(霧山昴)
著者 青山 忠正 、 出版 吉川弘文館
徳川将軍のもとに編成された大名家は、均一化された制度としてあったのではない。たとえば、毛利家は長門・周防(すおう)2カ国を領分とし、島津家は薩摩・大隅・日向二郡を領分とする「国主」(いわゆる国持大名)だった。およそ270家の大名家のうち国主は十八家しかない(俗にいう「十八国主」)。
慶応3(1867)年10月に将軍慶喜がした「大政奉還」において、何を「奉還」したのか…。「大政」奉還と「政権」奉還は、何が違うのか…。
十四代将軍家茂(いえもち)は領知宛行状を発給したが、十五代将軍慶喜は領知宛行状を発給していない。
将軍慶喜は、「政権」返上したあと将軍の辞表も提出した。すなわち幕府はみずから消滅した。しかし、薩長にとって、これでは倒幕、すなわち徳川家の勢力を排除する目的が達成できない。慶喜が新政府に『議定』という要職で入るのを排除する必要がある。そこで、慶応4(1868)年1月3日から鳥羽・伏見の戦いが始まったのを西郷隆盛は喜んだ。薩長側は、徳川家を実力で排除したかったのである。
孝明天皇は統仁(おさひと)というのを初めて知りました。睦仁(むつひと)とか明仁(なるひと)と読むのと同じ系統ですね。
孝明天皇は外国嫌いで、攘夷にこり固まっているとばかり思っていましたが、「無謀の征夷」つまり異国との全面戦争は明確に否定していたのでした。外国と戦っても中国のアヘン戦争のようにみじめに敗北してしまうことを恐れていたのです。
元治1(1864)年7月の禁門の変において、長州藩は敗退しますが、さらに四国連合艦隊が下関を砲撃する。これは、長州藩を攻撃するというより、攘夷そして横浜開港などを画策している朝廷に翻意を迫るものだった。
版籍奉還といっても、明治維新に至る経過において徳川宗家一族を滅ぼすような計画は考えられたことも実行されたこともない。徳川家は明治から現代に至るまで健在である。「討幕」なるものは実行されていない。版籍奉還の真の狙いは、「王土王民」の理念を掲げて、あくまでも大名から領知を接収することにあった。
明治1年9月と11月に、公議所を開設するとの指示が出された。合議体は、ずっと名称を変えて構想されていた。ただし、「公議」のベースは、あくまでも大名家である。
明治2(1869)年6月、版籍奉還となり、太政官が知藩事を任命した。知藩事は当初は世襲の予定であったが、非世襲とされた。
明治新政府の「御親兵」として鹿児島から3千人、高知から1千人そして、山口からも4千人、合計8千の兵力を確保する。彼らに給付する家禄は東京府が支給し、兵士としての給与は兵部省が負担する。鹿児島藩としては、それだけ負担が軽減されることになる。
とても広い視野で、幕末そして明治維新の動きを分析していて、大変勉強になりました。
(2026年1月刊。2200円)


