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ベトナム戦争に抗した人々

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者  油井 大三郎 、 出版  山川出版社
 私の大学生のころ、つまり今から50年前はアメリカがベトナムに勝手に入り込んでジャングルの内外でベトナムの人々と戦争していました。有名なソンミ村の虐殺事件はそのなかで発生した事件の一つです。氷山の一角だと思います。そのころは韓国軍もアメリカ軍と同じようにベトナムに出兵していて、残虐さではひけをとらなかったようです。
 アメリカの青年がベトナムで5万5千人も亡くなりました。残念なことです。本人たちも無念だったと思います。しかし、ベトナム人の死傷者は100万人を軽くこえています。
 アメリカがベトナムで戦争するのに、いまから考えても、何の大義もありませんでした。「ドミノ理論」があっただけです。ベトナムが「赤」化したら、周辺の国までドミノ倒しで赤く染まるから、それを防ぐというのです。そんなこと放っておいて下さい。アメリカに口出しできる権限は何もありません。
 このブックレットは、アメリカでベトナム反戦運動がどうやって盛り上がっていったのかを歴史的にたどり、改めて考え直しています。
 アメリカでは、ベトナム反戦運動は初めのうちは少数派として白眼視されていた。ところが、すぐに終わるはずの戦争が、北ベトナムや解放戦線(アメリカは「ベトコン」と呼んでいました。日本のマスコミも同じです)の粘り強い抵抗の影響もあって世論を大きく変え、ときの大統領に和平を決断させ、ついには撤退するに至った。
 アメリカの反戦運動のなかにもさまざまなグループがあり、相互に激しい対立もあったが、最終的には、なんとか「大同団結」できた。
 徴兵を拒否したり、星条旗を燃やして抗議したり、街頭や集会で警察と激しく衝突したため、愛国心のあついアメリカ人は反戦運動に対して強く反発した。主要メディアも同じ。ところが、次第にベトナム反戦の声が世論の多数を占めるに至った。なぜか・・・。
一般のアメリカ人は当初はベトナム戦争の展開に関心をもっていなかった。
ベトナム反戦運動が盛りあがったのは、1965年2月に恒常的な北爆が始まってからのこと。1960年に入ると、旧左翼の運動が復活、新左翼の運動も始まった。反戦団体のなかには1950年代の赤狩りの後遺症として、反共主義を求めるものもあり、また「非暴力直接行動」を主張する団体もあった。
反戦団体のラディカル派は、アメリカ軍の即時徴兵を主張したが、リベラル派は、北ベトナム軍をふくむ全外国軍隊の撤退に固執していた。
1965年11月、クエーカー教徒がペンタゴン前で抗議の焼身自殺を敢行した。
1967年4月、キング牧師がベトナム戦争反対を表明した。これに対して、全米黒人地位向上協会は、公然とキング牧師を非難した。
4月の反戦集会には、全米で30万人が参加し、セントラルパークは10~20万人の人波で埋めつくされた。しかし、アメリカの労組と労働者はベトナム戦争を支持していた。
マクナマラ国防長官は1967年5月に、ジョンソン大統領に対して方針転換を進言した。のちに「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれる文書がつくられた。
このころ、アメリカ軍は中国南部での核兵器の使用も検討していた。そして、北爆の拡大を強く主張した。
1968年1月30日、南ベトナム全土でテト構成が始まった。サイゴンのアメリカ大使館に解放戦線の兵士20人が突入し、6時間にわたって占拠を続けた。この戦闘シーンがアメリカのテレビで中継され、アメリカ国民の衝撃を与えた。このテト攻勢は「勝利は同迫」と説明してきたジョンソン政権の信頼を大きく損った。
このころ、政府側は、FBIによる潜入(介入)工作が強めていた。新左翼の党派同士の対立をあおったのです。
6月にロバート・ケネディが暗殺された。ジョンソン大統領は10月末に北爆の全面停止を発表した。
1969年10月の集会には全米で200万人が参加したが、多くが白人のミドルクラスで、初めての集会参加者も多かった。
非暴力直接行動は、違法は法律や政策に対して座り込みなどの非暴力的手段で頑強に抵抗するものであった。それゆえ、政府による反戦運動イコール暴力との非難をはね返し、無関心な国民の自覚を粘り強く求めていく効果をもった。
アメリカ内のリベラル派は運動の展開のなかで反共主義を克服し、ベトナムの民族自決を支持するように変化した意義は大きい。リベラル派はマスコミにも議会にも大きな影響力をもっていた。
ベトナム反戦運動の成果から改めて学ぶところは大きい、このように思い知らされた100頁あまりのブックレットでした。
(2017年8月刊。729円+税)

子どもの才能を最大限伸ばす子育て

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  佐藤 亮子、内村 周子 、 出版  ポプラ社
 子ども4人(息子3人と娘)全員を東大理Ⅲに合格させたママと、体操金メダリストの母が対談している本です。
自分が「やる」と決めたことはあきらめずにやり切り、目標を達成し、自己肯定感の高い子どもを育てようとする母親の姿勢が二人に共通している。
子育てに「これが正解」というのはない。子どもには一人ひとり違った個性があり、それは母親だって同じこと。
肩の力を抜いて、自分流の子育てをしていくと、子育てって、とっても楽しくなる。自分は自分だと自信をもって言おう。
小さい子どもがピーナッツの誤飲によって窒息するという事故を知って、一切の「柿ピー」を置かなくなった。ボタン電池も完全撤去する。これは親の責任。
男は背中で語るなんて思ったらいけない。子どもには、ちゃんと向かいあって、言葉でコミュニケーションをとることが大切。
母親業は女優業、家庭は舞台と思うこと。ついカッとなって子どもに変なことを言わないように、あらかじめリハーサルをしておく。事前にセリフを用意していないときには、まずセリフを頭の中で考え、ワンクッションおいてから口にする。子どもの人格を否定していないか、やる気をそぐことはないか、プライドを傷つけないか、そして感情的になっていないか・・・。
この思考・発語パターンは私にぴったりです。言う前にあれこれを考えるのです。ところが、これは語学の勉強ではマイナスになります。一歩、出遅れてしまうのです。語学は話しながら考えなくてはいけませんので・・・。
子どもを叱るときは、怒らないで、なぜ、それをしてはいけないのか、論理的に説明する。これは、答えを丸覚えさせるのではなく、自分の頭で考える機会を増やすことにつながる。
母親が一番に考えるべきは、どうしたら子どもが毎日を機嫌よく過ごせるか、だ。うむむ、私はそんな子育てを考えたことがありませんでした。もちろん、のびのび育てようとは思っていたのですが・・・。
必要なのは英語力よりも日本語力。ペラペラな英語力ではない、思考力こそが大切。日本語力なくして英語力なし。日本語がままならないうちに英語を教えても、思考が分散してしまうだけ。これも私はまったく同感です。
小さいときから、親からほめられて育つと、本番にも強くなる。
さすが、さすがと思わせる子育てのウンチクが惜し気なく披瀝されている、明るく元気の出る本でした。これも佐藤弁護士からいただきました。ありがとうございます。子育てに悩んでいる人はぜひ読んでみて、すっきりしてほしいと思いました。
(2017年10月刊。1500円+税)

性風俗世界を生きる・・・

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 熊田陽子  明石書店
 性風俗店のスタッフとして2年あまり働いて、その実情を探求し、考察した真面目な本です。
 著者は大学院生であり、研究目的であることを明かしてオーナーの了解のもとにスタッフとして働き始めました。ただし、そこで働く女性たちには身分も目的も明かしていません。
 番なしのSMプレーもする性風俗店です。女性は20歳から42歳までの56人。そのうち結婚しているのは5人、9人は1歳から中学生までの子どもがいる。
 客層は30代から50代の男性を中心としていて、20代の客は珍しく、70代も数人しる。女性客もいる。
 女性たちが、何とか生きるために頑張っている実情がある。
 都市は、何とか生きようとする人々が集まる空間であり、窮地に陥った人が生をつなぐ見込みを見出す場でもある。入店のため面接を受けた女性が全員採用されるわけではない。美しくもない、話術が巧みでない、スタイルが悪い(太りすぎ)、年齢が高い、目立つ傷、皮膚が滑らかでないなどで拒否される。
 東京圏には、警視庁統計だけでも5200件ほどの性風俗店があり、巨大な市場を形成している。
 この店の料金は50分で1万8000円。このほか、ホテル代とタクシー代がかかる。客は週に2回という人もいるが、一般的には1ヶ月から3ヶ月に一度というペースが多い。年末ボーナスに一度だけという客もいる。地方からの客もいるし、海外からの客もいる。
 店には、顧問税理士がいて、広告業者に月50万円は支払っている。客への広告と女性募集広告。
 女性の入店希望は、お金を稼ぐこと。この店は日払い。多い人は週7日間、一日5時間働く。週に1回か2回、また夜の7時から3時間はたらく、土曜日の午後だけという人もいる。昼の仕事をしている人も少なくない。
 待機室にいて、客からお呼びがない状況が続くと、女性は単に収入がないというだけでなく、自分が否定されたと感じるようになる。
 女性たちは、ことばの達人になっていく。相手に合わせ、他人を傷つけないように会話を運ぶのが上手になっていく。
 女性たちは高給取りのようでいて、実際には腰を痛めたり、精神的にもう無理になったりする人も多く、継続して月50万円の稼ぎを確保するのは難しい。
 女性たちは、よく笑う。怒るのではなく、笑うことで、客は主、自分は従という枠組みのなかでも笑いの転換機能によって、状況的に優劣を逆転させながら、自分にとって生きやすい場を求めている。男性による風俗現場探訪記は読んだことがありましたが、このように当面から学術的研究目的での性風俗店への潜入ルポと分析的レポートは初めてでした。
 日本社会の現実を知らせる貴重な一冊だと思います。
 
 
(2017年8月刊。3000円+税)

ソマリランドからアメリカを超える

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 ジョナサン・スター  角川書店
 アフリカは、あのソマリランドにアメリカ人が学校をつくり、運営し、そこの生徒がアメリカの大学に留学していくという実話を、当のアメリカ人が紹介した本です。
 しかも、アメリカの大学というのがハーバードであり、MITだというのですから驚きです。
 少し前まで英語もろくに話せなかったソマリの少年少女が学校に入って才能を爆発的に開花させるのですから、素晴らしいです。アメリカも、こんな援助こそ、もっと大々的にすべきですよ。軍事的な侵略ばっかりしているので、嫌われるばかりなんです。
 私は、アフガニスタン中村哲ドクターをついつい思い出しました。
 アメリカ人である著者が見ず知らずのソマリランドで50万ドルを投入して学校をつくり、運営する苦労の日々が刻銘に紹介されています。
 ソマリの部族社会とのあつれきもありましたし、信頼していた人との仲違いによって深刻な状況に再三おいこまれたのですが、そんななかで多くの留学生を送りだしたといのですから、立派なものです。
 ソマリランドに何度も行ったことのある日本人・高野秀行氏は、この学校の前を通ったことがあるとのこと。クレイジーなアメリカ人として解説を書いています。
 この解説を読んで、なるほどと思ったのは、ソマリア人の若者が「飢え」ているという指摘です。それは、知的な「飢え」です。もっと勉強したいけれど、する環境がない。そんな飢えている若者に適切な食事を与えると驚くほどの勢いで摂取し、爆発的に成長する。それで、わずか数年でハーバードやイエール大学に合格してしまうのだ・・・。
 著者のアメリカ人は27歳のときには、アメリカで投資会社を経営していて、もうかっていたのです。ところが、もうけ仕事を続けるより、何か他に意義ある仕事をしたいと思い、ソマリ人の叔父さんのいたソマリランドに学校をつくるのを思い立ったというわけです。
 学校の試験はカンニングがあたりまえ、入試だって替え玉受験があるようなところで、基礎からの勉強を積み重ねていくような涙ぐましい努力をしていくのです。生徒たちは、やがて教師にこたえてくれます。ところが、妨害者があらわれ、あの手この手で妨害します。デマをまき散らし、著者を国外へ追い出そうとするのです。
 ソマリランドはモガディシオを首都とするソマリ国からは独立した別の国で平和な国なのです。ソマリ国は今もなお内乱状態が続いて危険な国のようでうが・・・。
 アメリカ人だって軍事優生ばかりではないことを知って、少しはほっとする思いもしました。
 中村ドクターのように用水路をつくって農村を復興したり、この著者のように学校をつくって子どもたちにちゃんとした教育を受けさせる。これこそが必要なことだと痛感させられました。ぜひとも、学校を存続させてほしいものです。
(2017年9月刊。1600円+税)

闘いを記憶する百姓たち

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 八鍬 友広、 出版 吉川弘文館
百姓一揆の訴状が読み書き教材として広く普及していたというのです。驚きです。
どこかで一揆が起きて支配層への異議申立として訴状を書いた。すると、やがて我が村でも起ち上がらなければいけなくなるかもしれないので、訴状の書き方を勉強しておこうと村の主立(おもだ)ち衆が考えていたようです。
この前提として、日本の農村の多くの人が読み書きは出来るということが不可欠です。
江戸時代には読み書き計算などのような基礎的な能力が社会の中に一定の密度で分布していた。このような力量を身につけた民衆は、もはや「もの言わぬ民」などではなく、武士に対してさえ強情に「もの言う」百姓たちだった。時代劇で描かれる「悲惨な民」とは異なり、近世の百姓は、自らの利益のために積極的に訴訟を起こし、武士に対しても堂々と自己主張する存在だった。
江戸時代は、「訴訟知」を身につけた民衆が頻繁に訴訟を起こす「健訴社会」だった。
17世紀前半に起きた百姓一揆や地域間紛争のなかで作成された訴状が読み書きのための教科書になっていた。
これを目安往来物(めやすおうらいもの)という。「目安」とは、箇条書きされた訴状のこと。「往来物」とは、読み書き学習用のテキストブックのこと。「往来物」の最盛期は、じつは明治初期だった。学校制度が始まったけれど、まだ新しい教科書はなかったからだ。
寛永白岩一揆で作成された訴状を白岩目安といった。寛永10年(1633年)、出羽国村山郡白岩郷(山形県西村山郡西川町から寒河江市にかけて・・・)の百姓たちが領主の悲法を幕府へ訴えた。直訴である。租税の負担増、年貢率の上昇に不満をもった百姓たちは、保科家に騙され、36名ものリーダーが磔刑(たっけい)に処された。ただし、領主であった酒井長門守忠重も白岩郷から排除されている。
この寛永・白岩一揆は違法性が強いものであったはずなのに、その訴状は広く東北一円に流布している。
境界争論に関する目安も往来物にふくまれている。白峯(しらぶつ)鉱山目安として伝わり、広まった。
対立する村人は実力行使で争ったが、それでケリがつかなかったので、ついに幕府に訴状を提出した。
このように、文書作成上の知識は、村役人クラスの人々にとって常に必須のものだった。聖徳太子以来、日本人は裁判を好まなかったという俗説はまったくの間違いだと私は確信しています。聖徳太子は裁判が多すぎるからほどほどにしろ、仲良くしなさいと人々をさとしたのです。また、裁判官が賄賂を当然のようにもらっている風潮に対しても警告を発していました。  
この本を読むと、江戸時代の人々が裁判に命をかけていたことが良く分かります。日本人は条件さえととのえば、裁判を辞さないという国民性をもっています。今のLAC利用の急増をみても、ますます確信します。
(2017年10月刊。1700円+税)

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