弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2022年11月11日

人質司法


(霧山昴)
著者 高野 隆 、 出版 角川新書

 カルロス・ゴーンの弁護人として、その保釈をかちとりました。保釈中に被告人が逃亡して裁判が中断してしまったのはご承知のとおりです。
 著者は2人目の弁護人になったとき、必ず保釈をかちとると決意していました。
 保釈をかちとるための秘策を本書で改めて知りました。私の想像を絶します。
 著者はアメリカ留学の経験もあり、英語は堪能です。
 拘置所での初回面会のとき、「あなたを保釈で釈放させることを約束します」と断言しました。すごい自信です。著者には、前に、こんな条件で保釈を裁判所に認めさせた経験があるとのこと。
 2週間で13人の証人尋問を行うという連日公判のとき、被告人と同じホテルの隣室に宿泊することを条件として、公判前に保釈を認めてもらった(百日裁判が適用される公職選挙法違反事件)。
 被告人を法律事務所の事務職員として雇い入れ、弁護人の貸与するパソコンとケータイ以外は使用しないこと。
 いやあ、すごいです。もちろん、どちらも否認事件でした。著者も、これらは「最後の切り札」であり「禁じ手」であるとしています。危険と隣あわせの手法です。カルロス・ゴーンについても、これを使って成功し、107日ぶりに釈放をかちとりました。
 そのときの保釈請求書は、添付資料をあわせて180頁という大部なものです。
 裁判官と何度も交渉し、説明し、ついに保釈保証金10億円で保釈が認められた。いやあ、すごいですね。初回面接のときの約束を果たしたのですから...。
 日本で、こんな厳しい条件を課さなければ保釈が認められないという司法の現状について、著者は鋭く批判しています。しごく当然です。まさしく、これは人質司法のカリカチュア(戯画)でしかありません。
 アメリカの司法だったら、工学の保証金を積んでさっさと身柄は外に出て自由の身となり、弁護人と思うように折合せができているはずなのです。
 著者は、「禁じ手」であることを認めたうえ、「非常手段」として選択したと強調しています。よく分かります。
 カルロス・ゴーンは、その後、再び逮捕されましたが、著者ら弁護人のすすめでほとんど完全黙秘を貫いたようです。
 著者は、黙秘権について「沈黙する権利」ではないと強調しています。ええっ、ど、どういうこと...。黙秘権は、単に「沈黙する権利」ではなく、強制的な専制手続、取調べ受忍義務を課したうえでの尋問を根絶するための制度だというのです。なーるほど、ですね。さすが、です。
 「ミランダの会」以来の実践活動に裏打ちされている指摘ですので、重みが違います。
 著者は人質司法を改善するためには、取調べ受忍義務を即刻廃止すべきだとしています。
 日本では、罪を争う被告人が第1回公判前に釈放(保釈)させる可能性は1割しかない。これに対してアメリカでは、重罪で逮捕された容疑者の62%は公判開始前に釈放される。保釈が拒否されるのは6%にすぎない。
 欧米でされている取調べは、ほとんど1時間以内で、通常は20~30分ほど。これくらいの時間なら、弁護人は取調べに立会して、捜査官が無理な自白を強要することを防止できる。つまり、取調べの弁護人立会を「権利」として確立するためには、取調べ受忍義務を否定する必要がある。
 著者は、むしろ自白した被告人の保釈を認めないようにしたらどうかと提起しています。自白しているから証拠隠滅の動機や危険性がない、という。その論理は、自白していない被告人には罪証隠蔽の動機や危険性があるという発想につながるので、よろしくないと言うのです。また、逃亡した被告人に対する欠席裁判は可能にすべきだと主張しています。
 カルロス・ゴーンの逃亡によって、日本の人質司法の問題は鮮明になったというのです。さすが、さすがです。大変勉強になりました。
(2021年6月刊。税込990円)

2022年11月 4日

労働弁護士50年、高木輝雄のしごと


(霧山昴)
著者 名古屋共同法律事務所 、 出版 かもがわ出版

 名古屋に生まれ、名古屋で育ち、弁護士としても一貫して名古屋で活動してきた高木輝雄弁護士が後輩の弁護士からインタビューされて労働弁護士としての50年を語っていて、とても興味深い内容になっています。150頁ほどの小冊子ですが、内容は、ずっしりという重みを感じさせます。
 著者は戦前(1942年)に名古屋熱田地区に生まれ、名古屋大学法学部では行政法の室井力教授、憲法の長谷川正安教授、民法の森嶌昭夫教授に教えられました。
 司法修習は20期で、青法協の活動に熱心に参加した。横路孝弘とか江田五月も同期。
 弁護士になったころは、公害事件と労働事件、そして大須事件のような刑事弾圧事件で忙しかった。
 私が著者を知ったのは著者が四日市公害訴訟の弁護団員として活躍していたからです。
 四日市公害訴訟は1967(昭和42)年の控訴なので、著者はまだ司法修習生のころ。翌年に弁護士になってすぐ弁護団に加えてもらった。四日市公害訴訟の判決は、コンビナート企業会社の共同不法行為を認めた。この判決の意義を私は司法修習生のとき、青法協活動の一つとして当時、横浜地裁にいた江田五月裁判官にレクチャーしてもらいました。
 そして、著者は名古屋新幹線公害訴訟裁判に取り組んだのでした。新幹線の騒音・振動という公害問題です。著者は弁護団の事務局長でした。この裁判では、一審で、裁判官は3回も屋内で検証したというのです。すごいですね、今では、とても考えられませんよね...。また、沿線の旅館に弁護団で合宿したとき、その振動のあまりのひどさに、内河恵一弁護士が枕を持って逃げ出したとのこと...。実感したのですね。
 受忍限度論が問題になっていました。住宅密集地だけ減速したらいいじゃないか、名古屋7キロ区間のスピードを半分に落としても、せいぜい3分遅れるだけではないかと原告側が主張すると、他の地域でもやらなければいけなくなるという国鉄側は情報的な反論をしたのです。
 そして、実際、国労は裁判所が検証しているとき、減速運転してくれた。懲戒処分を覚悟したうえでの減速だった。すごいですね、今なら考えられませんよね、残念ながら。
 弁護団事務局長として、あまりの激務のために、他の仕事はほとんど出来なかった。
 いやあ、これは大変でしたね...。著者は午前2時まで作業して、2時間ほど寝るだけで、寸暇を惜しんで裁判の維持に全力をあげた。
 そして、著者は名古屋南部大気汚染公害訴訟にも取り組んだのでした。
 著者はながく弁護士として裁判に関わるなかで、司法の限界をいろんな場面で感じた。
 また、著者は労働事件にも取り組んでいます。裁判所や労働委員会は、運動全体のなかでは一つの手段にすぎない。重要ではあるけれど、それで終わりだと、本当の解決につながらないことも多い。裁判も一つの手段だから、ちゃんとした位置づけが必要だ。
 裁判や労働委員会といった法律的な場面だけではなく、社会的な問題に積極的に関与するのが労働弁護士の日常活動だった。ビラも配ったし、署名を集めたり、一緒にデモをしたり、ストライキのしたこともある。
 ところが、労働組合の姿勢がすっかり変わってしまった。連合が発足したあと、労働組合が大きく右傾化してしまって、労働組合が経営側と積極的にたたかうというのが例外的になってしまった...。残念ですね、ぜひ本来果たすべき役割に戻ってほしいと思います。
 労働組合は、もっと力をつけなければいけないし、もっと政治的、社会的な課題に目を向けるべき。労働者の組合加入率が低すぎるのも、本当に残念なことです。
 弁護士は事件の現場で鍛えられる。
 著者は、「ケンカ太郎」とか、「瞬間湯沸かし器」と言われながら、この50年を一貫して、まっすぐに歩んでこられたわけです。すごいことです。読んで勇気づけられる本でした。ご一読をおすすめします。
(2019年1月刊。税込1760円)

2022年10月20日

DHCスラップ訴訟


(霧山昴)
著者 澤藤 統一郎 、 出版 日本評論社

 DHCという会社の製品を私自身は利用したことがありませんが、サプリメントや化粧品の製造販売業者として、日本最大手の売上高のようです。派手に広告していて、天神地下街にも店舗をかまえています。そのDHCのオーナーの吉田嘉明会長は、とんでもない差別主義者で、デマやヘイトを散々吹聴してきました。
 そして、その吉田会長が自ら週刊誌(「週刊新潮」)に「みんなの党」の渡辺喜美党首に規制緩和のための「裏金」8億円を提供していたことを告白したのです。その意図は何だったのでしょうか。恐らく渡辺喜美が8億円に見合うだけの仕事をしなかったという怒りからなのでしょう。
 著者は、そのことを自分のブログで取りあげて鋭く批判しました。当然のことです。8億円もの「裏金」で国会議員を「買収」して国の政策をねじ曲げようとするなんて、言語道断です。それを知ったら批判しないほうが不思議です。ところが、DHC側は著者に対して名誉毀損だとして2千万円の賠償を求める裁判を東京地裁に起こしたのでした。こんな裁判をスラップ訴訟といいます。
 スラップ訴訟とは耳慣れないコトバです。セクハラ、パワハラは、今ではすっかり日本語として定着していますが、そのうち定着するコトバなのでしょうか...。
 「スラップ」というのは、アメリカの教授の「造語」。確定した定義はなく、日本語の訳も定着していない。スラップとは、誰かを脅し、その誰かの言動を萎縮させようという意図をもってする民事訴訟のこと。「萎縮」というのは、「びびらせる」というコトバがピンと来る。
 DHCは、著者のブログでの批判について、2000万円の損害賠償と記事の削除、そして屈辱的な謝罪文の掲載を求めた。
 著者がブログで批判したのは、2014年3月31日から4月8日(その後も...)。これに対してDHCは何の前触れもなく、いきなり4月16日に東京地裁に訴状を提出した(DHCの代理人は今村憲弁護士)。
 そこで、著者は弁護団を確保した。常任弁護団8人、136人の弁護団という構成であり、学者の協力も得た。
 著者がその後もブログでDHC批判を続けていると、DHC代理人の今村弁護士から警告書が送られてきて、2千万円の請求が6千万円に拡張された。
 そして、著者が弁護士会照会をかけたところ、DHCは同種のスラップ訴訟をほかにも10件起こしていたことが判明した。そして、DHCは名ばかりの和解金(たとえば30万円)を被告雑誌社側に支払わせて和解で裁判を終了させていた。
 一審判決は、当然のことながら、DHC側の請求を棄却するという勝訴判決。ところが、DHCは控訴した。東京高裁(柴田寛之裁判長)でも、もちろん控訴棄却となり、著者側が勝訴した。
 名誉毀損訴訟では、「事実の稿示」と「意見ないし論評」の2つに区分して判断されていることを初めて知りました。裁判所は、「事実の稿示」のほうでは見る目が厳しく、「意見ないし論評」のほうは、とても寛容なんだそうです。「意見・論評」は、極端な人格攻撃を伴わないかぎり、論評は自由。
 DHCの名誉毀損訴訟が請求棄却になったあと、著者はDHCに対する反撃訴訟を提起しました(正確には、DHC側からの債務不存在確認訴訟が先)。なぜ、前訴で反訴提起しなかったのか、また賠償請求額をいくらにするか、弁護団で議論があったようです。
 6千万円を請求されたことを考えると、その弁護団費用だけでも1千万円をこえても不思議ではないけれど、600万円を請求したのでした。
 この裁判の判決は、またもや著者らの請求を認容する勝訴判決。ただし、認容された賠償額は一審110万円、二審165万円。ちょっと少ないですよね。
 DHCの訴訟提起は、客観的に請求の根拠を欠くだけでなく、DHC・吉田は、請求の根拠を欠けていることを知っていたか、通常人であれば、容易にそのことを知りえたにもかかわらず訴えを提起したのは、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合にあたり、提訴自体が違法行為になる、としたのでした。
 そこで、著者はいくつか問題提起をしています。その一つがDHC代理人の今村憲弁護士への責任追求が必要だったのではないか...、ということです。たしかに、法律専門家としての弁護士の責任は看過できませんよね。
 最後に二つだけ。その一は、被告で訴えられたときの不安な気持ちです。私は交通事故訴訟の原告になり(一審で不本意な判決をもらい、控訴して和解しましたが、不本意な判決が保険会社に有利な判例として判例集に登載されたので、親しい弁護士からおこられました)、また、別にも勝つべき事件で敗訴したとして訴えられて被告になりました(こちらは被告として、弁護士賠償保険に連絡ととりつつ本人訴訟で追行しました)。たしかに被告事件になると、気持ちのいいものではありません。
 その二は、著者の長男も弁護士になったので、著者への本人尋問は、息子さんが担当したとのこと。息子の発問に、父親が答えるというのは、あまり例のない法廷風景だろう。そう書かれていますが、きっとそうでしょうね。
 240頁の本ですので購入した翌日に一気読みしました。面白かったです。でも、スラップ訴訟って、まだまだ多くの人(弁護士ふくむ)には、ピンとこないでしょうね...。

(2022年7月刊。税込1870円)

2022年10月19日

松川事件と「諏訪メモ」


(霧山昴)
著者 北大生・スパイ冤罪事件の真相を広める会 、 出版 左同

 松川事件が起きたのは1949(昭和24)年8月17日未明のこと。団塊世代の一人である私が生まれた翌年です。国鉄(もちろんJRではありません)の東北本線で旅客列車が脱線転覆し、乗客は無事だったが、乗組員3人が死亡。線路を固定するための枕木に打ち込んである犬釘(いぬくぎ)が抜かれ、カーブ外側のレール1本が外されていた。
 警察は共産党の犯行だとして容疑者20人(うち共産党員14人)を逮捕し、検察庁は全員を起訴した。裁判所の判決(1950年12月6日)は全員有罪で、5人が死刑、5人に無期懲役刑が宣告された。
 このパンフレットは、毎日新聞福島支局にいた24歳の新米(しんまい)記者が松川事件で被告人たちにアリバイがあることを裏づける団交メモ(諏訪メモ)を掘り起こすまでの苦労話を生々しく紹介したものです。
 当時は、記者の「サツ回り」ものんびり、人間的で、おおらかだったのでした。地検の検務課で「赤銅鈴之助」のマンガ本を借りて記者が読みふける、次席検事は麻雀が大好き。そして、諏訪メモを個人的に預かりもっていた鈴木久学検事が福島地検に戻したのを目撃し、その足で受けとった検事正に正面突破で諏訪メモの存在を問いかけたのです。
 「あったのですね?」
 「うん、あった」
 「佐藤(被告人)が出席していますか?」
 「いる」
 「何時までいましたか?」
 「午前中いた」
 このやりとりだけで、諏訪メモの現物を見ることもなく、著者は毎日新聞福島版(1957年6月9日)のトップ記事として、「諏訪メモ発見さる」を一面トップで大きく報道したのです。記者は若かった世間知らず。だからこそ正義感に燃えて、(メモの現物を見なくても)踏ん切れた。
 この大スクープのあと、警察・検察官で食事をしていると、警部補から、「お前はいつからアカの手先になったのか」と大声をあげ、著者が酒をつごうとすると「アカの酒なんか飲めるか」と徳利を払いのけた。
 「なんとかメモなどと屁にもならんことを書きやがって、アカからいくらもらったのか」
 いやはや大変な大立ち回りがあったのでした。この警部補は少年の赤間被告を追い込んで「赤間自白」をとった男です。
 被告人たちの「共同謀議」が成立するためには午前11時15分松川発の列車に乗って福島に行かなければいけない。しかし、会社と労組の団交は正午ごろまで続いていて、最後に発言したのは佐藤被告。この経過を団交の場にいた会社側の人間(諏訪氏)が詳細にメモしていたのです。ということは、佐藤被告が午前11時15分発の列車にのることはありえない。つまり、「共同謀議」に参加できない。なのに有罪、しかも死刑を宣告された。そんな馬鹿な。
 この記者も「アカの手先」として警備部によって身元調査がなされていた。怖いですね。
 松川事件の被告弁護団には、地元の自民党有力者であり、県の公安委員会をつとめている袴田重司弁護士、そして田中耕太郎最高裁長官の実弟・田中吉備彦弁護士も加わっていた。まさしく超党派から成る弁護団だった。
 1959年8月10日、最高裁は原判決を破棄して差し戻す判決を言い渡した。
 宮本検事正は、諏訪メモを消滅させることは可能だった。でも、私にはできなかった。最高検から消滅せよという指示が来る前に世間に公表すれば、もはや消滅させられない。毎日新聞の記者が権力をはねのけて追及してくれることを信じて、諏訪メモの存在を認めたのだ、と語った。いやはや、どこの世界にも良心を大切にしたいと考えている人はいるものなんですね...。
 倉嶋記者と大学時代からの友人である石川元也弁護士(大阪)からいただきました。
(2022年2月刊。無料)

2022年9月29日

社会を変えてきた弁護士の挑戦


(霧山昴)
著者 新里 宏二 、 出版 民事法研究会

 旧知の著者が70歳となり、古希を迎えたのを記念した出版物。
 著者は2011年3月11日のときは仙台弁護士会の会長であり、4月からは日弁連副会長として震災対策に取り組んだ。
 私との関わりはサラ金問題です。自己破産申立が年に25万件にも達したが、そのサラ金被害を根絶するため、金利規制を徹底して、グレーゾーン金利を廃止する方向での貸金業制度の大改正を目ざし、ついにそれを実現した。宮城あおばの会というサラ金被害者の会と連携した著者の活躍は目ざましいものがありました。そして、それは日栄や商工ファンドという問題そして、ヤミ金とのたたかいにつながっていった。
また、集団クレジット被害が全国各地で大量発生したことにも取り組んでいます。これらの取り組みは、立法・法改正だけでなく、消費庁の設置など、消費者行政の根本的強化につながっていった。まことに著者の功績は偉大なものがあります。
ところで、この本は、「仲間とともに」として、「実務家弁護士の武器」が、「仮処分と仮差押え」であることに始まっています。保育所の日照被害を防止するために隣接するマンションの建設をしようとする業者に対して、5階以上の建築を禁止する仮処分を申請し、裁判所は保証金1200万円で認めたのでした。保育園の日照被害を理由とする建築禁止の仮処分としては日本で初めてだった81992年6月)。次は、手形取立禁止の仮処分申請。裁判所を説得して、仮処分決定を得た(1995年10月)。
すごいね、すごいぞと思って読みすすめ、最後あたりに著者が振り返った文章を読んで、なあんだ、そういうことだったのか、福岡と仙台はつながっているんだね、とついついうれしくなりました。著者は、「我が弁護士活動を俯瞰(ふかん)して」として、保全事件の重要性を強調していますが、そのくだりに次のような文章が登場するのです(319頁)。
「実は弁護士になりたての頃、青年法律家協会が出版した『そのとき弁護士は駆けつける』という手引書が大いに参考になった。具体的事件の事案の説明と申立書、決定書が添付されていた」
これこそ、わが青法協福岡支部の誇るベストセラーの手引書のことであり、不肖、私が編集責任者として、福岡県内の仮処分申請事例集を実務に即役立つものとして刊行もの。これは、売れに売れて、増刷を重ねたものです(1986年1月に発刊)。
著者は貧困問題の対策に取り組んだほか、優先保護法被害にも取り組み、貴重な成果をあげている。そして、著者は次のように提言しています。
被害者が裁判という手続のなかで声を上げることが社会を変える契機となる。
司法の法創造機能を弁護士も、当事者や裁判官とともに果たしていこう。それは弁護士の崇高な役割だ。弁護士会そして日弁連は、日本最大の人権擁護のNGO(非政府組織)だ。そして、人との出会いを大切にし、あきらめないこと、さらには、次の世代にバトンをつなぐこと。
著者について、どんな逆境にあっても、常に楽観的な姿勢を崩さず、とことん前向きなところを高く評価するコメントが次々にあり、それを読むと、なるほど、そうなんだよねと、ついついうれしくなります。これからも元気一杯にご活躍ください。
(2022年8月刊。税込3300円)

2022年9月18日

世界裁判放浪記


(霧山昴)
著者 原口 侑子 、 出版 コトニ社

 世界各地の裁判所を観光のかたわら見学した印象をつづった本です。
 著者は日本(東京)で弁護士をしていたのに、なぜか法律事務所を辞めて、世界各国放浪の旅に出かけたのです。その目的の一つが裁判傍聴。といっても、じっくり腰を落ち着けて司法制度を比較し研究するというのではなく、あくまで印象記のレベルにとどまっています。ところが、その印象記レベルでも、制度の違いが分かって面白いのです。
 たとえば、あっと驚くのはブラジルです。ブラジルでは裁判の公開のため、法廷がテレビとネットで中継される。しかも、裁判官室の評議まで中継されているとのこと。そして、弁護士が100万人もいて、裁判は1億件もあるらしく、裁判官は1人で9000件を担当し、月に300件の判決を書いているとのこと。たしかに、ブラジルでは裁判の遅延はかなり深刻だというレポートを読んだ覚えがあります。
 中国は四川省の成都では著者は裁判傍聴が認められなかった。20年以上も前に中国に行ったとき、家庭裁判所の離婚事件の裁判を傍聴することができました。司法部の事前許可があったからでしょうか...。
 法廷でメモをとるのが禁止されている国が、今もいくつかあります。ニュージーランドで禁止されたというのは少し意外でした。日本でもアメリカ人弁護士のレペタさんが裁判を起こして1989年3月に勝訴するまでは禁止されていました。傍聴人による録音は禁止という建て前ですが、音のしないスマホ時代なので、今は実質的にフリーになっていると思います。
 アフリカでは刑事事件で弁護人がつかないまま審理されることが多いようで、それが問題となっているとのこと。悪いことをした奴に、なんで税金をつかってまで国選弁護人をつけてやる必要があるんだ...という疑問は日本でもまだたまに出ますが、やはり世の中には法にのっとった適正な手続というのは絶対に必要なんです。
 著者の同期の弁護士が10年間に10件の無罪判決をとったとのこと。信じられません。私は弁護士生活50年近くで2件のみです。
 著者は10年間に世界124ヶ国をまわり、30ヶ国の裁判所に足を運んだとのこと。これまた、すごーい。
 著者は「新61期」、弁護士になったのは裁判員裁判が始まったころのこと。学生時代にもバックパッカーとして世界を歩いたことがあるようです。こうやって世界をさまよい歩くのから、そろそろ足を洗って、どこかに腰を落ち着けて、何かに取り組んでほしいものだと、他人事(ひとごと)ながら私は思いました。余計なお世話だと言われそうですが...。
(2022年7月刊。税込2420円)

2022年9月16日

冤罪をほどく


(霧山昴)
著者 中日新聞編集局 、 出版 風媒社

 最近、完全無罪が再審で確定した西山美香さんの事件について、その途中から追いかけた中日新聞の記者たちによる苦闘の日々が紹介されている、興味深い本です。
 「事件」が起きたのは、2003年5月。滋賀県の病院で入院患者が死亡した。この病院で看護助手をしていた西山さんが殺人容疑で逮捕され、懲役12年の有罪判決が確定した。患者が装着していた人工呼吸器のチューブを「外した」と「自白した」からだ。
 でも、西山さんは、刑務所の中から、「自分は殺していない」と訴える350通もの手紙を送った。
 記者たちは、次のように問いかける。
 ≪なぜ、冤罪に苦しむ人を救い出すことが、これほどまでに難攻不落なのか?≫
 その答えは...。警察・検察が象徴する組織の論理という悪天候のなせる業(ごう)だ。こんな抽象的に言われても良く分かりません。もっと具体的に言うと...。「犯人」とされた看護助手は刑事を好きになって、逮捕される前、何度も自分から警察署に出かけていってる。
 その刑事も、2ヶ月間に、拘置所にいる「犯人」の看護助手に14回も面会している。
 刑事は、取調室で、看護助手にハンバーガーやドーナツを手渡し、そのうえ、ジュースは毎日、差し入れた。いやあ、これは規律違反です。
 ところが、この刑事は、警察署内で出世を棒に振るどころか、警部補から警部に昇進し、さらにはある警察署の刑事課長にまでなっています。出世人事の典型です。
 西山さんは、38通もの供述調書のほか、56通もの手書きの自供書を書いている。
 そして、取調状況のビデオは完璧な自白ビデオになっている。
 その供述調書の一つには、患者が死んでいく表情をずっと見ていたとして、患者の表情が語られている。「口をハグハグさせた」とか...。裁判官は、これを読んで、「きわめて詳細かつ具体的である。とりわけ被害者の死に至る様子は、実際にその場にいた者しか語れない迫真性に富んでいる」と認定した。
 裁判官の事実認定って、こんなにもあてにならないものなんですよね...。呆れてしまいます。
 冤罪を解くうえで不可欠なものは、なにをさておいて、無実を信じてくれる人が存在すること。これは、きっとそうでしょう。
 再審で無罪を言い渡した大西直樹裁判長は、判決の言い渡しのとき、「被告人」ではなく、「西山さん」と呼びかけた。そして、「不当性を伴う捜査があった疑いが強い」、「事件性を認める証拠がない」、「自白の信用性には大きな疑義がある」とした。真っ白な無罪判決です。
 さらに、最後に、「家族や弁護人、獄友(ごくとも)と貴重な財産を手にした西山さん、もう嘘は必要ない。自分自身を大切にして生きていってほしい」と語りかけたとのこと。裁判官が自分の言葉で言ったことから、間違いなく西山さんの心に届きました。
 中日新聞って、本当いい記事を書いたのですね。すごいです。今でもこんなマスコミがいるのを知ると、ついつい、うれしくなりますよね...。
(2022年6月刊。税込1980円)

2022年9月15日

忘れられた日本憲法


(霧山昴)
著者 畑中 章宏 、 出版 亜紀書房

 明治22年に「大日本帝国憲法」が発布された。そのときまで、日本には国会がなく、集まって政治を議論する場はなかった。それで発布の前、多くの日本人がこんな憲法をつくってほしいと提案した。それらの提案は、「私擬憲法」と総称されている。私の知っているのは、「五日市憲法草案」。昭和43(1968)年8月に、東京都あきる野市の豪農・深澤家の土蔵から発見された。明治14(1881)年4月から6月ころ議論のうえ千葉卓三郎が起草したもの。 「日本国民は各自の権利自由を達すべし、ほかより妨害すべからず、かつ国法これを保護すべし」という条文があるほか、人権に関する規定が目立つのが大きな特徴。国民の基本的人権を念入りに保障しようとしている。このような「憲法」提案が、なんと90数種も確認されている。これって、すごいことですよね・・・。
 私擬憲法を作った民間人は、自由民権の運動家だけでなく、東北地方の藩校の寮長、越後縮(ちぢみ)を扱う地方の商人、鹿児島の民間人などがいた。
 日本敗戦後の日本国憲法の制定に至るなかでも学者による私擬憲法の提案はありましたが、敗戦によって打ちひしがれた多くの市井の人々は、とてもそんな余裕はなかったのでした。そのためGHQの押し付け憲法だとか口汚くののしる人々がいるのです・・・。
 米沢藩士だった宇加地新八は明治7(1874)年8月に憲法草案を建白した。ここでは、立憲君主制をとり、議会の仕組みも詳しく明記され、女性にも選挙権を認めている。
 鹿児島の「竹下彌平」は、明治8(1875)年3月、新聞への投書として憲法構想を展開した。これは、主権在民人権尊重の思想を主張し、「民会(国会)」を開くべきだとした。
 自由民権運動家として有名な植木枝盛の「東洋大日本国国憲案」は明治14(1881)年8月以降に起草したもの。ここでは革命権を主張している。
 足尾鉱毒事件でも有名な田中正造は、天皇にも憲法遵守義務があると主張した。越後の商人・田村寛一郎が提唱した「憲法案」には、驚くべきことに死刑廃止が明記されている。この田村は自分の子孫が皇后になるなど、想像もしなかっただろうとのこと。つまり、雅子皇后の父、小和田恆(ひさし)の親は小和田毅夫で、その妻・静の父親は、田村の養子だった。いやぁ、こんなに人脈はつながっていくものなんですね。
 それにしても、みんなが憲法の意義をもっと大切に認識してほしいものだと思います。
(2022年7月刊。税込1980円)

2022年9月13日

初心、「市民のための裁判官」として生きる


(霧山昴)
著者 森野 俊彦 、 出版 日本評論社

 福岡高裁で定年まで裁判長をつとめた元裁判官(23期。今は弁護士)が、その半生を振り返った、大変興味深い本です。
 本の表紙はドイツはハンブルグのアルスター湖の写真で飾られていますが、そのライトブルーの空は著者の心境をあらわすかのように澄みきって、すがすがしさに溢(あふ)れています。
 著者は一貫して裁判の現場にいて、所長にも支部長にもなったことがありません。支部にも若いころ尾道支部にいたのと堺支部にいただけです。そして、家裁に長くいました。最後の福岡高裁の裁判長も、あきらめていたところ、幸運にもなれたようです。
 私の印象に残る福岡高裁の裁判長といえば、西理(にし・おさむ)判事(今は弁護士)と著者の二人だけです。西さんの法廷はピリピリとした緊張感がありました。記録をよく読んでいるので、容赦ない釈明権の行使がありました。なので、裁判官評価アンケートでは絶賛する弁護士と酷評する弁護士と二分していました(全体としては高く評価されていました)。
 著者の法廷は、ほんわかムードのうちにも真の意味の口頭弁論がすすみましたので、裁判官が何を考えているのか、よく分かって、助かりました。定年退官のあと、弁護士会で控訴審における代理人の心得を講義してもらったという記憶があります。
 この本には、著者が実践した裁判官としての裏技(ウラワザ)が二つ紹介されています。その一は、「サイクル検証」です。私も現場が問題になっている案件ではカメラをかかえて一度は現場に行き、たくさんの角度から写真を撮ることにしています。やはり、他人の撮った写真だけでは実感のわかないことは多いものです。同じようなことを、著者は、裁判官として担当している事件の現場に自分の自転車で見に行っていたのです。
 裁判官には「不知を禁ず」という格言があり、裁判官が職務を離れて個人的に仕入れた情報を事実認定の基礎としてはならないことになっている。そこで、著者は、「たまたま」通りすがりに「現場」にぶちあたっただけだから、いいではないかと考えた。なーるほど、そんな弁明もありうるのですね...。
 自転車で行けないところには徒歩で行くようになったので、これは「サイクル検証」とは言えないから、「徒歩(とぼ)とぼ検証」と名づけたとのこと。著者はダジャレが大好きなのです。
 もう一つのウラワザは...。嫡出(ちゃくしゅつ)子3人と非嫡出子1人とのあいだの遺産分割調停事件で、最高裁が平成25年9月に違憲判断を示す前のことですが、嫡出子1.5対非嫡出子1の割合を和解案として示して、双方が受諾したとのこと。たしかに、ときに、こんな折衷案を裁判官に出してもらうと、歩み寄る可能性がぐぐっと高まります。要は、裁判官のやる気と積極性にかかっています。
 著者より3期若い私も弁護士生活50年が近くなりますが、やる気のない裁判官、実体的紛争の解決より形式論理ばかりを振りかざす裁判官があまりに多いのに、「絶望」に陥りそうになっています。たまにやる気があり、事件の適正な解決に努力する裁判官にあたると、ほっとして、救われた気持ちになりますが、それは残念ながら珍しい出会いでしかありません。
 最近の裁判官は全体としてモノトーンであり、自分の本質を見せたがらない、「正解志向」が強く、マニュアルや先例のない問題にぶつかったときの対応力が弱い。これは著者の印象ですが、同感します。
 最高裁の町田顕長官が「上ばかり見る『ヒラメ裁判官』はいらない」、「裁判官の神髄は自分の信念を貫くことにある」と言ったことに著者は驚いたとのことですが、裁判所内部のトップの目から見ても、由々しき実態にあるということだと思います。町田裁判官は青法協の熱心な会員でしたが、青法協が攻撃されたとき、いち早く脱会したことでも有名です。
 そして、私は、こんな「ヒラメ裁判官」を大量生産してきた・しているのは最高裁自身だということも、きちんと指摘しておく必要があると考えています。青法協加入を理由として司法修習生からの任官を拒否し、裁判所内部では裁判官会議を形骸化して、モノ言わないのを習性とする裁判官をつくってきたのは最高裁判所です。その一例が、著者を家裁漬けにし、また、定年間際まで裁判長にしなかったことにあります。
 先輩裁判官が上からいじめられ、任地や給料で差別されるのを見せつけられる後輩は、次第に独立独歩の気概を失い、ことなかれに陥ってしまうのは必然です。福岡県弁護士会の会報に裁判官評価アンケートの意義をふくめて、そこらあたりを詳しく論述していますので、本書とあわせて、ぜひ一度読んでみてください。著者から贈呈を受けましたので、さっそく2日かけて読了しました。今後ますますのご活躍を心より祈念します。
(2022年9月刊。税込2420円)

2022年9月 2日

検察審査会


(霧山昴)
著者 デイビッド・T・ジョンソン ・ 平山 真理 ・ 福来 寛 、 出版 岩波新書

 日本の検察審査会は世界でも類を見ない独特な機関である。GHQが提案した検察官公選制に対して日本政府が強く抵抗し、「半年のあいだ、もみにもんで文字どおりでっち上げてつくった」のが検察審査会だった。GHQは、日本側の強い反対にあって、アメリカ式の大陪審ではなく、この検察審査会制度に同意せざるをえなかった。
 この記述を読んで、GHQより当時の日本政府、つまり法務省側が強かったかのような評価には強い違和感がありました。いったい、どういうことでしょうか...。
 今では、アメリカの大陪審は、市民と政府の間の盾(たて)というよりも、検察官が刑事訴追を正当化するための道具となってしまった。アメリカでは検察官が大陪審のすべての手続をコントロールしている。大陪審の審理には、裁判官も弁護人も出席できない。大陪審は国の権力機関の一部と言われている。
 大陪審は国家の訴追権限を抑制するために設計されたもの。検察審査会は、より多くの刑事訴追を生み出すために設計された。ここに、もっとも基本的な違いがある。
 検察審査会は全国165ヶ所にある。地方裁判所と主な支部に設置されている。管内の選挙人名簿から無作為に選ばれた11人で構成され、任期は6ヶ月。半数が3ヶ月毎に入れ替わる。
 2000年代に入ってから、年間平均40件を審査しているが、これは、その前の12年間に比べると3分の1に減少している。
検察審査会は検察官の不起訴処分を審査し、その不起訴が相当なのか、起訴すべきだったのか(起訴相当)を判断し、意見を述べる。起訴を促すことを「検察バック」と呼び、検察は4分の1の割合で起訴に変更する。
 しかも、検察審査会は検察官の不起訴が不当であり、起訴すべきだと2回も判断したときには、強制的に起訴するよう改められた(2009年に施行)。ただし、その結果、過去に12年間で強制起訴されたのは、わずか10件であり、そのほとんどが無罪となった。しかしながら、無罪判決が出たからといって、検察審査会による起訴すべきだという判断が間違っていたことにはならない。
 検察審査会制度は、刑罰を決定するにあたって、市民の選択は、どのような役割を果たすべきなのかという問いかけでもある。なーるほど、そういうことでもあるのですね...。
 実は、私も検察審査会の審査補助員として登録しているのですが、残念なことにお呼びがかかりません。でも、東電トップの刑事責任を問う裁判は、結論として無罪にはなりましたが、民事裁判で13兆円の賠償が命じられた判決につながったと考えていますので、決してムダだったとは思えません。大変勉強になる本でした。
(2022年4月刊。税込946円)

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