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ワルシャワ・ゲットー日記

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ハイム・A・カプラン 、 出版  風行社
ナチス・ドイツ軍が1939年9月、ポーランドに侵攻し、ワルシャワにゲットーをつくって大勢のユダヤ人を狭い地域に押し込めました。そのなかに生きていた教師がつけていた3年間(1942年8月)の日記が紹介された本です。
 著者は、強制収容所で亡くなっていますが、この日記は奇跡的に他人の手に渡って保存されたのでした。その後、ゲットー蜂起があり、またワルシャワ蜂起もあるわけですが狭いゲットーに押し込められ、ナチスから残虐な仕打ちを受けている日々の様子が刻明に紹介されています。
 全能の神よ、あなたは、ポーランド、ユダヤ民族の末裔を死滅させようとされているのですか?
 この問いに神は、どう答えたのでしょうか。私には、とうてい理解できません。
 純朴な老婆が毎日私に尋ねる。「どうして世界は黙しているのか。もうイスラエルに神はいないのか」
 ユダヤ人の逮捕が止むことなく続く。いつ自分の番が来るのか、誰にも分からない。そのため、誰の心の中も恐怖でいっぱいだ。
 逮捕されるのは、とりわけ知識人であるが、必ずしも有名人とは限らない。むしろ、誰であれ歓迎される。監獄の檻は、罪もなく捕まえられた若い弁護士や医師であふれている。
 ナチズムは、二つの顔をもっている。彼らは、誰かから利益を引き出すことが必要なときには、従順さを装い、偽善的に振る舞う。しかし、その一方で、人間性を踏みにじる強靱な残忍さを持ち、もっとも基本的な人間的感情に対して無情に徹することができる。
 従服者どもがポーランドのユダヤ人の本性と強靱さを見誤ったのは幸運だった。彼らのこの間違いが、我々を今日まで生き延びさせてきた。我々は論理的に考えれば、すでに死に絶え、自然の法則によれば完全に絶滅しているはずだった。
 我々の間から自殺者がほとんどでないというのは、とりわけ注目に値する。誰が何と言おうと、恐ろしい惨禍の中で生き続けようとする、この生への意志は、何かは分からないが、ある隠された力の発露であろう。これは、驚くべき無情の力であり、我々ユダヤ民族のなかでも、もっともよく組織された共同体だけに恵みを与えられたものである。
 我々は裸のまま取り残された。しかし、この秘密の力がある限り、我々は希望を捨てない。この強靱な力は、ポーランドのユダヤ人に固有のものであり、生きることを命じる永遠の伝統に根ざしている。
50万人もの大集団が狭い地域に押し込められ、詰め込まれた。
 かつての平和な時代には、ポテトは貧乏人の食べ物だった。今はどうか。地下室にポテトを貯め込んでいる者は、誰もがうらやむ幸福者なのである。ゲットーには、この食べ物のほかになにもない。
ゲットーの境界を越えて密輸は日に日に増加する。これは、ユダヤ人とアーリア人の双方にとって、何千人もの人々の職業になった。そして、両者は協力関係を結び、アーリア人地区からユダヤ人のゲットーへと食料を密輸する。ナチスでさえも、これに関与することがある。総統の兵士は、主人の言葉には従わず、金銭を懐に収めて、見て見ぬふりをする。
密輸は、壁にできたあらゆる穴や裂け目を使って行われる。あるいは境界線上の建物の地下にトンネルを掘って・・・。アーリア人専用の市街電車に乗務する車掌は、密輸品がいっぱい詰めこまれた袋を車両の中に隠しもって稼ぐ。
 ユダヤ人の子弟は、ナチの目を盗みながら学んでいる。奥まった部屋にテーブルを置き、子どもたちはその周りに座って学んでいる。
我々は生き延びられるだろうか。あらゆる者の心を占めているのは、このことである。そして、信仰深き者の答えは、決まって「神のみぞ知る」である。このような時代には、信じることに優る救済の道はない。
奇妙なことに、病弱な者は健康を回復し、頑健な者は病気に倒れ、死んでいく。とりわけ天が味方するのは女性である。連れ合いがなくなった後も彼女らは生き延びる。
 この日記は、私の命であり、友人、盟友である。この日記がなければ、私は死んだも同然だ。私は、その中にもっとも心の奥底にある思いと感情を注ぎ込み、日記は私に慰めを与えてくれる。この日記を書き続けることで、精神的安らぎが得られる。
 ゲットーの中には、遊興の施設があり、毎晩、入りきれないほどの賑わいである。
 豪華なカフェに入り込んだ者は、驚きのあまり息を呑むことだろう。ぜいたくな衣服に身を包み、音楽を楽しみ、パイやコーヒーを味わう大勢の者がいる。奥の部屋ではオーケストラが音楽を奏で、さらに奥まった部屋では、トランプの遊技場がある。ゲットーには少なからぬ劇場があり、連日満員の盛況である。陳腐な寄席演芸が演じられている。
 ゲットーでは、餓死は日常茶飯事である。生と死を分かつのは、髪の毛一本ほどの違いでしかない。
ユダヤ人教師の思索の深さを如実に示している本です。同時にゲットー生活の様々な状況も伝えてくれます。オーケストラとか満員の劇場とか、ゲットーのなかにそんなものがあったなど、驚かされますね。
(2007年6月刊。2300円+税)

橋下主義・解体新書

カテゴリー:社会

著者  二宮 厚美 、 出版  高文研
胸のすく痛快な本です。胸の内にわだかまっていたモヤモヤが吹きとんでしまい、すっきりした気分になれました。
 新書と言っても、新書版ではありません。フツーに350頁もある本です。それでも、そうだ、そうだよねと、大いに拍手しながら、ずんずん頁をめくっていき、あっというまに読み終えました。
 著者の話も何回か聞いたことがありますが、この本と同じく明快です。すっかり白髪ですので、ずい分と年長だと思っていましたが、なんと私と同じ団塊世代でした。
 これから「橋下主義」は明きの黄昏時(たそがれどき)のように、急速に日没・落日に向かう。一つのイデオロギーとしての橋下主義が現実的意味をもちはじめてから、すでに5年がたった。日の出のときは、すでに過去のことである。2012年12月の総選挙での日本維新の会の躍進は、夕焼けのようなもので、斜陽期の輝きにすぎない。
橋下主義は、よきにつけ悪しにつけ、橋下個人のカリスマ性を求心力にしたものである。
 橋下は、まず大阪において、メディアの活用・劇場型政治、各種パフォーマンス、街頭演説、過激発言、選挙合戦などを繰り返し、匿名の特定多数に対するカリスマ性をものにした。
 だが、カリスマ性に依拠した独裁主義は、しょせんは一時的なものであり、少数の限られた集団内において通用するものにすぎない。
橋下と石原が手を結んだが、独裁思考の者同士は、決して同志的結束の関係を結ぶことはできない。
 橋下は、自ら「僕は近くの人にはまったく支持されない。分かっている」と語る。
 カリスマ性を生かさなければならないが、同時に殺しもしなければならない。これが橋下主義に固有な内在的矛盾である。橋下主義は、この内在的矛盾によって滅びる。
 橋下は2008年に大阪府知事になる前は、せいぜいTV会のちんぴらタレントに過ぎなかった。昔からブタもおだてりゃ木に登るというが、橋下はメディア世評のおだてに乗って、いまではすっかり政治家気どりで、国会にまでのぼりつめようとしている。
 しかし、橋下は選挙権を得て知事になるまでの20年近く、半分も投票所に足を運んでいない。知事選に出るまで、政治にそれほど関心をもたず、まして本気になって政治家になろうなどとは思ってもいなかった。未熟ではあっても、己の主張や活動には社会的責任をとる。これが職業的政治家に求められる最低限の要件である。これが橋下には、まったく欠けている。
 橋下に際立った個性は、何よりも競争第一主義、競争至上主義的な体質である。
 橋下は幼いころからの体験を通じて「人生、万事カネ次第」の処世訓を身につけた。
橋下徹と一緒になって大阪市職員の思想調査を実施した野村修也弁護士もひどいものです。弁護士の面汚しですよね。
 日本のメディアは、橋下に翻弄されている。開き直った強気の詭弁を有能のあらわれと錯覚している。
橋下は、年金がもらえるのは80歳から、それまでは、おのれの稼ぎと蓄えで生きていけという。これが維新八策の年金政策である。
 うひゃあ、これはひどい。許せません。ところが、この中味を知らずに手を叩いて橋下を持ち上げている人のなんと多いことでしょう。
 橋下主義とは、競争主義と独裁主義。そしてきわめて野蛮な急進的かつ反動的な新自由主義路線である。
 メディアがなぜ橋下の手玉にとられ翻弄されているのか。それはメディア自身がゲームの世界に取り込まれているからである。
橋下は、いま憲法改正をあおりたてています。安倍政権を右側から突き上げ、憲法改正へと突っ走らせようとしています。とんでもない政治集団です。その化けの皮をはぐ本です。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2013年3月刊。2800円+税)

原発と憲法9条

カテゴリー:社会

著者  小出 裕章 、 出版  遊絲社
明快です。とても分かりやすくて、驚いてしまいました。原発について、少しは分かっているつもりでしたが、この本を読んで、本当に頭がすっきりしました。さすがに専門家は違います。それも「原発ムラ」と長年たたかってきた気骨ある学者ですので、明瞭そのものです。あざやかというほかないほどの明快さなのです。
 原子力は安全ではない。少なくとも都会では引き受けられない巨大な危険を抱えている。そのことを原子力ムラが知っていたからこそ、原子力発電所は過疎地につくった。
そして、原子力は安価でもない。現在進行形の事故処理は膨大なものになるのだから、安価なはずがない。
核分裂反応というのは、はじめから爆弾向けの現象だった。核分裂反応がもっている性質が、いちばん開花して、爆弾となった。
広島に落とされた原爆はウランで出来ていた。長崎に落とされた原爆はプルトニウムで出来ていた。プルトニウムという物質は、この世界にはひとつもない。一グラムもない。そういう物質である。
 石油は、残りはあと30年しかないとずっと言われ続けてきた。今も言われている。しかし、これからもそう言われるだろうということは石油は実は、まだまだあるということ。
 日本は「もんじゅ」にすでに1兆円もの大金を投入している。すなわち捨てているのだ。
 日本が現に持っているプルトニウムで長崎型の原爆が実に4000発もつくれる。日本が原子力をどうしてもあきらめない本当の理由は、核兵器をつくることにある。核兵器をつくるには、プルトニウムが必要になるからである。
 同じ言葉を、日本がやるときには原子力開発と呼び、イランがやると核開発という。これはマスコミの情報操作の一つである。
 原子力に反対する根本の理由は、自分だけがよくて危険だけを他人に押しつける社会が許さないから。電力を使うのは都会なのに、原子力発電所は都会にはつくらない。そして、原子力発電所で働く労働者は本当に底辺で苦しむ労働者が多い。
 わずか200頁の本ですが、たたかう団塊世代(私と同世代なのです)の著者から大いなる勇気をいただきました。ご一読をおすすめします。
(2012年5月刊。1400円+税)

サボり上手な動物たち

カテゴリー:生物

著者  佐藤 克文・森阪 匡通 、 出版  岩波科学ライブラリー
野生動物たちは、適当にサボっている。しかし、よくよく考えてみれば、このやり方こそ、厳しい自然環境で生き抜いていく動物たちの本気の姿なのである。
 イルカやクジラは、野生でもかなり遊んでいる。ザトウクジラを滑り台にして遊んでいたのが目撃されている。
 ペンギンは、潜水を開始する前に、深いところまで潜るか浅く潜るかを決め、それに応じて吸い込む空気量を調節している。ペンギンは浮力を利用して水面に浮上している。
 小笠原などの静かな海ではイルカは周波数が高く、複雑で音の大きさは小さい。それに対して、海のうるさい天草では鳴き音が低くて単調で、音量は大きい。水中では、同じ温度なら、1秒間に音は1500メートルも進む。つまり、水中は音が非常に速く、効率よく伝わる環境にある。だから、水中の動物の多くは、音を使ってコミュニケーションをとる。実は、海の中は、「音の世界」なのである。
 イルカの音を調べると、イルカの「見て」いるものが分かる。
 ペンギンやアザラシにカメラを装着して、野生での実際の生活を見ることができるようになりました。超小型・軽量カメラがそれを可能にしたのです。それによって、海中の動物の生態がどんどん分かりつつあるのです。
 この本は、それを写真とともに伝えてくれます。こんな科学・技術の発達を知るのは楽しいことです。
(2013年2月刊。1500円+税)

幸せに暮らす集落

カテゴリー:社会

著者  ジェフリー・S・アイリッシュ 、 出版  南方新社
鹿児島の限界集落に日本語ペラペラのアメリカ人が住んでみた体験記です。
 時間がゆったりと流れ、お年寄りが幸せに暮らしているさまがよく伝わってきます。文章もほのぼのとしていて幸福感がじんわりと伝わってきます。そして写真がまたいいのです。こぼれんばかりの笑みがあふれ、幸せそのものの美しい顔に心がなんとも惹かれます。
 ところは、薩摩半島の山奥。そこに土喰(つちくれ)という小さな集落がある。20軒の家と、たった27人が生活する。65歳以下は3人のみ。平均年齢は77歳。
 集落には有線放送がある。公民館に行って、チャイムを鳴らしてから放送する。各戸の「箱」から声がでる仕掛けだ。
土喰集落は江戸時代の半ば少なくとも240年前から存在している。7代前のこと。
 そして、アメリカ人の著者は薩摩川内市出身の彼女と結婚した。
 土喰集落には女性19人に対して男性は8人しかいない。
 著者は『忘れられた日本人』の著者である宮本常一の翻訳者でもあります。ハーバード大学そして京都大学で学び、現在は鹿児島国際大学の准教授です。
 南日本新聞に連載されて好評だったそうです。限界集落に住む老人は今や忘れられた存在となっていますが、実は、そこにも人間の豊かな営みがあったこと、人々が生き生きと活動していること、そして、人々はそこで枯れるようにして亡くなっていくことを教えてくれます。本当に大切な本だと思いました。
 こんないい本にめぐり会えると、ついうれしくなってしまいます。
(2013年1月刊。1800円+税)

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