ごわい吉田が登場した。吉田はGHQ内の反共派を代表するG2に近く、民主化最優先・容共派のGSにとっては不倶戴天の敵のような存在だった。
 やがてマッカーサーは、「共産党をキックアウトしろ」と言い、民主化を主導してきたコーエンらGS幹部を相次いでアメリカ本国に帰国させた。こうしてGHQ内の容共派は駆逐された。
 1947年の2.1ストにからみ、読売と毎日はゼネストを批判したが、朝日は、民主戦線結成と吉田内閣の打倒をうち出し、組合寄りだった。そこで、GHQは朝日打倒に乗り出した。GHQはゾルゲ事件と朝日を結びつけようとした。ゾルゲー尾崎秀実ー田中慎次郎ー笠信太郎というラインを浮かび上がらせ、朝日の論説を容共的なものとしてクレームアップしようとした。
 1950年7月28日、レッドパージが始まった。NHK119人、朝日104人など、報道8社で336人が解雇された。レッドパージされた労働者は2万人にのぼった。
 1949年に150万人を組織していた産別会議は、50年には、わずか4万7000人の少数派に転落した。
 朝日新聞の運営は経営が資本に対して優位を保つ形で続いているが、戦前戦後にわたって新聞人・緒方竹虎が苦悶した資本(村山家)と経営(執行部)との対立構図そのものは解消されていない。
 かつて日本の良識とも言われた朝日ですが、今や右翼のサンケイ・ヨミウリと大同小異の記事も多いように思われ、残念です。
(2008年3月刊。1400円+税)

2008年7月17日

甘粕正彦 乱心の曠野

著者:佐野眞一、出版社:新潮社
 いやあ面白くて、ぐいぐいと引きこまれてしまいました。よくもここまで調べ上げたと感嘆するほど、「主義者殺し」の烙印を負った甘粕憲兵大尉の事件との関わり、そして満州での暗躍ぶりと自殺に至るまでが迫真にみちみちて描かれています。
 甘粕は、大杉栄一家3人虐殺の主犯として軍法会議で懲役10年の判決を受け、千葉刑務所に服役した。ところが昭和天皇の結婚による恩赦を受け、大正15年(1926年) 10月、わずか2年10ヶ月で極秘のうちに仮出獄した。そして翌1927年(昭和2年)7月にはフランスに渡った。さらに、1929年秋に満州に移住した。
 甘粕正彦の長男は三菱電機の副社長を経て、現在は顧問。考古学者の甘粕健、社会学者の見田宗介、服飾デザイナーの森南海子は、みな近い親戚である。いやあ、有名人ぞろいですね。私も見田宗介の本は大学生のころ読みました。見田石介の本もです。
 甘粕正彦は名古屋の陸軍幼年学校に入ったが、そこは6年前に大杉栄が入学し、あまりの不良少年ぶりに2年で放校処分を受けたところだった。
 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の当日、渋谷憲兵分隊長の甘粕正彦は麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。首相官邸などを警護対象とする麹町憲兵分隊は、文字どおり、憲兵あこがれのエリート中のエリートコースだった。
 甘粕は帝都の治安を攪乱する不穏分子を摘発するエースだった。皇族の安寧を願い、帝都の治安維持に尽力してきた甘粕の目ざましい働きに対する論功行賞でもあった。
 甘粕に対する軍法会議が始まると、減刑嘆願運動が在郷軍人会を中心として全国に広がり、65万人もの署名を集めた。しかし、これも、軍法会議が始まると、甘粕に対する同情の声はおさまり、むしろ非難する声が高まった。
 大杉栄の虐殺が露見したのは、軍と警察の反目にあった。そして、その裏には、内務省と陸軍省のドロドロした暗躍劇がからんでいた。
 死因鑑定書が発見された今、甘粕は殺害された宗一(子ども)ばかりか、大杉栄ら3人の死体が菰包みになったのを見て初めて殺害の事実を知ったという可能性も否定できない。いやあ、そういうことなんですか。驚きました。
 軍法会議は、宗一少年を殺したとして自首してきた東京憲兵隊の3人を無罪にしたことに象徴される。この軍法会議は第1回が10月8日、6回の審理を経て、結審したのが11月24日。そして、判決は12月8日。審理に費やした期間は、わずか2ヶ月。しかも、甘粕に対する追及が厳しかった判士の小川法務官は途中で突然に解任された。
 そもそも、甘粕には麹町憲兵分隊に所属する4人を指揮命令する権限はなく、そんな立場にもなかった。
 赤坂憲兵分隊長の服部が麹町憲兵分隊に行ってみると、屋上に大杉栄が両手両脚を厳重にしばられ、コンクリートの上に筵(むしろ)を敷いて座らされていた。そばには、大杉の妻・野枝と子どももいた。こんな目撃談を部下が書いています。
 死因鑑定書には次のように書かれている。「男女二屍の前胸部の受傷はすこぶる強大なる外力(蹴る、踏みつけるなど)によるものとなることは明白。・・・これは絶命前の受傷にして・・・」
 つまり、大杉栄も野枝も明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けた。虫の息になったところを一気に絞殺された。すなわち、集団暴行によるなぶり殺しが実態である。
 おお、なんとむごいことでしょうか。許せません。そして、実行犯は、みな無罪放免となり、甘粕一人がわずか2年あまりで出所したなんて・・・。まさしく軍隊の犯罪としか言いようがありません。
 甘粕が出所してすぐにフランスに渡ったのは、甘粕をスケープゴートとして自らの責任を逃れた憲兵司令部の後ろめたさと、口封じを感じざるをえない。そして、甘粕正彦は満州に渡り、満映の理事長となり、終戦直後に青酸カリを飲んで服毒自殺した。そのとき、今をときめく有名作家の赤川次郎の父親が甘粕の側で働いていた。
 これは伝記ものの傑作の一つだと思います。なにしろ、歴史的事実を一つ発掘したのですからね。私は、東京行きの飛行機のなかで、一心に読みふけり、飛行の怖さを忘れてしまいました。あっという間に東京に着いてしまったのです。
(2008年5月刊。1500円+税)

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