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木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか

カテゴリー:社会

著者   増田 俊也  、 出版  新潮社 
 子どものころテレビでプロレス番組を見慣れていた私にとって、すごく衝撃を受けた本でした。
 なにしろ正義の味方、カッコいいヒーローと思っていた力道山が実はとんでもない悪者だったなんて・・・・。しかも、プロレス試合は真剣勝負なんていうものではなく、あらかじめ筋書きの決まったショー番組でしかなかったというのです。うへーっ、そ、そうなんですか・・・・。ちっとも知りませんでした。
 そして、力道山がプロレス試合で勝った木村政彦なる柔道家は実のところ日本柔道史上、最強の柔術家だったというのです。さらには、ブラジルに渡って、ブラジル人と死闘のあげく勝って現地の日系人の威信を高めたということでした。
 戦後の日本で、まったく私の知らない世界がそこにはありました。上下2段組で、700頁に近い大作ですが、丹念な取材で、迫力もあり、読みやすい本でした。といっても、私は、珍しく何日もかけて楽しみながら我を忘れて読みふけりました。みなさんも、アナザーワールドへどうぞ・・・・。
 柔道史上、最強は間違いなく木村政彦。戦前戦中そして戦後を通じて15年間、不敗のまま引退し、木村の前に木村なく、木村の後に木村なしと謳われた。
 いま、日本の柔道人口は激減して、20万人ほど。世界には2000万人とか3000万人。国際柔道連盟には200カ国が加盟している。
 木村政彦は、1日10時間をこえる驚異的な練習量を続けた、強さを希求する精神性だ。
講道館柔道の歴史で化物のように強い選手が4人いた。木村政彦、ヘーシンク、ルスカそして山下康裕。このなかで、もっとも強かったのは木村政彦だ。スピードと技がずば抜けている。誰がやっても相手にならない。
 試合は、木村相手に何分立っていられるのかのタイムを競うだけのものだった。とにかく技が速い。神技だ。全盛時代の木村先輩には誰もかなわない。ヘーシンクもルスカも
3分ともたなかっただろう。
ところが、この木村は30歳のとき(昭和23年)7段になってからは、昇段していない。昭和25年にプロ柔道家になったからだ。
 昭和29年12月22日、37歳の木村は、プロレス選手権試合で力道山の騙まし討ちにあって、不敗の柔道王が全国民の前で血を吐いてKOされた。木村は大恥をかかされた。
 私は当時6歳ですから、もちろんこのテレビ番組は見ていません。だって、我が家に当時、テレビはありませんでしたから。
 このころ、街頭ののテレビでプロレスが中継されるときには、道路が目もくらむほどの大観衆で埋まっていました。その状況が写真で示されています。
プロレスに勝敗はなく、あるのはリングという舞台の上の演技だけ。その舞台で力道山は台本を投げ捨て、台本どおりに演ずる木村を不意打ちで襲った。
 木村は、力道山の背信行為を許せないと思い、短刀を懐にもち力道山を刺し殺そうと付け狙った。しかし、木村は、その怒りを胸に抱えたまま、苦しみながら後半生を75歳まで生きた。その後半生は、まさに生き地獄だった。力道山のつかった有名な空手チョップに実は破壊力はない。手刀で打つように観客に見せ、当たる寸前に手首を返して手の平ないし手の甲で相手の胸を叩き、大きな音を立てる見せ技だ。
 力道山は、客の気持ちをとらえることに、非常に長けていた。
 力道山の身近にいた者は、みな、その人間性を否定する。人間として何一ついいところのない人だった。力道山に可愛がられていたジャイアント馬場はこう言う。
 レスラーになってからの力道山は、肉食魚のように権力者や金づるに食らいつき、あらゆる欲望を満たしていた。
 力道山は、戦争が終わる十両時代までは素直だった。しかし、終戦(日本敗戦)後、解放の日から力道山は内面で変わった。力道山の戦後は、先輩も師匠もなく、周囲の者を踏み台にして、自分の野心だけを満足させていった。
 空手チョップは力道山がうみ出したものではない。木村の方が先だった。
しかし、力道山は、東声会の町井久之(鄭建永)との強力な絆があったし、山口組の田岡一雄の援助も受けていた。大野伴睦、河野一郎、中川一郎、社会党の浅沼稲次郎も支援していた。右翼の大物・児玉誉士夫のバックもあった。
第二次世界大戦が終わるまで、柔道は講道館の他に二つあった。武徳会は古流柔術各流派の大家が集まり、反講道館で結束していた。
もうひとつは、高専柔道。高とは戦前の旧制高校、専は同じく旧制の専門学校をさす。
したがって、現在の高専とは違う。現在の柔道の寝技技術は、そのほとんどが高専柔道で開発され、後に武徳会や講道館の体力がある柔道家たちが真似して吸収し、現在に至っている。
木村政彦は、1917年(大正6年)に熊本市川尻に生まれた。
全盛期の木村の裸は写真でみて分かるようにゴリラそっくり。肩や胸の筋肉は大きく太く、腰が細く引き締まっている。右肩幅は、左肩よりかなり長い。
 腕立て伏せ1000回を日課としていた。握力を測ろうとすると握力計は壊れた。握力は
200キロをこえていた。
木村は、だます柔道からの脱却に必要なものを考えた。達した結論は、強く柔らかい腰だった。強い腰があれば相手のパワーに崩されない。柔らかな腰があれば、相手の思わぬ動きにバランスを崩されない。
 木村は、乱取りだけで90時間やった。睡眠時間は3時間。戦前の全盛時代の木村は、勝つのに2分を要したことがない。
攻撃だけが木村柔道ではない。木村は勝負にこだわった。勝ちに対する執念があった。
 試合前の調整法は細かい。試合の3日前に爪を切る。短すぎるとそこから力が逃げる。爪に及ぼす力といえどムダにはできない。そして入浴しない。湯冷めして体調を崩す恐れがあるし、体から脂肪分が抜け、筋肉がほぐれすぎて気怠くなるからだ。
木村は戦前の天覧試合で優勝し、戦後はアメリカ軍の将兵に柔道を教えた。
木村は拓大で柔道を教えるようになった。そして、1993年4月18日に亡くなった。
 すごい本です。資料収集を始めて、連載が終わるまで18年。4年間にわたっての長期連載が一冊の部厚い本になったのでした。
 少しでも柔道とプロレスに関心のある人には強く一読をおすすめします。感動の大作です。人間って、ここまで自分を鍛えられるのですね・・・・。
(2012年1月刊。2600円+税)

ナチを欺いた死体

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   ベン・マッキンタイアー 、 出版   中央公論新社
 ヒトラードイツの目を欺いたイギリスのスパイ大作戦を紹介した面白い本です。
 ナチス・ドイツの諜報部(カナリス提督が率いていました)には、反ヒトラーの立場に立って、連合軍を実際以上に大きく見せかけ、早くナチス・ドイツ軍が負けるように仕組んでいた上級将校たちがいたことも知りました。
 ですから、イギリスの奇抜なスパイ大作戦が成功したのは、ドイツ軍内部が決して一枚岩ではなかったことにもよるものでした。そして、そのような反ヒトラー諜報将校はヒトラー暗殺のワルキューレ作戦が失敗すると、残虐に処刑されたのです。
 ここで紹介されるスパイ大作戦は、イギリス軍の機密情報をもった将校の死体がスペインの海岸に漂着し、その死体にあった重大な情報がナチス・ドイツの手に渡って、ヒトラーを欺くというものです。
 死んだ将校に扮する死体を確保するのがまず最初の難関です。そして、それをどうやってスペインの海岸に漂着させるか。死体をイギリス海軍の将校の遺体と誤認させるための工夫には涙ぐましいものがありました。ロンドンのバーの領収書まで偽造しなければなりません。そして、遺体を解剖されたとき、死因や死亡日時と漂着の原因とに矛盾をきたさないようにするのも大変でした。ごまかすのも簡単なことではないことを思い知りました。
 死体が身につけていた「機密」情報にしても、ナチス・ドイツが本物と信じるほどにもっともらしいものでなくてはならない。わざとらしくなく、そして、自然に信用してもらえる内容にする点で、何回となく書き変えられた。
 なーるほど、文面は慎重さが求められることでしょうね。
 スパイ・マスターの大変さも紹介されています。
 ナチス・ドイツへ報告を送る二重スパイのなかには、まったく架空の存在であるものが増えていった。実在するスパイより、架空のスパイのほうが扱いやすい。しかし、架空の人物を動かすためには、細かい点まで矛盾の内容に注意しなければならない点が難しい。
アレクシス・フォン・レンネ男爵は、表向きはナチの有能な情報将校だった。宣誓を忠実に守り、ヒトラーお気に入りの情報分析官だった。しかし、フォン・レンネは、ナチズムに対して密かに強い反感を持っており、一種の二重生活を送っていた。ヒトラーと、その粗野で冷酷な取り巻きたちを彼は嫌悪していた。
 キリスト教徒としての良心から、親衛隊がポーランドでふるった、目も覆いたくなるほどのテロ行為に激怒していた。人知れず、信念をもってナチ体制に反旗を翻した。フォン・レンネは、情報の達人という評価を受けながらも、1943年には、間違いだと分かっている情報をわざとヒトラーのデスクへ直接に送り続けていた。
 このスパイ大作戦は連合軍の上陸作戦の目的地はイタリアのシシリー島ではなく、ギリシャだという嘘の情報を流してナチス・ドイツに信じ込ませて、その不意をつこうというものでした。そして、ヒトラーは、まんまとそれを信じたのです。
 スパイ大作戦の背景にある真相を知ることのできる興味深い本でした。
(2011年10月刊。2500円+税)

伊予小松藩会所日記

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  増川 宏一 、  北村六合光  、  出版   集英社新書   
 日本人の日記好きは昔からのことです。なんでも文字にして残したがる習性は、私にもしっかり受け継がれています。私は今年2冊目の本を編集して発刊しようとしています。写真もふんだんに盛り込んで、読んで楽しい冊子を目ざしています。
 この本は、なんと150年間もの長きにわたって書きつづられてきた藩の公用日誌を読み解いたものです。その苦労のほどがしのばれます。
 舞台は、愛媛県の小松町。藩の人口は1万人。武士はわずか数十人しかいない、ごくごく小さな伊予小松藩の公用日誌です。
 小松藩の家臣のうち武士は60人、足軽は40人。士分として扱われたのは幕末時に  130人。これに足軽や小者をふくめても200人ほど。これが家臣団とされていた。
 家老は1人だけ。喜多川家が家老を世襲した。家老の禄高は400石。藩政は、家老と数人の奉行の合議制によっていた。家老が公用の政務をつづった記録を「会所日記」という。この会所日記は150年間にわたって書きつづけられたが、小藩なので、領内の隅々にまで目が行き届いている。そこで領民の生活の実情を知ることができる。
 小松藩は、大きな商人からだけでなく、公家や近在の百姓からもお金やお米を借りていた。
領民のぜいたくを禁止する倹約令は次のような内容だった。
 ひさし付きの家や瓦葺の屋根を禁止する。
 お寺で三味線や琴で高声をあげ、にぎやかに振る舞うことを差し止める。
 衣類や髪かざりが華美になっている。象牙のかんざし、絹の帯をしめているのは倹約令にそむく。
下級武士については、武家以外の農民や承認との縁組を認めていた。これは、減俸への有効な対応でもあった。
 幕府は各藩に対して藩札の発行を禁止していた。それは、通貨の混乱を防ぐための措置である。しかし、小松藩は、幕府の公許をえないまま、非合法の藩札発行にふみ切った。ただ、藩札には藩の名前は入れなかった。名前も藩札ではなく、「銭預り札(ぜにあずかりふだ)」とした。しかし、印刷と発行には、藩が全面的に取り組んだ。
この銭預り札を発行して、藩の権威で強制的に流通させることによって、藩は領内で通用している銀を吸い上げることができた。そして、銀は、江戸屋敷の費用や大阪での支払いに充てることができた。つまり、消費にまわされた。
藩札発行にふみ切った慢性的な財政危機の一因は、参勤交代の旅費と江戸屋敷の維持費だった。藩の年貢収入の半分はこのために支出された。
小松藩の参勤交代時の行列は総勢110人。随員としての藩士は30人ほど。それでもこれは、全藩士の半分に近い。
小松領内で殺人や傷害、強盗のような凶悪で粗暴な犯罪は起きていなかった。ほとんど、空き巣狙いのような窃盗犯である。平和な藩だったようです。
江戸時代の人々の生活が実感として伝わってくる本でした。
(2011年10月刊。2800円+税)

昔のくらし

カテゴリー:社会

ポプラディア情報館 ポプラ社 2005年3月
このシリーズは、本来は、小中学生の調べ学習に必要な情報を収録したテーマ別の学習資料集であり、本書のほかにも、「日本の歴史人物」「アジア・太平洋戦争」「伝統工芸」など合計15冊からなる。しかし、このシリーズは、大人が読んでもおもしろいので、私は図書館でよく借りてくる。
本書のテーマは「昔のくらし」であり、冒頭にはこう書いてある。「明治時代からあとの人びとのくらしをくわしく紹介。電気やガスがないくらしはどんなだったか、戦争中・戦後すぐはどうだたかが、豊富な写真とイラストでよくわかります。」
なるほど、本文を読み進むと、あるある、昔のくらしが。朝は、すずしいうちに大工仕事をして、昼は暑いので家に帰って行水と昼寝で一服し、陽射しが弱まる夕方にまた大工仕事をして、夜になると縁側で将棋を指しながら夕涼み、最後に蚊取り線香をたきながら蚊帳の中で眠る。
さらに、読み進むと、あるある、昔の台所が。お櫃に入れたお米をお釜に移し、水ガメのお水を加えて、釜戸で蒸す。「はじめチョロチョロ、中パッパ、ぐつぐついったら火をひいて、赤子が泣いてもふた取るな」というのだそうな。おかずはアジの煮つけ、きんぴらごぼう、アサリの味噌汁の1汁2菜を箱膳で召する。
このような明治から高度成長経済時代の入る手前の昭和40年ごろまでの日本の庶民の暮らしが本書の中によみがえる。そして想うことは、昔の人と今の人とどちらが幸せかということである。本書に郷愁を感じるのは、私自身が今の時代に大きな不満や不安を感じていることの反映なのであろう。社会が高度化し複雑化する中で、何やら不正な出来事が横行し、その不正な出来事が、もはや社会システムの一員として立派に市民権を得ているようだ。昨今のニュースはこのような出来事ばかりを伝えている。現代社会は本当に息苦しい。
また春がめぐり来て、花芽が目を覚ます。裁判所の裏口の鴻臚館に通じる遊歩道に早咲きの桜の枝があり、この辺りでは一番乗りで花を開く。このような変わらぬものに接するとほっとする。この桜も変わりゆく人々の姿を変わらぬ視線で眺めていたのであろう。人々の暮らしはこの先、10年後、20年後、どうなるのであろうか。

原発危機と東大話法

カテゴリー:社会

著者   安富 歩 、 出版   明石書店
 3.11のあと、原子炉の数十キロ範囲内にいる人々が、大量の放射性物質が降り注いだことが明らかになったあとでも、平然と日常生活を続けていた。これは、テレビに出てくる東大などの学者が、「今すぐには健康に影響はありません」と言い続けていたことと決して無関係ではありません。人は(もちろん私もそうですが)、自分を安心させたいのです。安らかな気持ちで毎日を平穏無事に過ごしたいという根源的欲求をもっています。ですから、多少の放射能物質を浴びても、「すぐには健康への悪影響はない」と学者がもっともらしく言うと、それを根拠に自分を無理にでも納得させてしまいがちです。
 この本は、非科学的なことを、あたかも科学的な根拠のあることのように自信たっぷりに断言する東大教授を、同じ東大教授がバッサリ小気味いいほど切り捨てる本です。
 現実の東大は、非常に見苦しいところだ。どんよりした重苦しい空気が漂っていて、多くの人が自分でもよく分からない理由で苦しんでいる。本当は苦しいのに「東大にいる以上は、幸福なはずだ」と思い込むことによって、さらに苦しんでいる。この東大関係者を呪縛している鉄鎖の正体こそ、東大話法なのだ。
 では、東大話法とは、一体何なのか・・・?
 原子力発電所は、連続して1年以上も発電し続けられるほどのエネルギー源が小さな原子炉に詰まっている。だから、いったん暴走しはじめると止まらない。放っておいても止まらないうえ、止めようと思って近づくと、放射線を浴びる。止めるためには近づかないといけないのに、近づくことができない。
 枝野官房長官は、原子炉建屋が爆発していたのに、爆発とは言わず、「何らかの爆発的事象があった」と言ってごまかした。
 東大の関村教授は、格納容器が破れているのに、「格納容器の安全性は保たれている」とテレビで言い続けた。
原子炉の危険性をストレートに表現せず、言い換えていると、それを聞かされる国民だけでなく、自分自身をも騙していることになる。そうなると、自分がやっていることが、正しいのか、間違っているのかさえ分からなくなる。
 まわりの人がみんな、正しい、と言っているようだから、正しいのだろうという、きわめて無責任な判断停止が広がっていく。
 東大話法とは、どんなにいい加減でも、つじつまの合わないことでも、自信満々に話すことである。原子力発電(原発)の利用拡大をすすめていたのは、決して「世界」ではない。愚かで強欲な政治家、官僚、電力会社と原子力の御用学者、技術者が一致して推進したものである。
 「原子力村」が原発政策を支え、推進してきた有力な集団であったことが、今ではすっかり明らかになっています。東大出身学者でも御用学者と決して呼ばれない人がいたし、今もいることを知っています。ただ、そんな人がだんだん希少価値になりつつあると知ると、焦燥感を感じてしまいます。
(2012年2月刊。1600円+税)

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