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人間・昭和天皇(下)

カテゴリー:日本史

著者  髙橋  紘  、 出版   講談社
 下巻は戦中・戦後の昭和天皇の歩みをたどります。
 戦中、国民が疎開するより早く、皇族は安全な地へ疎開しはじめていたことを、この本を読んで初めて知りました。
日米開戦前の1941年(昭和6年)7月ころから皇族の避難先を選定しはじめた。そして、学習院の疎開は1944年、一般人より2ヶ月も早い5月に始まった。
 昭和天皇は、あらゆる意味で孤独だった。陸士(陸軍士官学校)でも海兵(海軍兵学校)でも学んだことはなく、兵営生活も軍艦に乗り組んだこともない。自分のまわりに上司も部下をもつこともなかった。
 両親から早くに離されて大きくなり、心を許して語りあう友もいない。生涯、身のまわりには自分より下の位の人ばかりだ。
 昭和天皇は、終戦時に45歳そして皇后43歳、皇太子は13歳だった。天皇は働き盛りだった。昭和天皇は、酒をたしなまなかった。お酒の練習もしたが、やはり合わなかった。
戦後、アメリカは占領コストを考えて昭和天皇を利用することにした。昭和天皇の命令によって700万余の兵士は武器を捨て、軍隊は解散した。そのおかげで数十万のアメリカ兵が死傷することがなかった。
 1946年の日本占領費用は6億ドルかかったが、1945年に40万人をこえた連合軍兵士が1946年には20万人と減らすことができた。
1946年元旦の人間宣言はアメリカ軍(CIE)が発想し、原文を書いたものだった。昭和天皇の国内巡幸もCIEの作戦だったが、大成功をおさめた。
 戦後、昭和天皇の退位論が出た。裕仁という天皇個人はどうでもよく、皇統を維持して国体を護っていくことが宮廷派の基本的な考えだった。しかし、昭和天皇が退位することは、反共の砦としたいアメリカやマッカーサーの構想をつぶすことになり、戦略的に天皇を守ってきた意味がなくなってしまう。
 中曽根康弘は天皇退位論を唱えた。昭和天皇は戦争責任について、何の表明もせずに生涯を終えた。それで、いつまでも責任が問われ、「永久の禍根」となった。
 昭和天皇の人間としての生々しい実際を知ることのできる本です。
(2012年2月刊。2800円+税)

いま開国の時、ニッポンの教育

カテゴリー:社会

著者  尾木 直樹 ・ リヒテルズ直子、 出版  ほんの木
 2008年11月の対談が本になっています。オランダの教育の日本は学ぶところが大きいと感じました。
 日本の教育で一番問題なのは、政治がダイレクトに教育に口を出してくること。まことにそのとおりです。石原慎太郎にはじまり、今では橋下徹。どちらも、大量得票をバックとして偉そうなことを言って教育統制に乗り出しています。
 7・5・3現象といわれるものがある。小学生は7割しか学校の勉強についていけない。中学生は5割、高校生になると3割しか習う内容を理解していない。
 国はビジョンだけで示せばよくて、あとの実践は現場の創意工夫に任せるべきだ。
日本社会の全体が子どもの成長や発達について考えられないばかりか、若者を排除する社会的な虐待をしている。子どもは黙ってついてこい、従えという考え方がある。
 日本社会全体に、大人もふくめて他の人を「肯定」しようという態度が薄い。他者を肯定するつもりがなくて、自己肯定なんてありえない。幸福感が低いうえ、自立心も育てられないので、自分の感情を言葉で表現できない子どもが多い。
 今のヨーロッパの教育は、人間性の総合的な発達、多面的な能力のバランスのとれた発達を重視する方向に動いている。オランダでは、学校は、子どもたちが「学ぶことを学ぶ」ところだと考えられている。
 学力一本で測るのではなく、個の中の多様性をいかに引き出し伸ばすのかが重要。
 日本では学校の役割が、学力だけでラベリングし、格差をより差別化するための「選別工場」の役割を果たしている。
 今の日本では、校長の権限をいかに強化するかという管理強化だけに意識が向いている。命令に素直に従うように長年にわたって徐々に教育委員会が「仕立て上げた人材」である。民主主義を教えるはずの学校が、この自由主義社会において、今や完全に全体主義に陥ってしまっている。
 日本をダメにした、教育を破壊したのは日教組だと、見事に世論を操作してきた。叩くべき敵をつくって、一気に全体主義的な教育支配を貫徹しようとしてきた。
 今や教師は、がんじがらめ。生きのびさえすればと、教師は卑屈になっている。評価される項目ばかりに目が向き、子どもの方に目が向かない。あまりに締めつけているから、優秀な人材が教員になりたがらなくなっている。
 日本の教育をオランダとの比較で考え直してみる格好の材料となる本です。
(2009年5月刊。1600円+税)

FBI秘録

カテゴリー:アメリカ

著者   ロナルド・ケスラー 、 出版   原書房
 アメリカのFBIがどんな違法な活動をしているのか、興味があります。
司法公認の極秘侵入であり、住宅やオフィス、自動車、ヨット、飛行機そして大使館などに隠しマイクやビデオカメラを設置し、コンピュータや机の中を覗きまわった。
 極秘侵入の回数は年間400件にものぼる。その80%は、テロ事件や対敵諜報活動にかかわる国家安全保障問題が対象である。残りは、組織犯罪や知的犯罪、政治家の汚職事件などが対象になっている。
 嘱託を含めると1000人もの職員をかかえる作戦技術課には工学研究施設が含まれる。そこではFBI特注の盗聴装置や追跡装置、センサー、そして犯罪者を監視し、行動を記録できる監視カメラなどが作られている。
 FBIの捜査官1万4千人ほどのうち、20%が女性だ。捜査官は4つのグループに分けられる。現場をくまなく調査してコントロールする調査グループ。錠前を破り、金庫や郵便物を開けるメカニックグループ。コンピュータや携帯電話の取り扱いが専門のエレクトロニクスグループ。そして、開封と封印(フラップ・アンド・シール)グループである。このグループは、現場の回復も担当し、捜査官が侵入した痕跡を一切残さないよう気を配る。一回の作戦に100人以上の捜査官が関わることがある。
 極秘侵入では、捜査官の一人は、すべてが元通りになっていることを確認する責任を負う。現場に何ひとつ置き忘れてこないように、作戦中に使用する器具には、すべて番号と目印が付けられ、使用した捜査官を特定できるようになっている。
 隠しマイクや隠しカメラを設置するとき、人間の髪の毛ほど細さの光ファイバーで、音声や画像を送信することがある。そのため、盗聴器解除の専門家にも、電子の放出を検知されることはない。
 FBI長官をながくつとめたフーヴァーは、マフィアに目をつぶった。組織犯罪は、合衆国に対する唯一最大の犯罪的脅威であるという周知の事実をフーヴァーは否定し続けた。フーヴァーは、マフィアの構成員は地方のチンピラに過ぎず、全国犯罪組織には関与していないと主張した。
 きっとフーヴァーとマフィアはくされ縁があったのでしょうね。
 フーヴァーはトールソン副長官と切り離すことのできない仲だった。毎日、昼食をともにし、夕食もほとんど一緒にとった。いずれも独身を通した。これって要するに、二人ともゲイだったということですよね。先日のアメリカ映画も、そのことを強く示唆していました。
 フーヴァーとトールソンは、広い意味で夫婦同然の関係にあった。
 ところが、フーヴァーは、表向きでは、ゲイを口汚くののしっていたようです。それも自分の「弱点」を隠すためだったのでしょうね。
 ウォーターゲート事件について内部告発した「ディープ・スロート」が誰であるか、今では明らかになっています。フーヴァーの下にいたフェルト副長官でした。2005年にフェルト自身がディープ・スロートであることを告白したのです。
 映画『アメリカを売った男』の主人公であるFBI捜査官ロバート・ハンセンは、ロシアのスパイとして21年以上にわたって、ソ連そしてロシアに機密情報を売り渡していた。始まりは1979年のこと。ところで、このハンセンは、教会のオプス・デイという強硬な反共主義を唱える保守的団体に属していた。さらに、ハンセンはワシントンのスリップクラブで働く女性と親密な関係にあり、彼女にベンツや宝石を買い与え、香港に同伴していた。
あらゆる人間を蔑視していたハンセンは、とりわけFBIの女性職員を蔑視していた。ハンセンは、金銭的報酬以上に、FBIへの意識返しや、インテリジェンス・コミュニティーを出し抜くスリルや、支配権を手にした感覚を楽しんだ。ハンセンは2001年7月に保釈なしの終身刑を言い渡され、今もアメリカの刑務所にいる。
 ハンセンの妻は、今もなお妻であり、1980年ころから妻がソ連と取引していたのを知っていた。
 FBI捜査官について当局の承認を得て書かれた本です。その制約はありながら、よく実情が紹介されていると感心しながら読みすすめました。
(2012年3月刊。2200円+税)

ナチ戦争犯罪人を追え

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   ガイ・ウォルターズ 、 出版   白水社
 ナチの残党の逃亡を助けるオデッサと呼ばれる組織(オデッサファイル)があり、南米に逃亡して大農場で豊かに暮らしているところを、ジーモン・ヴィーゼンタールのようなナチ・ハンターによって追跡されて摘発・逮捕された。これが私の理解でした。ところが、それがほとんど嘘っぱちだったというのです。
 オデッサなる組織はなく、南米でナチの残党が暮らしていたのを摘発したのはジーモン・ヴィーゼンタールではなかったのでした。では、いったい、誰がどうやってナチ残党の逃亡を助け、そして摘発したというのか。その点を徹底解明した500頁もの大作です。スリル小説を読んでいるような迫力さえある本でした。
ジーモン・ヴィーゼンタールはとても長いあいだ世俗の聖人扱いされてきたが、アイヒマン狩りでの自分の役割を捏造したし、それだけでなく、いくつものエピソードをでっちあげた。
 本書で、著者は、ヴィーゼンタールは嘘つき、しかもひどい嘘つきであって、その名声は砂の上に築かれていると断言しています。
ノーベル平和賞の候補者に4回もなり、フランスのレジオン・ドヌール勲章を授けられているヴィーゼンタールは、1100人もの元ナチを捕らえた。なによりアイヒマンの所在を突きとめた「功績」で有名だ。それが、みんな嘘だったなんて・・・?!
 ヴィーゼンタールが具体的に書いているとき、そのほとんどが嘘をついている。うひゃあ、ここまで断言されるとは・・・。こたえますね。
 煙に包まれているナチ逃亡援助機関は、実際には校友会組織に似ている。煙の下に一つの大きな火があったわけではなく、多くの小さな火があったのだ。
 オデッサについてのヴィーゼンタールの情報源は、疑わしい信頼できない男のものでしかない。オデッサは、作家フレデリック・フォーサイスの作った完全なフィックションだった。
 アイヒマンは、ハンブルグ近くで森林管理人として働いていた。そして、かつてアイヒマンが迫害していた者たちが彼を助けた。オーストリアへ逃げ、ジェノヴァに出て、そこで赤十字の旅券を受けとった。
 そして、ヨーゼフ・メンゲレも1949年8月に、南米のブエノスアイレスに到着した。
 アイヒマンも同じブエノスアイレスの近くに住み、ドイツから家族を呼び寄せた。ブエノスアイレスのドイツ風レストランで二人は会ったことがある。しかし、メンゲレは洗練されていて、アイヒマンは中産階級の下と目されていた。
 そして、1960年5月11日、アイヒマンは捕まった。イスラエルから派遣されてきた男たちによって・・・。ヴィーゼンタールは、アイヒマンの居所を突きとめるのに関わってはいない。厚顔無恥に自分の手柄にしたというだけのこと。
 では、誰がアインヒマンの存在を明るみに出したのか・・・?
ここで答えを書くと、アインヒマンの息子が交際していた女性がユダヤ人であって、彼の名前がアインヒマンだということを知って、遠くドイツの検察官に手紙を書いたということです。
 悪いことをしたら、いつかはそれが明るみに出るものだということですね。
(2012年3月刊。3800円+税)

最高裁回想録

カテゴリー:司法

著者   藤田 宙靖 、 出版   有斐閣
 学者出身の最高裁判事は、何を見、何を聞き、何を考えたか、と本のオビに書かれています。著者の最高裁判事としての在任期間は2002年(H14)9月から2010年(H22)4月までです。
 最高裁判事に学者からなるのは、要するに、一本釣りのようです。ある日突然、最高裁の人事局長から電話があったのでした。弁護士の場合には、弁護士会の推薦手続が必要です。最高裁判事になるのは65歳ころが多いように思います。
最高裁判事の宿舎は塀の上に有刺鉄線と警報機を巡らせ、庭の各所を照らす照明器具に囲まれた物々しい要塞。専用車で、この宿舎と最高裁のあいだを送り迎えされる。これはほとんど「囚われ人」の日常生活である。最高裁判事は朝8時半に宿舎に専用車の迎えが来て、9時過ぎに最高裁に到着する。昼は昼食が裁判官室に運ばれてくる。途中3時にお金をのみ、あとは5時まで記録よみ。自宅に5時半には帰着する。トイレは裁判官室内に専用のものがあり、外に出る必要はない。そこで、一日に500歩しか歩かない日もある。そこで、著者は毎朝4時半すぎに起床して45分間ほど周辺を歩いた。
 最高裁の裁判官会議は、原則として毎週水曜日の朝10時半から開かれる。裁判官会議に出席して何よりも驚いたのは、その時間の短いこと。毎回せいぜい30分から1時間。なかには、会誌の定刻前に終わったこともあった。
これって、まさしく最高裁が事務総局によって牛耳られていることを意味しています。そして、著者は、それでよしと合理化しています。いちいち検討するのは時間的にも能力的にもできるわけがないというのです。まあ、実際はそうなんでしょうが、本当にそれでいいのでしょうか、疑問です。
2週間に1回、15人の裁判官のみで昼食をとるということもある。同じ小法廷の裁判官同士のあいだでも、審議の際を覗けば、日常的に顔を合わせることはほとんどない。
 最高裁の内部構造ははなはだ複雑を極めていて裁判官室から小法廷にたどり着くのも容易ではない。
最高裁に係属する事件の95%、つまりほとんどは、持ち回り審議案件で占めている。残り5%が重要案件として、評議室における審議の対象となる。
 最高裁に来る事件は毎年6000件。これに特別抗告などの雑件をふくめると9000件にもなる。小法廷への配点は機械的になされる。
 最高裁では、判決を言い渡しするとき、主文のみということであった。しかし、これは刑事規則の明文に反するという指摘もあり、判決理由の要旨も読みあげるようになった。理由を読みあげなかったのは、法廷の適正な秩序の維持という目的によるものであった。
 裁判官と調査官の共同作業によって裁判したというのが実感。
 最高裁判事を7年半つとめて、つくづく思うことは、裁判、とりわけ最高裁の判決というのは、しょせん常識の産物だということ。学者は分からないことは分からないと言ってはいけないが、裁判官は、本当には分からなくても、ともかく決めなければならず、判断を先送りすることができない。
最高裁の多数意見というのは、その性質上、常に、ある程度の妥協の産物であることを避けられない。今日、最高裁は、むしろ最高裁の意向を意識するあまりに下級審の裁判官が萎縮してしまうことのないよう意を払っている。
 ある年齢以降、「出世」を逃げていくものと、地家裁や支部を転々とするもののグループに分かれていき、後者から前者へ移行するのは困難だという現象もたしかにあるような気がする。これは組織体のなかでの協調性と、リーダーシップの有無についての所属庁における評価いかんではないかと思われる。器用な人間はトクをするし、不器用な人間はやはり損をする。しかし、これは、裁判所に限らず、組織一般に見られる現象である。
最高裁判事の日常生活や評議の様子がちらりとうかがえる本でした。
(2012年4月刊。3800円+税)

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