法律相談センター検索 弁護士検索

中華民族・抗日戦争史

カテゴリー:中国

著者  王 秀金・郭 徳宏 、 出版  八朔社
日中戦争(1931年~1945年)を中国側から見た通史です。770頁あまりの大作ですが、日中戦争の全体像を把握するためには欠かせない貴重な歴史書として、じっくり通読しました。
 日本側から見た日中戦争の通史は読んだことがありますが、中国側からのものは初めてです。しかも、中国共産党軍のみならず、蒋介石(国民党)軍もきちんと評価しているところがすごい本です。個々の先頭における中国軍の将兵の英雄的な戦いも、名前をあげて紹介しています。
 1931年9月に起きた柳条湖事件は、日本軍が仕掛けたものでした。第三中隊の河本末守中尉が部下の兵士を率いて満鉄線を爆破した。そして、上司に対して中国軍が鉄道を爆破し、激戦中と報告した。上司の川嶋大尉は驚いた振りをして、すぐに上級に報告し、派兵支援をもとめた。ところがこのあと、南京の国民政府の不抵抗政策によって20万近い軍は戦わず撤退したため、大きな地域が速やかに日本軍に陥落した。
 1931年9月、上海の埠頭労働者3万5000人が大ストライキを決行し、日本の対中侵略に抗議し、日本船舶の積み下ろし、貨物運搬を拒否し、船舶を動きとれないようにした。
 1932年1月、第一次上海事変。関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐は、「外国の目がわずらわしい。上海で事を起こせ」という電報を打った。中国軍は、装備の劣る7万の兵力で、装備のすぐれた8万の日本軍と33日間も戦い、日本軍に司令官の度重なる交代を余儀なくさせた。
 1934年3月、溥儀の強い要求によって、満州国は満州帝国と改称され、皇帝となった。そして、日本軍は、広くアヘン栽培を誘引し、多くの良田が麻薬農地に変わった。日本侵略者が土地を奪った主要な目的は、東北への移民を準備することだった。
 1936年12月、西安事件が発生した。蒋介石は、「我々のもっとも近い敵は共産党であり、危害がもっとも差し迫っている。日本は我々から離れており、危害はなお緩やかである」と演説していた(10月27日)。
 そして、12月4日、蒋介石は張学良に対して、「紅軍を徹底的に処理し、根本的に解決する」よう命令した。これに対して張学良は全国人民の利益を重んじるよう蒋介石に要望した。西安事変に接して、多くの人々は抗日には賛成したが、張学良の行動が内戦を大きくすることを恐れて、不支持を表明した。そして、蒋介石の回復を要求した。張学良は事前に中国共産党と協議していなかった。共産党代表の周恩来らは西安に到着し、張学良と協議した。
 張学良は、西安事変を平和的に解決する中国共産党の方針を理解すると、国家・民族の大局を個人的恩讐の上に置く共産党の大義を深く理解し、心から敬服した。
 周恩来は、張学良と宋子兄弟の同席のもと、蒋介石と会見した。そして内戦の停止、共同抗日こそが唯一の活路であると語った。こうして、14日間にわたった西安事変は平和的に解決され、国共再合作に向かった。
国民党は、ドイツから大量の要塞用重砲を購入し、ドイツ軍事顧問団の援助を得て、1933年から全面的にすすめた。
 1937年7月、盧溝橋で全面的な中国侵略戦争がついに勃発した。
 1937年8月、中国共産党は、中国紅軍を国民革命軍第八路軍に改編し、朱徳、彭徳懐を正副総指揮に任命した。
国民党は対日不抵抗政策をとった。しかし、受身の内戦防御戦では、効果的に敵(日本軍)を殲滅することはできず、戦略的持久を実現することは難しかった。国民党は、大地主・大資本か階級の利益を代表していたので、人民の抗戦を利用しながら、人民の力が抗戦の中で強大になるのを恐れていた。
 毛沢東は持久戦論を提起した。抗日戦争は持久戦であり、速決線ではない。日本の強さは、日本が小国であり、退歩的で、援助が少ないなど不利な要素に寄って減殺されている。中国の弱さは、大国であり、進歩しており、援助が多いなど有利な要素によって補充されていると説いた。
 1937年9月、中国紅軍は平型関で日本軍を大破した。中国紅軍は、山地の一本の狭い道路が延々と続く場所で待ち伏せた。平型関の待ち伏せ改撃は日本軍に壊滅的打撃を与え、死者1000余人、日動車100余台などを破壊した。平型関の戦いは、人路軍の抗戦における最初の勝利であり、全国の抗戦における初めての奇襲戦による勝利であった。これによって共産党と八路軍の声望は一挙に高まった。
 1937年8月、日本軍は上海侵略を開始した(上海会戦)。9月中旬までに日本軍は兵力10万人以上となった。さらに、10月初旬までに20万人に達した。10月中旬、中国軍は勇猛果敢にもちこたえ、すでに上海会戦は2ヶ月も続いていた。そして、ついに、11月中旬、中国軍が撤退した。日本軍は10個師団20万人の兵力を投入し、中国守備軍は70個師、70万人を投入した。日本軍の死傷者は4万人、中国軍は30万人近い死傷者を出した。
引き続いて南京防衛戦が戦われた。中国軍の南京撤退後、日本軍による大虐殺が始まった。このとき、安全区内には、29万人もの難民がいた。
 1938年3月から4月にかけての台児荘の戦役で、中国軍は2万人の死傷者を出しながらも日本軍を殲滅し、大勝利を得た。
 4月からの徐州会戦は日中の双方が数千万の兵力を投入し、5ヶ月間も戦った。
 1938年の夏から秋にかけては、武漢会戦そして広州の戦いが展開した。
 この武漢会戦中には、ソ連の中国支援志願航空隊が対日作戦で協力した。武漢防衛戦争での15ヶ月の戦いによって、日本軍の戦略的進攻は停止してしまった。「速戦即決」で中国の領土を占領する計画が決定的に破綻した。
 1938年10月、日本軍は武漢を占領した。日本国民は驚喜したが、つかの間の喜びでしかなかった。
 1940年8月、八路軍は主要鉄道・自動車道路を総攻撃する戦いを開始した。参加した部隊が105個団(連隊)であったことから、百団大戦と呼ばれる規模が最大で持続時間がもっとも長かった進攻戦役であった。百団大戦、日本軍北支那方面軍の「囚籠政策」に深刻な攻撃を与え、日本軍は「華北に対し再認識すべき」との驚きの声を上げた。
 日本軍は内部で、教訓を総括し、共産党と八路軍に対する情報活動を強化し、華北における共産党軍を作戦の焦点とする指導思想をさらに明確にした。
 百団大戦の勝利は、全国の徹底抗戦の信念を鼓舞し、強化した。百団大戦の勝利は共産党と八路軍の威信を高めた。しかし、同時に巨大な犠牲も払わされた。八路軍と抗日根拠地の補給能力の限度をこえていた。疲労も甚だしかった。
 しかし、国民党の妥協的傾向を克服するうえで、重要な役割を果たした。日本軍の「三光政策」は1940年冬に下達された。その目的は八路軍と八路軍の根拠地を殲滅することにあった。
 中国軍は、麻雀戦、地下道戦、地雷戦、襲撃破壊戦、水上遊撃戦、武装工作隊などの人民戦争を展開した。
中国人が強大な侵略者である日本軍といかに戦ったかが詳細に記述されています。実は、私の父も中国へ2等兵として出兵しています。不幸中の幸い、マラリアにかかって内地に送還されて、戦病死を免れました。その中国での戦闘状況の推移を中国側からみたものですので、大変勉強になりました。
 日中戦争の実情を知りたい日本人なら、ぜひ読むべき本としておすすめします。
(2012年12月刊。8900円+税)

犬とぼくの微妙な関係

カテゴリー:生物

著者  日高 敏隆 、 出版  青土社
適応度増大のためにとるべき戦略は、オスとメスとではまったく逆である。メスはオスに迫られても、すぐには応じない場合がほとんどである。知らん顔をしてみたり、逃げたり、明からさまに拒んだりする。複数のオスに近づかれると、メスはその中からどれかを選ぶ。
 メスは対称的な体をもつオスを選ぶ。対称的なオスを美しいと思うからではない。身体がより対称的な個体は、極端に非対称になっている個体より遺伝的にしっかりしたところがあることになる。そこでメスは、体つきの対称性を手がかりにして、そのようにしっかりしたオスを選ぶのだろう。
母親にとってかわいいのは子どもではなく、子どもがもっている自分の遺伝子なのだ。つまり、母親があらゆる苦労を身の危険もいとわずに子育てに努力を傾けるのは、子どものことを思ってではなく、あくまで自分の適応度増大というまったく母親の利己的な動機によるものなのだ。
 ワシ・タカ類は、卵を二つうみ、ヒナがかえる。そして、第一のヒナが無事に大きくなると、第一のヒナは二番目のヒナを殺してしまう。そして、親はそれを見て見ぬふりをする。
 これは、第一子が無事に育たないときの「保険」として第二卵をうんでおくことによる。第一子が第二子を殺せるくらい頑丈に育ったら、保険はもう要らない。そこで、第一子の食物を確保するために、第二子は第一子に殺させる。うむむ、自然の摂理はよく出来ていますね。
 性があることによって、動物は、単に遺伝子を混ぜあわせて多様性をつくりだせるだけでなく、偶然に生じてくる突然変異を急速に集積して有利な特徴をもつ個体を次々に生じることができる。これは性の存在のもたらす大きな利益である。
 ツバメは、渡るときには夫婦別々に飛んでくるようで、たいていオスが先に帰ってくる。そして、前の年に巣をかけた場所を覚えていて、結局は夫婦とも同じ地域に戻る。前年と同じペアで巣づくりを始める。しかし、旅先や旅の途中で不幸にあうものもいるので、半分ほど。
 ツバメが人家を好むのは、巣やひなに悪さをするスズメが来ないから。人の出入りが多い家や店ほどツバメがよく巣をかけるのは、そのため。店が繁盛しているからツバメが来る。
 コウモリは、鳥はなく、モグラとかハムスターに近い哺乳類だ。巣ではなく、赤ちゃんを産み、乳を飲ませて育てる。そして、コウモリは鳥よりも上手に空を飛ぶ。
猫も実は、人間に深く依存している。絶えず人間の動きを気にしている。その状況が猫にとって実に幸せなのである。猫はまず視覚によって世界を認知する。嗅覚はその次である。猫は視覚もすぐれている。
 たくさんの生き物について、語られている面白い本でした。さすがは動物学者です。
(2013年1月刊。1900円+税)

古代天皇家の婚姻戦略

カテゴリー:日本史(古代史)

著者  荒木 敏夫 、 出版  吉川弘文館
倭王権の婚姻の特質として、閉鎖的であることが言える。婚姻相手を近親に求める近親婚が盛行していた。
 その理由として、母系を通じて他氏族へ血統が流出しない閉鎖的な血縁集団が形成できること、豪族層から外戚として介入を受けない。自立した王家が確立できることがあげられている。
 日本古代の婚姻は異母兄弟姉妹間の婚姻は許されており、その実例は多い。内親王以下、四世王までの王族女性は臣下との婚姻の途が閉ざされていた。厳禁されていたのである。
絶体大王が手白髪と婚姻したが、大王になる前のヲホド王を一地方豪族とみると、王族女性と臣下の婚姻を示す。唯一の例となる。
大王のキサキやミコ、ヒメミコたちは大王と同居している場合は希であり、通常はそれぞれの居住空間である「ミヤ(宮)」に住んでいた。
 蘇我稲目は、戦時下の略奪によって倭国に来た二人の高麗の女性を「妻」とした。蘇我氏の婚姻の相手は列島内に限定されていなかった。倭国・日本にも、中国・百済・高句麗・新羅・伽耶などと同様に、国際婚姻が存在していた。
桓武天皇は、婚姻関係を結ぶ氏族を広くしており、9氏族からキサキを迎えている。藤原氏の南家・北家・武家・京家の四家からキサキを迎えている。
 桓武天皇の母は百済系和氏であった。桓武天皇自身も、百済王氏から、百済王教仁・百済王貞香、百済王教法の3人を入内させている。
 日本における王済王氏の存在は、天皇が元百済王族の者を臣下においていることを日常的に示すことで、天皇が東アジアの小帝国の君主であることを国内外に向けてアピールするうえで好都合の存在であり、象徴的な機能を果たしていた。
 古代天皇家の実体を改めて考えさせられました。
(2013年1月刊。1700円+税)

大牟田と与論島

カテゴリー:社会

著者  堀 円治 、 出版  有明新報社
三池炭鉱のあった福岡県大牟田市には沖縄に近い与論島からの移住者の2世・3世が今もたくさん住んでいます。
 93歳になる著者は、世論2世です。その長男は私と同級生ですので、世論3世ということになります。1世は、与論島から集団移住してきて石炭の積み込み作業員をしていました。
 残念ながら、私はまだ与論島に行ったことはありません。奄美大島よりも沖縄本島に近い小さな島です。
 鹿児島空港からプロペラ機で1時間20分。丸いカタツムリに似た形をしている。河川はなく、サンゴ礁が風化した粘土質の土壌。与論島にとってもっとも怖いのは、台風という名の定期便であり、干ばつである。台風で農作物が全滅するとソテツの実で命をつなぐ。ソテツは猛毒なので、毒消し作業が必要である。
 干ばつのため餓死者が出るなか、明治32年から34年まで、3次にわたって合計750人が戸長を先頭に長崎県口之津へ移住した。当時の島の人口は7000人。家族を含めると島民の2割近い1200人が移住した。
 そして、明治43年、有明海を渡って、大牟田へ再移住した。石炭の積み込み作業に従事する。
 現在の三井港倶楽部の北側に三川分教場が置かれ、与論島移住者の子どもが学んだ。そして、昭和11年、川尻小学校に転入した。
 今も、大牟田には与論会があり、与論島との交流も続いているのです。
 堀さん、元気で、さらに長生きしてくださいね。
(2013年2月刊。1715円+税)

ブラックボックス

カテゴリー:社会

著者  篠田 節子 、 出版  朝日新聞出版
恐怖の食卓。サラダ工場のパートタイマー、野菜生産者、学校給食の栄養士は何を見たのか?
 食と環境の崩壊連鎖をあぶりだす、渾身の大型長編サスペンス。この本のオビに書かれているコピーです。週刊朝日に連載されていたとのこと。たしかに野菜を人工的に栽培するなんて、実は危険そのものなんですよね。完全管理型施設栽培のシステムなんて・・・。
太陽の光、土、緑の三点セットをありがたがるのは、農を知らない都会人や、高級住宅地に住んで市民農園を耕している趣味人の発想だ。
露地栽培では、それこそ食っていける農業なんて無理。そうなんですよね。私もちょっとばかり趣味人の野菜づくりをしています。それでも、農業を粗末にしたら生きていけませんよ。ですから、TPPなんて絶対反対です。なんでもお金を出せば買えるというものでは決してありません。額に汗する地道な努力こそ必要です。
 カット野菜。カットした野菜の洗浄殺菌には、次亜塩素酸ソーダを使う。切った野菜をそこに浸けたあと、水道水で洗浄し、さらに鮮度保持剤であるPH調整剤すなわちアスコルビン酸に浸け込む。そのカット野菜を盛りつけてサラダとする。
完全制御型ハイテク農場のなかでは、無数のバクテリアの生息する土は一切使わずセラミックがスポンジなど、作物ごとに異なる人口素材に肥料分を溶け込ませた溶液を用いて、作物がつくられる。空調装置を使い、外気は導入しないので、空気中の雑菌も入らない。考えられる限り、もっとも衛生的な環境でつくられる。無菌状態であるから、病気やムシも寄せつけない。だから、農薬はいらない。異物混入はありえず、出荷の段階で枯葉などが取り除かれるから、下ごしらえもいらない。
 しかし、どれほど厳重な衛生管理をされ、無菌状態で運ばれてきた野菜であっても、カットされた瞬間から、傷みは生じる。切り口から変色し、腐敗がはじまる。
 労働集約型のハイテク農場は地元の雇用創出をうながし、地域の活性化に貢献するはずだった。しかし、現実には地元の人間は働いていない。働いているのは法律で定められた最低賃金をはるかに下回る。研修手当で、事実上の労働をしている外国人ばかりだ。
 研修生のほとんど、アジアから来ていて、日本人はごく少ない。無菌・無農薬でつくられた野菜の味はすかすか。だから、得体の知れないアミノ酸やら合成ビタミンの微粒子をぶっかけられる。
読んでいくうちに、読めば読むほど怖くなる食物の話でした。それでも、今日もマック、ケンタの店も大盛況です。本当に私たちはこれでいいのでしょうか・・・。
(2013年1月刊。2100円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.